Share

第2話

Author: スマートハト
控室に戻り、重苦しいウェディングドレスを脱ぎ捨てた。

着慣れた普段着に袖を通すと、ようやくまともに呼吸ができた気がした。

荷物をまとめていると、扉が開いて陽向と咲良が入ってきた。

陽向は私を見るなり、いつものように冷ややかな説教を始めた。

「今回は予定より5分早く退場したうえに、誓いの言葉のタイミングもずれていた。よって、本日のパフォーマンスはマイナス5点だ。

この失敗を胸に刻んで、次の式まであと5ヶ月、一人でみっちり練習しておけ。俺たちにお前のミスを尻拭いさせるな」

陽向は、式の完璧さを「点数」で評価する。

1点減点されるごとに、1ヶ月練習期間が延びるというルールだ。

5ヶ月、また5ヶ月。

18回の結婚式を繰り返す中で、私は彼を丸7年も待ち続けてきた。

7年待っても辿り着けなかった結婚に、8年目が来たところで何が変わるだろう。

私に無駄にできる7年はもうない。

これ以上、待つつもりもなかった。

私が無言でいるのを肯定と受け取ったのか、陽向は鼻で笑った。

その横で、咲良が不思議そうに首を傾げる。

「えっ、減点なんてあるの?陽向くんの採点って加点式じゃないの?

枝織ちゃんは今、何点くらいなの?」

喉がカラカラに乾いていた。

私は掠れた声で答える。

「マイナス5点よ。あなたは?」

「私?私はもう6000点を超えてるよ!」

その言葉に、私は全身が凍りついたように動けなくなった。

咲良は私が疑っているのだと思ったらしい。

得意げにスマートフォンを取り出し、SNSの画面を私に見せつけてきた。

画面を埋め尽くすのは、陽向と咲良の仲睦まじいツーショット写真。

そして、投稿の文面にはどんどん加算されていく点数が並んでいた。

【完璧にクッキーが焼けたから+10点】

【定時ピッタリに退社できたから+20点】

【俺の助手席に乗せて雨に一切濡れさせなかったから+50点】

一番上にあるのは、たった3分前に投稿されたばかりのものだった。

【枝織の結婚式の尻拭いを完璧にこなしたから+100点!】

投稿しているのは、私が見たことのない陽向の別のアカウントだった。

でも、アイコンの画像を見た瞬間、息が止まった。

それは、私が婚約の証として彼にプレゼントした、あの高級な腕時計だったのだ。

陽向が複数のアカウントを持っていて、私とは別のアカウントで咲良と繋がっていることは知っていた。

だが、それは仕事用か、あまり使わないただのサブ垢だと思っていたのだ。彼なりに私に配慮してくれているのだと、ずっと信じていた。

けれど違ったのだ。

私の連絡先リストの中で、一度も投稿をしたことがない静かな彼のアカウント。

そっちのほうが、彼にとってはどうでもいいサブ垢だったということに。

視界に飛び込んできたその残酷な点数を見つめたまま、私は俯いた。

涙がこぼれ落ちそうになるのを必死に堪える。

この7年間、彼のために血の滲むような努力をしてきた結果がマイナス5点だなんて。

私の存在そのものが、滑稽なピエロのようだ。

咲良もさすがに気まずいと思ったのか、ポカポカと陽向の腕を叩いた。

「もう、陽向くんのバカ。枝織ちゃんは一応、婚約者なんだから、マイナス点なんて可哀想だよ!」

二人は私の目の前で、点数のことで楽しげにじゃれ合い始めた。

私はその光景から目を逸らし、静かにスマホを取り出した。

そして、以前から声をかけてくれていた取引先の社長宛てにメッセージを打ち込む。

【結城社長。以前おっしゃっていた海外支社への引き抜きの件ですが、まだ有効でしょうか?】

【もちろんです!明後日の朝一でフライトを予定していますが、一緒に来ますか?】

顔を上げると、不意に陽向の冷たい視線とぶつかった。

ビクリと心臓が跳ねる。

彼は眉間に皺を寄せ、チッと舌打ちをした。

「……分かったよ。5点プラスしてやる。これなら文句はないだろう。俺が厳しすぎるとか言われたくないからな。

だが、次にまたそのボロボロのドレスを持ち込んだら、さらに2点減点だ。

何度も言ってるだろう。そんな古臭いもの、とっくに捨てるべきなんだよ」

彼の視線の先には、キャリーケースからはみ出している、私の祖母から受け継いだ大切なウェディングドレスの裾があった。

スマホを握る手にぐっと力が入り、私は迷いなく送信ボタンを押した。

【明後日、空港で】

そして、キャリーケースからそのドレスを引きずり出すと、彼が完璧な結婚式のために私に押し付けてきた趣味の悪いアクセサリーや衣装と一緒に、控室のゴミ箱へと迷いなく放り込んだ。

「……ええ、そうね。古いものは、もう捨てるべきだわ」

陽向はゴミ箱の中身を見つめ、一瞬だけ戸惑ったような表情を浮かべた。

彼が何か口を開こうとしたその時、控室の時計が次のスケジュールを知らせるアラームを鳴らした。

私は彼の言葉を遮るように言った。

「披露宴の挨拶回りの時間よ。これ以上モタモタしていると、完璧なリズムに乗り遅れるわよ」

咲良の期待に満ちた眼差しに促され、陽向は彼女を連れて踵を返した。

ドアを閉める直前、彼は少しだけ立ち止まって言った。

「自らリズムに気を配った姿勢を評価して、3点プラスしてやる。次の準備期間は1週間だ。

安心しろ。次こそは完璧な結婚式にしてやるから」

私は荷物をまとめる手を止めなかった。胸の奥には、さざ波ひとつ立っていない。

彼は知らないのだ。

1週間後には、もう花嫁の私なんていないということを。

今更ご褒美みたいに与えられた例外なんて、もういらない。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 19回目の結婚式、完璧な彼を捨てて逃げる   第9話

    翌朝、仕事に行こうと玄関のドアを開けた瞬間、ドンッという鈍い感触があった。どうやら陽向は、昨夜から一晩中ずっと私のドアの前に座り込んでいたらしい。ドアがぶつかった衝撃でハッと目を覚ました彼は、慌てて立ち上がろうとした。しかし、氷点下の寒さで一晩中冷やされた体は完全に硬直しており、何度か無様に立ち上がろうと足掻いた末に、結局ドサリと床に崩れ落ちた。彼は這うようにして体を壁際へずらし、私のために道を開けた。そんな彼の惨めな姿を、私は見下ろした。「一晩中ここに座り込んでいれば、私が罪悪感を抱いてあなたを許すとでも思ったの?」その言葉に、彼はまるで火の粉を浴びたように激しく首を横に振った。「ちが、違うんだ……!ただ、贖罪がしたくて。俺が君にどれだけ酷いことをしたかは分かってる。でもせめて、償うチャンスだけでも俺に……」彼の言いたいことは痛いほど分かった。彼は私を手放したくないのだ。過去の過ちを今更謝罪して、無理やり穴埋めをすることで、どうにかしてこの致命的なひび割れを修復できると信じている。でも、私はもうそんな茶番に付き合う気はなかった。過去の痛みは、記憶の底で静かに腐らせておくべきだ。いつまでも目の前でちらつかれて、「あなたはこんなに傷ついたんだ」と古傷を抉られ続けるのはご免だった。歩き出す直前、私はちらりと彼を一瞥し、ふと微笑んでみせた。「……今夜10時。プラザ通りにあるレストランに来て。もし遅刻せずに来られたら、チャンスをあげるわ」その瞬間、陽向の死んだような目にパッと強烈な光が宿った。彼は信じられないというように、私の顔を凝視した。私はそれ以上何も言わず、彼に背を向けて職場へと歩き出した。今日だけは、私の背中にあの疎ましい影がまとわりついてくることはなかった。充実した仕事の時間は、あっという間に過ぎ去っていった。今日一日、陽向の姿を一度も見かけることはなかったが、彼が今頃どれほど必死になって自分の身なりを整えているか、容易に想像がついた。砂漠で長く喉の渇きに苦しんだ人間は、オアシスを見つけた瞬間、ひどく貪欲になるものだ。……まるで、完璧な結婚式のために、毎晩徹夜で誓いの言葉のタイミングを練習し続けていたかつての私のように。もう少しだけ努力すれば、あとほんの少しだけ

  • 19回目の結婚式、完璧な彼を捨てて逃げる   第8話

    それからの日々、私は彼を完全に空気として扱った。いつも通りに仕事へ行き、休日は散歩を楽しみ、職場の同僚たちとの食事会にも参加した。唯一変わったことと言えば、常に私の背後に、一定の距離を保った「影」が憑きまとっていることくらいだ。最初はただ黙って私の生活を遠くから見つめているだけだった。それが次第に、恋人たちのイベントの日にはこっそり玄関の前に花束を置き、私の誕生日にはケーキを届けるようになった。そのうち、私に向かって勝手に話しかけてくるようになった。今日見かけた面白い出来事や、異国での生活で困ったことなどを、一人でブツブツと語りかけてくる。私が一度も返事をしなくても、彼は疲れた様子も見せず、むしろこの奇妙な関係に一人で満足しているようだった。――そして、私たちが付き合って8年目になるはずの、記念日のこと。その日、空からは大粒の雪が舞い落ちていた。陽向が初めて、自分から私の部屋のドアをノックした。ドアを開けると、彼はひどく怯えたような、それでいて期待を隠しきれない目をして立っていた。「枝織、今日が何の日か……覚えてる?今日は……俺たちの、8周年の記念日なんだ」私は腕を組み、冷ややかな視線で彼を見据えた。「私たちがもう別れたってことは、はっきりと覚えているわ」陽向は慌てて首を横に振った。「違うんだ、無理に復縁してくれって言ってるわけじゃない!ただ……君がこの見知らぬ異国の街で一人で半年も暮らして、故郷の味が恋しくなっているんじゃないかと思って……君が好きだった故郷の料理を作ったんだ。それに、昔君が好きだって言ってた甘い果実酒も手に入れたから……」「今はもう、好きじゃないわ」私は彼の言葉を冷たく遮った。「そ、そうか!ならすぐに別のものに替えてくるよ!君が今好きなものはなんだ?今すぐ買いに行くから!」必死にご機嫌を取ろうとするその滑稽な姿に、私は静かに首を横に振った。「私はお酒そのものが嫌いなの。それに、酔っ払うのはもっと嫌い。……どうしてか、分かる?」私の問いかけに、陽向はポカンと迷子のような顔をした。だが、無意識の不安からか、その顔色がサッと青ざめていく。「泥酔して足元もおぼつかない時、唯一頼りたかった相手に、非情にも家の外へ閉め出されるのが大嫌いだからよ。……あの冬

  • 19回目の結婚式、完璧な彼を捨てて逃げる   第7話

    結局、陽向は咲良を無情にも追い出した。結婚式にタダ飯を食いに来た厚かましい親戚たちもろとも、すべての関係を完全に絶ち切ったらしい。彼は私の行方を探るため、親族に連絡を取ろうとしたそうだ。しかし、数年前からすでに連絡先が変わっており、まったく繋がらなかったはずだ。結婚式のドタキャンが3年続いた頃から、親族たちは私が恥をかくような場を避けるため、式の案内状を一切受け取らなくなっていたのだから。……その恥をかかせていた「元凶」である彼自身も含めて、完全に見限られていたということだ。次に陽向は、私が勤めていた会社へ向かったという。だが、そこで聞かされたのは「橘はすでに退職して別の会社へ移りました」という絶望的な事実だった。通常なら1ヶ月はかかるはずの引き継ぎ期間すら放棄し、高額な違約金を自腹で支払ってまで、私は逃げるように会社を去っていたのだ。彼が追いつけるはずがない。陽向は国内をあてもなく探し回り、過去の己の愚かさを悔やみ続けるしかなかった。――その頃、私は海外の新しい職場で無事に仕事をスタートさせていた。ヘッドハンティングでの転職だったため、給与が跳ね上がった分、仕事量も格段に増えた。けれど、毎日が楽しくて仕方なかった。陽向のそばでじっと耐え忍んだ7年間は、どれほど頑張っても一度も結婚式に辿り着くことはなかった。だが仕事は違う。自分の努力がダイレクトに結果に繋がり、正当な評価として返ってくるのだ。理不尽なダメ出しに怯える必要も、自分を押し殺してまで誰かに媚びる必要もない。ただ全身全霊で、自分自身の幸せのために戦えばいい。それから2ヶ月が過ぎた、ある夜のこと。見知らぬ番号からかかってきた電話に出ると、受話器の向こうから思いがけない声が聞こえた。「……枝織、君なのか?」陽向の声だった。以前よりずっと掠れていて、まるで壊れ物を扱うかのように、ひどく怯えたような、慎重で優しいトーンだった。私が無言でいると、彼は堰を切ったように一方的に話し始めた。「俺が悪かった、枝織。本当に……俺が間違っていた。完璧主義なんかにこだわって、君の気持ちを少しも考えてやれなかった。君の大切なものを、咲良なんかに譲るべきじゃなかったんだ!この2ヶ月、死ぬほど後悔したよ。もう完璧な結婚式なんていらない。君が戻って

  • 19回目の結婚式、完璧な彼を捨てて逃げる   第6話

    陽向はスマホを握りしめ、咲良に「枝織に連絡を取ってくれ」と急かした。しかし、私はすでに彼らに関わるすべての人間をブロックしており、彼が私に繋がる手段は完全に絶たれていた。彼が慌ててタクシーでアパートへ駆け戻ると、そこにはさらなる絶望が待っていた。部屋の中にあったはずの私の荷物が、すべて綺麗に消え去っていたのだ。まるで最初から、私という人間がこの部屋に存在していなかったかのように。そこへアパートの大家がやって来て、不思議そうに声をかけた。「下のゴミ捨て場にあった大量のゴミ、あんたたちが捨てたのかい?ずいぶん高価そうなものがたくさんあったから、清掃業者にはまだ持っていかせないでおいたんだ。どうしたんだい、カップル喧嘩でもしたのか?」陽向は歯を食いしばって何も答えず、狂ったように階段を駆け下りた。そして、ゴミ捨て場に無造作に放り込まれている、私がかつて宝物のように大切にしていた品々の山を目の当たりにした。何着ものワンピース、いくつものアクセサリー。どれもすべて、彼が「完璧な彼女」の基準に合わせて自ら選び、私に買い与えたものだった。あの頃の私は、渡されるたびに嬉しそうに微笑み、彼を心から信頼しきった瞳で見つめていた。彼がどんな趣味のものを押し付けてきても、「すごく気に入ったわ」と答えて。そして言われた通りに身につけ、彼が嫌うデザインのものには二度と触れなかった。だが今、彼の押し付けた思いも、身勝手なルールも、すべて生ゴミと一緒にゴミ袋に詰め込まれている。ここに至ってようやく、陽向ははっきりと悟ったのだ。私、橘枝織が、本気で彼を切り捨てたのだという事実を。ちょうどその時、後を追ってきた咲良がゴミ捨て場に現れた。散乱したゴミの山を見て、彼女は少しの驚きと、わざとらしいほどの同情を交えた声を出した。「えっ、どういうこと?これ、全部枝織ちゃんがすごく大事にしてたものじゃない!全部捨てちゃうなんて……枝織ちゃん、まだ陽向くんに怒ってるのかな?」陽向はうなだれたまま、力なく呟いた。「……そんなはずはない。枝織が俺と別れるはずなんてないんだ。あいつはあんなに長く俺を待っていたんだ。もしかしたら、あとたった一回だけで、完璧な結婚式を挙げられたかもしれないのに……」咲良の目の中に一瞬だけ計算高

  • 19回目の結婚式、完璧な彼を捨てて逃げる   第5話

    「……は?なんだと?」陽向は信じられないというように支配人を睨みつけた。「あり得ない!式の日取りは1週間前に俺が指示したばかりだぞ。それをあいつが勝手にキャンセルするわけないだろう!」そこまで言って、陽向の目にふと冷たい光が宿った。「……あいつ、金でも握らせてお前たちにこんな芝居をさせてるのか?たった数回キャンセルされたくらいで音を上げるなんて。 海外に逃げただなんて見え透いた嘘をついて、俺の原則を曲げさせてまで無理やり式を挙げさせようって腹か?」陽向は鼻で笑い、支配人に冷酷に言い放った。「あいつに伝えておけ。もし10時までにこのくだらない芝居をやめて、会場を完璧な状態に設営し直さなかったら、結婚式はさらに10ヶ月延期してやるってな!」支配人はひどく奇妙なものを見るような目で陽向を見つめていた。彼が何かを言い返そうとしたその時、陽向の背後からドヤドヤと騒がしい足音が近づいてきた。咲良が、自分の親族を大勢引き連れてやって来たのだ。「陽向くん、式はもう始まっちゃった?私たち、遅れてないかな?」彼女の視線は空っぽのホールをぐるりと見渡し、その口元には計算高い笑みがふっと浮かんだ。だが、陽向はそれに気づかず、彼女が親友の結婚式を純粋に心配しているのだと信じ切っていた。胸に渦巻く苛立ちを抑え込み、努めて優しい声でなだめる。「いや、大丈夫だ。枝織のやつが遅刻してるだけだから」咲良の後ろについて来た親戚の中年男性が、不満げに文句を垂れた。「まったく、橘さんって子は気が利かんな。 陽向くんと咲良の結婚式っていうこんな大事な日に、どうして親戚の俺たちにまで連絡を寄越さないんだ。危なく遅れるところだったじゃないか。 俺から言わせてもらえば、あんなルーズな奴、クビにしちまったほうがいい。次からは、身内だけで連絡を取り合おう。他人に頼むなんて無駄な手間だ」その言葉に、陽向の眉がピクリと跳ねた。途端に険しい顔つきになり、冷たい声で訂正する。「……お言葉ですが、少し勘違いされていませんか。これは俺と橘枝織の結婚式です。咲良はあくまで枝織の親友として参列しているだけです。これまでに何度も参列しておきながら、花嫁が誰なのかも分かっていなかったんですか?」冷ややかな指摘に、その親戚は気まずそうに

  • 19回目の結婚式、完璧な彼を捨てて逃げる   第4話

    マンションの下に降りると、私が乗ってきた車はすでに陽向が病院へ乗って行ったあとだった。こんな真夜中に、私をどうやって帰すつもりなのか。私に車が必要かなんて、彼にはどうでもいいのだろう。タクシーの配車アプリを何度更新しても、一向に捕まる気配はない。指先はすでに赤く腫れ上がっている。仕方なく大きな病院へ行くのは諦め、私は通りかかった小さな夜間クリニックに入ることにした。破傷風のワクチン注射が腕に深く刺さった瞬間、鋭い痛みにすっと血の気が引いた。待合室の椅子に座り、無意識にSNSのアプリを開くと、一番上に咲良の投稿が表示された。【人生初の破傷風ワクチン!すっごく痛かった(>_】【でも、痛みを紛らわせてくれる人がいてよかった♡】添えられていたのは、くっきりと歯型がついた陽向の腕の写真だった。きっとその時の彼は、痛がる彼女を甘やかすような優しい笑みを浮かべていたのだろう。「完璧な彼女たるもの、常に自立していなければならない」陽向は昔からそう言っていた。だから、私が酷い生理痛で気を失いそうになり、病院に連れて行ってほしいと泣きついた時でさえ、彼は私のSOSを冷酷に無視した。ただ、デリバリーの薬局のリンクを無機質に送ってきただけだった。彼のその厳しすぎるルールに付き合ってきたおかげで、私は痛みへの耐性がすっかり高くなっていると思っていたのに。気がつけば、私の頬をポロポロと涙が伝い落ちていた。私の涙を見たのか、医師は少しだけ優しく針を抜き、「しばらく待合室で様子を見てくださいね」と声をかけてくれた。小さく頷き、私はまたスマホに視線を落とす。投稿のコメント欄に、見慣れたアイコンを見つけてしまったから。【注射中も暴れずにいい子にしてたな。完璧だ。プラス100点】【ご褒美に、君がずっと行きたがっていた旅行をプレゼントしよう】そのコメントに添えられていた画像は、世界的に有名な雪国の高級リゾートへのペアチケットの予約画面だった。空中に浮いた私の指先が、ピタリと凍りつく。……それは、私と陽向が新婚旅行で行くはずだった場所だ。結婚式が7年間も成功しなかったせいで、この旅行も7年間ずっとお預けになっていた。「チケットの期限が切れたら、また買い直せばいい。だが、完璧なフローは崩せない。個人

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status