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第3話

Auteur: 聴雨
「今すぐ3番窓口に来るのか、それともここに残って愛莉に付き添うのか」

結斗の目つきが険しくなった。

「芽依、妹が病気のときに、こんな選択を迫らなきゃ気が済まないのか?」

私は静かに彼を見つめ返し、それ以上の反論は口にしなかった。

「いいよ、好きにすれば。でも私は今日、絶対に婚姻届を出す」

11時12分、父の矢野目篤(やのめ あつし)が皆への差し入れにと買ってきたお菓子を抱え、駐車場から戻ってきた。

ロビーに足を踏み入れた父は、長椅子のそばに屈み込み、愛莉の背中を支えている結斗の姿に気づいた。

さらに、受付の前で書類の入った封筒を抱え、ひとり立ち尽くしている私を目にすると、その場でぴたりと足を止めた。

「まだ済んでないのか?」

聡美が込み上げる怒りを抑えつけながら、事の経緯を手短に説明する。

父はそれを聞き終えるや否や、愛莉には一切目もくれず、結斗だけに問いかけた。

「書類は揃ってる。窓口も待ってくれてる。10分だけ時間を取って芽依と手続きを済ませてから、妹を病院に連れて行けばいいだろう。それができないのか?」

結斗がゆっくりと立ち上がった。

「おじさん、愛莉は今、具合が悪いんです。婚姻届はまた出しに来られます。でも、病気のことは後回しにできません」

父はしばらく黙ったまま、結斗を見つめていた。

「最初に約束をすっぽかされたとき、俺は何も言わなかった。

10回目のときだって、芽依には、お前にも事情があるんだから分かってやれと言った。

だが、今日でもう27回目だぞ」

決して大きな声ではなかったが、ロビーは水を打ったように静まり返っていった。

「一体何を根拠に、この子がいつまでも待ってくれると思っているんだ?」

結斗の表情が険しさを増す。

「彼女をずっと待たせるつもりはありません。愛莉が落ち着いたら日を改めますし、彼女にもきちんと埋め合わせをします」

父はふっと、呆れたように鼻で笑う。

「芽依が欲しいのは、お前の埋め合わせか?あの子が欲しいのは、今日、お前がそばにいてやることだろう」

愛莉は椅子の背に手をつき、どうにか立ち上がった。目の縁は痛々しいほど赤く腫れている。

「おじさま、お兄ちゃんを責めないでください。悪いのは私です。ついてくるんじゃなかった……今すぐ帰ります。途中で倒れても、もう二人の邪魔はしませんから」

そう言って一歩踏み出した途端、愛莉の体が大きくよろめいた。

結斗はとっさに腕を伸ばし、その体をしっかりと受け止める。

「頼むから、もう無理するな」

そして顔を上げると、父を責めるような険しい目を向けた。

「おじさん、愛莉はもう謝ってるじゃないですか。病人をどこまで追い詰めれば気が済むんですか」

父の顔に、決定的な失望の色が浮かび上がる。

「誰も追い詰めてなどいない。薬も、車も、付き添う人間も、こちらはすべて用意した。それを彼女がことごとく拒んだんだ。愛莉が頼りたいのは、お前だけなんだよ」

結斗は反射的に言い返す。

「彼女は俺を頼ってくれてる。それの何が悪いんですか」

父はそれ以上言い争うことを諦め、ただ私のほうへと振り向いた。

「芽依、お前が決めていいぞ」

父の目はわずかに赤みを帯びていたが、私の代わりに答えを出してくれることはなかった。

私はうつむき、手元のスマホに視線を落とす。

チャット画面には、あの【待ってろ】という一言が残っている。

11時15分。

ロビーに事務的なアナウンスが流れた。

「受付番号027でお待ちの方、戸籍届出窓口までお越しください。ご不在の場合は、次の番号の方をご案内いたします」

窓口の職員も、こちらに声をかけてきた。

「婚姻届の記入内容は、先ほど確認しております。あとはおふたりの本人確認をして、届書をお預かりするだけです。

今すぐお越しいただければ、まだ受け付けられますよ」

その場に居合わせた全員の視線が、一斉に結斗へと注がれる。

私は最後にもう一度だけ、彼へ問いかけた。

「結斗。今、一緒に来る?」

彼は私をちらりと一瞥してから、腕の中の愛莉へと視線を落とした。

愛莉はすぐに彼の服から手を離し、かすれた声で呟く。

「お兄ちゃん、行って。私は本当に大丈夫だから」

そう気丈に振る舞った直後、彼女の瞳から大粒の涙が頬を伝った。

結斗は数秒間黙り込み――結局、指先でその涙を優しく拭ってやった。

「やっぱり、先に愛莉を病院へ連れて行く。芽依、意地を張るのはもうやめてくれ。婚姻届なんていつでも出せる。8年分の気持ちが、今日出せなかったくらいで消え去るわけがないだろう」

彼は微塵も疑いのない、確信めいた口調で言い切った。

まるで、私がまた彼にチャンスを与えると信じて疑っていないかのようだった。

私はもう、何も言わなかった。

ただ静かに書類ファイルを開け、彼の本人確認書類と署名済みの婚姻届だけを抜き出し、突き出すように差し伸べた。

結斗が虚を突かれたような顔をする。

「……どういうつもりだ?」

私は彼の分の書類だけをその手に押しつけ、自分の分をしっかりと握り直した。

「あなたのものは、返す」

そして静かに踵を返し、3番窓口へと歩みを進める。

背後から、急に焦りを帯びた彼の声が追いすがってきた。

「芽依、ひとりで行って何ができるっていうんだ!」

私は、一度も振り返らなかった。

「言ったでしょう。今日この婚姻届は、私が絶対に出すって」

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