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思い出は白い雪のように消えて

思い出は白い雪のように消えて

By:  菓音Completed
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前世、桐島明里(きりしま あかり)は「名ばかりの夫」と結婚していた。 出産の日、大量出血で昏倒した彼女は、必死に何度も電話をかけたが――氷見寒成(ひみ かんせい)は最後まで応じなかった。 医師に人中を強く押されてようやく意識を取り戻し、彼女は震える手で手術同意書に自ら署名した。 子どもが四十度の高熱を出した日も、寒成の姿はなかった。 明里は子供を抱きかかえて病院へ走り、三日三晩つきっきりで看病した末、廊下でそのまま意識を失った。 両親が交通事故で亡くなった日も、彼は現れなかった。 冷えた骨壺を胸に抱えて帰宅した彼女を、玄関口で伯父が平手打ちした。 「男の心ひとつ掴めないなんて……あんなにも体面を重んじて生きてきたお前の両親は、婿に看取られることもなく、目を閉じることすらできずに逝ったんだぞ!」 そして五十八歳。末期がんと告げられた明里は、静かに人生の終わりを悟った。

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Chapter 1

第1話

前世、桐島明里(きりしま あかり)は「名ばかりの夫」と結婚していた。

出産の日、大量出血で昏倒した彼女は、必死に何度も電話をかけたが――氷見寒成(ひみ かんせい)は最後まで応じなかった。

医師に人中を強く押されてようやく意識を取り戻し、彼女は震える手で手術同意書に自ら署名した。

子どもが四十度の高熱を出した日も、寒成の姿はなかった。

明里は子供を抱きかかえて病院へ走り、三日三晩つきっきりで看病した末、廊下でそのまま意識を失った。

両親が交通事故で亡くなった日も、彼は現れなかった。

冷えた骨壺を胸に抱えて帰宅した彼女を、玄関口で伯父が平手打ちした。

「男の心ひとつ掴めないなんて……あんなにも体面を重んじて生きてきたお前の両親は、婿に看取られることもなく、目を閉じることすらできずに逝ったんだぞ!」

そして五十八歳。末期がんと告げられた明里は、静かに人生の終わりを悟った。

看護師に「最後に会いたい人はいますか」と問われ、枯れたプラタナスを見つめながら、彼女は最後の希望を胸に寒成へ電話をかけた。

電話は、偶然にも繋がった。

向こうからは賑やかな声が聞こえ、子どもたちの弾む声が耳を刺した。

「お父さん、ケーキ食べたら、杏奈さんと家族写真撮ろうよ!」

「いいよ」

胸の奥がずきりと痛み、明里の手からスマートフォンが滑り落ちた。床に叩きつけられた画面は、粉々に砕けた。

果てしない絶望の中、彼女は深い海に沈む小舟のように、静かに瞳を閉じた。

……

再び目を開けた時、明里は二十七歳に戻っていた。

彼女が最初にしたのは――離婚届の作成だった。

そして次に、離婚届を手に、夫の初恋の女である沢渡杏奈(さわたり あんな)を訪ねた。

「氷見寒成と離婚することにしたわ」

明里は離婚届をテーブルに置き、淡々と言った。

「彼にこの離婚届へサインさせられるなら、氷見夫人の座はあなたにくれてやるわ」

杏奈は一瞬言葉を失い、戸惑いの色を浮かべた。

「七年も夫婦で、子どもも二人いるのに……本当に、捨てられるの?」

明里の脳裏に、前世の惨痛な記憶がよぎる。

彼女はただ静かに答えた。

「寒成はあなたを忘れられない。子どもたちもあなたが好き。私が身を引けば、みんな幸せになれる」

その時、スマートフォンが鳴った。

明里が応答すると、電話の向こうから息子・氷見蒼辰(ひみ あおと)と娘・氷見柚菜(ひみ ゆな)の泣き叫ぶ声が響いた。

「ママ、助けて!」

「悪いおじさんが僕たちを殺そうとしてる!うわあああん……」

次の瞬間、低い男の声が耳を突いた。

「お前の子ども二人は俺の手の中だ。助けたけりゃ二億円用意しろ。さもないと――」

「殺せばいいわ」

明里はその言葉を遮るように電話を切った。

杏奈が青ざめた顔で言った。

「今、蒼辰と柚菜の声が聞こえたけど……行かないの?」

明里は冷ややかに笑った。

「ただのいたずらよ」

前世では、彼女はこの電話を信じた。

家計を握る寒成とは連絡が取れず、必死に金を工面してやっと二億円を揃えた。

子どもたちの無事を祈りながら車を走らせ、焦りのあまりガードレールに衝突して血まみれになった。

だが、あの拉致は子どもたち自身の仕業だった。

彼らは杏奈の誕生日プレゼントを買うため、金を騙し取ったのだ。

だから今度こそ、もう騙されない。

明里はバッグを手に取り、立ち上がった。

家に戻ると、寒成と子どもたちのために編んだマフラーや、用意していたクリスマスプレゼントをすべてゴミ箱に放り込んだ。

彼女と寒成の結婚は、ただのビジネス婚だった。

そして杏奈こそ、彼が一生忘れられない初恋の女だった。

当時、寒成と杏奈はすでに結婚を前提に交際していた。だが、氷見家が沢渡家の裏にグレーなビジネスの影を見つけ、「素性の怪しい女」として杏奈との関係を一方的に引き裂いた。

杏奈が渡航したあの日から、寒成はまるで魂を抜かれたように、半年もの間、何も手につかずにいた。

その後、氷見家と桐島家のビジネス婚が決まった。

結婚式の日、寒成は明里に向かって、冷たく宣言した。

「俺たちはあくまでビジネス婚だ。氷見夫人という肩書き以外、お前に与えられるものは何もない」

明里は口では「気にしない」と答えながらも、どこかで幻想を捨てきれずにいた。

人の心は血の通ったもの。

尽くして、耐えて、寄り添い続ければ――

いつか、この冷えきった関係にも、少しは温もりが生まれるかもしれない。

そう信じて、彼女は寒成の好物を覚え、ひとつひとつ丁寧にシャツへアイロンをかけ、彼と子どもたちの好みをすべて心に刻み込んでいった。

けれど、彼が彼女に与えたのは――週に一度、機械のように繰り返される義務的な夜だけだった。

心は、最初から最後まで、彼女に向いてはいなかった。

メッセージは既読無視。

電話も出ない。

彼女が何をしても、何を望んでも、寒成は微塵も気に留めなかった。

杏奈が帰国してからは、二人の関係は再燃し、子どもたちまで杏奈になついていった。

だからこそ、今世では、もう誰のためにも自分を犠牲にしない。

その時、背後から足音が近づき、低く冷たい声が響いた。

「何をしている?」

振り返ると、寒成が立っていた。

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第1話
前世、桐島明里(きりしま あかり)は「名ばかりの夫」と結婚していた。出産の日、大量出血で昏倒した彼女は、必死に何度も電話をかけたが――氷見寒成(ひみ かんせい)は最後まで応じなかった。医師に人中を強く押されてようやく意識を取り戻し、彼女は震える手で手術同意書に自ら署名した。子どもが四十度の高熱を出した日も、寒成の姿はなかった。明里は子供を抱きかかえて病院へ走り、三日三晩つきっきりで看病した末、廊下でそのまま意識を失った。両親が交通事故で亡くなった日も、彼は現れなかった。冷えた骨壺を胸に抱えて帰宅した彼女を、玄関口で伯父が平手打ちした。「男の心ひとつ掴めないなんて……あんなにも体面を重んじて生きてきたお前の両親は、婿に看取られることもなく、目を閉じることすらできずに逝ったんだぞ!」そして五十八歳。末期がんと告げられた明里は、静かに人生の終わりを悟った。看護師に「最後に会いたい人はいますか」と問われ、枯れたプラタナスを見つめながら、彼女は最後の希望を胸に寒成へ電話をかけた。電話は、偶然にも繋がった。向こうからは賑やかな声が聞こえ、子どもたちの弾む声が耳を刺した。「お父さん、ケーキ食べたら、杏奈さんと家族写真撮ろうよ!」「いいよ」胸の奥がずきりと痛み、明里の手からスマートフォンが滑り落ちた。床に叩きつけられた画面は、粉々に砕けた。果てしない絶望の中、彼女は深い海に沈む小舟のように、静かに瞳を閉じた。……再び目を開けた時、明里は二十七歳に戻っていた。彼女が最初にしたのは――離婚届の作成だった。そして次に、離婚届を手に、夫の初恋の女である沢渡杏奈(さわたり あんな)を訪ねた。「氷見寒成と離婚することにしたわ」明里は離婚届をテーブルに置き、淡々と言った。「彼にこの離婚届へサインさせられるなら、氷見夫人の座はあなたにくれてやるわ」杏奈は一瞬言葉を失い、戸惑いの色を浮かべた。「七年も夫婦で、子どもも二人いるのに……本当に、捨てられるの?」明里の脳裏に、前世の惨痛な記憶がよぎる。彼女はただ静かに答えた。「寒成はあなたを忘れられない。子どもたちもあなたが好き。私が身を引けば、みんな幸せになれる」その時、スマートフォンが鳴った。明里が応答すると、電話の向こうから息子・氷見蒼
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第2話
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第3話
杏奈が話し終える前に、寒成は黙って使い捨て手袋を外し、ペンを手にサインを書き込んだ。「そんなにあっさりでいいの?一度も目を通さないで?」杏奈がわざとらしく問いかけ、ちらりと明里の方を見やった。寒成は唇をかすかに歪めて笑った。「俺たちの関係に、そんなもの必要か?」「杏奈さん、私も玩具ほしいー!」柚菜がぱちくりと目を瞬かせて言った。「お部屋にぬいぐるみ、もっともっといっぱい飾りたいの!ママのは変だし、全然可愛くないから――もういらないっ!」「僕も!」蒼辰も手を挙げて叫ぶ。「ウルトラマンを百体並べる!」明里は眉をひそめて口を開いた。「二人とも喘息持ちなんだから、部屋にそんなに置いたら命に関わるわよ」杏奈が一瞬目を丸くしたが、すぐに柔らかく微笑んだ。「ちゃんと安全な素材のものを選ぶから、桐島さんは心配しなくて大丈夫」寒成も続けるように言った。「杏奈が選ぶなら問題ない」寒成の許可が出た瞬間、二人の子どもは大はしゃぎで杏奈の頬にキスをした。「やったー!杏奈さん大好き!」「ママが杏奈さんだったらよかったのに!」三人が笑い合う光景を、寒成は終始穏やかな目で見守っていた。その様子を見ていた明里は、ただ黙って唇を引き結んだ。――なんて、皮肉な話だろう。前世、明里は少しでも子どもたちの健康を害さぬようにと、素材にこだわり、自らの手で一つひとつ玩具を作っていた。指が擦り切れても、眠れぬ夜が続いても、すべては子どもたちのためだった。だがその心は、結局、彼らにとって何の価値もなかったのだ。明里は一人、静かに部屋へと戻った。しばらくして、杏奈が離婚届を手に明里の部屋を訪れた。「寒成、もうサインしたわ。あなた、今さら撤回しないわよね?」「もちろんよ」明里はまっすぐに答えた。「手続きが終わったら、すぐに出ていく」……翌日、杏奈は蒼辰と柚菜を連れて、たくさんの玩具を買ってきた。二人はまるで子犬のように杏奈にまとわりつきながら、自分たちの部屋を嬉しそうに飾っていた。明里が廊下を通りかかると、彼らが自分の手で作った積み木の城や布で縫った人形を、次々とゴミ箱へ放り込んでいるのが目に入った。そのとき、廊下の向こうから重たいものを引きずる音が聞こえてきた。数人の作業
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第4話
掌の中で大切に育ててきた我が子が、自分に向かってそんな言葉を吐いた。その瞬間、明里の胸の奥で何かが鋭く裂けた。「そう……じゃあ杏奈のところへ行きなさい。きっとあなたをたくさん愛してくれるわ」涙を堪えながら絞り出したその声は、自分でも驚くほど冷たかった。「明里!」寒成が彼女の態度に完全にキレた。「柚菜はお前のせいで命を落としかけたんだぞ!それでもそんなことが言えるのか?発作の苦しみがどんなものか、わかってるのか!」そう言って、寒成は扉の外に控える使用人を冷たく見やった。「棉を持ってこい」その声音には、氷よりも深い怒りが潜んでいた。明里がようやくその意図を悟った時には、すでに数人の使用人に床へ押さえつけられていた。「その綿を口に詰めろ。息ができない苦しみを、身をもって知るがいい」「寒成……や、やめて――っ!」悲鳴は途中で途切れた。使用人が明里の両肩を押さえつけ、掴み上げた棉をひと握りずつ、容赦なく口の中へ押し込んでいく。細かい繊維が喉を裂き、肺へと刺さり込む。息を吸うたびに、火のついた藁を飲み込むような痛みが走った。明里は背を弓なりに反らせ、目から涙と鼻水を一緒に溢れさせながら、「ひ、ひぃ……っ」と喉を鳴らした。爪が割れるほど床を掻きながら、それでも彼女は顔を上げた。視線の先には――氷のような瞳で立ち尽くす寒成と蒼辰の姿があった。「パパ、もっと詰めてやって、こいつに思い知らせてやれ!」と、蒼辰は息を荒げながら指示を飛ばした。寒成はその隣に立ち、まるで他人事の茶番を眺めるかのように冷ややかに見下ろしていた。最後の一筋の呼吸が尽きるまで、明里は綿で窒息させられ、やがてどさりと床に叩きつけられて、意識を完全に失った。……再び目を開けたとき――明里は、ベッドの脇に座る杏奈の姿を見た。彼女は気づくとすぐ、申し訳なさそうに微笑んだ。「桐島さん、ごめんなさい。全部、私のせいなの。柚菜にあんなにたくさんのぬいぐるみを買ってあげたから……病院の検査結果が出たの。柚菜の喘息の発作は、あのぬいぐるみが原因だったそうよ」杏奈は沈んだ声で続けた。「もう寒成には謝ったわ。だから、あなたも許してくれる?」明里は喉が焼けつくように乾いて、言葉を発することができなかった。そこへ
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第5話
明里は外出用の服に着替え、玄関を出て車に乗り込んだ。助手席に座っていたのは――杏奈だった。「子ども二人を一人で見るのは大変だろう?だから、杏奈を手伝いに呼んだんだ」ハンドルを握る寒成が、何でもないように言った。明里は何も言わず、黙って後部座席に身を沈めた。道中、杏奈は時折、寒成の口元へお菓子を差し出し、蒼辰と柚菜は身を乗り出して前の席に顔を寄せ、まるで車内に明里がいないかのように楽しげに笑い声を上げていた。遊園地に着くと、二人は両手いっぱいの荷物を明里の腕に押しつけた。「ママ、これ持ってて!」「パパと杏奈さんと一緒にメリーゴーランド乗るの!」――母としてではなく、お手伝いさんとして。呼ばれた理由がそれだと気づいた瞬間、明里は指先が白くなるほど拳を握りしめた。メリーゴーランドの上で笑い合う四人。その光景を見つめながら、明里の胸の奥にこみ上げてきたのは、怒りでも、悲しみでもなかった。――ただ、乾いて冷え切った虚しさだけだった。通りすがりの人々が、微笑ましげに声を漏らす。「なんて幸せそうな家族!お父さんもお母さんも美男美女だし、子どもたちも可愛いわね」「ほんと。お手伝いさんまで美人だなんて」「お手伝いさん」という言葉に、明里は思わず笑ってしまった。そう、彼女は確かに――この家の「お手伝いさん」にすぎなかった。だが、この地獄のような日々も、もうすぐ終わる。遊具をいくつか回ったあと、蒼辰と柚菜が今度は「ジェットコースターに乗りたい」と騒ぎ出した。「ダメよ。あなたたち、喘息があるでしょう?そんな激しいのは無理よ」思わず母として口を出すと、二人は一瞬で不機嫌になる。「いやだ!乗りたい!」「ママなんていつもダメばっかり!何も楽しくない!」そのとき珍しく、寒成が明里の味方をした。「ママの言う通りだ。ジェットコースターはやめなさい」二人は顔を見合わせて、こっそり笑う。「じゃあパパと杏奈さんが乗ってきなよ。僕たちはママとアヒル見に行くから!」杏奈は恥ずかしそうに寒成を見上げ、誘うように微笑んだ。寒成の目には柔らかな笑みが浮かび、明里へと冷たく言い残した。「悪いけど、子どもたちを頼む」淡々としたその口調は、妻に向けた言葉ではなく、雇い主がお手伝いさんに仕事を命じる
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第6話
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第7話
明里が目を覚ましたとき、全身が大型トラックに轢かれたかのように痛んだ。肋骨の奥からは、錐を突き立てられるような激痛。さらに、腹部には厚い包帯が何重にも巻かれている。――嫌な予感がした。「目が覚めたか」寒成がベッド脇に立っていた。凍りついたような声と、まるで他人を見るようなまなざし。沈黙ののち、彼は淡々と告げた。「杏奈が数日後に重要な会議に出る。彼女はプロジェクトの中核だから、欠席させるわけにはいかない」明里は何も言わなかった。生気を失ったその姿は、まるで魂を抜かれた人形のようだった。寒成に言ってやりたかった――もう、そんなつまらない言い訳で取り繕う必要なんてないと。結局、彼の冷たく薄情な心は、一生をかけてようやく見抜けたのだから。寒成は少し間を置いてから、言葉を続けた。「それと……杏奈は腎臓を傷めていた。だから、医師に頼んでお前の腎臓を移植した」その言葉を聞いた瞬間、明里の身体がかすかに震えた。ゆっくりと顔を上げ、寒成を見つめる。その瞳には驚愕、痛み、そして墨のように濃く滲み、二度と晴れることのない絶望が宿っていた。――あの事故は杏奈の過失だった。なのに、犠牲になったのは自分。彼は、いったいどこまで杏奈に盲目でいられるのだろう。明里はふっと笑った。――自分でも可笑しくなる。前の人生を、こんな薄情な男のためにすべて捧げてきたなんて。寒成は、その笑みを見た瞬間、胸の奥を鋭く刺されたような不快感を覚えた。だが、彼は顔を背け、冷たい声で言い放つ。「ちゃんと養生しろ。早く退院してくれ。子どもたちにも、家にもお前が必要だ」明里は唇を震わせ、掠れた声で呟く。「でも、氷見寒成……」――私は、もうあなたを必要としていない。そう言う前に、扉がノックされた。「氷見さん、沢渡さんが『傷口が痛む』と……」若い看護師の声に、寒成は一度も振り返らず、無言のまま病室を後にした。残されたのは、彼の背中と、冷えきった空気だけ。そして、あの日を境に、寒成が彼女のもとを訪れることは、二度となかった。……その後、寒成の噂だけが、彼女の耳に届いた。「氷見さんって、本当に沢渡さんに優しいよね。毎日お子さん二人を連れてお見舞いに来て、仕事まで病室でしてるんだって!」「
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第8話
蒼辰と柚菜は、家中を探しても明里の姿を見つけられず、しょんぼりした顔で寒成のもとへ戻ってきた。二人は左右から父の腰にしがみついた。「パパ、ママどこ行っちゃったの?」「お腹すいたぁ。ママの焼いたクッキーが食べたい!」寒成の眉間がかすかに寄った。明里はいつも、どこへ行くにも子どもたちを連れていた。――それなのに、今日は。「そうだ!」蒼辰がぱっと顔を上げる。「保護者会の日、ママが『もうすぐ出ていく』って言ってたけど、行き先は言わなかった。そのとき、杏奈さんも一緒にいたよ!」杏奈が事情を知っていると聞き、寒成は少し安心した。――きっと急な用事ができて、杏奈に子どもを頼んだだけだろう。「パパ、杏奈さんと一緒にご飯食べに行こうよ!」柚菜がぱっと笑顔を見せる。蒼辰も両手を叩いて賛成した。「いいね!僕も賛成!」二人の無邪気な顔を見て、寒成は小さく息をつく。「わかった。行こう」開けかけの小包をテーブルに置き、彼は軽く頷いた。三十分後、黒いベントレーが市中心の高級フレンチレストランの前に停まった。寒成が二人の手を引いて個室に入ると、杏奈はすでに到着していた。「蒼辰、柚菜、いらっしゃい。さあ座って!」杏奈は優しく笑い、メニューを差し出す。「お店の人気ケーキ、頼んでおいたわ。すぐ来るからね」「やったー!」柚菜は嬉しそうに杏奈の隣へ座り、蒼辰も身を乗り出して楽しげに話しかける。三人の和やかな光景に、寒成の目元がほんの少し和らいだ。だが、テーブルの上で静かに伏せられた自分のスマホを見て、そのぬくもりはすぐに冷めていく。――結婚記念日の贈り物まで用意しておきながら、連絡ひとつ寄こさないのか。まさか、俺から先に連絡するのを待っている?喉の奥で小さく笑い、寒成はスマホを伏せた。――馬鹿げている。あの女がそんなに計算できる人間か。食後、蒼辰と柚菜は杏奈の腕にまとわりついて離れない。「杏奈さん、今日うちに泊まって!」「だめよ、私はママじゃないもの。ずっと一緒にいたら、ママが悲しむでしょ?」杏奈がそう言うと、柚菜の瞳がたちまち潤んだ。「でもママは、もう私たちのこといらないんだもん!いなくなっちゃって、家には誰もいないし、つまんないよ!」「杏奈さん、ママになってよ!」
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第9話
何度呼んでも、返事はなかった。寒成は、ベッドの上に崩れ落ち、虚ろな目で天井を見つめた。――明里はいない。その事実を、ようやく頭が理解したのは、静寂が部屋を支配してからだった。この時間、使用人たちはすでに休んでいる。杏奈が夜更けまで起きて待っているはずもない。寒成はふらつきながら起き上がり、水を飲もうとしたが、酔いが波のように押し寄せてくる。コートも脱がぬまま、彼はそのまま意識を失った。翌朝。何やら騒がしい声に、寒成は眉をひそめて目を覚ました。頭の奥で鈍い痛みが脈打つ。視線を落とせば、昨夜のままの格好――シャツは皺だらけで、ネクタイも外れていない。彼はゆっくりとベッドを降り、寝室を出た。廊下に出た途端、小さな影が二つ、勢いよくぶつかってきた。「髪の毛ぐちゃぐちゃだよ……いつもはママが結んでくれたのに!」柚菜が泣きそうな声を上げる。「僕のランドセルどこ?遅刻しちゃう!」蒼辰は片足にスリッパ、もう片方は裸足のまま。二人の騒ぎに、眠たげな杏奈が寝室から現れた。顔には明らかな不機嫌の色。だが、寒成と目が合った瞬間、彼女は慌てて笑顔を作り、子どもたちの前にしゃがみ込んだ。「どうしたの、蒼辰、柚菜?喧嘩でもしたの?」蒼辰は唇を噛み、涙声で答える。「目覚ましが鳴ってたのに、気づいたら九時だったんだ!」柚菜も杏奈の服の裾を握りしめ、潤んだ瞳で訴える。「どうしよう、先生に怒られちゃうよ、杏奈さん……」杏奈は寒成を見上げ、少し甘えるような声音で言った。「寒成、今日はお休みをもらってもいい?たまには息抜きに、子どもたちを連れて出かけようと思うの」寒成はしばし黙し、二人の泣き腫らしたような目を見つめた。やがて小さくため息をつき、「いい。だが、遅くなるな」とだけ言った。「やったー!」二人は歓声を上げ、杏奈の腕にしがみついた。だが、杏奈が言う「お出かけ」は――子どもたちの想像とはまるで違っていた。彼女が連れて行ったのは遊園地ではなく、街の大型ショッピングモール。二人は、杏奈のお付きとして連れ回された。彼女がネイルサロンの椅子に腰かける間、蒼辰と柚菜はソファに並んで座り、頬杖をついたまま眠気と戦っていた。やっとネイルが終わったと思えば、「ねぇ、前のブランド
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第10話
柚菜は身を乗り出し、小さな指で紙面を指した。「り……こん……とどけ。パパ、パパとママ、離婚したの?」寒成は数歩で駆け寄ると、その書類を奪い取った。そこに「桐島明里」と自分の名前が並んでいるのを見た瞬間、頭の中が真っ白になる。指先が無意識に紙の上をなぞる。何度も記載内容を確かめ、交付番号までもひとつずつ確認した。――確かに、印章も本物。偽物ではありえない。つまり、これは紛れもなく自分と明里の離婚届受理証明書だった。だが、自分は離婚届にサインした覚えがない。明里はいったい、どうやってこの離婚届受理証明書を手に入れたというのか。「パパ、本当に離婚したの?じゃあ、杏奈さんが、あたしたちのママになれるの?」柚菜の顔は無邪気そのもの。寒成の目の奥で荒れ狂う嵐など、まるで気づいていない。――こんなにも長い間、この封筒が目の前にあったのに、気づきもしなかったなんて。あまりに馬鹿げている。そこへ杏奈が姿を現した。寒成の手にある離婚届受理証明書を見て、観念したように口を開く。「実はひと月前、桐島さんから呼び出されたの。カフェでね。離婚の話をされて……彼女、『もう氷見夫人ではいたくない。子どもたちのこともお願いしたい』って言ってたわ」杏奈は一瞬言葉を切り、子どもたちを見た。「だから、あの日『玩具を買う』って口実で、あなたにサインしてもらったの」「悪いママだ!」蒼辰が拳を握りしめた。「いらないって言うなら、こっちだっていらない!」「パパ、杏奈さんがいれば十分だよ!」柚菜も続く。杏奈はしゃがみ込み、二人を抱き寄せた。顔を上げると、その瞳には「理解ある女」のような優しさが宿っていた。「寒成、心配しないで。桐島さんの代わりに、私が二人をちゃんと見守るわ」寒成は、手にした離婚届受理証明書を強く握りしめ、紙がくしゃりと音を立てた。喉仏が上下し、低く押し殺した声が漏れる。「離婚という重大なことを、欺いてまでサインさせたのか?」杏奈は一瞬、目を泳がせたが、すぐに言い返す。「桐島さん自身の意思よ。もうあなたと生きるつもりはないって。それに、蒼辰も柚菜も、もう彼女を好きじゃないでしょ?」寒成は言葉を失った。喉の奥が焼けるように詰まり、声にならない。「パパ!杏奈さんと結婚して!あたし
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