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第62話

Author: 冷凍梨
そのとき私は、赤い綿入りの上着を着たおばさんに髪を引っ張られ、服も乱れて、まるでボロ雑巾のような姿になっていた。

よりによって、こんなみっともない姿を八雲と葵に見られてしまった。

情けなくて、恥ずかしくて、どうしようもない気持ちだった。だけど、手術室で必死に苦しんでいる妊婦のことを思えば、そして今も看護師長と口論している家族の姿を見れば、どこから湧いた力なのか、私は八雲の腕を振り払って前に少し踏み出し、叫んだ。「いい加減にしなさい!」

その一言で、騒がしかった空気が一瞬にして凍りついた。聞こえるのは、手術室からかすかに漏れる妊婦の呻き声だけだった。

私はさらに一歩踏み出し、妊婦の夫の前に立って、毅然とした声で言った。「麻酔なしで産むなんて、そんなのは20年前の話です。今は緊急事態です。『碧海国アクシデント対応マニュアル』第23条に基づき、緊急時には医療措置を即時に実施できます。それに......よく考えてください。もしあなたの奥さんとお子さんが、あなたのためらいで命を落とすことになったら、後悔してもしきれませんよ!」

「彼女に騙されちゃだめだよ!」さっき私の髪を引っ張ったあのおばさんが、またしても口を挟んできた。彼女は自信満々に、懐からお守りを取り出しながら叫んだ。「これは観音様の安産祈願のお守りよ!うちの嫁と孫は、絶対に無事に決......」

「水辺先生、大変です!」若い看護師の悲鳴がおばさんの言葉をかき消した。「胎児の心拍、もう60まで下がってます!」

その瞬間、私の心臓は止まりそうになった。もう迷っていられない。麻酔説明同意書を看護師長に託すと、髪を一つにまとめて手術室に駆け込んだ。

心拍モニターに映るギザギザの波形。その音が、まるで砂時計の砂が逆流するかのように、命の危機を知らせていた。私は何も考える暇もなく、注射器を手に取り、第1管のロピバカインを脊椎に注入した。

その直後、若い看護師の声が響いた。「水辺先生、ご家族がサインしました!」

それから1時間後、手術室に赤ちゃんの産声が響き渡った。私は大きく息を吐き、ようやく、ようやく肩の力が抜けた。その瞬間、背中がびっしょりと汗で濡れているのに気づいた。

でも、あの騒動を思い返すと、まだ胸がざわついていた。

もし、あのとき私が即断できなかったら。もし、家族がもう少し躊躇っていたら。この手
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Comments (1)
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おすがさま
自分はどうなの……八雲に送ってもらうって事だよね~ それが、日常なの?「私の彼に頼んでおくよ」って感じかな~…あはは、辛い!!
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