INICIAR SESIÓN第一章 王宮の罠(The Trap)
砂漠の大国アズラク。
太陽が地平線の彼方に沈み、灼熱の大地が深い瑠璃色の夜に包まれる頃、王都は妖艶な静寂に支配される。 巨大な城壁に囲まれた王宮の尖塔が、月の光を受けて白銀に輝いていた。その王宮の屋根を、音もなく駆ける黒い影があった。
ジャミルだ。二十一歳の彼は、貧民街で育った孤児でありながら、悪徳商人の蔵しか狙わない義賊として、裏社会で「青い月(カマル)」と呼ばれ英雄視されている。 しなやかな肢体は猫のように軽やかで、夜風に靡く黒髪の間から、宝石のような青い瞳が鋭く光る。(今日の獲物は、王の寝室にあるという『嘆きのダイヤ』だ)
ジャミルは警備兵の巡回を完璧なタイミングですり抜け、最も高い塔のバルコニーへと降り立った。
侵入成功。 そう確信して、透かし彫りの施された豪奢な窓枠に手をかけた、その時だった。ガシャリ、と冷たい金属音が響く。
足元の床が抜け、ジャミルは抗う間もなく落下した。「うわっ!?」
受け身を取って着地した先は、石造りの冷たい地下牢――ではなく、ペルシャ絨毯が敷き詰められた広大な部屋だった。
甘い香油の匂いが鼻をくすぐる。 無数の絹のクッション、金細工の施された柱、そして部屋の中央にある天蓋付きの寝台。 そこには、一人の男が優雅に寝そべり、グラスを傾けていた。「ようこそ、我が寝室へ。……随分と可愛らしい鼠が迷い込んだものだ」
男がゆっくりと身を起こす。
鍛え抜かれた褐色の肌に、王族の証である黄金の装飾品。猛禽類を思わせる鋭い金色の瞳。 アズラク国の若き王、カリムだ。「黄金の獅子」と畏れられる、この国の絶対支配者。「罠か……!」
ジャミルは即座に腰の短剣に手を伸ばすが、それより早く、部屋の四隅から現れた近衛兵たちに取り押さえられた。
「離せ! 卑怯だぞ、王なら正々堂々と……!」
「盗っ人が正々堂々を語るとは笑わせる。……だが、いい度胸だ」カリムが近づいてくる。
その威圧感は、砂漠の太陽のように圧倒的だ。 彼は捕らえられたジャミルの前に立ち、無遠慮にその顎を掴んで顔を上げさせた。「ほう。貧民街の塵にしては、随分と美しい目をしている」
カリムの指が、ジャミルの頬を撫でる。
値踏みするような、それでいて獲物を愛でるような視線。ジャミルは屈辱に唇を噛み、その手を睨みつけた。「俺に触るな。殺すなら早く殺せ」
「殺す? 勿体ない」カリムはニヤリと口角を上げ、残酷なほど愉しげに告げた。
「お前のような威勢のいい獲物は久しぶりだ。今日からお前は俺のものだ。この王宮(おり)で、俺だけに囀(さえず)る小鳥として飼ってやる」
第二章 黄金の鳥籠
それからの日々は、ジャミルにとって屈辱と混乱の連続だった。
彼が閉じ込められたのは、王宮の離宮にある「寵愛の間」。 逃げ出そうにも、窓には強固な格子がはめられ、扉の前には常に屈強な衛兵が立っている。 だが、扱いは囚人のそれではない。 与えられる食事は、王族しか口にできないような山盛りの果物と肉料理。着せられる衣服は、肌が透けるほど薄く上質な絹織物。「気に食わんな」
夜。豪奢な寝台の上で、カリムが不満げに呟いた。
ジャミルは部屋の隅で膝を抱え、出された食事には手を付けずに睨み返していた。「なぜ食わん。なぜ着飾らん。俺が与えるものに不満があるのか」
「全部だ。俺はあんたのペットじゃない。餌付けされるつもりはない」ジャミルが吐き捨てると、カリムはため息をつき、寝台から降りて歩み寄ってきた。
彼はジャミルの腕を掴み、強引に立たせた。 身長差。体格差。 カリムの広い胸板に押し付けられ、ジャミルは身動きが取れない。「痩せっぽちの分際で、強情なやつだ。……だが、その強気な目が濡れるところを見てみたいとも思う」
カリムの手が、ジャミルの腰を這い上がる。
熱い。 砂漠の熱気を帯びたような王の手のひらが、薄い絹越しに肌を焼く。「やめろ……ッ!」
「嫌か? 多くの者が、俺の寵愛を求めて列をなすぞ」「俺は多くの者じゃない! ……身体を奪えても、心までは奪えないと思え!」ジャミルは必死に抵抗し、カリムの手を振り払おうとする。
その必死な形相を見て、カリムはふと動きを止めた。 金色の瞳に、僅かな驚きと、それ以上の興味の色が宿る。「……心、か」
カリムはジャミルの顎をすくい上げ、唇が触れるほどの距離まで顔を近づけた。
甘い香油の香りと、雄々しい体臭がジャミルを包み込む。「面白い。ならば賭けようか、盗賊。俺がお前を抱く時、お前が心から俺を求めるようになるまで、無理強いはしない。……ただし」
カリムはジャミルの耳元に唇を寄せ、低く囁いた。
「この檻からは出さない。お前が俺のものになるまで、一生な」
それは慈悲なのか、それともより深い執着の現れなのか。
解放されたジャミルはその場に崩れ落ち、去っていく王の背中を、熱くなった顔で見送るしかできなかった。第三章 熱砂の反乱
変化が訪れたのは、数日後のことだった。
カリムが王都の視察に出ることになり、なぜかジャミルも同行させられたのだ。 「俺の目の届くところにいろ」という命令で、ジャミルは王と同じ馬車に乗せられた。 市場は活気に溢れ、民衆はカリムに歓声を送っている。 傲慢な暴君だと思っていたが、民の暮らしを見るカリムの目は真剣そのものだった。(意外と、まともな王なのかもしれない……)
そう思い直した矢先、異変が起きた。
路地裏から突如、覆面の男たちが現れ、王の馬車を取り囲んだのだ。 反王派の暗殺者たちだ。 護衛兵たちが応戦するが、敵の数は多い。混乱の中、一人の暗殺者が馬車に飛び乗り、短剣を振り上げた。「死ね、暴君!」
カリムは剣を抜こうとしたが、狭い馬車内では長剣が使えない。
刃がカリムの心臓に迫る。 その瞬間、ジャミルは身体が勝手に動いていた。 隠し持っていた――食事用のナイフを盗んで研いでおいたものだ――小さな刃を抜き、暗殺者に飛びかかったのだ。「王に手を出すなッ!」
ジャミルのナイフが暗殺者の手首を裂く。
だが、同時に暗殺者の短剣も、ジャミルの脇腹を浅く切り裂いた。 鮮血が舞う。「ジャミル!」
カリムが叫び、怯んだ暗殺者を蹴り飛ばした。
直後に近衛兵が駆けつけ、暗殺者たちは制圧された。 騒然とする馬車の中で、ジャミルは傷口を押さえてうずくまっていた。 カリムが青ざめた顔でジャミルを抱き起こす。「馬鹿者が! なぜ飛び出した! 逃げる好機だったはずだろう!」
そうだ。この混乱に乗じて逃げれば、自由になれたはずだ。
なのに、なぜ。 ジャミルは脂汗を流しながら、ニヤリと笑ってみせた。「……勘違いするな。あんたに死なれたら、俺を捕まえた奴がいなくなる。……貸しを作っただけだ」
「……お前という奴は」カリムは呆れたように、しかし愛おしそうに呟くと、自分のマントを引き裂いてジャミルの傷を縛った。
「王宮へ戻る! 全速力だ! ……死なせるな、絶対にだ!」
王の怒号が響く中、ジャミルは薄れゆく意識の中で、自分を強く抱きしめるカリムの腕の温かさを感じていた。
第三章 千夜一夜の誓い
王宮の寝室。
治療を終えたジャミルは、天蓋付きの寝台で目を覚ました。 傷は幸いにも浅く、丁寧に包帯が巻かれている。 枕元には、カリムが座っていた。あの傲慢な王が、一睡もしていないような顔で。「……目が覚めたか」
「ああ。……ここは?」「俺の寝室だ。……安心しろ、傷が癒えるまでは何もしない」カリムは水差しから水を注ぎ、ジャミルの口元に運んでくれた。
その献身的な姿に、ジャミルの胸が締め付けられる。 水を飲み干すと、カリムは静かに言った。「約束しよう。傷が治ったら、お前を解放する」
「……え?」「お前は俺の命を救った。その礼だ。……自由になれ、青い月(カマル)」カリムの顔に、寂しげな色が浮かんでいる。
全てを手に入れてきた王が、初めて手放すことを選んだのだ。愛する者を繋ぎ止める鎖が、相手を傷つけると知ったから。 ジャミルは起き上がろうとして、顔をしかめた。「……馬鹿な王様だ」
「何?」「せっかく捕まえた獲物を、みすみす逃がすなんて。商売下手にも程がある」ジャミルは、カリムの手を取った。
その大きな手を、自分の頬に寄せる。「俺は義賊だぞ。欲しいものは自分で盗む。……俺はまだ、一番でかい宝を盗んでない」
「一番でかい宝……だと?」ジャミルは青い瞳で、真っ直ぐに黄金の瞳を見つめ返した。
「あんただ。……あんたの心を盗みに来た」
カリムの目が大きく見開かれ、やがて歓喜の炎が燃え上がった。
彼はジャミルを引き寄せ、今度は躊躇いなく唇を重ねた。 強引で、けれど震えるほど優しい口づけ。「……もう遅い。俺の心など、最初に会った時から盗まれている」
カリムはジャミルの服をゆっくりと解いた。
露わになる肌。脇腹の包帯が痛々しいが、それがかえって二人の絆を証明している。 カリムはサイドテーブルにあったローズオイルの小瓶を手に取り、その芳醇な液体を自身の手に垂らした。 部屋中に薔薇の香りが充満する。「ジャミル……俺の全てをお前にやる。だから、お前の全てを俺に寄越せ」
「命令するな……。全部、あんたのものだ」琥珀色の小瓶から垂らされたローズオイルが、カリムの掌で温められ、芳醇な香りを放ち始めた。
それはダマスクローズの濃厚な甘さと、王の体温が混ざり合った、理性を溶かす媚薬のような香りだった。「……力むな。俺に委ねろ」
カリムが低く囁き、オイルに濡れた手をジャミルの肌へと滑らせる。
熱い。 それは砂漠の真昼の太陽を凝縮したような熱量でありながら、驚くほど滑らかで、とろけるような感触だった。 カリムの大きな掌が、ジャミルの首筋から鎖骨、そして薄い筋肉に覆われた胸板を、慈しむように辿っていく。 かつて剣を握り、敵をなぎ倒してきたその武骨な手が、今は壊れ物を扱うような慎重さで、ジャミルの輪郭をなぞっている。そのギャップが、ジャミルの胸を締め付けた。(……なんて手つきだ。宝物を鑑定する時でも、こんなに優しい目はしないくせに)
ジャミルは熱に浮かされた頭で、ぼんやりと考えた。
脇腹の包帯が巻かれた部分だけを巧みに避け、カリムの指が敏感な胸の突起を掠める。 電撃のような痺れが走り、ジャミルの背中がシーツから浮き上がった。「あ……っ、んぅ……!」
「ここか? 盗賊のくせに、随分と感じやすい身体だ」カリムが愉しげに、けれど甘く切ない声で囁く。
執拗に指先で弄られ、尖らされ、快楽の種火を植え付けられる。 ジャミルは無意識にシーツを強く握りしめた。 悔しい。 身体の主導権を完全に握られていることが、そしてそれを拒絶できない自分が、どうしようもなく悔しく――同時に、堪らなく愛おしい。 この男は、アズラクの絶対支配者だ。その王が、ただの一人の男として、ジャミルという存在に溺れている。「……俺の名前を、呼んでみろ」
カリムがジャミルの耳元に唇を寄せ、懇願するように言った。
王への敬称ではない。ただの、恋人の名を。「……っ、カリム……」
掠れた声で、初めてその名を呼んだ。
それが、最後のリミッターを外す合図だった。 カリムの金色の瞳が、情欲と歓喜で揺らめいた。「ああ……愛しい、俺の
カリムはジャミルの両脚をゆっくりと割り、自身の腰をその間に沈めた。
露わになった秘所が、オイルと愛液で濡れて灯りを反射している。 恥辱に顔を背けようとするジャミルの顎を、カリムは優しく掴んで自分の方へ向かせた。「目を逸らすな。お前を貫くのが誰なのか、その目に焼き付けろ」
カリムの亀頭が、ジャミルの窄まりに宛がわれる。
熱く、脈打つ、王の楔。 ジャミルは息を飲み、覚悟を決めてカリムの首に腕を回した。「……来い、カリム。俺の全部を……やるよ」
ずぷり、と沈み込むような音と共に、侵入が始まった。
「ぐ、ぁ……っ、うあぁ……!」
異物が体内を押し広げる感覚。裂けるような痛みと、それを上書きするほどの圧倒的な充足感。
カリムはジャミルの呼吸に合わせ、焦らすように、ゆっくりと、最奥を目指して進んでいく。 痛みに顔を歪めるジャミルの額に、カリムが雨のようなキスを降らせる。「大丈夫だ……力を抜け。俺がお前を受け止める」
「は、ぁ……っ、熱い、カリム……お前の中、焼けるみたいだ……」ついに根元まで飲み込まれた瞬間、二人の吐息が重なった。
繋がっている。 物理的な結合以上に、精神の深い部分で回路が接続されたような感覚。 カリムの鼓動が、ジャミルの脈拍と共鳴し、一つの大きなリズムを刻み始める。カリムが動き出した。
最初は優しく、やがて激しく。 打ち付けられるたびに、ジャミルの身体が揺れ、絹のシーツが波打つ。 脇腹の傷が痛むことはなかった。カリムがそこを庇うように体重を支え、ジャミルを抱きすくめていたからだ。 その配慮が、ジャミルの心臓を快楽以上に激しく揺さぶる。「あ、ぁあっ……! そこ、深い……ッ!」
「ジャミル……! お前は、俺だけのものだ……!」王の楔は、大きく、熱く、ジャミルの理性の防波堤を容赦なく打ち砕いていく。
だが、そこにあるのは一方的な支配ではなかった。 ジャミルもまた、カリムの背中に爪を立て、その逞しい身体を自分の中へと引きずり込んでいた。 王が盗賊を捕らえたのではない。 盗賊が王をその身に閉じ込めたのだ。黄金の瞳と、瑠璃色の瞳が至近距離で絡み合う。
互いの瞳の中に、自分の姿しか映っていないことを確かめ合う。 それは、言葉を介さない魂の対話だった。(俺はもう、屋根の上を一人で走ることはないだろう)
激しい快楽の奔流に流されながら、ジャミルは思った。
自由を失ったのではない。 「孤独」という名の自由を捨て、「愛」という名の黄金の鎖を、自ら選び取ったのだ。「愛している、ジャミル……!」
「俺もだ……! 愛してる、カリム……ッ!」絶頂の瞬間、二人の魂が火花を散らして融合した。
カリムの熱い飛沫がジャミルの深部へ注がれ、ジャミルもまた、カリムの腹部に自身の白濁を解き放つ。 視界が白く弾け、世界が二人のためだけに収束していく。揺れる天蓋のレース越しに、月の光が二人を照らしていた。
煌めく黄金の装飾も、部屋に満ちる薔薇の香りも、この瞬間の二人の輝きには及ばない。 余韻に浸りながら、カリムは愛おしそうにジャミルの汗ばんだ髪を梳き、ジャミルは王の胸に顔を埋めてその鼓動を聞いていた。王宮の夜はまだ長く、二人の吐息と愛の言葉は、終わりのない千夜一夜の物語のように、尽きることなく紡がれていった。
窓の外では、満月が砂漠を青く照らしている。
「青い月」はもう空には帰らない。 黄金の獅子の腕の中こそが、彼が最後に見つけた、安住の地だったのだから。(了)
第一章 新入りへの洗礼 絶海の孤島にそびえ立つ、第九重犯罪者収容所「タルタロス」。 灰色の空と、荒れ狂う波に閉ざされたこの要塞は、生きて出ることは不可能と言われる地獄の釜の底だ。 重厚な鉄扉が開き、一人の男が看守たちに引きずられてきた。 イグニール。かつて国家転覆を企てた革命軍のリーダーであり、「紅蓮の獅子」と恐れられた男だ。 手足には重い鎖、首には爆破機能付きの黒い首輪(チョーカー)。鍛え抜かれた肉体は傷だらけだが、その瞳だけは決して消えない炎のように燃えている。「……ここが、俺の墓場か」 イグニールが独りごちると、コツ、コツ、と硬質な靴音が響いた。 コンクリートの冷気の中、一人の男が現れる。 軍服を思わせる黒い制服に、革のロングブーツ。腰には警棒と拳銃。そして片目には銀縁のモノクル(片眼鏡)をかけた、氷のように美しい男。 この監獄の絶対支配者、典獄クラウスだ。「ようこそ、タルタロスへ。……随分と威勢の良い目だ、305番」 クラウスは番号で呼び、イグニールの前に立った。 身長はイグニールの方が高いが、クラウスが放つ圧倒的な威圧感(オーラ)は、巨人のそれをも凌駕していた。「俺の名はイグニールだ。番号で呼ぶな」「ここでは名前など無意味だ。お前はただの家畜、管理されるだけの肉塊に過ぎない」 クラウスは冷たく言い放つと、看守たちに顎で指示した。 イグニールは台の上に押し付けられ、囚人服を無理やり剥ぎ取られた。 全裸にされ、屈辱的な姿勢で拘束される。「入所手続きだ。……身体検査を行う」 クラウスが黒い革手袋の上から、さらに医療用のゴム手袋を装着する。 パチン、とゴムが弾ける音が、広く無機質な部屋に反響した。「革命軍のリーダーともあろう者が、体内に危険物を隠し持っている可能性は否定できんからな」「ッ……ふざけるな、俺は何も……!」 イグニールの抗議は、クラウスの指によって遮られた。 無造作に口腔内へ指がねじ込まれる。歯茎、舌の裏、喉の奥まで、執拗に探られる。 ゴムの無機質な味と、クラウスの冷たい体温。 イグニールが睨みつけると、クラウスは薄く笑った。「いい表情だ。……だが、検査は上だけではないぞ」 クラウスの手が下へと滑る。 鍛え上げられた腹筋、古傷の走る太腿を愛撫するように撫で、そして最も無防備な場所へ。 医療
第一章 鬼哭の生贄 平安の都から遠く離れた、丹波国・大江山。 鬼が住まうとされるその魔の山へ、霧深い夜、一人の男が登っていた。 男の名は十蔵(じゅうぞう)。山寺の僧兵であるが、その風体は僧侶というよりは岩の巨木であった。 身長は六尺三寸(約一九〇センチ)を超え、僧衣の上からでも分かる丸太のような腕と、樽のような胸板。生まれつき常人離れした巨体と怪力を持つ彼は、幼い頃から「鬼子」と恐れられ、寺でも持て余される厄介者だった。(……これでいい。俺のような化け物は、鬼の腹に収まるのがお似合いだ) 十蔵は自嘲気味に笑った。 最近、里で鬼の被害が相次ぎ、その怒りを鎮めるための「生贄」として、彼が選ばれたのだ。 誰もが彼を恐れ、厄介払いしたがっていた。十蔵自身も、自分の巨体を持て余す孤独な人生に疲れていた。 山頂付近。巨大な岩屋の奥に、朱塗りの御殿がそびえていた。 十蔵が足を踏み入れると、地響きのような声が轟いた。「ほう。今宵の膳は、随分と骨太な獲物が来たな」 御簾(みす)が上がり、現れたのは、十蔵さえも見上げるほどの巨躯を持つ「鬼」だった。 大江山の王、酒天(しゅてん)。 身長は七尺(約二メートル十センチ)あろうか。燃えるような赤銅色の肌、額から生えた二本の鋭い角。はだけた着物から覗く筋肉は、鋼鉄を練り上げたように隆起している。 酒天は玉座から立ち上がり、十蔵の周りをゆっくりと回った。 その金色の瞳が、十蔵の分厚い胸板や、太い太腿をねっとりと値踏みする。「食うには筋が多すぎる。だが……」 酒天の大きな手が、十蔵の尻を鷲掴みにした。 万力のような力。十蔵は反射的に身構えたが、動けなかった。「悪くない。……これほど頑丈な器(からだ)なら、あるいは壊れずに耐えられるかもしれん」「……何の話だ。食うならひと思いに食らえ」「食らうさ。だが、口で食うとは言っていない」 酒天は獰猛に笑い、十蔵の帯を一息に引きちぎった。第二章 規格外の求愛 十蔵は抵抗する気力を失い、されるがままに奥座敷へと連れ込まれた。 しかし、すぐに殺されるわけではなかった。 酒天は大きな盃に酒を並々と注ぎ、十蔵に勧めてきたのだ。「飲め。……死ぬ前に、俺の愚痴を聞け」 酒天は自らも酒をあおり、忌々しそうに股間を叩いた。「俺は、強すぎた。力も、魔力も、そして……こ
第一章 予選の衝突(Red Zone) モナコ、モンテカルロ市街地コース。 地中海の青い海と豪華なカジノを背景に、世界最高峰のモータースポーツ、F1グランプリの予選が行われていた。 ガードレールに反響するV6ハイブリッドターボの咆哮が、街全体を震わせている。 ピットレーンのガレージ奥、無数のモニターに囲まれた場所で、チーフエンジニアの高城慧(たかしろけい)は、凍り付いたような表情でデータを凝視していた。 黒髪に銀縁の眼鏡。その瞳には、秒単位で変化するテレメトリーデータが滝のように流れている。『レオ、タイヤの温度が限界だ。このラップは捨てろ。ピットインしろ』 慧は無線(ラジオ)のスイッチを押し、冷静に指示を飛ばした。 だが、ノイズ混じりの返答は、彼の論理を嘲笑うものだった。『断る! 今の俺は誰よりも速い! このままポールを獲る!』 モニターの中、深紅のマシンが加速する。 ドライバーは、レオ・バスケス。二十三歳。「サーキットの野獣」と呼ばれる天才だ。 彼は慧の指示を無視し、最終コーナーへ突っ込んだ。壁まで数ミリのギリギリのライン取り。タイヤが悲鳴を上げ、白煙を上げる。 コンマ〇〇一秒の短縮。 トップタイム更新。ポールポジション獲得。 ガレージが歓声に包まれる中、慧だけがヘッドセットを乱暴に叩きつけた。 予選終了後のモーターホーム(控え室)。 扉が開いた瞬間、慧は入ってきたレオの胸倉を掴み、ロッカーに叩きつけた。 ガンッ! と金属音が響く。「……死にたいなら一人で死ね、レオ!」 普段は冷静な慧の、激情の露呈。 レオは驚いたように目を丸くしたが、すぐに不敵な笑みを浮かべた。汗とアドレナリンの匂いが、慧の鼻腔を刺激する。「怒るなよ、ケイ。ポールを獲ったんだぜ? 結果オーライだろ」「結果論だ! あのタイヤであの突っ込み方をすれば、サスペンションが砕けて死んでいた可能性が四十パーセントもあった! 私の計算した最高傑作(マシン)を、君の賭けの道具にするな!」 慧の瞳の奥にあるのは、怒りだけではない。喪失への恐怖だ。 レオはそれに気づき、慧の手首を掴んで引き寄せた。「……心配してくれたのか? 愛されてるなぁ、俺は」「ふざけるな」「あんたの計算は完璧だ。だが、最後にハンドルを握るのは俺だ。……俺の感覚(センス)を信じろよ」 レ
第一章 緑の檻(Green Cage) 都市の喧騒から遠く離れた、深い森の奥。 そこに、巨大なガラスのドームが鎮座していた。 葛城植物学研究所。 外は冷たい秋雨が降っているが、厚いガラスに隔てられた内部は、むせ返るような亜熱帯の湿気に満ちている。 シダ植物が巨大な葉を広げ、天井からは気根がカーテンのように垂れ下がっている。空気そのものが緑色に染まっているかのような、濃密な生命の気配。「……颯太君。その鉢の湿度はどうだ?」 静かな声が、葉擦れの音に混じって響いた。 白衣を纏い、銀縁の眼鏡をかけた男、葛城翠(みどり)だ。 若くして数々の新種を発見した天才植物学者だが、極度の人間嫌いとして知られ、この温室に籠りきりの生活を送っている。「あ、はい! えっと、土はまだ湿っています。水やりは控えめにした方がいいかと……」 ホースを手に答えたのは、日下颯太(そうた)だ。二十二歳の大学生。 休学中の高額バイトにつられてやってきた彼は、ここに来て一ヶ月、住み込みで働いている。 温室の湿度は常に八十パーセントを超えている。颯太の額には大粒の汗が浮かび、Tシャツが背中に張り付いていた。「……そうか。良い判断だ」 翠が近づいてくる。 彼は革の手袋をした指先で、颯太の汗ばんだ首筋を不意に拭った。「ひゃっ! か、葛城さん?」「……ふむ。君はよく汗をかくな。新陳代謝が活発だ。……実に水はけが良い」 翠の眼鏡の奥の瞳が、爬虫類のように細められる。 それは人間を見る目ではない。希少な植物の生育具合を観察するような、無機質で、それでいて粘着質な視線だった。「君からは、若い樹木のような匂いがする。……ここにいる植物たちも、君の養分(フェロモン)を気に入っているようだ」「は、はあ……。ありがとうございます……?」 褒められているのかどうかも分からない。 颯太はこの雇い主に、本能的な違和感を抱いていた。彼は植物には愛おしげに話しかけるが、人間である颯太には、まるで「道具」や「肥料」を見るような目しか向けないのだ。「今日はもう上がりたまえ。……ただし、東のエリアには絶対に入るなよ。あそこは今、デリケートな時期だからな」 翠はそう言い残し、研究室へと戻っていった。 残された颯太は、首筋に残る革手袋の冷たい感触に、身震いした。 禁止されると気になってしまう
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