INICIAR SESIÓN アジア最大級の歓楽街、
極彩色のネオンサインが、途切れることなく降りしきる雨に滲み、濡れたアスファルトを毒々しく染めている。ピンク、グリーン、ブルー、レッド――無数の光が乱反射し、この街全体を巨大な万華鏡の中に閉じ込めているかのようだ。
路地裏から立ち昇る中華料理の油の匂いと、ドブ川の腐敗臭、そして安っぽい香水の匂いが混ざり合う。売春宿から漏れる下品な笑い声、マージャン牌の音、遠くで鳴り響くサイレン――欲望と犯罪の掃き溜めのような街。
だが、この汚濁にまみれた街こそが、ケイにとって過去二年間の戦場だった。
その一角にある会員制クラブ「ヴェルベット」。地上三階、地下一階の瀟洒な建物は、周囲の安酒場や麻雀店とは明らかに一線を画していた。入口には屈強なボディガードが二人、黒いスーツに身を包み、値踏みするような目で通行人を睨んでいる。
この店のVIPルームは、紅竜会の幹部たちだけが使える聖域だった。
重低音のビートが床を震わせ、壁の防音材を通してなお、下階のフロアから歓声が漏れ聞こえてくる。革張りのソファに深く沈み込んでいる男がいた。
レイ。
この街を牛耳る巨大犯罪組織「
気怠げに紫煙をくゆらすその横顔は、映画スターのように端正だ。彫りの深い顔立ち、真っ直ぐな鼻筋、薄く引き結ばれた唇。だが、その美貌の奥に潜む瞳には、決して飼い慣らせない獣が棲んでいる。
「……で? 西地区のシマを寄越せだと?」
レイが低い声で呟く。その声には、侮蔑と苛立ちが滲んでいた。
対面に座る男――敵対組織「
「いや、レイさん、寄越せとは言っておりません。ただ、共同管理という形で……」
「共同管理?」レイが鼻で笑った。「つまり、お前らが何もせずに利益の半分を持っていくということか」
一触即発の空気が、部屋を支配した。
レイの背後に控えていたケイは、スーツの内ポケットに隠した拳銃のグリップに、そっと指をかけた。グロック19。十五発装填。安全装置は既に外してある。
ケイ。
組織に入って二年。その冷静な判断力と、ナイフのように鋭利な美貌、そして正確無比な射撃の腕を買われ、レイの「右腕」として側近を務めている。二十七歳。身長は百七十八センチ。黒いスーツに黒いシャツ、黒いネクタイ――まるで葬儀に向かうかのような装いが、彼の冷徹な雰囲気をさらに際立たせていた。
だが、彼の正体は、
警察庁麻薬取締部、特別捜査班所属。二年前、身分を偽り、下っ端の構成員として紅竜会に潜り込んだ。任務は、組織の実態を内部から解明し、幹部を一網打尽にすること。そして、その最大の標的が、目の前にいるレイだった。
「おい、ケイ」
不意に名を呼ばれ、ケイの指が止まった。心臓が一拍、大きく跳ねる。
「はっ。何でしょう、レイさん」
ケイは表情を一切崩さず、恭しく答えた。この二年間で身につけた仮面。完璧な忠誠心を演じる技術。
「酒が空だ。注げ」
レイがグラスを突き出す。琥珀色のブランデー――レミーマルタンXO――が、ボトルに残り少なくなっている。
ケイは表情を崩さずにボトルを取り、静かにグラスへ液体を注いだ。その動作には一切の無駄がない。
その瞬間、レイの手が電光石火のように伸び、ケイの手首を強く掴んだ。
グラスから酒が溢れ、テーブルのガラス面を汚す。琥珀色の液体が、こぼれてネオンの光を反射した。
「……手が震えているぞ。何を怯えている?」
レイが試すような視線を投げてくる。その瞳は、まるで獲物を値踏みする猛禽類のようだった。
心臓が早鐘を打つ。バレたのか? いや、ただの戯れか。警察との連絡用に使っている暗号化された携帯電話は、念入りに隠してある。昨夜送った報告書の内容が漏れたとは考えにくい。
だが、この男の勘は異常なまでに鋭い。二年かけて信用を築いてきたが、常に薄氷の上を歩くような日々だった。一度でも演技が破綻すれば、即座に殺される。それがこの世界のルールだ。
ケイは、レイの目をまっすぐ見据えた。怯えを見せてはいけない。ここで目を逸らせば、疑念は確信に変わる。
「……武者震いです。この豚野郎の首を、いつ掻っ切ってやろうかと」
ケイが冷ややかに答え、チョウを一瞥した。その視線には、本物の殺意が込められていた。
レイは一瞬、目を見開き――そして、喉を鳴らして笑った。
「ハハハッ! いい答えだ。お前のそういう冷たい目が好きだ」
レイの笑い声に、チョウが明らかに怯えた表情を浮かべる。
「あの、レイさん、今日のところはこれで……」
「まだ話は終わっていない」レイが冷たく遮った。「座れ」
その瞬間、レイは敵対組織の幹部の前で、あろうことかケイのネクタイを引き寄せ、強引に唇を奪った。
驚愕するチョウ。部屋にいた他の構成員たちも、一瞬、息を呑んだ。
ケイは抵抗することもできず、レイの荒々しい舌を受け入れる。ブランデーとタバコの苦い味が、口腔に広がる。レイの舌は容赦なく侵入し、ケイの口内を蹂躙した。
これは見せつけだ。「俺の所有物に手を出すな」という威嚇。組織の世界では、力の誇示は日常茶飯事だった。
だが、その乱暴な口づけの中に、奇妙なほどの熱と執着が含まれていることに、ケイは気付いていた。これは演技ではない。レイの体温、息遣い、舌の動き――その全てが、何か別の感情を訴えかけている。
(……やめろ。俺を、そんな目で見るな)
ケイの心臓が、任務とは別の理由で高鳴る。それは恐怖ではなく、もっと別の――認めたくない感情だった。
唇が離れると、レイは愉悦に歪んだ笑みで囁いた。その声は、周囲には聞こえないほど低く、だがケイの鼓膜には鮮明に届いた。
「俺を裏切るなよ、ケイ。……もし裏切ったら、この手で心臓を抉り出してやる」
それは愛の告白とも、死の宣告とも取れる言葉だった。
ケイは、背筋を冷たい汗が伝うのを感じながら、無言で頷くことしかできなかった。レイの瞳の奥に、何か狂気じみたものを見た気がした。
運命の夜は、唐突に訪れた。
三日後。午前二時十五分。九龍埠頭の倉庫街。
海からの湿った風が、錆びついた倉庫のトタン屋根を軋ませている。月は雲に隠れ、街灯もまばらなこの一帯は、まるで世界から切り離されたような暗闇に包まれていた。
紅竜会による大規模な薬物取引――純度九十八パーセントのヘロイン、総量五百キロ――が行われるという情報を、ケイは三日前、暗号化されたメールで警察へ流していた。
これが決まれば、レイを含めた幹部を一網打尽にできる。組織は壊滅し、長年続いた麻薬ルートが遮断される。何百人、何千人という若者たちが、薬物中毒の地獄から救われる。
長かった潜入捜査の終わり。
本来なら安堵すべき瞬間だった。任務完了。表彰され、昇進し、まともな人生に戻れるはずだった。
だが、ケイの胸には鉛のような重苦しさがあった。
倉庫の二階、監視ポイントに立ちながら、ケイは下で取引の準備をするレイの姿を見下ろしていた。レイは部下に指示を出し、ブツの確認をし、相手組織――コロンビアの麻薬カルテルの使者たち――と交渉している。
その姿は、いつもと変わらない。冷静で、計算高く、そして圧倒的な存在感を放っている。
(今夜で終わりだ。あと一時間もすれば、お前は手錠をかけられる)
ケイは、胸ポケットに忍ばせた警察バッジに手を当てた。金属の冷たさが、掌に伝わる。
これが俺の誇りだ。正義の証だ。
なのに、なぜこんなにも――
「ケイ」
無線機から、レイの声が響いた。
「はい」
「周囲の警戒、問題ないな?」
「問題ありません。東西南北、全て監視済みです」
嘘だった。東側の道路には、既に機動隊の装甲車が五台、エンジンを切って待機している。南側の海上には、海上保安庁の警備艇が二隻。北側には、狙撃手を配置した特殊部隊。
完璧な包囲網。
蜘蛛の巣にかかった蝶のように、レイは逃げ場を失っている。
(すまない、レイ)
ケイは、そう心の中で呟いた。だが、それは任務への謝罪ではなかった。もっと個人的な、もっと――
深夜二時三十分。
取引が成立した。紅竜会のメンバーが、コロンビア・カルテルの使者にトランクケースを渡す。中には、二億円分の現金。相手側は、ヘロインの入ったコンテナの鍵を渡す。
レイが、満足そうに頷いた瞬間――
サイレンが鳴り響いた。
『警察だ! 動くな! 武器を捨てて、両手を上げろ!』
拡声器から、警告が響き渡る。無数のパトライトが闇を切り裂き、武装した警官隊が四方から雪崩れ込んでくる。ヘリコプターのサーチライトが、倉庫街全体を昼間のように照らし出した。
怒号。銃声。悲鳴。
現場は一瞬で戦場と化した。コロンビア・カルテルの連中が、マシンガンで応戦する。紅竜会のメンバーも、次々と拳銃を抜いた。
「チッ、ハメられたか! 犬がいやがったな!」
レイが舌打ちをし、即座に愛用の拳銃――カスタムメイドのデザートイーグル――を抜いて応戦する。
その迷いのない動き。レイの銃弾は、正確に警官の防弾ベストの隙間を狙った。数人の警官が、その凶弾に倒れる。
ケイは物陰に身を隠し、ホルスターに手を伸ばした。グロック19の冷たい感触が、掌に伝わる。
今だ。今ここで、俺がレイに銃を向け、身分を明かせば、全てが終わる。混乱に紛れて、レイを無力化できる。
だが――
指が、動かない。
レイの背中が、スローモーションのように見える。硝煙の中、敵を次々と倒していくその姿は、まるで戦場の修羅のようだった。
美しい、とケイは思ってしまった。
狂っている。俺は何を考えている。あれは犯罪者だ。何人もの命を奪ってきた殺人者だ。
なのに――
「ケイ! こっちだ、裏にボートがある!」
レイが叫んだ。
彼は自分だけ逃げることもできたはずだ。迷路のような倉庫街を知り尽くしている彼なら、容易に包囲網を突破できる。実際、他の幹部たちは既に逃走を始めていた。
なのに、レイは立ち止まり、出遅れたケイに向かって手を伸ばしていた。
「……レイ、さん……」
なぜだ。
お前を売ったのは俺だぞ。お前の敵は、俺なんだぞ。
その時、倉庫の二階通路に潜んでいた機動隊のスナイパーが、レイに照準を合わせているのが見えた。赤いレーザーサイトの点が、レイの背中に――心臓の位置に――固定されている。
ケイの思考が、停止した。
次の瞬間、ケイの身体は本能で動いていた。
「――危ないッ!」
ケイが叫ぶのと、銃声が響くのは同時だった。
しかし、倒れたのはレイではなかった。
レイが咄嗟に身を翻し、ケイを庇うように覆いかぶさったのだ。
ドスッ、という鈍い音。肉を貫く、生々しい音。
レイの左肩から、鮮血が噴き出した。
「ぐ、ぁ……ッ!」
「レイ!? 馬鹿か、なんで俺なんかを……!」
ケイが駆け寄ると、レイは苦痛に顔を歪めながらも、血の気が失せた唇でニヤリと笑った。
「……右腕を置いていく馬鹿が、どこにいる」
その言葉が、ケイの
彼は犯罪者だ。冷酷な人殺しだ。麻薬を売り、人を殺し、この街を恐怖で支配してきた男だ。
なのに、なぜこんなにも、俺の心を揺さぶるのか。
なぜ、俺を庇った。なぜ、自分が撃たれた。
「走れ、ケイ! 捕まりたくなきゃ、俺を担げ!」
レイの命令が、ケイの迷いを吹き飛ばした。
ケイは警察バッジの入ったポケットを強く握りしめた。その金属の冷たさが、掌に食い込む。
そして――
ケイは、バッジを引きちぎるように無視し、レイの身体を支えて走り出した。
背後から、上司の声が聞こえた気がした。「相沢! 何をしている! 任務を遂行しろ!」
だが、ケイは振り返らなかった。
正義よりも、法よりも、任務よりも――
この男の命を選んでしまった瞬間だった。
雨音が全てをかき消す路地裏。
廃墟となった雑居ビルの三階、かつてオフィスだった場所に、二人は逃げ込んでいた。
埃とカビの匂い。割れた窓から差し込むネオンの光が、血まみれの二人を青白く照らし出している。遠くでサイレンが鳴り響き、ヘリコプターのローター音が近づいては遠ざかる。
「……弾は貫通してる。骨まではいってないが、出血がひどい」
ケイは手際よくレイのジャケットとシャツを切り裂き、止血処置を施していた。銃創を確認し、傷口を消毒し、圧迫止血する。
マトリとしての訓練で習得した応急処置。その動きには、一切の迷いがない。
レイは荒い息を吐きながら、壁にもたれてその様子を見つめている。顔色は悪く、唇は血の気を失っているが、その瞳は驚くほど鋭い。
「……手際がいいな。まるで、プロだ」
その言葉に、ケイの手が止まる。
沈黙が落ちた。
雨音だけが、やけに大きく聞こえる。ザアァァ、と途切れることなく降り続ける雨が、割れた窓を叩いている。
ケイは覚悟を決めた。もう、嘘はつけない。これ以上、この男に嘘をつき続けることはできない。
「……レイ。俺を置いて行け」
ケイは、震える声で告げた。
「これ以上出血したら、ショック死するぞ。俺が囮になって警察を引き付ける。あんたは――」
「なぜだ?」
レイが遮った。その声には、既に答えを知っているような響きがあった。
「俺は……」
ケイは目を閉じた。そして、二年間守り続けてきた最大の秘密を、解放した。
「俺は、お前をハメた張本人だからだ。……今夜の取引の情報を警察に流したのは、俺だ。俺は、麻薬取締官の相沢慧だ」
言ってしまった。
殺される。
レイは裏切り者を絶対に許さない。組織内で密告者が見つかれば、拷問の末に処刑される。ケイは、その光景を何度も見てきた。指を一本ずつ切り落とされ、最後に生きたまま海に沈められた男。薬物を過剰投与され、発狂した末に自ら命を絶った男。
ケイは目を閉じ、処断を待った。銃声が響くのを。ナイフが首筋を切り裂くのを。
だが、聞こえてきたのは――
乾いた笑い声だった。
「……ハハ、ハハハハッ! やっと言ったか」
「え……?」
ケイが目を開けると、レイは痛む傷口を押さえながら、どこか晴れやかな顔で笑っていた。血を流し、顔色は蒼白で、今にも倒れそうなのに――その表情は、まるで重荷を下ろしたかのように軽やかだった。
「知っていたさ。二年前、お前が入ってきた時からな」
「なッ……!?」
ケイの思考が停止した。世界が、一瞬止まったような感覚。
知っていた? 最初から?
「馬鹿な。なら、なぜ俺を殺さなかった? なぜ側近にした? 今日の取引だって、俺を外せば……!」
「殺そうとは思ったさ。最初はな」
レイの手が伸び、ケイの頬についた血――レイ自身の血――を拭った。
その指先は、驚くほど優しい。まるで、壊れやすいものに触れるかのような慎重さがあった。
「だが、お前を見ていたら、面白くなった」
レイが続ける。
「任務と感情の板挟みになって、夜中に一人で吐いているお前が。俺の命令で人を撃った後、部屋で震えているお前が。……俺に惹かれているくせに、必死に殺意を向けてくるその目が」
ケイの呼吸が止まった。
全て、見られていた。
深夜、一人で警察に報告書を送った後、吐き気を堪えきれずトイレに駆け込んだこと。初めて組織の仕事で人を撃った夜、部屋で震えながら泣いたこと。レイの横顔を見つめながら、任務と矛盾する感情に苦しんだこと。
その全てを、レイは知っていた。
「……遊んで、いたのか」
ケイの声が、怒りに震えた。
「違う」
レイの瞳から笑いが消え、昏い熱が宿る。その視線は、ケイの魂を貫くように真っ直ぐだった。
「欲しくなったんだ。正義ヅラしたお前の全てを、俺の色に染め上げて堕としてやりたいと……どうしようもなく思った」
レイがケイの顎を掴み、顔を上げさせる。
「お前が俺を見る目、気付いていたか? 憎悪と、それに反する何かが混ざった目だ。その矛盾が、俺をどうしようもなく興奮させた。そのためなら、組織の一つや二つ、くれてやってもいいとな」
狂っている。
組織のトップに立つ人間が、たった一人の潜入捜査官への執着のために、自らの帝国を崩壊させたというのか。
その圧倒的な矛盾と、底知れない愛の深さに、ケイの魂が震えた。
「お前はもう戻れない。
レイがケイの襟首を掴み、引き寄せた。二人の顔が、数センチの距離まで近づく。
「俺を捕まえるか、俺の共犯者になって地獄へ落ちるか。……選べ、ケイ」
選択の余地など、最初からなかったのかもしれない。
ケイはゆっくりと、懐から警察手帳を取り出した。黒い革張りの手帳。その中には、金属のバッジと、「麻薬取締官 相沢慧」という身分証明書が入っている。
金属のバッジが、微かな光を反射して輝く。それは、これまでケイを支えてきた誇りであり、同時に――彼を縛り続けてきた枷でもあった。
ケイはそれを見つめた。数秒間、じっと。
そして――
汚れた床に、放り投げた。
カラン、と乾いた音が、古い自分との決別を告げた。
バッジが床を転がり、埃の中に埋もれていく。
「……俺は、刑事じゃない」
ケイはレイを見据えた。
その瞳にもう迷いはない。あるのは、共犯者としての覚悟と、焦がれるような情熱だけだ。
「俺は、あんたの男だ。レイ」
レイが満足そうに口角を上げた。その笑みは、獲物を手に入れた獣のようでもあり、長年の願いが叶った子供のようでもあった。
次の瞬間、二人は貪るように唇を重ねた。
血の味。鉄の味。そして、絶望的なまでに甘い愛の味。
「……んっ、ぐ、ぅ……!」
傷の痛みなど忘れたかのように、レイはケイを床に押し倒した。埃っぽいコンクリートの上で、二つの身体が激しく絡み合う。
互いの服を引き裂き、肌を合わせる。レイの体温は高く、ケイの肌は冷たい。それが混ざり合い、境界線が溶けていく。
ケイは、レイの負傷した肩を避けるように、慎重に手を這わせた。だが、レイはそんな配慮を拒絶するかのように、ケイの身体を貪った。
「見ろ、ケイ。お前の中は、こんなに熱い」
レイの指が、ケイの最も敏感な場所を探り当てる。
「うる、さい……! もっと、深く……俺を壊してくれ……!」
ケイが懇願する。その声には、もはや刑事としての冷静さはない。ただの、一人の男の切望だけがあった。
明日には殺されるかもしれない。警察からも、組織の残党からも追われる身となった二人に、安息の地などどこにもない。
だからこそ、今この瞬間だけは、互いの存在を確かめ合わずにはいられなかった。
それはセックスという生易しい言葉では、到底形容できない行為だった。
魂と魂の衝突。 あるいは、互いの生命力を削り取り、相手の欠損した部分にねじ込むような、泥沼の補完作業だった。埃にまみれたコンクリートの床。
割れた窓から吹き込む雨風が、熱り立った二人の肌を冷やすが、結合部から生まれる摩擦熱がそれを瞬時に蒸発させていく。「ぁ、あっ、あぁッ……! レイ、深い、そこっ……!」
ケイの喉から、理性を溶かした甘い悲鳴が迸る。
レイの灼熱した(警察手帳は捨てた。俺はもう、正義の番人じゃない……)
ケイは霞む視界で、自分を犯す男を見上げた。
レイの左肩からは、新しい血が滲んでいる。自分を庇って撃たれた傷だ。 その鮮血の赤と、レイの瞳に宿る昏い情欲の色が、ケイの心臓を鷲掴みにする。 ――この男は、俺を知っていた。 裏切り者だと知りながら、殺さず、飼い慣らし、愛した。 その圧倒的な器の大きさと、狂気じみた執着に、ケイの魂は完全に屈服していた。(もう戻れない。戻りたくない。この熱だけが……この痛みだけが、今の俺の全てだ)
ケイの内壁が、歓喜するようにレイの男根を締め付ける。
与えられる快楽があまりに強烈で、ケイは自分の意思とは裏腹に、腰を揺らしてさらなる深淵を求めていた。「……ッ、いい顔だ。ケイ」
レイは歯を食いしばり、快楽と痛みの狭間で喘いだ。
撃たれた肩が焼けるように熱い。だが、その痛みが生きている実感となり、目の前の「元・潜入捜査官」を犯している征服感を煽り立てる。 レイは汗に濡れた前髪を掻き上げ、ケイの濡れた瞳を覗き込んだ。 そこにはもう、冷徹なマトリの面影はない。 ただの、雄に溺れ、愛を乞う一人の男の顔があるだけだ。「お前の中、熱いな……。まるで俺を全部飲み込もうとしているようだ」
「うるさい……っ、あんたが、俺を……壊すから……ッ!」「ああ、壊してやる。今までのお前を全部壊して、俺なしでは生きられないように作り替えてやる」レイの腰の動きが激しさを増す。
粘膜が擦れ合う水音が、廃ビルの虚空に卑猥に響き渡る。 ぐちゅ、ずぷ、という生々しい音が、雨音と混ざり合い、二人の鼓膜を支配する。レイは、ケイの手首を片手で制圧し、頭上へ押し付けた。
無防備に晒されたケイの喉仏に、レイが噛みつく。 獣のマーキング。 痛みと愛撫の境界線が溶け、ケイの全身が痙攣する。(殺されるかもしれない。明日には、俺たちは死体になって泥水に転がっているかもしれない)
その絶望的な未来予測さえも、今の二人には愛の燃料だった。
死が迫っているからこそ、今この瞬間の「生」を、互いの肉体に刻みつけずにはいられない。 血管を流れる血液の奔流、筋肉の収縮、吐き出される二酸化炭素の熱。 その全てを共有し、確かめ合う。「レイ……っ、俺を見て……! 俺を、感じて……ッ!」
ケイが懇願し、レイの背中に爪を立てる。
その痛みが、レイの「愛してるぞ、ケイ……ッ! お前は俺のものだ、死んでも渡さない!」
レイが最奥の
「あ、あぁぁぁあッ――!!」
ケイの口から、魂を削るような絶叫が上がった。
同時に、レイも低く唸り、ケイの胎内深くに熱い種を解き放つ。 ドクン、ドクンと脈打つレイの楔から、生命の奔流が注ぎ込まれる。 ケイはそれを、一滴も漏らすまいと内壁を収縮させ、震える身体で受け止めた。 汚れた廃墟の中心で、二人は互いを抱きしめ合い、果てた後も離れようとしなかった。静寂が戻ってくる。
聞こえるのは、二人の荒い呼吸音と、外の雨音だけ。 レイの腕の中に包まれながら、ケイは薄れゆく意識の中で思った。 世界が滅びようとも構わない。 この男の腕の中にある、血と硝煙と精液の匂いがするこの熱だけが――ケイにとっての、唯一無二の真実なのだと。「……愛してるぜ、共犯者さんよ」
レイが耳元で囁いた言葉に、ケイは涙を流しながら頷いた。
それは、裏切りの果てに手に入れた、唯一無二の愛の証だった。数時間後。
雨は上がり、東の空が白み始めていた。
廃ビルの裏口から、二つの影が出てくる。レイはケイに肩を貸されながらも、その足取りには力があった。応急処置が功を奏したのか、出血は止まっている。
ケイはもう振り返らなかった。床に転がる警察バッジは、埃にまみれて置き去りにされた。二年間の潜入捜査、築き上げてきたキャリア、正義への誓い――その全てを、あの部屋に置いてきた。
二人は雑踏の中へ、朝霧の向こうへと消えていく。
「どこへ行く?」ケイが訊いた。
「南だ。タイ、ベトナム、カンボジア……まだ、俺の顔を知らない場所はいくらでもある」
レイが答える。
「組織は?」
「崩壊するだろう。だが、構わない」
レイがケイを見た。その瞳には、後悔は微塵もなかった。
「お前一人のために帝国を捨てる。それが、俺の選択だ」
ケイは何も言わず、ただレイの身体を支えて歩き続けた。
銃弾とネオンの雨が降り注ぐこの街で、彼らの逃避行はまだ始まったばかりだ。
地獄の底まで続く旅路が、彼らにとってのハッピーエンドなのだから。
二人の影は、朝日に溶けるように消えていった。
そして、九龍の街は、何事もなかったかのように目を覚ます。
新しい一日が始まる。
だが、レイとケイにとって、それは過去との完全な決別――そして、新しい人生の始まりだった。
(了)
第一章 新入りへの洗礼 絶海の孤島にそびえ立つ、第九重犯罪者収容所「タルタロス」。 灰色の空と、荒れ狂う波に閉ざされたこの要塞は、生きて出ることは不可能と言われる地獄の釜の底だ。 重厚な鉄扉が開き、一人の男が看守たちに引きずられてきた。 イグニール。かつて国家転覆を企てた革命軍のリーダーであり、「紅蓮の獅子」と恐れられた男だ。 手足には重い鎖、首には爆破機能付きの黒い首輪(チョーカー)。鍛え抜かれた肉体は傷だらけだが、その瞳だけは決して消えない炎のように燃えている。「……ここが、俺の墓場か」 イグニールが独りごちると、コツ、コツ、と硬質な靴音が響いた。 コンクリートの冷気の中、一人の男が現れる。 軍服を思わせる黒い制服に、革のロングブーツ。腰には警棒と拳銃。そして片目には銀縁のモノクル(片眼鏡)をかけた、氷のように美しい男。 この監獄の絶対支配者、典獄クラウスだ。「ようこそ、タルタロスへ。……随分と威勢の良い目だ、305番」 クラウスは番号で呼び、イグニールの前に立った。 身長はイグニールの方が高いが、クラウスが放つ圧倒的な威圧感(オーラ)は、巨人のそれをも凌駕していた。「俺の名はイグニールだ。番号で呼ぶな」「ここでは名前など無意味だ。お前はただの家畜、管理されるだけの肉塊に過ぎない」 クラウスは冷たく言い放つと、看守たちに顎で指示した。 イグニールは台の上に押し付けられ、囚人服を無理やり剥ぎ取られた。 全裸にされ、屈辱的な姿勢で拘束される。「入所手続きだ。……身体検査を行う」 クラウスが黒い革手袋の上から、さらに医療用のゴム手袋を装着する。 パチン、とゴムが弾ける音が、広く無機質な部屋に反響した。「革命軍のリーダーともあろう者が、体内に危険物を隠し持っている可能性は否定できんからな」「ッ……ふざけるな、俺は何も……!」 イグニールの抗議は、クラウスの指によって遮られた。 無造作に口腔内へ指がねじ込まれる。歯茎、舌の裏、喉の奥まで、執拗に探られる。 ゴムの無機質な味と、クラウスの冷たい体温。 イグニールが睨みつけると、クラウスは薄く笑った。「いい表情だ。……だが、検査は上だけではないぞ」 クラウスの手が下へと滑る。 鍛え上げられた腹筋、古傷の走る太腿を愛撫するように撫で、そして最も無防備な場所へ。 医療
第一章 鬼哭の生贄 平安の都から遠く離れた、丹波国・大江山。 鬼が住まうとされるその魔の山へ、霧深い夜、一人の男が登っていた。 男の名は十蔵(じゅうぞう)。山寺の僧兵であるが、その風体は僧侶というよりは岩の巨木であった。 身長は六尺三寸(約一九〇センチ)を超え、僧衣の上からでも分かる丸太のような腕と、樽のような胸板。生まれつき常人離れした巨体と怪力を持つ彼は、幼い頃から「鬼子」と恐れられ、寺でも持て余される厄介者だった。(……これでいい。俺のような化け物は、鬼の腹に収まるのがお似合いだ) 十蔵は自嘲気味に笑った。 最近、里で鬼の被害が相次ぎ、その怒りを鎮めるための「生贄」として、彼が選ばれたのだ。 誰もが彼を恐れ、厄介払いしたがっていた。十蔵自身も、自分の巨体を持て余す孤独な人生に疲れていた。 山頂付近。巨大な岩屋の奥に、朱塗りの御殿がそびえていた。 十蔵が足を踏み入れると、地響きのような声が轟いた。「ほう。今宵の膳は、随分と骨太な獲物が来たな」 御簾(みす)が上がり、現れたのは、十蔵さえも見上げるほどの巨躯を持つ「鬼」だった。 大江山の王、酒天(しゅてん)。 身長は七尺(約二メートル十センチ)あろうか。燃えるような赤銅色の肌、額から生えた二本の鋭い角。はだけた着物から覗く筋肉は、鋼鉄を練り上げたように隆起している。 酒天は玉座から立ち上がり、十蔵の周りをゆっくりと回った。 その金色の瞳が、十蔵の分厚い胸板や、太い太腿をねっとりと値踏みする。「食うには筋が多すぎる。だが……」 酒天の大きな手が、十蔵の尻を鷲掴みにした。 万力のような力。十蔵は反射的に身構えたが、動けなかった。「悪くない。……これほど頑丈な器(からだ)なら、あるいは壊れずに耐えられるかもしれん」「……何の話だ。食うならひと思いに食らえ」「食らうさ。だが、口で食うとは言っていない」 酒天は獰猛に笑い、十蔵の帯を一息に引きちぎった。第二章 規格外の求愛 十蔵は抵抗する気力を失い、されるがままに奥座敷へと連れ込まれた。 しかし、すぐに殺されるわけではなかった。 酒天は大きな盃に酒を並々と注ぎ、十蔵に勧めてきたのだ。「飲め。……死ぬ前に、俺の愚痴を聞け」 酒天は自らも酒をあおり、忌々しそうに股間を叩いた。「俺は、強すぎた。力も、魔力も、そして……こ
第一章 予選の衝突(Red Zone) モナコ、モンテカルロ市街地コース。 地中海の青い海と豪華なカジノを背景に、世界最高峰のモータースポーツ、F1グランプリの予選が行われていた。 ガードレールに反響するV6ハイブリッドターボの咆哮が、街全体を震わせている。 ピットレーンのガレージ奥、無数のモニターに囲まれた場所で、チーフエンジニアの高城慧(たかしろけい)は、凍り付いたような表情でデータを凝視していた。 黒髪に銀縁の眼鏡。その瞳には、秒単位で変化するテレメトリーデータが滝のように流れている。『レオ、タイヤの温度が限界だ。このラップは捨てろ。ピットインしろ』 慧は無線(ラジオ)のスイッチを押し、冷静に指示を飛ばした。 だが、ノイズ混じりの返答は、彼の論理を嘲笑うものだった。『断る! 今の俺は誰よりも速い! このままポールを獲る!』 モニターの中、深紅のマシンが加速する。 ドライバーは、レオ・バスケス。二十三歳。「サーキットの野獣」と呼ばれる天才だ。 彼は慧の指示を無視し、最終コーナーへ突っ込んだ。壁まで数ミリのギリギリのライン取り。タイヤが悲鳴を上げ、白煙を上げる。 コンマ〇〇一秒の短縮。 トップタイム更新。ポールポジション獲得。 ガレージが歓声に包まれる中、慧だけがヘッドセットを乱暴に叩きつけた。 予選終了後のモーターホーム(控え室)。 扉が開いた瞬間、慧は入ってきたレオの胸倉を掴み、ロッカーに叩きつけた。 ガンッ! と金属音が響く。「……死にたいなら一人で死ね、レオ!」 普段は冷静な慧の、激情の露呈。 レオは驚いたように目を丸くしたが、すぐに不敵な笑みを浮かべた。汗とアドレナリンの匂いが、慧の鼻腔を刺激する。「怒るなよ、ケイ。ポールを獲ったんだぜ? 結果オーライだろ」「結果論だ! あのタイヤであの突っ込み方をすれば、サスペンションが砕けて死んでいた可能性が四十パーセントもあった! 私の計算した最高傑作(マシン)を、君の賭けの道具にするな!」 慧の瞳の奥にあるのは、怒りだけではない。喪失への恐怖だ。 レオはそれに気づき、慧の手首を掴んで引き寄せた。「……心配してくれたのか? 愛されてるなぁ、俺は」「ふざけるな」「あんたの計算は完璧だ。だが、最後にハンドルを握るのは俺だ。……俺の感覚(センス)を信じろよ」 レ
第一章 緑の檻(Green Cage) 都市の喧騒から遠く離れた、深い森の奥。 そこに、巨大なガラスのドームが鎮座していた。 葛城植物学研究所。 外は冷たい秋雨が降っているが、厚いガラスに隔てられた内部は、むせ返るような亜熱帯の湿気に満ちている。 シダ植物が巨大な葉を広げ、天井からは気根がカーテンのように垂れ下がっている。空気そのものが緑色に染まっているかのような、濃密な生命の気配。「……颯太君。その鉢の湿度はどうだ?」 静かな声が、葉擦れの音に混じって響いた。 白衣を纏い、銀縁の眼鏡をかけた男、葛城翠(みどり)だ。 若くして数々の新種を発見した天才植物学者だが、極度の人間嫌いとして知られ、この温室に籠りきりの生活を送っている。「あ、はい! えっと、土はまだ湿っています。水やりは控えめにした方がいいかと……」 ホースを手に答えたのは、日下颯太(そうた)だ。二十二歳の大学生。 休学中の高額バイトにつられてやってきた彼は、ここに来て一ヶ月、住み込みで働いている。 温室の湿度は常に八十パーセントを超えている。颯太の額には大粒の汗が浮かび、Tシャツが背中に張り付いていた。「……そうか。良い判断だ」 翠が近づいてくる。 彼は革の手袋をした指先で、颯太の汗ばんだ首筋を不意に拭った。「ひゃっ! か、葛城さん?」「……ふむ。君はよく汗をかくな。新陳代謝が活発だ。……実に水はけが良い」 翠の眼鏡の奥の瞳が、爬虫類のように細められる。 それは人間を見る目ではない。希少な植物の生育具合を観察するような、無機質で、それでいて粘着質な視線だった。「君からは、若い樹木のような匂いがする。……ここにいる植物たちも、君の養分(フェロモン)を気に入っているようだ」「は、はあ……。ありがとうございます……?」 褒められているのかどうかも分からない。 颯太はこの雇い主に、本能的な違和感を抱いていた。彼は植物には愛おしげに話しかけるが、人間である颯太には、まるで「道具」や「肥料」を見るような目しか向けないのだ。「今日はもう上がりたまえ。……ただし、東のエリアには絶対に入るなよ。あそこは今、デリケートな時期だからな」 翠はそう言い残し、研究室へと戻っていった。 残された颯太は、首筋に残る革手袋の冷たい感触に、身震いした。 禁止されると気になってしまう
第一章 敗北の海戦(Defeat at Sea) 「七つの海」と呼ばれる広大な海域。その西端に位置する珊瑚の海で、今まさに歴史的な激戦が繰り広げられていた。 轟音と黒煙が、紺碧の空を汚している。 帝国海軍の誇る無敵艦隊の旗艦『ソブリン号』が、片舷を大きく傾け、悲鳴のような音を立てていた。「提督! 第三マストが折れました! これ以上は持ちません!」「……狼狽えるな。舵を切れ、風上に立て直す!」 指揮官であるエリアス・フォン・ベルク提督は、硝煙の舞う甲板で叫んだ。 二十五歳という若さで提督の地位に上り詰めた、「氷の提督」。銀髪をきっちりと結い上げ、純白の軍服には塵一つついていない。その青白い美貌は、戦場にあって異質なほどの冷徹さを保っていた。 だが、その冷静な瞳も、今は焦燥に揺らいでいる。 敵は、ただ一隻の海賊船だった。 深紅の帆を張った高速フリゲート艦『レッド・オルカ号』。 帝国の包囲網を嘲笑うかのような操舵技術で懐に潜り込み、至近距離からの砲撃で、巨象のような戦列艦の足を止めたのだ。「野郎ども、乗り込めェ! 帝国の坊ちゃんたちに、海の厳しさを教えてやれ!」 野獣のような咆哮と共に、鉤縄(かぎなわ)が投げ込まれる。 乗り込んできたのは、潮と血の匂いを纏った海賊たちだ。その先頭に立つ男を見て、エリアスは息を呑んだ。 燃えるような赤髪。潮風に晒された褐色の肌。シャツのボタンを弾け飛ばすほど鍛え上げられた胸板。 バルバロス。「海魔」と恐れられる伝説の海賊船長だ。「貴様……ッ!」 エリアスはサーベルを抜き、自ら前線へ躍り出た。 バルバロスがニヤリと笑い、巨大なカトラス(曲刀)を一閃させる。 ガキンッ! 火花が散り、強烈な衝撃がエリアスの腕を痺れさせる。「へぇ、綺麗な顔して、いい剣筋だ。……だが、海はお前の遊び場じゃねえぞ、提督!」「黙れ、無法者!」 剣戟が交錯する。技量はエリアスが上だが、バルバロスには圧倒的な腕力と、波の揺れを味方につける野性的な勘があった。 不意に船が大きく揺れた瞬間、エリアスの体勢が崩れた。 その隙をバルバロスは見逃さなかった。 強烈な蹴りがエリアスの腹部に叩き込まれ、彼は甲板に吹き飛ばされた。「ぐ、ぅ……ッ!」 起き上がろうとしたエリアスの喉元に、冷たい刃が突きつけられる。 見上げれば、バル
第一章 共鳴する魂 王立魔導研究所の第十三研究室。 深夜二時を回っても、そこには怒号と魔力の火花が散っていた。「だから! 君の計算式は美しくないと言っているんだ、ノア!」 冷徹な声が響く。声の主は、ルシウス・ヴァン・アスター。名門貴族出身のエリートα(アルファ)であり、若くして魔導工学の権威となった天才だ。 銀色の長髪に、氷のように冷たい灰色の瞳。その全身からは、「ビターチョコレートと冷たい雪」を混ぜたような、理知的で威圧的なフェロモンが漂っている。 対するノアは、白衣の裾を握りしめ、食い下がった。「美しさなんて関係ありません! この術式なら、Ω(オメガ)の魔力供給量でも安定します。ルシウス室長は、αのスペックを基準にしすぎです!」 ノアは平民出身の劣性Ω。蜂蜜色の髪と榛(はしばみ)色の瞳を持つ、どこにでもいる平凡な研究員だ。 だが、その優秀さと頑固さだけは、ルシウスが唯一認める点でもあった。「Ωの基準になど合わせる必要はない。……そもそも、君たちがすぐに体調を崩し、発情期(ヒート)などという非効率な生理現象に振り回されるのが悪い」「っ……! それは、どうしようもない体質です! あなたがたαには、一生分からないでしょうけど!」 ノアが叫ぶと、ルシウスは鼻で笑った。「分かる必要もない。精神力が足りないから、本能ごときに支配されるんだ。……いいから、その『共鳴石』を貸せ。私が調整する」 ルシウスが強引に、実験台の上にあった巨大な魔石に手を伸ばした。 ノアも負けじと石を掴む。「待ってください! 今触れると、魔力波形が……!」「離せ!」 二人の魔力が同時に石へと流れ込んだ。 αの強大な覇気と、Ωの繊細な魔力。 相反する二つの波長が、共鳴石の中で予期せぬ化学反応(バグ)を引き起こした。 カッ――!! 視界が真っ白に染まるほどの閃光。 鼓膜を破るような轟音と共に、二人の意識は吹き飛ばされた。 ***「……う、ぐ……」 どれくらいの時間が経ったのか。 ノアは、ひどい頭痛と共に目を覚ました。 視界が高い。 いつも見上げている実験棚の上が見える。それに、身体が鉛のように重く、そして妙に熱い力が漲っている。 ノアはふらりと立ち上がった。手を見ると、そこには自分のものではない、大きく骨ばった手があった。「え……?」 ノアが