بيت / BL / BL短編集◆愛しいきみの腕の中で / 006:裏切りの銃弾とネオンの雨

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006:裏切りの銃弾とネオンの雨

مؤلف: 佐薙真琴
last update تاريخ النشر: 2025-12-14 05:30:18

第一章 蜜と毒(Honey and Poison)

 アジア最大級の歓楽街、九龍クーロンエリア。

 極彩色のネオンサインが、途切れることなく降りしきる雨に滲み、濡れたアスファルトを毒々しく染めている。ピンク、グリーン、ブルー、レッド――無数の光が乱反射し、この街全体を巨大な万華鏡の中に閉じ込めているかのようだ。

 路地裏から立ち昇る中華料理の油の匂いと、ドブ川の腐敗臭、そして安っぽい香水の匂いが混ざり合う。売春宿から漏れる下品な笑い声、マージャン牌の音、遠くで鳴り響くサイレン――欲望と犯罪の掃き溜めのような街。

 だが、この汚濁にまみれた街こそが、ケイにとって過去二年間の戦場だった。

 その一角にある会員制クラブ「ヴェルベット」。地上三階、地下一階の瀟洒な建物は、周囲の安酒場や麻雀店とは明らかに一線を画していた。入口には屈強なボディガードが二人、黒いスーツに身を包み、値踏みするような目で通行人を睨んでいる。

 この店のVIPルームは、紅竜会の幹部たちだけが使える聖域だった。

 重低音のビートが床を震わせ、壁の防音材を通してなお、下階のフロアから歓声が漏れ聞こえてくる。革張りのソファに深く沈み込んでいる男がいた。

 レイ。

 この街を牛耳る巨大犯罪組織「紅竜会ホンロンフェイ」の若き幹部にして、裏社会で最も恐れられる男の一人。齢はまだ二十九歳というが、組織内での地位は頭目に次ぐ序列三位。麻薬、武器、人身売買――あらゆる闇ビジネスを手がけ、その冷酷さと頭脳で組織を支配している。

 気怠げに紫煙をくゆらすその横顔は、映画スターのように端正だ。彫りの深い顔立ち、真っ直ぐな鼻筋、薄く引き結ばれた唇。だが、その美貌の奥に潜む瞳には、決して飼い慣らせない獣が棲んでいる。

「……で? 西地区のシマを寄越せだと?」

 レイが低い声で呟く。その声には、侮蔑と苛立ちが滲んでいた。

 対面に座る男――敵対組織「青蛇幇チンシャーパン」の幹部・チョウが、脂汗を拭いながら愛想笑いを浮かべた。彼の額には大粒の汗が浮かび、高級スーツの襟元が湿っている。

「いや、レイさん、寄越せとは言っておりません。ただ、共同管理という形で……」

「共同管理?」レイが鼻で笑った。「つまり、お前らが何もせずに利益の半分を持っていくということか」

 一触即発の空気が、部屋を支配した。

 レイの背後に控えていたケイは、スーツの内ポケットに隠した拳銃のグリップに、そっと指をかけた。グロック19。十五発装填。安全装置は既に外してある。

 ケイ。

 組織に入って二年。その冷静な判断力と、ナイフのように鋭利な美貌、そして正確無比な射撃の腕を買われ、レイの「右腕」として側近を務めている。二十七歳。身長は百七十八センチ。黒いスーツに黒いシャツ、黒いネクタイ――まるで葬儀に向かうかのような装いが、彼の冷徹な雰囲気をさらに際立たせていた。

 だが、彼の正体は、麻薬取締官マトリの潜入捜査官、相沢慧あいざわけいだ。

 警察庁麻薬取締部、特別捜査班所属。二年前、身分を偽り、下っ端の構成員として紅竜会に潜り込んだ。任務は、組織の実態を内部から解明し、幹部を一網打尽にすること。そして、その最大の標的が、目の前にいるレイだった。

「おい、ケイ」

 不意に名を呼ばれ、ケイの指が止まった。心臓が一拍、大きく跳ねる。

「はっ。何でしょう、レイさん」

 ケイは表情を一切崩さず、恭しく答えた。この二年間で身につけた仮面。完璧な忠誠心を演じる技術。

「酒が空だ。注げ」

 レイがグラスを突き出す。琥珀色のブランデー――レミーマルタンXO――が、ボトルに残り少なくなっている。

 ケイは表情を崩さずにボトルを取り、静かにグラスへ液体を注いだ。その動作には一切の無駄がない。

 その瞬間、レイの手が電光石火のように伸び、ケイの手首を強く掴んだ。

 グラスから酒が溢れ、テーブルのガラス面を汚す。琥珀色の液体が、こぼれてネオンの光を反射した。

「……手が震えているぞ。何を怯えている?」

 レイが試すような視線を投げてくる。その瞳は、まるで獲物を値踏みする猛禽類のようだった。

 心臓が早鐘を打つ。バレたのか? いや、ただの戯れか。警察との連絡用に使っている暗号化された携帯電話は、念入りに隠してある。昨夜送った報告書の内容が漏れたとは考えにくい。

 だが、この男の勘は異常なまでに鋭い。二年かけて信用を築いてきたが、常に薄氷の上を歩くような日々だった。一度でも演技が破綻すれば、即座に殺される。それがこの世界のルールだ。

 ケイは、レイの目をまっすぐ見据えた。怯えを見せてはいけない。ここで目を逸らせば、疑念は確信に変わる。

「……武者震いです。この豚野郎の首を、いつ掻っ切ってやろうかと」

 ケイが冷ややかに答え、チョウを一瞥した。その視線には、本物の殺意が込められていた。

 レイは一瞬、目を見開き――そして、喉を鳴らして笑った。

「ハハハッ! いい答えだ。お前のそういう冷たい目が好きだ」

 レイの笑い声に、チョウが明らかに怯えた表情を浮かべる。

「あの、レイさん、今日のところはこれで……」

「まだ話は終わっていない」レイが冷たく遮った。「座れ」

 その瞬間、レイは敵対組織の幹部の前で、あろうことかケイのネクタイを引き寄せ、強引に唇を奪った。

 驚愕するチョウ。部屋にいた他の構成員たちも、一瞬、息を呑んだ。

 ケイは抵抗することもできず、レイの荒々しい舌を受け入れる。ブランデーとタバコの苦い味が、口腔に広がる。レイの舌は容赦なく侵入し、ケイの口内を蹂躙した。

 これは見せつけだ。「俺の所有物に手を出すな」という威嚇。組織の世界では、力の誇示は日常茶飯事だった。

 だが、その乱暴な口づけの中に、奇妙なほどの熱と執着が含まれていることに、ケイは気付いていた。これは演技ではない。レイの体温、息遣い、舌の動き――その全てが、何か別の感情を訴えかけている。

(……やめろ。俺を、そんな目で見るな)

 ケイの心臓が、任務とは別の理由で高鳴る。それは恐怖ではなく、もっと別の――認めたくない感情だった。

 唇が離れると、レイは愉悦に歪んだ笑みで囁いた。その声は、周囲には聞こえないほど低く、だがケイの鼓膜には鮮明に届いた。

「俺を裏切るなよ、ケイ。……もし裏切ったら、この手で心臓を抉り出してやる」

 それは愛の告白とも、死の宣告とも取れる言葉だった。

 ケイは、背筋を冷たい汗が伝うのを感じながら、無言で頷くことしかできなかった。レイの瞳の奥に、何か狂気じみたものを見た気がした。


第二章 断罪の夜(Judgment Night)

 運命の夜は、唐突に訪れた。

 三日後。午前二時十五分。九龍埠頭の倉庫街。

 海からの湿った風が、錆びついた倉庫のトタン屋根を軋ませている。月は雲に隠れ、街灯もまばらなこの一帯は、まるで世界から切り離されたような暗闇に包まれていた。

 紅竜会による大規模な薬物取引――純度九十八パーセントのヘロイン、総量五百キロ――が行われるという情報を、ケイは三日前、暗号化されたメールで警察へ流していた。

 これが決まれば、レイを含めた幹部を一網打尽にできる。組織は壊滅し、長年続いた麻薬ルートが遮断される。何百人、何千人という若者たちが、薬物中毒の地獄から救われる。

 長かった潜入捜査の終わり。

 本来なら安堵すべき瞬間だった。任務完了。表彰され、昇進し、まともな人生に戻れるはずだった。

 だが、ケイの胸には鉛のような重苦しさがあった。

 倉庫の二階、監視ポイントに立ちながら、ケイは下で取引の準備をするレイの姿を見下ろしていた。レイは部下に指示を出し、ブツの確認をし、相手組織――コロンビアの麻薬カルテルの使者たち――と交渉している。

 その姿は、いつもと変わらない。冷静で、計算高く、そして圧倒的な存在感を放っている。

(今夜で終わりだ。あと一時間もすれば、お前は手錠をかけられる)

 ケイは、胸ポケットに忍ばせた警察バッジに手を当てた。金属の冷たさが、掌に伝わる。

 これが俺の誇りだ。正義の証だ。

 なのに、なぜこんなにも――

「ケイ」

 無線機から、レイの声が響いた。

「はい」

「周囲の警戒、問題ないな?」

「問題ありません。東西南北、全て監視済みです」

 嘘だった。東側の道路には、既に機動隊の装甲車が五台、エンジンを切って待機している。南側の海上には、海上保安庁の警備艇が二隻。北側には、狙撃手を配置した特殊部隊。

 完璧な包囲網。

 蜘蛛の巣にかかった蝶のように、レイは逃げ場を失っている。

(すまない、レイ)

 ケイは、そう心の中で呟いた。だが、それは任務への謝罪ではなかった。もっと個人的な、もっと――

 深夜二時三十分。

 取引が成立した。紅竜会のメンバーが、コロンビア・カルテルの使者にトランクケースを渡す。中には、二億円分の現金。相手側は、ヘロインの入ったコンテナの鍵を渡す。

 レイが、満足そうに頷いた瞬間――

 サイレンが鳴り響いた。

『警察だ! 動くな! 武器を捨てて、両手を上げろ!』

 拡声器から、警告が響き渡る。無数のパトライトが闇を切り裂き、武装した警官隊が四方から雪崩れ込んでくる。ヘリコプターのサーチライトが、倉庫街全体を昼間のように照らし出した。

 怒号。銃声。悲鳴。

 現場は一瞬で戦場と化した。コロンビア・カルテルの連中が、マシンガンで応戦する。紅竜会のメンバーも、次々と拳銃を抜いた。

「チッ、ハメられたか! 犬がいやがったな!」

 レイが舌打ちをし、即座に愛用の拳銃――カスタムメイドのデザートイーグル――を抜いて応戦する。

 その迷いのない動き。レイの銃弾は、正確に警官の防弾ベストの隙間を狙った。数人の警官が、その凶弾に倒れる。

 ケイは物陰に身を隠し、ホルスターに手を伸ばした。グロック19の冷たい感触が、掌に伝わる。

 今だ。今ここで、俺がレイに銃を向け、身分を明かせば、全てが終わる。混乱に紛れて、レイを無力化できる。

 だが――

 指が、動かない。

 レイの背中が、スローモーションのように見える。硝煙の中、敵を次々と倒していくその姿は、まるで戦場の修羅のようだった。

 美しい、とケイは思ってしまった。

 狂っている。俺は何を考えている。あれは犯罪者だ。何人もの命を奪ってきた殺人者だ。

 なのに――

「ケイ! こっちだ、裏にボートがある!」

 レイが叫んだ。

 彼は自分だけ逃げることもできたはずだ。迷路のような倉庫街を知り尽くしている彼なら、容易に包囲網を突破できる。実際、他の幹部たちは既に逃走を始めていた。

 なのに、レイは立ち止まり、出遅れたケイに向かって手を伸ばしていた。

「……レイ、さん……」

 なぜだ。

 お前を売ったのは俺だぞ。お前の敵は、俺なんだぞ。

 その時、倉庫の二階通路に潜んでいた機動隊のスナイパーが、レイに照準を合わせているのが見えた。赤いレーザーサイトの点が、レイの背中に――心臓の位置に――固定されている。

 ケイの思考が、停止した。

 次の瞬間、ケイの身体は本能で動いていた。

「――危ないッ!」

 ケイが叫ぶのと、銃声が響くのは同時だった。

 しかし、倒れたのはレイではなかった。

 レイが咄嗟に身を翻し、ケイを庇うように覆いかぶさったのだ。

 ドスッ、という鈍い音。肉を貫く、生々しい音。

 レイの左肩から、鮮血が噴き出した。

「ぐ、ぁ……ッ!」

「レイ!? 馬鹿か、なんで俺なんかを……!」

 ケイが駆け寄ると、レイは苦痛に顔を歪めながらも、血の気が失せた唇でニヤリと笑った。

「……右腕を置いていく馬鹿が、どこにいる」

 その言葉が、ケイの正義ロジックを粉々に砕いた。

 彼は犯罪者だ。冷酷な人殺しだ。麻薬を売り、人を殺し、この街を恐怖で支配してきた男だ。

 なのに、なぜこんなにも、俺の心を揺さぶるのか。

 なぜ、俺を庇った。なぜ、自分が撃たれた。

「走れ、ケイ! 捕まりたくなきゃ、俺を担げ!」

 レイの命令が、ケイの迷いを吹き飛ばした。

 ケイは警察バッジの入ったポケットを強く握りしめた。その金属の冷たさが、掌に食い込む。

 そして――

 ケイは、バッジを引きちぎるように無視し、レイの身体を支えて走り出した。

 背後から、上司の声が聞こえた気がした。「相沢! 何をしている! 任務を遂行しろ!」

 だが、ケイは振り返らなかった。

 正義よりも、法よりも、任務よりも――

 この男の命を選んでしまった瞬間だった。


第三章 共犯者(Accomplice)

 雨音が全てをかき消す路地裏。

 廃墟となった雑居ビルの三階、かつてオフィスだった場所に、二人は逃げ込んでいた。

 埃とカビの匂い。割れた窓から差し込むネオンの光が、血まみれの二人を青白く照らし出している。遠くでサイレンが鳴り響き、ヘリコプターのローター音が近づいては遠ざかる。

「……弾は貫通してる。骨まではいってないが、出血がひどい」

 ケイは手際よくレイのジャケットとシャツを切り裂き、止血処置を施していた。銃創を確認し、傷口を消毒し、圧迫止血する。

 マトリとしての訓練で習得した応急処置。その動きには、一切の迷いがない。

 レイは荒い息を吐きながら、壁にもたれてその様子を見つめている。顔色は悪く、唇は血の気を失っているが、その瞳は驚くほど鋭い。

「……手際がいいな。まるで、プロだ」

 その言葉に、ケイの手が止まる。

 沈黙が落ちた。

 雨音だけが、やけに大きく聞こえる。ザアァァ、と途切れることなく降り続ける雨が、割れた窓を叩いている。

 ケイは覚悟を決めた。もう、嘘はつけない。これ以上、この男に嘘をつき続けることはできない。

「……レイ。俺を置いて行け」

 ケイは、震える声で告げた。

「これ以上出血したら、ショック死するぞ。俺が囮になって警察を引き付ける。あんたは――」

「なぜだ?」

 レイが遮った。その声には、既に答えを知っているような響きがあった。

「俺は……」

 ケイは目を閉じた。そして、二年間守り続けてきた最大の秘密を、解放した。

「俺は、お前をハメた張本人だからだ。……今夜の取引の情報を警察に流したのは、俺だ。俺は、麻薬取締官の相沢慧だ」

 言ってしまった。

 殺される。

 レイは裏切り者を絶対に許さない。組織内で密告者が見つかれば、拷問の末に処刑される。ケイは、その光景を何度も見てきた。指を一本ずつ切り落とされ、最後に生きたまま海に沈められた男。薬物を過剰投与され、発狂した末に自ら命を絶った男。

 ケイは目を閉じ、処断を待った。銃声が響くのを。ナイフが首筋を切り裂くのを。

 だが、聞こえてきたのは――

 乾いた笑い声だった。

「……ハハ、ハハハハッ! やっと言ったか」

「え……?」

 ケイが目を開けると、レイは痛む傷口を押さえながら、どこか晴れやかな顔で笑っていた。血を流し、顔色は蒼白で、今にも倒れそうなのに――その表情は、まるで重荷を下ろしたかのように軽やかだった。

「知っていたさ。二年前、お前が入ってきた時からな」

「なッ……!?」

 ケイの思考が停止した。世界が、一瞬止まったような感覚。

 知っていた? 最初から?

「馬鹿な。なら、なぜ俺を殺さなかった? なぜ側近にした? 今日の取引だって、俺を外せば……!」

「殺そうとは思ったさ。最初はな」

 レイの手が伸び、ケイの頬についた血――レイ自身の血――を拭った。

 その指先は、驚くほど優しい。まるで、壊れやすいものに触れるかのような慎重さがあった。

「だが、お前を見ていたら、面白くなった」

 レイが続ける。

「任務と感情の板挟みになって、夜中に一人で吐いているお前が。俺の命令で人を撃った後、部屋で震えているお前が。……俺に惹かれているくせに、必死に殺意を向けてくるその目が」

 ケイの呼吸が止まった。

 全て、見られていた。

 深夜、一人で警察に報告書を送った後、吐き気を堪えきれずトイレに駆け込んだこと。初めて組織の仕事で人を撃った夜、部屋で震えながら泣いたこと。レイの横顔を見つめながら、任務と矛盾する感情に苦しんだこと。

 その全てを、レイは知っていた。

「……遊んで、いたのか」

 ケイの声が、怒りに震えた。

「違う」

 レイの瞳から笑いが消え、昏い熱が宿る。その視線は、ケイの魂を貫くように真っ直ぐだった。

「欲しくなったんだ。正義ヅラしたお前の全てを、俺の色に染め上げて堕としてやりたいと……どうしようもなく思った」

 レイがケイの顎を掴み、顔を上げさせる。

「お前が俺を見る目、気付いていたか? 憎悪と、それに反する何かが混ざった目だ。その矛盾が、俺をどうしようもなく興奮させた。そのためなら、組織の一つや二つ、くれてやってもいいとな」

 狂っている。

 組織のトップに立つ人間が、たった一人の潜入捜査官への執着のために、自らの帝国を崩壊させたというのか。

 その圧倒的な矛盾と、底知れない愛の深さに、ケイの魂が震えた。

「お前はもう戻れない。警察あっちには戻らせない」

 レイがケイの襟首を掴み、引き寄せた。二人の顔が、数センチの距離まで近づく。

「俺を捕まえるか、俺の共犯者になって地獄へ落ちるか。……選べ、ケイ」


第四章 逃避行(Runaway)

 選択の余地など、最初からなかったのかもしれない。

 ケイはゆっくりと、懐から警察手帳を取り出した。黒い革張りの手帳。その中には、金属のバッジと、「麻薬取締官 相沢慧」という身分証明書が入っている。

 金属のバッジが、微かな光を反射して輝く。それは、これまでケイを支えてきた誇りであり、同時に――彼を縛り続けてきた枷でもあった。

 ケイはそれを見つめた。数秒間、じっと。

 そして――

 汚れた床に、放り投げた。

 カラン、と乾いた音が、古い自分との決別を告げた。

 バッジが床を転がり、埃の中に埋もれていく。

「……俺は、刑事じゃない」

 ケイはレイを見据えた。

 その瞳にもう迷いはない。あるのは、共犯者としての覚悟と、焦がれるような情熱だけだ。

「俺は、あんたの男だ。レイ」

 レイが満足そうに口角を上げた。その笑みは、獲物を手に入れた獣のようでもあり、長年の願いが叶った子供のようでもあった。

 次の瞬間、二人は貪るように唇を重ねた。

 血の味。鉄の味。そして、絶望的なまでに甘い愛の味。

「……んっ、ぐ、ぅ……!」

 傷の痛みなど忘れたかのように、レイはケイを床に押し倒した。埃っぽいコンクリートの上で、二つの身体が激しく絡み合う。

 互いの服を引き裂き、肌を合わせる。レイの体温は高く、ケイの肌は冷たい。それが混ざり合い、境界線が溶けていく。

 ケイは、レイの負傷した肩を避けるように、慎重に手を這わせた。だが、レイはそんな配慮を拒絶するかのように、ケイの身体を貪った。

「見ろ、ケイ。お前の中は、こんなに熱い」

 レイの指が、ケイの最も敏感な場所を探り当てる。

「うる、さい……! もっと、深く……俺を壊してくれ……!」

 ケイが懇願する。その声には、もはや刑事としての冷静さはない。ただの、一人の男の切望だけがあった。

 明日には殺されるかもしれない。警察からも、組織の残党からも追われる身となった二人に、安息の地などどこにもない。

 だからこそ、今この瞬間だけは、互いの存在を確かめ合わずにはいられなかった。

 それはセックスという生易しい言葉では、到底形容できない行為だった。

 魂と魂の衝突。

 あるいは、互いの生命力を削り取り、相手の欠損した部分にねじ込むような、泥沼の補完作業だった。

 埃にまみれたコンクリートの床。

 割れた窓から吹き込む雨風が、熱り立った二人の肌を冷やすが、結合部から生まれる摩擦熱がそれを瞬時に蒸発させていく。

「ぁ、あっ、あぁッ……! レイ、深い、そこっ……!」

 ケイの喉から、理性を溶かした甘い悲鳴が迸る。

 レイの灼熱したくさびが、ケイの秘所の最奥を容赦なく穿っていた。

 突き上げられるたびに、ケイの視界が白く明滅する。

 かつて「麻薬取締官」として正義を誓った自分の身体が、今は犯罪者の男に組み敷かれ、快楽の坩堝に沈められている。

 だが、その背徳感が、脳髄を痺れさせるほどの極上のスパイスになっていた。

(警察手帳は捨てた。俺はもう、正義の番人じゃない……)

 ケイは霞む視界で、自分を犯す男を見上げた。

 レイの左肩からは、新しい血が滲んでいる。自分を庇って撃たれた傷だ。

 その鮮血の赤と、レイの瞳に宿る昏い情欲の色が、ケイの心臓を鷲掴みにする。

 ――この男は、俺を知っていた。

 裏切り者だと知りながら、殺さず、飼い慣らし、愛した。

 その圧倒的な器の大きさと、狂気じみた執着に、ケイの魂は完全に屈服していた。

(もう戻れない。戻りたくない。この熱だけが……この痛みだけが、今の俺の全てだ)

 ケイの内壁が、歓喜するようにレイの男根を締め付ける。

 与えられる快楽があまりに強烈で、ケイは自分の意思とは裏腹に、腰を揺らしてさらなる深淵を求めていた。

「……ッ、いい顔だ。ケイ」

 レイは歯を食いしばり、快楽と痛みの狭間で喘いだ。

 撃たれた肩が焼けるように熱い。だが、その痛みが生きている実感となり、目の前の「元・潜入捜査官」を犯している征服感を煽り立てる。

 レイは汗に濡れた前髪を掻き上げ、ケイの濡れた瞳を覗き込んだ。

 そこにはもう、冷徹なマトリの面影はない。

 ただの、雄に溺れ、愛を乞う一人の男の顔があるだけだ。

「お前の中、熱いな……。まるで俺を全部飲み込もうとしているようだ」

「うるさい……っ、あんたが、俺を……壊すから……ッ!」

「ああ、壊してやる。今までのお前を全部壊して、俺なしでは生きられないように作り替えてやる」

 レイの腰の動きが激しさを増す。

 粘膜が擦れ合う水音が、廃ビルの虚空に卑猥に響き渡る。

 ぐちゅ、ずぷ、という生々しい音が、雨音と混ざり合い、二人の鼓膜を支配する。

 レイは、ケイの手首を片手で制圧し、頭上へ押し付けた。

 無防備に晒されたケイの喉仏に、レイが噛みつく。

 獣のマーキング。

 痛みと愛撫の境界線が溶け、ケイの全身が痙攣する。

(殺されるかもしれない。明日には、俺たちは死体になって泥水に転がっているかもしれない)

 その絶望的な未来予測さえも、今の二人には愛の燃料だった。

 死が迫っているからこそ、今この瞬間の「生」を、互いの肉体に刻みつけずにはいられない。

 血管を流れる血液の奔流、筋肉の収縮、吐き出される二酸化炭素の熱。

 その全てを共有し、確かめ合う。

「レイ……っ、俺を見て……! 俺を、感じて……ッ!」

 ケイが懇願し、レイの背中に爪を立てる。

 その痛みが、レイの理性リミッターを完全に破壊した。

「愛してるぞ、ケイ……ッ! お前は俺のものだ、死んでも渡さない!」

 レイが最奥の一点スポットを、抉るように突き上げた。

 前立腺を強烈に擦り上げられ、ケイの目の前で火花が散る。

 世界が反転するような絶頂感。

 正義も悪も、警察もマフィアも、全ての属性が剥がれ落ち、ただの「レイ」と「ケイ」という二つの魂が、白濁した熱の中で一つに融合する。

「あ、あぁぁぁあッ――!!」

 ケイの口から、魂を削るような絶叫が上がった。

 同時に、レイも低く唸り、ケイの胎内深くに熱い種を解き放つ。

 ドクン、ドクンと脈打つレイの楔から、生命の奔流が注ぎ込まれる。

 ケイはそれを、一滴も漏らすまいと内壁を収縮させ、震える身体で受け止めた。

 汚れた廃墟の中心で、二人は互いを抱きしめ合い、果てた後も離れようとしなかった。

 静寂が戻ってくる。

 聞こえるのは、二人の荒い呼吸音と、外の雨音だけ。

 レイの腕の中に包まれながら、ケイは薄れゆく意識の中で思った。

 世界が滅びようとも構わない。

 この男の腕の中にある、血と硝煙と精液の匂いがするこの熱だけが――ケイにとっての、唯一無二の真実なのだと。

「……愛してるぜ、共犯者さんよ」

 レイが耳元で囁いた言葉に、ケイは涙を流しながら頷いた。

 それは、裏切りの果てに手に入れた、唯一無二の愛の証だった。


 数時間後。

 雨は上がり、東の空が白み始めていた。

 廃ビルの裏口から、二つの影が出てくる。レイはケイに肩を貸されながらも、その足取りには力があった。応急処置が功を奏したのか、出血は止まっている。

 ケイはもう振り返らなかった。床に転がる警察バッジは、埃にまみれて置き去りにされた。二年間の潜入捜査、築き上げてきたキャリア、正義への誓い――その全てを、あの部屋に置いてきた。

 二人は雑踏の中へ、朝霧の向こうへと消えていく。

「どこへ行く?」ケイが訊いた。

「南だ。タイ、ベトナム、カンボジア……まだ、俺の顔を知らない場所はいくらでもある」

 レイが答える。

「組織は?」

「崩壊するだろう。だが、構わない」

 レイがケイを見た。その瞳には、後悔は微塵もなかった。

「お前一人のために帝国を捨てる。それが、俺の選択だ」

 ケイは何も言わず、ただレイの身体を支えて歩き続けた。

 銃弾とネオンの雨が降り注ぐこの街で、彼らの逃避行はまだ始まったばかりだ。

 地獄の底まで続く旅路が、彼らにとってのハッピーエンドなのだから。

 二人の影は、朝日に溶けるように消えていった。

 そして、九龍の街は、何事もなかったかのように目を覚ます。

 新しい一日が始まる。

 だが、レイとケイにとって、それは過去との完全な決別――そして、新しい人生の始まりだった。

(了)

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    第一章 新入りへの洗礼 絶海の孤島にそびえ立つ、第九重犯罪者収容所「タルタロス」。 灰色の空と、荒れ狂う波に閉ざされたこの要塞は、生きて出ることは不可能と言われる地獄の釜の底だ。 重厚な鉄扉が開き、一人の男が看守たちに引きずられてきた。 イグニール。かつて国家転覆を企てた革命軍のリーダーであり、「紅蓮の獅子」と恐れられた男だ。 手足には重い鎖、首には爆破機能付きの黒い首輪(チョーカー)。鍛え抜かれた肉体は傷だらけだが、その瞳だけは決して消えない炎のように燃えている。「……ここが、俺の墓場か」 イグニールが独りごちると、コツ、コツ、と硬質な靴音が響いた。 コンクリートの冷気の中、一人の男が現れる。 軍服を思わせる黒い制服に、革のロングブーツ。腰には警棒と拳銃。そして片目には銀縁のモノクル(片眼鏡)をかけた、氷のように美しい男。 この監獄の絶対支配者、典獄クラウスだ。「ようこそ、タルタロスへ。……随分と威勢の良い目だ、305番」 クラウスは番号で呼び、イグニールの前に立った。 身長はイグニールの方が高いが、クラウスが放つ圧倒的な威圧感(オーラ)は、巨人のそれをも凌駕していた。「俺の名はイグニールだ。番号で呼ぶな」「ここでは名前など無意味だ。お前はただの家畜、管理されるだけの肉塊に過ぎない」 クラウスは冷たく言い放つと、看守たちに顎で指示した。 イグニールは台の上に押し付けられ、囚人服を無理やり剥ぎ取られた。 全裸にされ、屈辱的な姿勢で拘束される。「入所手続きだ。……身体検査を行う」 クラウスが黒い革手袋の上から、さらに医療用のゴム手袋を装着する。 パチン、とゴムが弾ける音が、広く無機質な部屋に反響した。「革命軍のリーダーともあろう者が、体内に危険物を隠し持っている可能性は否定できんからな」「ッ……ふざけるな、俺は何も……!」 イグニールの抗議は、クラウスの指によって遮られた。 無造作に口腔内へ指がねじ込まれる。歯茎、舌の裏、喉の奥まで、執拗に探られる。 ゴムの無機質な味と、クラウスの冷たい体温。 イグニールが睨みつけると、クラウスは薄く笑った。「いい表情だ。……だが、検査は上だけではないぞ」 クラウスの手が下へと滑る。 鍛え上げられた腹筋、古傷の走る太腿を愛撫するように撫で、そして最も無防備な場所へ。 医療

  • BL短編集◆愛しいきみの腕の中で   017:朱き鬼神の剛根と破戒の岩

    第一章 鬼哭の生贄 平安の都から遠く離れた、丹波国・大江山。 鬼が住まうとされるその魔の山へ、霧深い夜、一人の男が登っていた。 男の名は十蔵(じゅうぞう)。山寺の僧兵であるが、その風体は僧侶というよりは岩の巨木であった。 身長は六尺三寸(約一九〇センチ)を超え、僧衣の上からでも分かる丸太のような腕と、樽のような胸板。生まれつき常人離れした巨体と怪力を持つ彼は、幼い頃から「鬼子」と恐れられ、寺でも持て余される厄介者だった。(……これでいい。俺のような化け物は、鬼の腹に収まるのがお似合いだ) 十蔵は自嘲気味に笑った。 最近、里で鬼の被害が相次ぎ、その怒りを鎮めるための「生贄」として、彼が選ばれたのだ。 誰もが彼を恐れ、厄介払いしたがっていた。十蔵自身も、自分の巨体を持て余す孤独な人生に疲れていた。 山頂付近。巨大な岩屋の奥に、朱塗りの御殿がそびえていた。 十蔵が足を踏み入れると、地響きのような声が轟いた。「ほう。今宵の膳は、随分と骨太な獲物が来たな」 御簾(みす)が上がり、現れたのは、十蔵さえも見上げるほどの巨躯を持つ「鬼」だった。 大江山の王、酒天(しゅてん)。 身長は七尺(約二メートル十センチ)あろうか。燃えるような赤銅色の肌、額から生えた二本の鋭い角。はだけた着物から覗く筋肉は、鋼鉄を練り上げたように隆起している。 酒天は玉座から立ち上がり、十蔵の周りをゆっくりと回った。 その金色の瞳が、十蔵の分厚い胸板や、太い太腿をねっとりと値踏みする。「食うには筋が多すぎる。だが……」 酒天の大きな手が、十蔵の尻を鷲掴みにした。 万力のような力。十蔵は反射的に身構えたが、動けなかった。「悪くない。……これほど頑丈な器(からだ)なら、あるいは壊れずに耐えられるかもしれん」「……何の話だ。食うならひと思いに食らえ」「食らうさ。だが、口で食うとは言っていない」 酒天は獰猛に笑い、十蔵の帯を一息に引きちぎった。第二章 規格外の求愛 十蔵は抵抗する気力を失い、されるがままに奥座敷へと連れ込まれた。 しかし、すぐに殺されるわけではなかった。 酒天は大きな盃に酒を並々と注ぎ、十蔵に勧めてきたのだ。「飲め。……死ぬ前に、俺の愚痴を聞け」 酒天は自らも酒をあおり、忌々しそうに股間を叩いた。「俺は、強すぎた。力も、魔力も、そして……こ

  • BL短編集◆愛しいきみの腕の中で   016:300km/hの求愛と冷徹な無線

    第一章 予選の衝突(Red Zone) モナコ、モンテカルロ市街地コース。 地中海の青い海と豪華なカジノを背景に、世界最高峰のモータースポーツ、F1グランプリの予選が行われていた。 ガードレールに反響するV6ハイブリッドターボの咆哮が、街全体を震わせている。 ピットレーンのガレージ奥、無数のモニターに囲まれた場所で、チーフエンジニアの高城慧(たかしろけい)は、凍り付いたような表情でデータを凝視していた。 黒髪に銀縁の眼鏡。その瞳には、秒単位で変化するテレメトリーデータが滝のように流れている。『レオ、タイヤの温度が限界だ。このラップは捨てろ。ピットインしろ』 慧は無線(ラジオ)のスイッチを押し、冷静に指示を飛ばした。 だが、ノイズ混じりの返答は、彼の論理を嘲笑うものだった。『断る! 今の俺は誰よりも速い! このままポールを獲る!』 モニターの中、深紅のマシンが加速する。 ドライバーは、レオ・バスケス。二十三歳。「サーキットの野獣」と呼ばれる天才だ。 彼は慧の指示を無視し、最終コーナーへ突っ込んだ。壁まで数ミリのギリギリのライン取り。タイヤが悲鳴を上げ、白煙を上げる。 コンマ〇〇一秒の短縮。 トップタイム更新。ポールポジション獲得。 ガレージが歓声に包まれる中、慧だけがヘッドセットを乱暴に叩きつけた。 予選終了後のモーターホーム(控え室)。 扉が開いた瞬間、慧は入ってきたレオの胸倉を掴み、ロッカーに叩きつけた。 ガンッ! と金属音が響く。「……死にたいなら一人で死ね、レオ!」 普段は冷静な慧の、激情の露呈。 レオは驚いたように目を丸くしたが、すぐに不敵な笑みを浮かべた。汗とアドレナリンの匂いが、慧の鼻腔を刺激する。「怒るなよ、ケイ。ポールを獲ったんだぜ? 結果オーライだろ」「結果論だ! あのタイヤであの突っ込み方をすれば、サスペンションが砕けて死んでいた可能性が四十パーセントもあった! 私の計算した最高傑作(マシン)を、君の賭けの道具にするな!」 慧の瞳の奥にあるのは、怒りだけではない。喪失への恐怖だ。 レオはそれに気づき、慧の手首を掴んで引き寄せた。「……心配してくれたのか? 愛されてるなぁ、俺は」「ふざけるな」「あんたの計算は完璧だ。だが、最後にハンドルを握るのは俺だ。……俺の感覚(センス)を信じろよ」 レ

  • BL短編集◆愛しいきみの腕の中で   015:硝子の温室と甘い毒草

    第一章 緑の檻(Green Cage) 都市の喧騒から遠く離れた、深い森の奥。 そこに、巨大なガラスのドームが鎮座していた。 葛城植物学研究所。 外は冷たい秋雨が降っているが、厚いガラスに隔てられた内部は、むせ返るような亜熱帯の湿気に満ちている。 シダ植物が巨大な葉を広げ、天井からは気根がカーテンのように垂れ下がっている。空気そのものが緑色に染まっているかのような、濃密な生命の気配。「……颯太君。その鉢の湿度はどうだ?」 静かな声が、葉擦れの音に混じって響いた。 白衣を纏い、銀縁の眼鏡をかけた男、葛城翠(みどり)だ。 若くして数々の新種を発見した天才植物学者だが、極度の人間嫌いとして知られ、この温室に籠りきりの生活を送っている。「あ、はい! えっと、土はまだ湿っています。水やりは控えめにした方がいいかと……」 ホースを手に答えたのは、日下颯太(そうた)だ。二十二歳の大学生。 休学中の高額バイトにつられてやってきた彼は、ここに来て一ヶ月、住み込みで働いている。 温室の湿度は常に八十パーセントを超えている。颯太の額には大粒の汗が浮かび、Tシャツが背中に張り付いていた。「……そうか。良い判断だ」 翠が近づいてくる。 彼は革の手袋をした指先で、颯太の汗ばんだ首筋を不意に拭った。「ひゃっ! か、葛城さん?」「……ふむ。君はよく汗をかくな。新陳代謝が活発だ。……実に水はけが良い」 翠の眼鏡の奥の瞳が、爬虫類のように細められる。 それは人間を見る目ではない。希少な植物の生育具合を観察するような、無機質で、それでいて粘着質な視線だった。「君からは、若い樹木のような匂いがする。……ここにいる植物たちも、君の養分(フェロモン)を気に入っているようだ」「は、はあ……。ありがとうございます……?」 褒められているのかどうかも分からない。 颯太はこの雇い主に、本能的な違和感を抱いていた。彼は植物には愛おしげに話しかけるが、人間である颯太には、まるで「道具」や「肥料」を見るような目しか向けないのだ。「今日はもう上がりたまえ。……ただし、東のエリアには絶対に入るなよ。あそこは今、デリケートな時期だからな」 翠はそう言い残し、研究室へと戻っていった。 残された颯太は、首筋に残る革手袋の冷たい感触に、身震いした。 禁止されると気になってしまう

  • BL短編集◆愛しいきみの腕の中で   014:蒼き海原の略奪者と銀の羅針盤

    第一章 敗北の海戦(Defeat at Sea) 「七つの海」と呼ばれる広大な海域。その西端に位置する珊瑚の海で、今まさに歴史的な激戦が繰り広げられていた。 轟音と黒煙が、紺碧の空を汚している。 帝国海軍の誇る無敵艦隊の旗艦『ソブリン号』が、片舷を大きく傾け、悲鳴のような音を立てていた。「提督! 第三マストが折れました! これ以上は持ちません!」「……狼狽えるな。舵を切れ、風上に立て直す!」 指揮官であるエリアス・フォン・ベルク提督は、硝煙の舞う甲板で叫んだ。 二十五歳という若さで提督の地位に上り詰めた、「氷の提督」。銀髪をきっちりと結い上げ、純白の軍服には塵一つついていない。その青白い美貌は、戦場にあって異質なほどの冷徹さを保っていた。 だが、その冷静な瞳も、今は焦燥に揺らいでいる。 敵は、ただ一隻の海賊船だった。 深紅の帆を張った高速フリゲート艦『レッド・オルカ号』。 帝国の包囲網を嘲笑うかのような操舵技術で懐に潜り込み、至近距離からの砲撃で、巨象のような戦列艦の足を止めたのだ。「野郎ども、乗り込めェ! 帝国の坊ちゃんたちに、海の厳しさを教えてやれ!」 野獣のような咆哮と共に、鉤縄(かぎなわ)が投げ込まれる。 乗り込んできたのは、潮と血の匂いを纏った海賊たちだ。その先頭に立つ男を見て、エリアスは息を呑んだ。 燃えるような赤髪。潮風に晒された褐色の肌。シャツのボタンを弾け飛ばすほど鍛え上げられた胸板。 バルバロス。「海魔」と恐れられる伝説の海賊船長だ。「貴様……ッ!」 エリアスはサーベルを抜き、自ら前線へ躍り出た。 バルバロスがニヤリと笑い、巨大なカトラス(曲刀)を一閃させる。 ガキンッ! 火花が散り、強烈な衝撃がエリアスの腕を痺れさせる。「へぇ、綺麗な顔して、いい剣筋だ。……だが、海はお前の遊び場じゃねえぞ、提督!」「黙れ、無法者!」 剣戟が交錯する。技量はエリアスが上だが、バルバロスには圧倒的な腕力と、波の揺れを味方につける野性的な勘があった。 不意に船が大きく揺れた瞬間、エリアスの体勢が崩れた。 その隙をバルバロスは見逃さなかった。 強烈な蹴りがエリアスの腹部に叩き込まれ、彼は甲板に吹き飛ばされた。「ぐ、ぅ……ッ!」 起き上がろうとしたエリアスの喉元に、冷たい刃が突きつけられる。 見上げれば、バル

  • BL短編集◆愛しいきみの腕の中で   013:逆転する本能と恋のパラドックス

    第一章 共鳴する魂 王立魔導研究所の第十三研究室。 深夜二時を回っても、そこには怒号と魔力の火花が散っていた。「だから! 君の計算式は美しくないと言っているんだ、ノア!」 冷徹な声が響く。声の主は、ルシウス・ヴァン・アスター。名門貴族出身のエリートα(アルファ)であり、若くして魔導工学の権威となった天才だ。 銀色の長髪に、氷のように冷たい灰色の瞳。その全身からは、「ビターチョコレートと冷たい雪」を混ぜたような、理知的で威圧的なフェロモンが漂っている。 対するノアは、白衣の裾を握りしめ、食い下がった。「美しさなんて関係ありません! この術式なら、Ω(オメガ)の魔力供給量でも安定します。ルシウス室長は、αのスペックを基準にしすぎです!」 ノアは平民出身の劣性Ω。蜂蜜色の髪と榛(はしばみ)色の瞳を持つ、どこにでもいる平凡な研究員だ。 だが、その優秀さと頑固さだけは、ルシウスが唯一認める点でもあった。「Ωの基準になど合わせる必要はない。……そもそも、君たちがすぐに体調を崩し、発情期(ヒート)などという非効率な生理現象に振り回されるのが悪い」「っ……! それは、どうしようもない体質です! あなたがたαには、一生分からないでしょうけど!」 ノアが叫ぶと、ルシウスは鼻で笑った。「分かる必要もない。精神力が足りないから、本能ごときに支配されるんだ。……いいから、その『共鳴石』を貸せ。私が調整する」 ルシウスが強引に、実験台の上にあった巨大な魔石に手を伸ばした。 ノアも負けじと石を掴む。「待ってください! 今触れると、魔力波形が……!」「離せ!」 二人の魔力が同時に石へと流れ込んだ。 αの強大な覇気と、Ωの繊細な魔力。 相反する二つの波長が、共鳴石の中で予期せぬ化学反応(バグ)を引き起こした。 カッ――!! 視界が真っ白に染まるほどの閃光。 鼓膜を破るような轟音と共に、二人の意識は吹き飛ばされた。 ***「……う、ぐ……」 どれくらいの時間が経ったのか。 ノアは、ひどい頭痛と共に目を覚ました。 視界が高い。 いつも見上げている実験棚の上が見える。それに、身体が鉛のように重く、そして妙に熱い力が漲っている。 ノアはふらりと立ち上がった。手を見ると、そこには自分のものではない、大きく骨ばった手があった。「え……?」 ノアが

  • BL短編集◆愛しいきみの腕の中で   012:獣の咆哮と静寂のサンクチュアリ

    第一章 隔離病棟の狂犬(The Mad Dog) 地下要塞都市「アーク」。 厚さ五十メートルの鉛とコンクリートの天井に閉ざされた、人類最後の砦。 その最下層、特別隔離区画のさらに奥深くで、ヴォルフは轟音の中にいた。(うるさい……。黙れ、消えろ……ッ!) 彼は頭を抱え、冷たい床に額を打ち付けていた。 実際には、部屋の中は死に絶えたように静かだ。だが、S級覚醒者(センチネル)であるヴォルフの聴覚は、数キロ上の換気扇が回る音、配管を流れる汚水の音、そして通り過ぎるネズミの心音さえも、鼓膜を突き破る爆音として拾ってしまう。 視覚も同様だ。わずかな非常灯の明かりが、網膜を焼く閃光のように

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  • BL短編集◆愛しいきみの腕の中で   008:きらめく破片と、金継ぎの愛

    第1章: 完璧な献身と潜む亀裂 六畳一間のアトリエ兼居間で、律はろくろを回していた。土の柔らかな香りが、奥のキッチンから漂う淹れたてのコーヒーの香りと混ざり合う。晶の淹れるコーヒーはいつも完璧で、マグカップの取っ手の向きさえ律が使いやすいように揃えられている。その几帳面さが、金融アナリストとして働く彼の本質であり、律が愛してやまない横顔だった。  晶は完璧だった。  朝食は栄養バランスを計算されたスムージーと全粒粉のトースト。家賃や公共料金の支払いは一度も遅れたことがない。友人や家族への対応は常に誠実で、律の陶芸家としての活動に対しても、最も論理的で現実的な助言を与えてくれる。律の

    last updateآخر تحديث : 2026-03-17
  • BL短編集◆愛しいきみの腕の中で   011:タイトル:桃花の誓いと仙君の堕落

    第一章 魔尊の帰還 仙界の名門、蒼穹山(そうきゅうざん)。 雲海に浮かぶその霊峰は、一年を通して桃の花が咲き乱れる仙境である。だが今日、その白い雲は漆黒の魔気によって塗り潰され、血の雨が降り注いでいた。 魔界の軍勢による侵攻。 結界を破り、本殿の広場に降り立ったのは、一人の男だった。 黒地に金糸で刺繍された長衣を靡かせ、額には堕天の証である赤い紋様。その男、魏嵐(ウェイ・ラン)は、かつてこの山で修行した弟子であり――今は全魔界を統べる「魔尊」となっていた。「……出てこい。隠れていても無駄だ、沈清雲(シェン・チンユン)」 魏嵐の声は、雷鳴のように山々を震わせた。 その殺気に呼応

    last updateآخر تحديث : 2026-03-17
  • BL短編集◆愛しいきみの腕の中で   010:背徳の聖餐と白銀の十字架

    第一章 神の羊と夜の獣(The Lamb and the Beast) 欧州の辺境、深い霧に閉ざされた森の奥深く。 断崖の上に聳え立つ古城「ノスフェラトゥの城」は、数世紀にわたり人の侵入を拒んできた魔の領域だ。 月光さえも凍りつくような寒夜。城の重厚な扉が、軋んだ音を立てて開かれた。 足を踏み入れたのは、一人の青年だった。 ノエル。教会の異端審問局に所属する若き祓魔師(エクソシスト)。 闇に溶け込む黒い司祭服(カソック)に身を包み、銀髪が冷たい風に靡いている。その手には、清められた銀の十字架と、白木の杭が握られていた。「出てこい、古き血の王よ。……神の御名において、貴様を浄化す

    last updateآخر تحديث : 2026-03-17
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