不吉な身代わりオメガは、冷酷な王の腕の中で初めて愛を知る ~声を奪われた王子、最強の番に溺愛される~

不吉な身代わりオメガは、冷酷な王の腕の中で初めて愛を知る ~声を奪われた王子、最強の番に溺愛される~

last updateLast Updated : 2026-04-21
By:  ひなた翠Completed
Language: Japanese
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「お前が身代わりになりなさい」 呪いで声を奪われ、塔に幽閉されていた王子のルミエルは、傲慢な異母兄ルークの身代わりとして、隣国の覇王アルリックのもとへ「生贄の花嫁」として嫁がされる。 相手は番ったオメガを食い殺すと恐れられる冷酷な王。残り三ヶ月の命、せめて誰かの役に立って死のうと覚悟を決めるルミエルだったが、初夜に現れたアルリックは噂とは異なり、声も出せず文字も書けないルミエルを優しく抱きしめた。「泣かなくていい」――生まれて初めて向けられた慈愛と、三日三晩続く甘く激しい契りに、ルミエルの心と身体は次第に熱く溶かされていき……。 孤独な王子が、最強の番に溺愛され真実の愛を知る、救済のオメガバース。

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Chapter 1

第一話「沈黙の生贄と血塗られた覇王」

 朝の静寂を切り裂くように、王宮内が異様な喧騒に包まれていた。

 窓の向こうから、石畳を踏む幾重もの足音、遠くで重々しい扉が幾度も開閉される音が、微かな震えとなって伝わってくる。ルミエルは冷えた窓枠に指先をかけ、そっと中庭を見下ろした。

(……何事だろう。こんなに朝早くから)

 普段、この塔の周囲に人の気配がすることなど皆無に等しい。だというのに今朝は、侍女たちが裾を乱して慌ただしく行き交っている。張り詰めた空気が冷たい石床を伝って、ルミエルの足の裏から心臓へと這い上がってくるようだった。

 本能が、何かが起きると告げていた。

 声を持たないルミエルにとって、隔離された塔の中で外界を知る術は、音と空気の揺らぎしかない。彼は生まれながらにして、呪いによって言葉を封じられているのだ。王妃お抱えの術師が施したその呪詛は、問いかける自由も、真実を確かめる術も、助けを求める叫びさえも、その喉から根こそぎ奪い去っていた。

 じっと外を眺めていると、不意に階段を上る規則的な足音が鼓膜を叩いた。

 一つ、二つ。

 迷いのない足音はルミエルの部屋の前で止まり、鍵が回る嫌な金属音が響く。外側から乱暴に開け放たれた扉から、まず姿を現したのは王妃エレーヌだった。

 深紅の絹が床を擦る傲慢な音。燭台の光を弾く、頭上のけばけばしい宝石。その鋭い眼光が、獲物を定めるようにまっすぐルミエルを射抜く。

 続いて入ってきたのは、異母兄のルークだった。

 彼は白い指先で無造作に前髪を掻き上げると、ひどく退屈そうに室内を一瞥した。肩に流れる淡い銀の髪、紫水晶のような瞳。国一番の美貌と自負するその姿は、同じ血が流れているとは思えないほど、眩い光に満ちていた。

(兄さんは、今日もあんなに輝いている……)

 ルミエルは弾かれたように立ち上がり、深々と膝を折って頭を垂れた。床の冷たさに額を寄せ、嵐が過ぎ去るのを待つ獣のように身を縮める。

「ルークの結婚が決まったわ」

 王妃の、蜜に毒を混ぜたような声が降ってきた。

「相手は大国グライエンの王。近隣諸国を蹂躙し続ける、あの残虐な覇王よ。……けれど、困ったことにあの男は、番ったオメガを食い殺すことで有名だとか。そんな獣の餌食に、私のかわいいルークを差し出すわけにはいかないでしょう?」

 王妃の視線が、値踏みするようにルミエルの顔を這い回る。口角が歪に持ち上がり、嗜虐的な悦びがその瞳に滲んだ。

「お前は、あの卑しい女狐が産んだ子のくせに、どういうわけかルークに面影が似ているわ。……だから、お前がルークの身代わりになりなさい。お前が嫁げば、この国は戦争を回避できるのよ」

(僕が、嫁ぐ……? 兄さんの、代わりに?)

 その言葉の意味が、じわじわとルミエルの胸の奥に沈殿していく。

 彼は視線を伏せたまま、抗う術のない事実を飲み込んだ。王妃の決定は、この国における絶対の法だ。だが、疑問が頭をもたげる。

 ルークの美しさは諸国に轟いているはずだ。だからこそ覇王も彼を指名したのだろう。自分のような影のような存在が、果たしてあの光り輝く兄の代わりなど務まるのだろうか。

 同じ父の血を引いている。系統は似ているのかもしれない。けれど、ルークのような人を惹きつける華やかさは、自分には微塵も備わっていない。

 もし、身代わりだと露見してしまったら。覇王の怒りに触れれば、それこそ国は滅びるのではないか――ルミエルの胸に、冷たい不安が広がっていく。

「僕の身代わり、しっかり頑張ってよね! あいつに無残に食い殺されてきてよ」

 壁に背を預けていたルークが、くねくねと身体を揺らして嘲笑した。剥き出しにされた白い歯が、その容姿の美しさゆえに、吐き出される言葉の残酷さを引き立てる。

「どうせ生きていたって、あと三ヶ月の命なんだから。死ぬ前に僕たちの役に立てて、よかったね」

 ――三ヶ月。

 その言葉に、ルミエルの胸の奥がチリリと焼けた。

 ルークの言う通りだ。彼の命は、あと百日も残されていない。二十歳の誕生日を迎えた瞬間に、呪いによって命の灯が消える。幼い頃から、呪文のように聞かされてきた宣告。

 ルミエルが生まれたとき、王宮の術師は予言した。「この子は国の破滅を呼ぶ」と。

 その予言一つで、彼の母は愛人の地位を追われ、城の外へと放逐された。母が今どこで、どうなっているのかさえ知らされていない。

 そしてルミエル自身は、王妃の命でこの塔に幽閉された。声を奪う呪いと、命を削る呪い。二つの重荷を背負わされ、暗い部屋でただ朽ちていく時間を数えてきた。「破滅を呼ぶのは成人してからだ、それまでは生かしておく」という、慈悲を装った放置。

(……食い殺されるのも、呪いで死ぬのも、大差ないのかもしれないな)

「あーあ、今日から僕がこの部屋を使うのか」

 ルークが欠伸をしながら、勝手知ったる様子で室内を歩き回る。

「父上は、僕が嫁いだって思い込んでるんだもんね。仕方ないなあ。ねえ母上、ここを快適にするために、新しい家具をたくさん買ってもいい?」

「ええ、好きなようになさい」

 二人の会話から、これが国王にすら秘匿された、王妃独断の陰謀であることをルミエルは察した。

 彼の存在を知るのは、国王と王妃とルークだけ。世話係は彼に情を移さぬよう、常に短期間で入れ替えられてきた。彼は、最初から存在しないも同然の王子なのだ。

 王妃の合図で、表情を失った侍女たちが数人なだれ込んできた。

 ルミエルはなす術もなく、彼女たちに腕を引かれ、浴室へと連行される。

 大きな木桶にはたっぷりの湯が張られ、白い花びらが水面に揺れていた。むせ返るような花の香りが立ち込める。侍女たちの手が、彼の髪を、背を、指の先まで執拗に磨き上げていく。

 湯の熱が冷え切った肌に染み込んでいくのに、ルミエルの意識はどこか遠い場所を漂っていた。天井へと昇っていく白煙、桶の縁を伝って落ちる泡。規則的な水音だけが、耳の奥で虚しく反響する。

(……外に、出られるんだ)

 三ヶ月後の死が決まっていても、鉄格子のない空の下へ出られるという事実が、胸の片隅で淡い期待として拍動する。

 湯から上がると、豪華な化粧台の前に据えられた。

 鏡の中で、乱れていた髪が丁寧に梳かれていく。毛先が切り揃えられ、前髪が額を覆う。侍女の指が動くたび、鏡の中の「彼」は、彼ではない何者かへと変貌を遂げていく。

(……ルーク、兄さんに……)

 完成したその姿に、ルミエルは息を呑んだ。

 そこには、いつも窓に映っていた影のような少年の姿はなかった。

「こうして磨けば、ルークと双子のようにそっくりね」

 王妃がルミエルの肩越しに鏡を覗き込み、甲高い笑い声を上げた。

「この日のために、神様がお前たちの顔を似せたのね。死ぬ前に国外に出られるなんて、お前には分不相応な幸せだわ。塔の中で死体の片付けをせずに済んで、清々するわ」

 笑い声が石壁に反響し、呪詛のように降り注ぐ。侍女たちは一言も発さず、一度もルミエルと目を合わせることはなかった。

 重厚な旅装束に袖を通され、帯をきつく締められ、上質な靴を履かされる。鏡の中に立つルミエルは、もはやルークと遜色ない「高貴な生贄」となっていた。

 準備が整い、塔を出ると、一台の馬車が静かに口を開けて待っていた。

 見送る者は、誰もいない。

 馬車が動き出した瞬間、肌をなでる空気が劇的に変わった。

 格子の隙間から切り取られた断片としてしか知らなかった世界が、今、目の前に広がっている。

 燃えるような木々の緑が視界に飛び込み、湿った土と草の匂いが鼻腔を突く。馬の蹄が石畳を叩く規則的な音が、自由への秒読みのように聞こえた。

 忌まわしい城の気配が、一刻一刻と遠ざかっていく。

 ルミエルは膝の上で、きつく拳を握りしめた。

(僕は、この国を出ていく――)

 グライエン王国の不吉な噂が、頭を巡る。オメガを食い殺すと恐れられる、血に飢えた覇王。

 一生をこの暗い塔で終えるのだと諦めていた。けれど、王妃の突然の命令から、わずか二時間でルミエルの未来を塗り替えた。

 今は『ルーク』としてこの馬車に揺られている。兄の身代わりとして、獣の顎へと向かう旅路。

(……僕が食われることで、この国のみんなが救われるのなら)

 暗い塔の中で無意味に三ヶ月を浪費するより、ずっと「命」の使い道として正しい気がした。誰かの役に立てるのなら――。

 国を滅ぼす呪われた子として朽ちていくより、ずっといい。

 馬車が大きく揺れるたび、見たこともない景色が窓の外を流れていく。差し込む木漏れ日が床を斑に照らし、光と影が揺れては消えた。

 窓から仰ぐ空は、あの格子の向こうにあった空よりも、残酷なほどに広かった。遮るもののない青さが、網膜に染み渡る。

 生まれてからずっと、あの鉄格子の向こうにこの青を探してきた。今はもう、彼を遮るものは何もない。ルミエルは声もなく、ただその鮮やかな青を、永遠に刻みつけるように見つめ続けた。

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第一話「沈黙の生贄と血塗られた覇王」
 朝の静寂を切り裂くように、王宮内が異様な喧騒に包まれていた。 窓の向こうから、石畳を踏む幾重もの足音、遠くで重々しい扉が幾度も開閉される音が、微かな震えとなって伝わってくる。ルミエルは冷えた窓枠に指先をかけ、そっと中庭を見下ろした。(……何事だろう。こんなに朝早くから) 普段、この塔の周囲に人の気配がすることなど皆無に等しい。だというのに今朝は、侍女たちが裾を乱して慌ただしく行き交っている。張り詰めた空気が冷たい石床を伝って、ルミエルの足の裏から心臓へと這い上がってくるようだった。 本能が、何かが起きると告げていた。 声を持たないルミエルにとって、隔離された塔の中で外界を知る術は、音と空気の揺らぎしかない。彼は生まれながらにして、呪いによって言葉を封じられているのだ。王妃お抱えの術師が施したその呪詛は、問いかける自由も、真実を確かめる術も、助けを求める叫びさえも、その喉から根こそぎ奪い去っていた。 じっと外を眺めていると、不意に階段を上る規則的な足音が鼓膜を叩いた。 一つ、二つ。 迷いのない足音はルミエルの部屋の前で止まり、鍵が回る嫌な金属音が響く。外側から乱暴に開け放たれた扉から、まず姿を現したのは王妃エレーヌだった。 深紅の絹が床を擦る傲慢な音。燭台の光を弾く、頭上のけばけばしい宝石。その鋭い眼光が、獲物を定めるようにまっすぐルミエルを射抜く。 続いて入ってきたのは、異母兄のルークだった。 彼は白い指先で無造作に前髪を掻き上げると、ひどく退屈そうに室内を一瞥した。肩に流れる淡い銀の髪、紫水晶のような瞳。国一番の美貌と自負するその姿は、同じ血が流れているとは思えないほど、眩い光に満ちていた。(兄さんは、今日もあんなに輝いている……) ルミエルは弾かれたように立ち上がり、深々と膝を折って頭を垂れた。床の冷たさに額を寄せ、嵐が過ぎ去るのを待つ獣のように身を縮める。「ルークの結婚が決まったわ」 王妃の、蜜に毒を混ぜたような声が降ってきた。「相手は大国グライエンの王。近隣諸国を蹂躙し続ける、あの残虐な覇王よ。……けれど、困ったことにあの男は、番ったオメガを食い殺すことで有名だとか。そんな獣の餌食に、私のかわいいルークを差し出すわけにはいかないでしょう?」 王妃の視線が、値踏みするようにルミエルの顔を這い回る。口角が歪に持ち上がり、嗜虐
last updateLast Updated : 2026-04-13
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第二話「初夜の檻を溶かす熱」
 隣国グライエン王国に到着したのは、太陽が西の稜線に沈み、空の端が深い藍色へと溶け始めた頃だった。 馬車の小窓から見えた城は、想像をはるかに超えた威容を誇っていた。エルテアの城など比べものにならない。石造りの城壁が夕闇の中で黒々とそびえ、その輪郭だけで、この国を束ねる者の強大な力を物語っていた。城門を潜ると、松明が左右に連なって揺れ、橙色の光が石畳の上に揺らめく炎の道を作っている。 やがて、重々しい音を立てて馬車が止まった。 扉が外から恭しく開かれ、侍女に手を取られながら石畳に降り立った瞬間、ルミエルは思わず足を止めた。 空気が、違う。塔の中で吸い続けてきた、石と埃と孤独の匂いとは全く異なる。夜風が頬を撫でて流れ去り、遠くから草と土と松脂の混じり合った、生命の匂いを連れてくる。(……広い) 出迎えの者たちに囲まれ、城の中へと連れられていく。石畳から石廊下へ、燭台の揺れる光の中を歩きながら、ルミエルの心臓は不規則に跳ね続けた。 案内された部屋の扉が開かれた瞬間、ルミエルは息を呑んだ。 天井が高い。壁には精緻な装飾が施され、深い色の絨毯が足の裏に心地よく沈み込む。窓の向こうには夜の庭が広がり、天蓋付きの大きなベッドには深紅の絹が重たげに垂れている。燭台の火がいくつも灯り、柔らかな光が部屋全体を満たしていた。 塔の中の、粗末な寝台と冷たい石の床しか知らないルミエルには、どこに立っていいかもわからないほどの豪奢さ
last updateLast Updated : 2026-04-13
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第三話「赤き契りの純潔」
「ルーク」 低い声と共に肩を優しく揺さぶられ、ルミエルは重い瞼をゆっくりと持ち上げた。 意識が浮上すると同時に感じたのは、全身を包み込む心地よいだるさだった。昨夜の熱狂の残滓が、まだ身体の奥底に澱のように溜まっている。視界を上げれば、見慣れない天蓋の絹が朝の光を透かして白く輝いていた。(――眩しい) 窓の隙間から差し込む一条の光が、寝室を清冽な朝の色で満たしている。(……朝だ。本当の、朝なんだ) 慌てて身体を起こそうとした瞬間、掛けていた羽毛の布団がするりと滑り落ちた。その時、ルミエルは部屋の中に漂う異様な気配に気づき、息を止めた。(……え?) 寝室の隅には、仰々しい正装に身を包んだ家臣たちが幾人も控えていた。整然と居並び、音もなく視線だけをこちらに向けている。その数に、ルミエルの血の気が一気に引いた。昨夜アルリックから聞いた話では、確認に来るのはせいぜい一人か二人という印象だったのだ。これほどの人数に囲まれるなど、想像だにしていなかった。 冷たい空気が、無防備な素肌を容赦なく叩く。(恥ずかしい……っ!) 大勢の他人に、情事の余韻を残したままの肢体を晒している。ルミエルは恐怖と羞恥で凍りつき、胸の前で腕を交差させて身を縮めることしかできなかった。昨夜の夜着がどこへ消えたのか、探す余裕さえなく脳内は真っ白に染まる。「大丈夫だから」 絶望的な沈黙を破ったのは、アルリックの囁きだった。彼は素早い動きで自らのガウンを脱ぐと、ルミエルの震える肩を包み込むように羽織らせてくれた。 ルミエルは小さく頷き、震える指先でガウンの前を合わせると、腰紐を固く縛ってベッドから降りた。足の裏が厚い絨毯に触れた瞬間、腰の奥からじわりと重い疲労が這い上がってくる。 上半身を剥き出しにしたアルリックが、保護するようにルミエルの肩を抱いた。そして家臣たちへ、短く威厳に満ちた頷きを返す。 一人の家臣が進み出て、無機質な動作で掛け布団の端を持ち上げた。 白一色のシーツが露わになる。そこには、昨夜の契りの痕跡が隠しようもなく刻まれていた。散らばった体液の染みと、一点の鮮やかな赤い徴。自分という存在が暴かれた証が、衆目に晒されている。(……見ないで、ほしい) ルミエルは堪えきれず、アルリックの逞しい胸板に顔を埋めた。 燃えるように赤い顔を隠し、ガウンの裾をぎゅっと握
last updateLast Updated : 2026-04-13
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第四話「秘めた真実と重なる吐息」
 翌日から、アルリックは毎日欠かさずルミエルの部屋を訪れるようになった。 執務を終えた夕刻、廊下に規則正しい足音が響いてくると、ルミエルは決まってソファから立ち上がり、扉へと視線を向けた。期待と緊張で、心臓が一つ、大きく跳ねる。扉が開き、あの金髪の男が入ってくる。それだけのことが、今のルミエルには嬉しくてたまらなかった。 アルリックが小さな机を二つ並べ、紙とインク、そして万年筆を用意する。それがいつの間にか、二人だけの静かな習慣になっていた。 最初の授業は、ひどく不格好なものだった。 アルリックの大きな手が、ルミエルの白く細い手の上に重なり、万年筆を持つ指先をそっと導く。紙の上で直線を引く。曲げる。止める。たったそれだけのことが、今まで教育を拒まれてきたルミエルにはひどく難しかった。力の入れ加減がわからず、線は小刻みに震え、文字の形は歪んでいく。インクが滲み、真っ白な紙が無残に汚れた。「力を抜いて。もっと軽く、羽を持つように持て」 アルリックが静かに言い、ルミエルの指先にそっと触れる。大きな手の確かな温もりが、緊張で冷え切っていた指にじわりと伝わってきた。ルミエルは一度深く息を吐き、万年筆を握り直した。 一日、また一日と過ぎていくうちに、不器用だった線が少しずつ整い始めた。 横棒が引けるようになり、縦棒が引けるようになり、その組み合わせから「文字」という形が生まれていく。初めて一文字をきちんと書けた日、ルミエルは万年筆を持ったまま、石のように固まった。紙の上に、確かな意味を持つ形が刻まれている。それが自分の
last updateLast Updated : 2026-04-14
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第五話「身代わりで紡ぐ安らぎ」
 繋がったまま、ルミエルは息をすることさえ忘れていた。 アルリックの重みが上から覆い被さり、腰を深く打ちつけられるたびに、身体が大きく揺れる。くちゅ、くちゅ、と結合部から溢れる水音が、静まり返った部屋に卑猥なほど鮮明に響いた。愛液が二人の間で混じり合い、アルリックが動くたびに、その音は粘り気を帯びて大きくなっていく。「ぁ……ん、っ……ぁあ……」 声が止まらなかった。唇の隙間から甘い音が零れ、天蓋の奥へと吸い込まれていく。アルリックの腰が打ち込まれるたび、肌と肌が激しくぶつかり合い、乾いた音と濡れた音が重なって耳に届く。奥を執拗に抉られるたびに、全身の神経が熱い一点に集まっていく感覚があった。 アルリックの手がルミエルの腰を強く掴み直し、角度が変わって突き上げられる。「ぁっ、あ……っ」 鋭い快感が背筋を走り、思わず大きな声が漏れた。そこだ、と教えるように、アルリックは同じ場所を何度も深く突いてくる。ぐちゅ、ぐちゅ、と水音が激しさを増し、溢れ出した蜜が白いシーツへと滲んでいった。恥ずかしいはずなのに、どうしても止められない。身体が勝手に腰を持ち上げ、アルリックの熱に吸い付くように動いてしまう。「……っ、あ、ああ……っ」 アルリックの呼吸も荒くなっていた。ルミエルの首筋に顔を埋め、低い吐息を吹きかけながら、最奥を繰り返し突き上げてくる。肌と肌が打ち合う情熱的な音。溢れる愛液の卑猥な水音。そして、ルミエル自身の甘い嬌声。それら全てが渾然一体となり、寝室を満たしていった。シーツを両手で握りしめて耐えようとしても、快感の波は止まることを知らなかった。 身体の奥から、抗えない何かが激しくせり上がってくる。「ぁ……っ、ああ……ぁあ……っ」 全身が細かく痙攣し、蜜筒がアルリックを逃がさぬようきつく締めつけた。視界が白く滲み、声が途切れ途切れになる。アルリックが深く腰を沈めたまま動きを止めると、熱いものが奥へと力強く注ぎ込まれた。ドクン、ドクンと脈打つ熱が、お腹の奥底まで広がっていく。 しばらくの間、二人は重なったまま動けずにいた。 やがてアルリックがゆっくりと身体を離し、ルミエルを引き寄せた。乱れた銀髪を大きな指で優しく梳き、汗の滲んだ額に柔らかなキスを落とす。ルミエルはアルリックの広い胸板に頬を預けたまま、荒れた呼吸を整えた。全身がしっとりと汗ばみ、髪が
last updateLast Updated : 2026-04-15
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第六話「偽りの名を超えて愛の誓い」
 何度、書き直しただろうか。 机に広げた紙の上には、たどたどしい文字が並んでいた。アルリックに文字を教わってからというもの、ルミエルは彼が不在の時間を惜しむようにして、羽ペンの動かし方を身体に叩き込んできた。不揃いで頼りない字の形は、砂漠に刻まれた足跡のようにどこか心許ない。けれど、そこに込められた決意だけは、鋭利な刃物のように光を放っていた。 兄の身代わりとして、呪いを受けたまま嫁いできたこと。本当の名前はルミエルであること。卑しい愛人の子として生を受け、陽の光さえ届かない冷たい塔の中に閉じ込められて育ったこと。そして――二十歳の誕生日を迎えるまえに、この身体を蝕む呪いによって命が尽きること。 喉に張り付いて決して言葉にならなかった真実を、ルミエルはインクの染みに託してすべて綴った。 折り畳んだ紙を両手で包み込むように持ち、ルミエルは深く、肺の奥まで冷たい空気を吸い込んだ。胸の奥が軋むような心地がして、指先に力が込もる。声を持たず、字の読み書きもできない人間を、アルリックは「ルーク」として受け入れてくれた。野蛮なアルファたちがオメガをただの道具として喰らうこの世界で、彼はルミエルを温かな腕で抱きしめ、一人の人間として慈しんでくれたのだ。 彼がくれたのは、凍てついた心を溶かすような情愛だった。(……それなのに、僕がずっと黙っているなんて、できない。この安らぎを、嘘の上で貪り続けることはできない) 視線を紙に落とし、ルミエルは白く震える唇を強く引き結んだ。どんな反応をされようとも、たとえこの場で切り捨てられたとしても受け入れよう。そう、まえから覚悟は決めていた。 執務を終えたアルリックが寝室に入ってきたのは、陽が完全に地平線の向こうへと落ち、夜の静寂が世界を支配したあとのことだった。 扉を開け、ルミエルの姿を認めた瞬間、アルリックの鋭い目元がふっと和らいだ。鎧を脱ぎ捨てた彼が歩み寄ってくる足音が、静まり返った部屋にやけに大きく響く。 ルミエルは震える手で、大切に持っていた手紙を差し出した。アルリックは不思議そうに首を傾げながらそれを受け取り、ソファに腰を落ち着けて紙を広げた。 ルミエルはソファから少し離れた場所に立ち、両手を前で重ねたまま、視線を床の一点に落とした。紙を繰るカサリという乾いた衣擦れの音だけが、部屋の空気を震わせている。暖炉の炎がパ
last updateLast Updated : 2026-04-15
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第七話「安らぎを奪う運命への宣戦布告」
 月明かりが窓から差し込み、ルミエルの横顔を淡く照らしていた。 規則正しい呼吸で胸が静かに上下している。疲れ果てて眠り込んだ身体は、アルリックの腕の中で小さく丸まっていて、触れれば壊れてしまいそうな儚さがあった。アルリックはゆっくりと身を起こし、愛しさに胸を締めつけられながら、ルミエルの顔を覗き込んだ。 ふと、その目尻に、乾いた涙のあとが残っているのに気づいた。(泣いたのか……) 眠っているあいだに流したのか、それとも意識を失う寸前に零れたのか。どちらにせよ、その雫が溢れる前に拭ってやれなかったことが、アルリックには口惜しかった。彼は指先でそっとその跡を辿り、慈しむように唇を寄せて、目尻に柔らかな口づけを落とした。 身を引いて、改めてルミエルの身体に視線を移す。白磁の肌には、先ほどまで繰り返していた情事の余熱が残るように、自分がつけた赤い痕が点々と散っていた。雪の上に散らした椿の花弁のように、鮮やかに。首筋から鎖骨へ、鎖骨から胸元へと続く情熱の刻印を辿っていくうち、アルリックの口元には自然と苦笑が浮かんだ。(我ながら、随分とつけたものだ。余裕がないにも程がある……) これほどまでに誰かに執着し、己を失うほど溺れたことは、これまで一度もなかった。覇王として、強大なアルファとして、そして戦場に立つ軍人として、アルリックは感情を鉄の仮面の下に隠すことを己に強いて生きてきた。それがこの、腕の中に収まってしまうほど小さな身体を前にすると、どうしようもなく抑えが利かなくなる。
last updateLast Updated : 2026-04-16
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第八話「目覚める独占欲」
 馬車の窓から差し込む朝の光が、膝の上に置いたルミエルの手を静かに温めていた。 御者台から飛ぶ威勢のいい掛け声とともに、鉄輪が石畳を刻む振動が、身体の底まで伝わってくる。窓の外には延々と続く街道が伸び、その傍らを整然と行進する兵たちの、大地を揺らすような規則正しい足音が重く響いていた。グライエン王国が誇る漆黒の軍勢が、今この瞬間、ルミエルの祖国・エルテア王国へと牙を向けて進軍していた。 ルミエルは窓枠に細い指をかけ、そっと外の様子を覗きやった。(またこの国に戻ってくるなんて思ってなかったなあ) 軍列の先頭に立つアルリックの後ろ姿が、視界を占める。黒い軍馬に跨り、凛として背筋を伸ばしたその姿は、朝の風に金髪をなびかせ、圧倒的な覇気を放っていた。馬の歩みに合わせてわずかにしなる背中、手綱を握る逞しい腕の筋肉が光を反射し、浮き上がっている。そのあまりの勇ましさに、ルミエルの胸は熱く、吐息を漏らすことしかできなかった。(……格好いい。なんて、綺麗な人なんだろう) 見惚れていると、アルリックがふとした予兆のように窓の方へ視線を向けた。目が合った瞬間、峻厳だった彼の口元がふっと和らぎ、慈愛を込めて小さく微笑んだ。ルミエルの心臓が大きく跳ね、火がつくような気恥ずかしさに慌てて顔を引っ込める。頬から耳の先まで一気に熱が集まっていくのが、自分でも痛いほどにわかった。 馬車の天井を見上げ、ルミエルは深く、肺の奥まで息を吸い込んだ。 オメガを食い殺す残虐なアルファ。グライエン王アルリックについて、祖国
last updateLast Updated : 2026-04-16
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第九話「毒花の誘惑」
 宴の間は煌々と灯りが灯り、天井から下がる巨大な燭台が揺れるたびに、金や赤の絢爛な装飾が火花のような光を弾いていた。 長卓には溢れんばかりの料理が並び、肉の焼ける香ばしい匂いと、新鮮なハーブの清涼な薫りが入り交じって、広い部屋の隅々まで濃密に漂っている。エルテア王国の家臣たちが、最強国の威圧感に緊張した面持ちで席に着く中、アルリックはルミエルの隣で微動だにせず、琥珀色の瞳で静かに全体を睥睨していた。 重厚な扉が開いたのは、宴が始まってしばらく経ったころだった。 ルークが現れた。 薄い絹の布を幾重にも重ねた衣装を纏い、動くたびにその裾が波紋のように揺れる。銀糸の繊細な刺繍が灯りを受けてきらめき、その妖艶な美しさは、一瞬にして部屋の空気を支配した。国一番の美貌と自称するにふさわしい、圧倒的な存在感。ルミエルと瓜二つの顔立ちでありながら、醸し出す華やかさは輝きを放っていた。(兄さん、いつも以上に綺麗だ……) ルミエルは素直に、その輝きに目を奪われた。自分とは比べ物にならない。塔という閉ざされた世界で育った自分には、あんなふうに堂々と場を支配する術など、持ち合わせていない。 ルークは迷いのない足取りでアルリックの元へと歩み寄り、当然のような顔をして隣の席に腰を下ろした。杯を手に取りながら、さりげなく、けれど確かな意図を持ってアルリックの逞しい腕に指先を滑らせている。柔らかな声で密やかに囁き、潤んだ瞳で上目遣いに見上げる仕草は、計算され尽くしていながらも、驚くほど自然に見えた。 自分にはで
last updateLast Updated : 2026-04-17
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第十話「月下に咲く毒花」
「降りろ」 地を這うような、峻厳な低い声が、深い微睡みの底に沈んでいたルミエルの意識を強引に引き戻した。 アルリックの声だった。しかし、普段二人きりの時に彼が見せる、あの甘く深い慈愛の響きは微塵も含まれていない。そこにあるのは、凍てつくような冷徹さと、隠しきれない不機嫌の礫だった。その異変に、ルミエルの心臓が肋骨の内側を激しく叩き、薄く瞼を持ち上げた。 視界に入る部屋は、重苦しい闇に包まれていた。つい先刻まで愛し合っていた余韻を残す部屋の中、燭台の火はとうに尽き果て、冷えた蝋の微かな残り香が鼻を突く。窓から差し込む青白い月光だけが、静止した室内を淡く、そして残酷なほど静かに照らし出していた。夜の静寂が満ちていたはずの空気は、今や硝子を爪で立てるような、鋭利な緊張感に支配されている。ルミエルは自身の呼吸が浅くなるのを感じながら、隣に横たわっているはずの王の気配を探った。 その時、鼻腔を突く異質な香りに、ルミエルの眠気は一瞬で霧散した。 ふわりと漂ってきたのは、熟れすぎた果実のような、あるいは爛漫と咲き誇る花のような、濃密で粘りつく甘い匂い。それは、かつて「塔」にいた頃に嗅いだことのある、抗いがたい本能を揺さぶるオメガのフェロモンだった。だが、それは決して自分から発せられているものではない。 目を凝らし、暗がりに慣れてきた視界の先、ルミエルは息を呑んだ。 大きなベッドの上、アルリックの逞しい身体に、誰かが跨っていた。(……え?)
last updateLast Updated : 2026-04-17
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