LOGIN「お前が身代わりになりなさい」 呪いで声を奪われ、塔に幽閉されていた王子のルミエルは、傲慢な異母兄ルークの身代わりとして、隣国の覇王アルリックのもとへ「生贄の花嫁」として嫁がされる。 相手は番ったオメガを食い殺すと恐れられる冷酷な王。残り三ヶ月の命、せめて誰かの役に立って死のうと覚悟を決めるルミエルだったが、初夜に現れたアルリックは噂とは異なり、声も出せず文字も書けないルミエルを優しく抱きしめた。「泣かなくていい」――生まれて初めて向けられた慈愛と、三日三晩続く甘く激しい契りに、ルミエルの心と身体は次第に熱く溶かされていき……。 孤独な王子が、最強の番に溺愛され真実の愛を知る、救済のオメガバース。
View More朝の静寂を切り裂くように、王宮内が異様な喧騒に包まれていた。
窓の向こうから、石畳を踏む幾重もの足音、遠くで重々しい扉が幾度も開閉される音が、微かな震えとなって伝わってくる。ルミエルは冷えた窓枠に指先をかけ、そっと中庭を見下ろした。
(……何事だろう。こんなに朝早くから)
普段、この塔の周囲に人の気配がすることなど皆無に等しい。だというのに今朝は、侍女たちが裾を乱して慌ただしく行き交っている。張り詰めた空気が冷たい石床を伝って、ルミエルの足の裏から心臓へと這い上がってくるようだった。
本能が、何かが起きると告げていた。
声を持たないルミエルにとって、隔離された塔の中で外界を知る術は、音と空気の揺らぎしかない。彼は生まれながらにして、呪いによって言葉を封じられているのだ。王妃お抱えの術師が施したその呪詛は、問いかける自由も、真実を確かめる術も、助けを求める叫びさえも、その喉から根こそぎ奪い去っていた。
じっと外を眺めていると、不意に階段を上る規則的な足音が鼓膜を叩いた。
一つ、二つ。
迷いのない足音はルミエルの部屋の前で止まり、鍵が回る嫌な金属音が響く。外側から乱暴に開け放たれた扉から、まず姿を現したのは王妃エレーヌだった。
深紅の絹が床を擦る傲慢な音。燭台の光を弾く、頭上のけばけばしい宝石。その鋭い眼光が、獲物を定めるようにまっすぐルミエルを射抜く。
続いて入ってきたのは、異母兄のルークだった。
彼は白い指先で無造作に前髪を掻き上げると、ひどく退屈そうに室内を一瞥した。肩に流れる淡い銀の髪、紫水晶のような瞳。国一番の美貌と自負するその姿は、同じ血が流れているとは思えないほど、眩い光に満ちていた。
(兄さんは、今日もあんなに輝いている……)
ルミエルは弾かれたように立ち上がり、深々と膝を折って頭を垂れた。床の冷たさに額を寄せ、嵐が過ぎ去るのを待つ獣のように身を縮める。
「ルークの結婚が決まったわ」
王妃の、蜜に毒を混ぜたような声が降ってきた。
「相手は大国グライエンの王。近隣諸国を蹂躙し続ける、あの残虐な覇王よ。……けれど、困ったことにあの男は、番ったオメガを食い殺すことで有名だとか。そんな獣の餌食に、私のかわいいルークを差し出すわけにはいかないでしょう?」
王妃の視線が、値踏みするようにルミエルの顔を這い回る。口角が歪に持ち上がり、嗜虐的な悦びがその瞳に滲んだ。
「お前は、あの卑しい女狐が産んだ子のくせに、どういうわけかルークに面影が似ているわ。……だから、お前がルークの身代わりになりなさい。お前が嫁げば、この国は戦争を回避できるのよ」
(僕が、嫁ぐ……? 兄さんの、代わりに?)
その言葉の意味が、じわじわとルミエルの胸の奥に沈殿していく。
彼は視線を伏せたまま、抗う術のない事実を飲み込んだ。王妃の決定は、この国における絶対の法だ。だが、疑問が頭をもたげる。
ルークの美しさは諸国に轟いているはずだ。だからこそ覇王も彼を指名したのだろう。自分のような影のような存在が、果たしてあの光り輝く兄の代わりなど務まるのだろうか。
同じ父の血を引いている。系統は似ているのかもしれない。けれど、ルークのような人を惹きつける華やかさは、自分には微塵も備わっていない。
もし、身代わりだと露見してしまったら。覇王の怒りに触れれば、それこそ国は滅びるのではないか――ルミエルの胸に、冷たい不安が広がっていく。
「僕の身代わり、しっかり頑張ってよね! あいつに無残に食い殺されてきてよ」
壁に背を預けていたルークが、くねくねと身体を揺らして嘲笑した。剥き出しにされた白い歯が、その容姿の美しさゆえに、吐き出される言葉の残酷さを引き立てる。
「どうせ生きていたって、あと三ヶ月の命なんだから。死ぬ前に僕たちの役に立てて、よかったね」
――三ヶ月。
その言葉に、ルミエルの胸の奥がチリリと焼けた。
ルークの言う通りだ。彼の命は、あと百日も残されていない。二十歳の誕生日を迎えた瞬間に、呪いによって命の灯が消える。幼い頃から、呪文のように聞かされてきた宣告。
ルミエルが生まれたとき、王宮の術師は予言した。「この子は国の破滅を呼ぶ」と。
その予言一つで、彼の母は愛人の地位を追われ、城の外へと放逐された。母が今どこで、どうなっているのかさえ知らされていない。
そしてルミエル自身は、王妃の命でこの塔に幽閉された。声を奪う呪いと、命を削る呪い。二つの重荷を背負わされ、暗い部屋でただ朽ちていく時間を数えてきた。「破滅を呼ぶのは成人してからだ、それまでは生かしておく」という、慈悲を装った放置。
(……食い殺されるのも、呪いで死ぬのも、大差ないのかもしれないな)
「あーあ、今日から僕がこの部屋を使うのか」
ルークが欠伸をしながら、勝手知ったる様子で室内を歩き回る。
「父上は、僕が嫁いだって思い込んでるんだもんね。仕方ないなあ。ねえ母上、ここを快適にするために、新しい家具をたくさん買ってもいい?」
「ええ、好きなようになさい」
二人の会話から、これが国王にすら秘匿された、王妃独断の陰謀であることをルミエルは察した。
彼の存在を知るのは、国王と王妃とルークだけ。世話係は彼に情を移さぬよう、常に短期間で入れ替えられてきた。彼は、最初から存在しないも同然の王子なのだ。
王妃の合図で、表情を失った侍女たちが数人なだれ込んできた。
ルミエルはなす術もなく、彼女たちに腕を引かれ、浴室へと連行される。
大きな木桶にはたっぷりの湯が張られ、白い花びらが水面に揺れていた。むせ返るような花の香りが立ち込める。侍女たちの手が、彼の髪を、背を、指の先まで執拗に磨き上げていく。
湯の熱が冷え切った肌に染み込んでいくのに、ルミエルの意識はどこか遠い場所を漂っていた。天井へと昇っていく白煙、桶の縁を伝って落ちる泡。規則的な水音だけが、耳の奥で虚しく反響する。
(……外に、出られるんだ)
三ヶ月後の死が決まっていても、鉄格子のない空の下へ出られるという事実が、胸の片隅で淡い期待として拍動する。
湯から上がると、豪華な化粧台の前に据えられた。
鏡の中で、乱れていた髪が丁寧に梳かれていく。毛先が切り揃えられ、前髪が額を覆う。侍女の指が動くたび、鏡の中の「彼」は、彼ではない何者かへと変貌を遂げていく。
(……ルーク、兄さんに……)
完成したその姿に、ルミエルは息を呑んだ。
そこには、いつも窓に映っていた影のような少年の姿はなかった。
「こうして磨けば、ルークと双子のようにそっくりね」
王妃がルミエルの肩越しに鏡を覗き込み、甲高い笑い声を上げた。
「この日のために、神様がお前たちの顔を似せたのね。死ぬ前に国外に出られるなんて、お前には分不相応な幸せだわ。塔の中で死体の片付けをせずに済んで、清々するわ」
笑い声が石壁に反響し、呪詛のように降り注ぐ。侍女たちは一言も発さず、一度もルミエルと目を合わせることはなかった。
重厚な旅装束に袖を通され、帯をきつく締められ、上質な靴を履かされる。鏡の中に立つルミエルは、もはやルークと遜色ない「高貴な生贄」となっていた。
準備が整い、塔を出ると、一台の馬車が静かに口を開けて待っていた。
見送る者は、誰もいない。
馬車が動き出した瞬間、肌をなでる空気が劇的に変わった。
格子の隙間から切り取られた断片としてしか知らなかった世界が、今、目の前に広がっている。
燃えるような木々の緑が視界に飛び込み、湿った土と草の匂いが鼻腔を突く。馬の蹄が石畳を叩く規則的な音が、自由への秒読みのように聞こえた。
忌まわしい城の気配が、一刻一刻と遠ざかっていく。
ルミエルは膝の上で、きつく拳を握りしめた。
(僕は、この国を出ていく――)
グライエン王国の不吉な噂が、頭を巡る。オメガを食い殺すと恐れられる、血に飢えた覇王。
一生をこの暗い塔で終えるのだと諦めていた。けれど、王妃の突然の命令から、わずか二時間でルミエルの未来を塗り替えた。
今は『ルーク』としてこの馬車に揺られている。兄の身代わりとして、獣の顎へと向かう旅路。
(……僕が食われることで、この国のみんなが救われるのなら)
暗い塔の中で無意味に三ヶ月を浪費するより、ずっと「命」の使い道として正しい気がした。誰かの役に立てるのなら――。
国を滅ぼす呪われた子として朽ちていくより、ずっといい。
馬車が大きく揺れるたび、見たこともない景色が窓の外を流れていく。差し込む木漏れ日が床を斑に照らし、光と影が揺れては消えた。
窓から仰ぐ空は、あの格子の向こうにあった空よりも、残酷なほどに広かった。遮るもののない青さが、網膜に染み渡る。
生まれてからずっと、あの鉄格子の向こうにこの青を探してきた。今はもう、彼を遮るものは何もない。ルミエルは声もなく、ただその鮮やかな青を、永遠に刻みつけるように見つめ続けた。
あれから、一ヶ月の月日が流れた。 寝室の石造りの暖炉には赤々と火が灯り、夕暮れの訪れが早い季節の到来を告げている。パチリ、と薪が爆ぜる規則正しい音が静寂を刻み、橙色の炎が揺らめくたびに、天蓋の白い布には長く、不規則な影が這い回る。窓の外は藍色の闇に呑まれ、遠くで冬を予感させる風が木々を激しく鳴らしていた。乾燥した空気に、薪の煙の芳しさが微かに混じり、部屋の中に親密な温度を溜めている。 ルミエルは革張りのソファに深く身体を沈め、膝の上に一冊の本を開いていた。 それはアルリックから直接、手ほどきを受けた文字で綴られた物語だ。以前は一頁を読み進めるのにも酷く時間を要していたが、今では指先で追う視線も滑らかになり、文字の羅列はもはや未知の記号ではなく、意味を宿した生きた言葉としてルミエルの中に溶け込んでいる。 視線は物語を追いながらも、喉の奥では、ずっと別のことを反芻していた。(今日こそ……伝えられる気がする) 重厚な扉が開く音がし、アルリックが姿を現した。 一日の政務を終えた彼の貌には僅かな疲労が滲み、上着の襟元が少しだけ乱れている。卓上の燭台が放つ明かりが彼の金髪を眩く照らし、左頬に刻まれた傷跡が深い影を落とした。 けれど、その琥珀色の瞳がルミエルを捉えた瞬間、張り詰めていた肩の力がふっと抜けるのを、ルミエルは見逃さなかった。 本を閉じ、吸い寄せられるように彼のもとへと歩み寄る。ルミエルが背伸びをしてその唇
謁見の間には、透き通った朝の光が斜めに差し込んでいた。 石造りの高い天井まで届く縦長の窓から、白い光の帯が幾筋も床に伸び、石畳の冷たさを微かに和らげている。壁際に置かれた燭台の炎が、外から吹き込むわずかな風に揺れ、灰色の壁に生き物のような影を落としていた。 アルリックが重厚な彫刻の施された上座にどっしりと腰を下ろし、そのすぐ隣にはルミエルが静かに控えていた。 向かい側に座るのは、エルテア王国の新国王オーヴィン・ヴァランと、その傍らに寄り添う王妃。今日この場に臨むまで、ルミエルは幾度も心の準備を重ねてきた。かつて自分を塔に閉じ込め、呪いの名の下に蔑んできた「エルテア」という国の名は、今なお胸の奥底に小さな、けれど鋭い緊張の礫を投げ込んでくる。 ふと視線を向けた新王妃は、ひどく華奢で、儚げな印象を纏う人だった。 細い肩に淡い藤色のドレスが柔らかく落ち、膝の上で重ねられた白い指先が、時折不安げに微かな震えを見せている。年齢はルミエルよりも随分と上のはずだが、その顔立ちは驚くほど整っており、伏せられた長い睫毛の影が頬に美しい陰影を作っていた。丁寧に結い上げられた柔らかな茶色の髪には派手な装飾はなく、その控えめな佇まいにこそ、高潔な品格が宿っているように思えた。 身構えていたルミエルの強張りが、彼女の放つ穏やかな空気感に触れて、雪解けのように少しずつほぐれていくのを感じる。 一通りの儀礼的な挨拶が交わされ、アルリックとオーヴィンは、両国の近況について言葉を交わし始めた。 国境の安定、交易に関する新たな取り決め、周辺
目が覚めた瞬間、ルミエルは指先一つ動かすことができなかった。 瞼の裏側には、暴力的なほど鮮やかな白光が満ちている。天蓋の白い布を透かして差し込む朝の陽光が、寝室の隅々までをやわらかな輝きで満たし、浮かび上がる埃の粒さえも金色の砂のように輝かせていた。 遠くから微かに届く鳥のさえずり、窓の外で若葉が風に戦ぐカサカサという乾いた音。そして、暖炉の隅で灰になった薪の、微かな焦げたような香りが鼻腔をくすぐる。 眠りに沈んでいた五感が、痺れが解けるように一つずつ、ゆっくりと覚醒していく。その緩慢な時間の流れの中で、ルミエルは自らの胸の内に問いかけた。(……ああ。僕、生きてる。本当に、朝を迎えたんだ) 今日は、ルミエルの二十歳の誕生日だった。 この世に生を受けてからずっと、死の期限だと信じ込まされてきた「呪い」の日。暗い塔の中で、砂時計の砂が落ちるのを眺めるようにして待ち続けていた終焉の日が、今、これほどまでに穏やかな朝としてそこにあった。 呪いなど存在しなかったと、あの男の口から真実を知った後も、この朝を迎えるまでは拭いきれない恐怖が胸の隅に澱のように沈んでいたのだ。夜中にふと目を覚ますたび、ルミエルは暗闇の中で自らの胸に細い手を当て、ドク、ドクと刻まれる脈動を確かめては、安堵と不安の狭間で再び瞳を閉じる夜を幾度も繰り返してきた。 ――けれど、約束の朝は来た。 左胸の奥で、心臓が確かに、力強く時を刻んでいる。
「――ここは、あとは儂がおさめるから。行ってくれ」 老いた国王の震える言葉に、アルリックは短く一度だけ頷いた。そして、迷いのない所作でルミエルの細い手を取った。(……温かい) ルミエルの指先を包み込むアルリックの手のひらは、夜の冷気にさらされていたはずなのに、驚くほど熱を帯びていた。その確かな質量に、ルミエルは胸の奥がじんわりと疼くのを感じる。「では、任せた。我々は国に戻る」 アルリックはそれだけ言い捨てると、無造作に踵を返した。ルミエルはその大きな手に引かれるまま、一歩を踏み出す。 背後で国王が何かを言いかけた気配がしたが、アルリックは一度も振り返ることなく、前だけを見据えて歩き続けた。 遠ざかっていく王妃の狂おしい泣き声、ヨハンの醜い怒鳴り声。それらが夜の静寂に吸い込まれ、代わりに二人を包んだのは、研ぎ澄まされた冷たい夜気だった。規則正しく石畳を叩く足音だけが、耳の奥に心地よく響く。 隣を歩くアルリックの気配を感じながら、ルミエルは肺の奥まで冷たい空気を吸い込み、長く吐き出した。(僕は……最初から、呪われてなんていなかったんだ) その事実は、羽毛のように軽くルミエルの心を撫でた。けれど同時に、腹の奥にはズンとした重たい塊が居座っている。