Share

第四十六話

last update Last Updated: 2025-06-25 10:58:51

夜の街は、思っていた以上に静けさを湛えていた。

窓を少しだけ開けると、初夏の涼しい風が部屋に入り込み、レースのカーテンがやわらかく揺れた。

瑠香はすでに眠っていて、私はそっと寝室を抜け出し、リビングのソファに腰を下ろす。

時計の針は、まもなく二十三時を指そうとしていた。

この時間に誰かと連絡を取ることなど、普段はまずない。

けれど今日は、スマートフォンを手放すことができず、画面を見ては閉じて、また見て――そんなことを繰り返している。

信じているつもりだった。待つと決めたはずだった。

それでも胸の奥に残るざわつきは、なかなか消えてくれない。

テーブルの上で、スマートフォンが小さく震えた。

表示された名前を見た瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられる。

《東雲 日向》

深呼吸をしようとしたけれど、指はすでに画面をスライドしていた。

「……もしもし」

「彩華」

その一言だけで、胸がいっぱいになる。

かすかに掠れた声。でも、間違いなく――日向の声だった。

「ごめん、遅くなって」

「ううん……それで、どうだったの?」

そう尋ねると、少しだけ沈黙が落ちた。

やがて、言葉を選ぶように、彼は静かに告げた。

「終わったよ。全部」

その言葉が胸に届いた瞬間、不意に視界がにじんだ。

ほっとしたような、うれしいような、それだけでは言い表せない感情が、波のように押し寄せてくる。

気づけば、涙が一筋、頬を伝っていた。

「……ありがとう、日向」

震える声でそう伝えると、電話の向こうで彼が小さく息を吐いたのがわかった。

「俺こそ、ありがとう。彩華がいてくれたから、ここまで来られた」

「……私は何もしてないよ」

「してくれた。何も言わずに待ってくれた。それが、俺には本当に――力になった」

その静かな言葉に、また胸が熱くなる。

私はただ、待っていただけ。でも、それでもよかったと思えた。

「……彩華、今すぐ会いたい」

その声は低く、けれど迷いのない響きをもっていた。

「……私も、会いたい」

「迎えに行く。少しだけでもいい。顔を見たい」

「うん……待ってる。家のそばの公園にいるね」

通話を終えたあと、私はティッシュで涙をぬぐい、立ち上がった。

すっかり化粧は落ちてしまっているけれど、それでも鏡の前で髪を整え、少しでもまともな顔にしようとする。

泣いていたことなど、隠しようもない。

でも、それでも――今夜だけ
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • Once more with you もう一度あなたと   第四十九話

    「マーマー」「瑠香? もう起きたの……早いね……」柔らかな光に目を細めながら、いつも隣にいるはずの瑠香に手を伸ばそうとする。……が、触れたのは、思いがけない“硬い感触”。「え? あれ?」急に覚醒した頭で、私は勢いよく身体を起こした。昨日はたしか、日向と身体を重ねて、そのまま眠って――。一気に顔が青ざめそうになったが、下に視線を移すと、ちゃんとホテルのパジャマを着ていた。……ほっと胸をなでおろす。「彩華、おはよう」そして手が触れたのは、ベッドの上で胡坐をかいて座っていた日向の足だった。彼の膝の上には、ちょこんと笑顔で座っている瑠香の姿。その光景に、なぜか泣きそうになってしまう。こんな朝を迎えられる日が来るなんて――ほんの少し前まで、思いもしなかった。そんな私の表情に気づいたのか、日向がそっと私の頭をなでてくれた。その日向を見つめていると、瑠香が不意に口を開く。「おなかちゅいた」「瑠香ちゃんは、何が好き? ここはね、クマさんの絵のパンケーキがあるぞ」そう言って、日向はベッドから降りると、瑠香を軽々と抱き上げた。「彩華、ルームサービス頼んでおくよ。ゆっくり起きておいで」昔から面倒見がよくて、優しい日向。どんなにいなくなっても、彼の根底にあるその優しさだけは、私には疑うことができなかった。だから――私はきっと、ずっと日向を待っていたのだと思う。そして、日向もずっと、私を待っていてくれた。「日向。ありがとう」今までのすべての思いを込めて、私はそう答えた。それからの日向の行動は、こちらが思っていた以上に早かった。ホテルを出たあと、日向が「少し寄らせてほしい」と言った。その言い方があまりに自然で、私は反射的に頷いていたけれど、玄関の前まで来てみれば、胸の奥がざわついているのを隠せなかった。昨日、日向が母に連絡を入れてくれていたはず。私が彼と一緒にいることも、少しは伝わっているだろう。それでも、こうして三人で並んで立つ玄関の前は、思っていた以上に緊張する場所だった。「たらいまー!」私の躊躇などまるでおかまいなしに、瑠香が元気よくドアを開ける。その声に反応するように、中から軽い足音が響き、扉の向こうに、両親の姿が現れた。母と、父。並んで立つその姿に、一瞬、時間が戻ったような錯覚を覚えた。母は私たちの姿を見て、ど

  • Once more with you もう一度あなたと   第四十八話

    何から話そうか……。話を聞く、そう言ったけれど、何を聞いて、私は何を話すべきなのか。いろいろまとめていたはずなのに、言葉が出てこない。それでも、まずはこれだけは伝えないと。そう思って、日向に視線を向けた。「瑠香は、俺の(=日向の)子――」まったく同時に、そう口にしていた。もちろん、日向がそう思っていることは、なんとなくわかっていた気がする。でも、改めてお互いの口から確認する必要があった。私の言葉を聞いて、日向は顔を手で覆ったあと、これでもかというくらい、私に深々と頭を下げた。「本当に、俺の無責任な行動のせいで……彩華にひとりで出産させて、辛い思いをさせて……。どうやって償えばいいかわからない」沈痛すぎるその言葉に、私は「日向だけが悪いわけじゃない」って、そう伝えようとした。でも、すぐに日向は私の手を強く握りしめてきた。「その謝罪は、一生かけてさせてほしい」「え?」言われた意味がすぐには分からず、私はキョトンとしてしまったのだろう。日向が責任を感じて、何かと戦ってくれていることは、私も分かっていた。でも――「彩華が許してくれるまで、俺はどんなことをしてでも、彩華の信頼を取り戻して、ふたりを幸せにするって誓う。だから、ずっとそばにいてほしい」……でも、それはあくまで瑠香のため?そう思うのに、まるで愛の告白のようにすら聞こえる言葉と、日向の真剣な瞳に、頭が混乱する。私はもちろん、ずっとずっと日向が好きで、どんなことをされても、結局嫌いになんてなれなかった。周りにいた素敵な人たちにも、心が動かされることはなかった。でも、日向は?そんな思いが溢れて、言葉が口をつく。「でも、日向。瑠香は、私が勝手に産んだの。それに……“抱いて”って、あの日迫ったのも私。もし、罪悪感からなら、それでいいんだよ。瑠香の父親ってことだけは、ちゃんと認めてほしい――」そこまで言ったとき、不意に強い力で引き寄せられた。気づけば、私は日向の胸の中にいた。「そんなこと言うな。俺は、彩華がいないと……俺でいられない」「日向……?」「小さいころから、彩華だけが俺の光で、彩華の前でだけ本当の自分でいられる――。ずっと好きなんだ」泣きそうにも聞こえるその声には、決して嘘や偽りなど感じられなかった。その瞬間、私はギュッと心臓をつかまれたような気がした。

  • Once more with you もう一度あなたと   第四十七話

    支度を整えたあと、私はキッチンで朝の片付けをしていた母に声をかけた。「お母さん……帰ってきたら、全部話すから。もう少しだけ、待ってくれる?」日向は今日、両親にきちんと会って話したいから、迎えに行くよと言ってくれた。でも私は、それより先に――すべて自分の中で整理をつけてからにしたくて、直接会うのではなく、待ち合わせがいいとわがままを言った。そして、日向はその気持ちを尊重して、うなずいてくれた。今日の話次第で、これからのことが決まるのだと思う。どうなるかわからない以上、今の段階では両親に何をどう話せばいいか、自分でもまだはっきりしなかった。母はふと手を止めて、私の顔を見つめた。ほんの少しだけ、不安そうな表情を浮かべたけれど――やがて、ゆっくりとうなずいた。「……わかった。楽しんできなさい」それだけを言って、母は笑って背を押してくれた。きっと、母なりに今の私を信じて、見守ってくれているのだと感じた。待ち合わせ場所に着くと、日向はすでに到着していて、車のそばに立っていた。いつもはスーツ姿の彼が、今日は珍しくカジュアルな服装をしている。柔らかなグレーのシャツに、淡いベージュのパンツ。気取らない雰囲気が、思いのほか彼によく似合っていて、胸がわずかに高鳴った。週末の朝、空はどこまでも澄み渡り、お出かけ日和だった。「瑠香、靴はいた? 今日はお出かけするって言ったでしょ?」「はいたー!」リュックを背負った瑠香は、玄関でぴょんぴょんと跳ねていた。朝からすっかり上機嫌で、その姿に思わず笑みがこぼれる。「お待たせ」そう声をかけると、日向は穏やかに笑い、まず瑠香に視線を向けた。「瑠香ちゃん、おはよう」「ひなたー! ひなた、おでかけ!」「うん。今日はたっぷり遊ぼうな」差し出された手を、瑠香は迷うことなく握った。たったそれだけのことなのに、胸の奥がじんわりと温かくなった。この光景を、ずっと見ていたい――心から、そう思った。昼食をとり、パレードを見て、キャラクターのぬいぐるみを買った帰り道。瑠香がそのぬいぐるみを大切そうに抱えたまま、「きょう、たのしかったね」とつぶやいたとき、私も日向もつい顔を見合わせて笑ってしまった。「じゃあ、帰る?」話をするとは聞いていたが、瑠香ももう眠そうで私がそう問いかけると、日向は思案するような表情を浮か

  • Once more with you もう一度あなたと   第四十六話

    夜の街は、思っていた以上に静けさを湛えていた。窓を少しだけ開けると、初夏の涼しい風が部屋に入り込み、レースのカーテンがやわらかく揺れた。瑠香はすでに眠っていて、私はそっと寝室を抜け出し、リビングのソファに腰を下ろす。時計の針は、まもなく二十三時を指そうとしていた。この時間に誰かと連絡を取ることなど、普段はまずない。けれど今日は、スマートフォンを手放すことができず、画面を見ては閉じて、また見て――そんなことを繰り返している。信じているつもりだった。待つと決めたはずだった。それでも胸の奥に残るざわつきは、なかなか消えてくれない。テーブルの上で、スマートフォンが小さく震えた。表示された名前を見た瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられる。《東雲 日向》深呼吸をしようとしたけれど、指はすでに画面をスライドしていた。「……もしもし」「彩華」その一言だけで、胸がいっぱいになる。かすかに掠れた声。でも、間違いなく――日向の声だった。「ごめん、遅くなって」「ううん……それで、どうだったの?」そう尋ねると、少しだけ沈黙が落ちた。やがて、言葉を選ぶように、彼は静かに告げた。「終わったよ。全部」その言葉が胸に届いた瞬間、不意に視界がにじんだ。ほっとしたような、うれしいような、それだけでは言い表せない感情が、波のように押し寄せてくる。気づけば、涙が一筋、頬を伝っていた。「……ありがとう、日向」震える声でそう伝えると、電話の向こうで彼が小さく息を吐いたのがわかった。「俺こそ、ありがとう。彩華がいてくれたから、ここまで来られた」「……私は何もしてないよ」「してくれた。何も言わずに待ってくれた。それが、俺には本当に――力になった」その静かな言葉に、また胸が熱くなる。私はただ、待っていただけ。でも、それでもよかったと思えた。「……彩華、今すぐ会いたい」その声は低く、けれど迷いのない響きをもっていた。「……私も、会いたい」「迎えに行く。少しだけでもいい。顔を見たい」「うん……待ってる。家のそばの公園にいるね」通話を終えたあと、私はティッシュで涙をぬぐい、立ち上がった。すっかり化粧は落ちてしまっているけれど、それでも鏡の前で髪を整え、少しでもまともな顔にしようとする。泣いていたことなど、隠しようもない。でも、それでも――今夜だけ

  • Once more with you もう一度あなたと   第四十五話

    その日も、朝は変わらず始まった。洗濯機を回しながら、朝食をテーブルに並べる。「瑠香、ゆっくりたべてね」いつも通りの朝の風景の中で、心のどこかがざわついていた。何かが起こっている。言葉にはならないけれど、確かに胸の奥にひっかかっている、直感に近い予感。昨夜、日向は言った。「明日は大事な会議がある」と。それ以上は何も語らなかったし、私も「教えて」とは聞かなかった。聞いたところで、私にできることは何もない。でも――もし知ってしまえば、もっと不安になることも、私は分かっていた。「ママ、えほんー、よむー!」「はいはい、じゃあ片付けたらね」瑠香に笑いかけながらも、意識のどこかでは、ずっと日向の顔が浮かんでいた。彼が、自分の人生を懸けて何かと戦っている。そう思うようになったのは、あの夜、彼が「全部片付ける」と言ったあの言葉が、ずっと心に残っているからだ。日向が本気で誰かに立ち向かっているとき、私は何もできない。ただ家で、待っているしかない。けれど、その“待つ”という時間が、こんなにももどかしく、切ないものだなんて――知らなかった。彼が誰と向き合っていて、どんな壁にぶつかっているのか。何ひとつ知らされていないまま、私はただ、今日という一日を過ごしている。キッチンで洗い物をしながら、スマホに目を落とす。新着通知はない。もちろん、日向からの連絡も。「……バカだな、私」ふと漏れた呟きは、カチリと鳴った食器の音にかき消された。「何もないのが、きっとうまくいってる証拠。そう思わなきゃ」自分に言い聞かせるようにつぶやいても、心はざわざわと騒がしいまま。不安と信頼が交互に押し寄せて、感情が波のように揺れていく。何もしていないのに、胸がぎゅうっと締めつけられて、気がつけば洗い終えた皿を拭く手が止まっていた。「ママ、だいじょぶー?」小さな声に、はっと我に返る。「うん、大丈夫だよ。ちょっと考えごとしてただけ」そう言って笑ってみせたけれど、その笑顔がどこかぎこちないことに、自分でも気づいていた。会議室には、静寂が満ちていた。いつもなら、プロジェクターの光と資料をめくる音が行き交うはずのこの場所には、今日に限ってそのどれもなかった。ただ張り詰めた空気だけが、沈黙のなかでじっと息を潜めていた。――ついに、この時が来た。テーブルの向こう

  • Once more with you もう一度あなたと   第四十四話

    取締役会当日。いつもより早く目が覚めた。眠っていたはずの身体は妙に軽く、反対に、心のどこか深いところがじっとりと重たく、言いようのない緊張が、体温と一緒にじわじわと肌に滲んでくる。その感覚だけが、今日という一日の意味を、静かに確かなものにしていた。会議室のドアを開けた瞬間、冷えた空気と鋭い視線に迎えられる。すでに数人の役員たちが着席し、無言のまま書類に目を落としたり、視線を交わしたりしていた。そしてその中央――会議室の誰よりも早く、そして変わらぬ姿勢で椅子に腰掛けていたのは、他でもない、俺の父だった。その表情は、何ひとつ変わっていなかった。まるで感情を持たない仮面のように無表情で、何が起きても動じないという強さをまといながら、ただひとり静かに座っている。俺の姿を捉えても眉ひとつ動かさず、目の奥で何かを計算しながら、黙ってこの場を支配していた。自分の勝利を疑っていないような態度――けれど、その沈黙の奥に、ごくわずかに、だが確かに滲んでいたのは、焦りにも似た緊張の色だった。坂本、宮島、橋口。視線を交わすと、三人はそれぞれ小さく頷く。その動作は控えめだったが、そこに込められた意思ははっきりしていた。敵か、味方か――この空間においては、言葉よりも先に交わされる視線や身じろぎ一つひとつが、あまりにも重く、鋭く響く。油断すれば飲み込まれそうな空気の中、俺は静かに椅子を引き、そのまま席に着いた。会議が始まると、議題はいつも通り、淡々と進んでいった。設備投資計画、新規人事、業績報告――一見すればどれも穏やかな、予定調和のような内容ばかり。だが、この場にいる誰もが、その裏にある今日の“本題”を意識していた。そしてついに、最後の議題。その空気の隙間を縫うように、俺はゆっくりと立ち上がった。「すみません。一点、議題に追加があります」父の眉が、わずかに動く。「……議題は事前提出制だ。何のつもりだ」低く、重たい声だった。それでも俺は、声を揺らさずに返す。「例外として、緊急性の高い案件は追加可能と、社内規程第十五条に明記されています」その言葉にすぐさま反応したのは坂本だった。まるで準備していたかのように、淡々とした口調で補足を加える。「議題追加の動議は、出席取締役の三分の二の賛成で認められます。規定に沿った手続きです」会議室に、

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status