目が覚めた中年男性は、直ぐに上半身を起こした。部屋を見回し、汗だくで目の前に座り込んだ少年を見て悲鳴を上げた。
「うっ !! うわぁっ !! 助けてくれ !! 頼む ! なんでもする ! 」
見知らぬ場所。
閉ざされたドア。 窓が無く、カメラだらけのコンクリート壁。 無機質な空間だった。 ひと目でわかる密室。 空調は小さな配管のみ。通れるのはネズミ程の生き物だけだろう。男性は誘拐されてきた自分に、災厄が襲って来るのが確定しているかのように怯えていた。
しかしそばにいた少年もまた、起きたばかりだった。目をシパシパとさせ、明るい蛍光灯の光に顔を歪めていた。 そして男の方をゆっくり見上げる。 ぼうっとしていて、いまいち状況を理解していない様子だったが、錯乱した男性を見て連鎖するように取り乱した。「え……? えぇ !?
あの…… ! 違います ! その ! 僕も今、目が覚めたんです ! お兄さん、お願い ! 僕をほっといて ! こっちに来ないで ! 僕は何も…… !! ……あ……うぅ……頭が痛い…… ! 」さらりとした黒髪に、どんぐりの様な瞳。
本当にただの子供じゃないかと、男は一度生唾を飲み込んだ。 少年の無害そうな素振りに、男も少し状況が見えてくる。 怯えきった少年を、壁に張り付きながらもう一度まじまじと見つめた。子供。
自分よりずっと年下の……高校生の制服少年。「あ、頭…… ? だ、大丈夫か ? 殴られたのか ? ここに来る時、なにかされたのか…… ? 」
「あ……。
七月中旬──日々野高等学校。 本格的な夏を目前に、蛍は古川家から託された仏花を手に登校していた。 香澄の死。 あれから一ヶ月が経とうとしていた。「蛍君。いつもありがとう」 一人の女子がその花を受け取りに、下駄箱へ来ていた。清楚な制服の着こなしに、腰まである長い三つ編み。指紋ひとつない丸い眼鏡が印象的な女子生徒。 蛍に頭を下げ両手で花を持つ。「別にいいよ。香澄の親からだしさ」 彼女は手の中に収まる纏まった菊を、鬱屈な瞳で見下ろした。「今日は白ね。ピンポンマムが可愛い」 剃刀のような瞳が僅かに揺らぎ、小さく微笑む。 生徒会役員 山王寺 梅乃。 香澄の唯一、親しかった女友達だ。付き合いこそ蛍ほどでは無いが、中学、高校と同じ時間を共に過ごして来た。 その容姿の特徴はなんと言っても刺すように鋭い、凍りつくような目付きだ。本人のコンプレックスだと言う梅乃だが、クールで賢い彼女のファンは多い。「ありがとう蛍君。じゃあ花瓶に入れてくる」 切れ長の瞳が、眼鏡の奥で一瞬だけとろんと下がり、はにかむのを隠すように下を向く。「梅乃さん……俺もやろうか ? 」「えっ ? 」「いや、いつも……悪いし……。俺もちょっとやらないと落ち着かないし」「あ……う、うん。じゃあ、花瓶を取りに行きましょうか」 二人並んで廊下を歩く。 既に学校は元の活気を取り戻してきた。香澄も大きな友人グループに身を置いていた訳では無い。至って地味目な生活だった上に、一番懇意な友人が、この梅乃だけ。 学校の中でも目立たない女子生徒二人。 その片割れが亡くなったと集会で知った時、生徒たちは初めこそ動揺していた。しかし、現実は残酷だ。 今や教室の片隅、香澄の花瓶の手入れをする者は減っていくばかり。それで最後に残ったのが梅乃だったという事だ。 花瓶を抱えた胸がふにっと押され、柔らかな様を、目ざとい男達の視線を集める。 &nbs
「はぁい。来たわね、ケイ少年 ! 学校近くなのに遅くない ? 」 来てみてから後悔する。 そもそも図書館に来れなかった理由はこれだ。 ルキからの監視者、咲良 結々花の得体が知れない。 見つからなければ大丈夫かと踏んだ蛍だったが、受付にいるのでは隠れようがない。以前は別の男性が座っていたはずだが、恐らく無理にねじ込まれて来たのだろう。「本を読みに来ただけ。あんたに用は無いよ」 蛍は結々花からそっぽを向いて、他の学生たちとは違う本棚へと向かう。「あれれ〜 ? 」 その後をぬらりと艷めくハイヒールが追いかける。「てっきり、ルキ君の事でも聞きに来たのかなーって思ったんだけど ! 」 聞きたいのは図星だ。 だが蛍は自分がルキに興味が向いていることを、誰にも悟られたくないのだ。「どっか行って。気が散る。図書館で司書がべらべら喋んないでよ」「ツンデレってやつよね ? わたしが美人だからでしょ ? 」「それ持ちネタなの ? 美人だとは思うよ。でもつまんないかな。好みじゃないし」「うぅ……むぅ……。び、美人っては思うんだ。 まぁまぁ。仲がいいまともな大人が知り合いにいるのって、君の為になると思うんだ〜」 その言葉には裏がある。監視を楽にするために、結々花としては蛍を懐かせた方が手っ取り早いと思うのだろう。 蛍は一度ため息をつくと、隣に並んだ結々花を見上げる。 結々花の美しい黒髪は仕事中、編み込まれて纏め上げられている。纏めるのが勿体ない程の針の様なストレートヘアなのだが、これはこれで華やかだ。 その髪が側に来ると、蛍の鼻腔を芳しくくすぐる。 結々花は本棚を見上げ、背表紙をさらりと撫で付けながら目を通す。「……行動心理学……プロファイリング入門、無差別殺人鬼の獄中記、犯罪心理学 ? いつもこのジャンルを読んでるの ? 」「いや……そういう訳では……」 次のゲームの備えに。 その一言が出ない。普通では望ん
「あら、わたしはお邪魔ね。 じゃあねケイ君」 結々花と入れ違いに、美果が怪訝そうに蛍を見詰め近付いて来た。「生きてた……って事は、あの男たちも全員生きてるのね ? 追われてたみたいだけど。部下の一人とはこないだ会ったけど……」「はい。美果さんは車で脱出したんでしたよね ? 無事で何よりです」「まぁ……ね。 ……ねぇ、ちょっといい ? 少し貴方と話したいと思ってたのよ」「構いませんが」 美果はむっすりとしたまま、誰もいない小さな多目的ルームに蛍を招き入れた。 途中、受付に戻っていた結々花は愉快そうに二人の様子を見て微笑んでいた。「もしかして、結々花さんに呼ばれてここに来ましたか ? 」「え ? 結々花って誰 ? あぁ、さっきの人 ? 全然。知り合いなの ? 」「いえ……」「絵の具なんか使うし、賃貸で汚したくないから、たまにこの多目的室を借りるの。これ抱えて移動するのしんどいけどね」 新しく建てられた図書館の裏手には、古い時代の建物がそのまま残されている。その一角を、こうしたペイントやDIYなど多少汚しても許されるルームがあるのだ。 室内の机は端に寄せられ、床のブルーシートの上に大きなキャンバスがあった。他にもキャンバスは持ち帰らない者もいるようで、壁の棚に何枚も立てかけられていた。 目の前にあるのは美果の絵だ。殴るような力強い筆使い。インパクトが強い色合い。「わたしの作品よ。何が描いてあるか分かる ? 」 赤い玉と黒い何か。そしてなんとも言えないミミズのような線が一本。「いいえ。芸術にはあまり触れてこなくて」「本当に ? 」 美果はトートバッグの中から一冊のコピー紙を取り出すと、それを開いてイーゼルに立てかける。 大きく限界まで印刷された『最後の晩餐』の絵画だった。「…………」「わたしね。納得いかないのよ
「あの ! 美果さん、俺に芸術を教えて下さい ! 」「え…… ? なんで ? 急に何よ……」 困惑する美果の脳に蛍が畳み掛ける。「俺の家、葬儀屋って言ったの覚えてますか ? 葬儀には美しいものって必要ですよね ? でも経験がないから何から学べばいいのか分からないし、父は見て覚えろってタイプで。 美果さんならあの夜の話も出来るし、そういう隠し事なく教われる気がするんです」「そ、そんな。わたしだってまだ大学で学んでる最中なのよ !? そんな……人に教えるなんて。 でも、そっか……葬儀屋さんか……」 勝ち確。 美果は満更でも無い様子だ。 あの日、幼馴染の香澄が死んでも何ともなかった様子の蛍。 廃校到着直後、誰よりも恐怖していた美果にとって、湧き出た怒りが邪魔をしてその記憶は最早薄れていた。「どこかで習うお金とか無いですし。何から学んでいいのかも分からないし。俺、困ってて。 正直に言うと、今『最後の晩餐』の作り方に駄目出ししてくれたじゃないですか。そのくらい言ってくれる人じゃないと、習うには意味が無いと思うんです。美果さんが一番だと思ったんです ! よろしくお願いします ! 」 深く、頭を下げる。「ちょっ……ちょっと ! 待ってよ」 香澄も亡くし、部活もしていない蛍が家に真っ直ぐ帰らない理由。図書館をウロつくだけでは心許ない。 学校から寄り道した時の為のカモフラージュ。親に信じて騙せるような、正当な行動パターンが欲しいのだ。 美果にはその通りの名目で芸術を習う。 重明からみたら、息子が突然芸術を口実に家業に関わらなくなる。そのタイミングで接点を持った女子大生。思春期の子供なら、これは正常だろう。梅乃の勧め通りに生徒会などに入ったら、私生活を詮索されかねないが、美果ならば、いざと言う時あの夜の話しで脅しも効くかもしれない。「べ……別に。いいわよ。わたしでよければ。 わたしもあの夜の事情を話せる人、欲しいし」
「……っ」 目が覚めた妊婦はギョッとして辺りを見回す。 狭い部屋だ。打ちっぱなしのコンクリートに、カメラのような機材が立ててある。 次に気付いた異変は足だ。 上半身を起こそうとした時、自分の足が拡げるように縛られていた。恐らくカメラのスタンドに使われていたスチール製の棒で、引き裂いた布で結ばれ、脚が閉じられないようになっている。 妊婦である自分が最も恐れることが起きている。「な、なんなのこれ !!? 」 解こうとした手もまた、何かに繋がっていた。 そこへ真上から女の声が降ってくる。「目が覚めた ? 」「だ、誰なのっ !? 」「大丈夫よ。落ち着いて」 地味顔で薄化粧の女だ。 白衣を着ているが、手に持っているのは何かの医療器具だろう。「誰なのよ !? 」「今、そこは問題じゃない。 あのね。うちの研究所の被検体が足りてないのよ。特に女性が」「被検体 !? わたし、そんな許可とか問診してないわ…… ! そう……そうだわ、思い出した ! 胎教ヨガに行く途中、知らない人に囲まれて……」「まぁ誰でもよかったんだけれど、連れて来る奴が、貴女が妊娠してるとは思わなかったみたいでね。今、三ヶ月ちょいくらい ? まだお腹目立たないもんね」「い、家に帰して…… ! なに ? なんなのよ〜 !! 犯罪じゃない !! 」「ここはそういう場所。貴女が外に出れるのは研究が終わってからよ」 白衣の女は動じない様子でピシャリと言い放った。「実験に強力して欲しいのよ。 でも……その為には、赤ん坊は邪魔なのよね」 細く長い機材とハサミのような器具を見た妊婦は全てを理解した。 いや、一部の理解だが、自分にとって一番大切なものが今、目
「……煙草きらしただけですよ。わたしはご機嫌です、ルキさん」「えぇ〜 ? 身体に良くないよ。止めた方がいいって」「……ええ、まぁ……そのうち」 ヘラついたルキを鋭い目が睨みつける。ルキは全く気にしていない様子で、タンブラーを手に梅乃の向かいへドカッと座った。 ワゴンはゆっくりと駐車場を出て幹線道路へ出る。「校舎のクリーニング。今回早かったね。ケイのとこなんか、凄い散らかっちゃってたんだけど」「あぁ、あの教室が蛍のいた場所だったんですか ? 全く穢らわしいです」 梅乃の組織は元在日コリアンマフィア。元々は現地の一次団体が母体であったが、在日マフィアの立場は日々難しく、上手く並に乗る団体はひと握り。日増しに暴対法も厳しくなり、食い扶持に有りつけなかった組織はいとも簡単に握り潰される。 梅乃に山王寺グループも同じだった。日本で崩れ、零れて行来そうになった小さな組織。 それをルキが支援を行い、あのようなゲームの事前準備や清掃を行っている。 組の代替わりもタイミングが悪く、一人娘がたった一人で看板を背負っている。マフィアなのかヤクザなのかもぼんやりした反社で、宙ぶらりんな存在なのが現実だ。「それにしても毎回掃除ばかり。流石にうちの連中も退屈してる。 もっと満遍なく、色んな仕事回してくれます ? 」「報酬を上げるから許してよ。イベント中は外部の人間を入れたくないんだ。 あのスピードでいつも満足してるしね。しっかり動いてくれる組織は大歓迎。優秀な人も大好き。 きっと梅乃ちゃんの存在がそうするんだろうねー。俺も見習わなきゃ、ね ? 椎名」「っ !! はい ! そうですね !? 」「ちゃんと聞いてたァ ? 」 椎名は車のシートと同化するように気配を消していた。ルキも椎名も梅乃の性格は見抜いている。その上で椎名は梅乃の短気が好きではないのだ。「ルキさん……一ついいっすか ? 出来れ
海岸沿いの田舎町。 その小さな商店街の端にひっそり佇む個人葬儀屋。 まだ早朝だが、一人の少年が始発電車を目指して家を出た。 黒髪に白シャツ、濃紺のスラックス。どこにでもあるデザインの学生服。切れ長の眼差しが、既にギラついた太陽を眩しそうに見上げる。痩せ型で色白な印象の男子だ。「おっはよう ! 」 待ち伏せしていたかの様に道の反対側から声を掛けられる。「……なんだよ……眠いからほっといてくれ……」「知ってるよ。昨日の夕方来た方でしょ ? 私も今日は帰ったら花の方やんないといけないんだ」 そういい、少女は振り返る。 葬儀屋の少年 涼川 蛍は、浮かない面持ちで歩き出す少女を見下ろす。 彼女は幼馴染の古川 香澄。生花店の一人娘で、蛍の斎場の契約生花店である。 同じ高校の制服で、ショートカットのくせ毛がふわふわと揺れる。 昨日の夕刻、御遺体を受け入れることになり、今は葬儀場の準備中だ。自宅と事務所は一緒だが、ホールは別に建ててある。「おばさん困ってない ? かなり安くしてくれてるみたいだけど」「う、ううん ? そんなことないと思う ! 確かに流行りの花は高く売れるけど、こんな田舎じゃ何時でも売れるわけじゃないしね。安定してるのは蛍ちゃんの家のおかげだよ」 短髪の女子高生と長めの黒い前髪の蛍。 二人とも兄妹のように姿形が似ているが、性格は真逆だった。「絶対違うと思う」 個人の葬儀屋はピンキリだが、やはり経営者の人柄次第で客数は変わる。値段と規模だけなら大手の方が強いだろうが、個人店はどれだけ希望を叶えられるかや、故人の家の事情にどれだけ足を使えるかがかかってくる。 故にクチコミや町の人間の利用者が多い。 特に涼川葬儀屋では、特殊な葬儀や奇抜な葬儀を請け負う事も増えてきた。「流行りの花でお葬式をお願いしてくる人もいるし。葬式に菊を使ってる方が俺の家じゃ最早珍しいよ」「えー ? まだまだ菊は現役だよ。でもほら、大きい葬儀屋さんは造花も増えてるしね。 まぁ……いいじゃん ? 持ちつ持たれつ〜みたいな ? そりゃあ、私だってお隣のチーズケーキ専門店のお姉さんとか、斜め向かいのマッチョ坦々麺のお店の子に生まれたかったですぅ〜。 ま、ま、ま ! お互い頑張ろうぜ〜 ! 」「……あ〜……うるせ
「香澄ちゃんは ? 」「あいつも親が来るって」「そうか……」 重明が運転する軽トラの中、二人はぎこちない会話をしていた。「……仏さん、見たのか ? 」「たまたま通りかかったから」 重明は自分の言いたいことが纏まらなかった。自身の子が人と違った嗜好を持っていたら…… ? 親は矯正するべきか。どう矯正するのかも分からない。無理に強制したら、隠れて、更にエスカレートする事も考えられる。 そもそも蛍は、外では何もトラブルを起こしたことなどない。勉学も上の中。家業だって手伝っている。経理を任せても、金をくすねる事なども無かったし、それを面倒見ていた従業員からも好かれていた。 口数少なく、遺族の前に出すには無愛想すぎるが、女性社員は皆口を揃えて「男の子はみんなそんなもの、今はそういう年なだけだ」と言う。 一方、蛍は重明の重い会話にうんざりとした様子で車のテレビ音量をあげる。『速報です。今朝方、東湊駅前の旅館の屋上から飛び降りた女性の身元が判明しま……』 反射的に、重明は別のチャンネルに切り替える。「どうせ朝見て知ってる事を、今更隠さなくても……」「見る必要なんかない。 いいか ? 負の死より美しい死をいつでもイメージするんだ。 御遺体がどんなでも、俺たちに求められるのは、いつでも美しい最後だ。それをプロデュースする事」『今日は暑くなりそう〜。皆さん洗濯物は本日がオススメです〜。続いては全国ニュースでーす』「俺たちは、いろいろな御遺体を相手にする。老人も、まだ喋れないような赤子の時もあれば、突然の事件で命を奪われた人、今日みたいな自ら命を絶つ人いろいろだ。 だが、皆平等に送り出す。 皆平等に、綺麗にして、最高の状態で人生の最後を任される誇りのある仕事なんだ」 蛍にとっては聞き飽きた言葉だった。父親の仕事は尊敬している。職場環境も決して大きくない個人の葬儀屋。少ない従業員数でも皆が人生の最後に力を注ぐ素晴らしい仕事だ。 しかし重明の言葉には、やはり出てしまう。自分の中にある獣を恐れた言葉の切れ端。故に蛍も余計につっけんどんに返事をしてしまう。「……皆平等と言うなら戒名も一律料金にすりゃいいのに」「おめぇ、そんな話してる訳じゃねぇ ! 」「湊駅で降ろして。図書館で勉強してから帰るよ」「……」 蛍には理解出来ている
「……煙草きらしただけですよ。わたしはご機嫌です、ルキさん」「えぇ〜 ? 身体に良くないよ。止めた方がいいって」「……ええ、まぁ……そのうち」 ヘラついたルキを鋭い目が睨みつける。ルキは全く気にしていない様子で、タンブラーを手に梅乃の向かいへドカッと座った。 ワゴンはゆっくりと駐車場を出て幹線道路へ出る。「校舎のクリーニング。今回早かったね。ケイのとこなんか、凄い散らかっちゃってたんだけど」「あぁ、あの教室が蛍のいた場所だったんですか ? 全く穢らわしいです」 梅乃の組織は元在日コリアンマフィア。元々は現地の一次団体が母体であったが、在日マフィアの立場は日々難しく、上手く並に乗る団体はひと握り。日増しに暴対法も厳しくなり、食い扶持に有りつけなかった組織はいとも簡単に握り潰される。 梅乃に山王寺グループも同じだった。日本で崩れ、零れて行来そうになった小さな組織。 それをルキが支援を行い、あのようなゲームの事前準備や清掃を行っている。 組の代替わりもタイミングが悪く、一人娘がたった一人で看板を背負っている。マフィアなのかヤクザなのかもぼんやりした反社で、宙ぶらりんな存在なのが現実だ。「それにしても毎回掃除ばかり。流石にうちの連中も退屈してる。 もっと満遍なく、色んな仕事回してくれます ? 」「報酬を上げるから許してよ。イベント中は外部の人間を入れたくないんだ。 あのスピードでいつも満足してるしね。しっかり動いてくれる組織は大歓迎。優秀な人も大好き。 きっと梅乃ちゃんの存在がそうするんだろうねー。俺も見習わなきゃ、ね ? 椎名」「っ !! はい ! そうですね !? 」「ちゃんと聞いてたァ ? 」 椎名は車のシートと同化するように気配を消していた。ルキも椎名も梅乃の性格は見抜いている。その上で椎名は梅乃の短気が好きではないのだ。「ルキさん……一ついいっすか ? 出来れ
「……っ」 目が覚めた妊婦はギョッとして辺りを見回す。 狭い部屋だ。打ちっぱなしのコンクリートに、カメラのような機材が立ててある。 次に気付いた異変は足だ。 上半身を起こそうとした時、自分の足が拡げるように縛られていた。恐らくカメラのスタンドに使われていたスチール製の棒で、引き裂いた布で結ばれ、脚が閉じられないようになっている。 妊婦である自分が最も恐れることが起きている。「な、なんなのこれ !!? 」 解こうとした手もまた、何かに繋がっていた。 そこへ真上から女の声が降ってくる。「目が覚めた ? 」「だ、誰なのっ !? 」「大丈夫よ。落ち着いて」 地味顔で薄化粧の女だ。 白衣を着ているが、手に持っているのは何かの医療器具だろう。「誰なのよ !? 」「今、そこは問題じゃない。 あのね。うちの研究所の被検体が足りてないのよ。特に女性が」「被検体 !? わたし、そんな許可とか問診してないわ…… ! そう……そうだわ、思い出した ! 胎教ヨガに行く途中、知らない人に囲まれて……」「まぁ誰でもよかったんだけれど、連れて来る奴が、貴女が妊娠してるとは思わなかったみたいでね。今、三ヶ月ちょいくらい ? まだお腹目立たないもんね」「い、家に帰して…… ! なに ? なんなのよ〜 !! 犯罪じゃない !! 」「ここはそういう場所。貴女が外に出れるのは研究が終わってからよ」 白衣の女は動じない様子でピシャリと言い放った。「実験に強力して欲しいのよ。 でも……その為には、赤ん坊は邪魔なのよね」 細く長い機材とハサミのような器具を見た妊婦は全てを理解した。 いや、一部の理解だが、自分にとって一番大切なものが今、目
「あの ! 美果さん、俺に芸術を教えて下さい ! 」「え…… ? なんで ? 急に何よ……」 困惑する美果の脳に蛍が畳み掛ける。「俺の家、葬儀屋って言ったの覚えてますか ? 葬儀には美しいものって必要ですよね ? でも経験がないから何から学べばいいのか分からないし、父は見て覚えろってタイプで。 美果さんならあの夜の話も出来るし、そういう隠し事なく教われる気がするんです」「そ、そんな。わたしだってまだ大学で学んでる最中なのよ !? そんな……人に教えるなんて。 でも、そっか……葬儀屋さんか……」 勝ち確。 美果は満更でも無い様子だ。 あの日、幼馴染の香澄が死んでも何ともなかった様子の蛍。 廃校到着直後、誰よりも恐怖していた美果にとって、湧き出た怒りが邪魔をしてその記憶は最早薄れていた。「どこかで習うお金とか無いですし。何から学んでいいのかも分からないし。俺、困ってて。 正直に言うと、今『最後の晩餐』の作り方に駄目出ししてくれたじゃないですか。そのくらい言ってくれる人じゃないと、習うには意味が無いと思うんです。美果さんが一番だと思ったんです ! よろしくお願いします ! 」 深く、頭を下げる。「ちょっ……ちょっと ! 待ってよ」 香澄も亡くし、部活もしていない蛍が家に真っ直ぐ帰らない理由。図書館をウロつくだけでは心許ない。 学校から寄り道した時の為のカモフラージュ。親に信じて騙せるような、正当な行動パターンが欲しいのだ。 美果にはその通りの名目で芸術を習う。 重明からみたら、息子が突然芸術を口実に家業に関わらなくなる。そのタイミングで接点を持った女子大生。思春期の子供なら、これは正常だろう。梅乃の勧め通りに生徒会などに入ったら、私生活を詮索されかねないが、美果ならば、いざと言う時あの夜の話しで脅しも効くかもしれない。「べ……別に。いいわよ。わたしでよければ。 わたしもあの夜の事情を話せる人、欲しいし」
「あら、わたしはお邪魔ね。 じゃあねケイ君」 結々花と入れ違いに、美果が怪訝そうに蛍を見詰め近付いて来た。「生きてた……って事は、あの男たちも全員生きてるのね ? 追われてたみたいだけど。部下の一人とはこないだ会ったけど……」「はい。美果さんは車で脱出したんでしたよね ? 無事で何よりです」「まぁ……ね。 ……ねぇ、ちょっといい ? 少し貴方と話したいと思ってたのよ」「構いませんが」 美果はむっすりとしたまま、誰もいない小さな多目的ルームに蛍を招き入れた。 途中、受付に戻っていた結々花は愉快そうに二人の様子を見て微笑んでいた。「もしかして、結々花さんに呼ばれてここに来ましたか ? 」「え ? 結々花って誰 ? あぁ、さっきの人 ? 全然。知り合いなの ? 」「いえ……」「絵の具なんか使うし、賃貸で汚したくないから、たまにこの多目的室を借りるの。これ抱えて移動するのしんどいけどね」 新しく建てられた図書館の裏手には、古い時代の建物がそのまま残されている。その一角を、こうしたペイントやDIYなど多少汚しても許されるルームがあるのだ。 室内の机は端に寄せられ、床のブルーシートの上に大きなキャンバスがあった。他にもキャンバスは持ち帰らない者もいるようで、壁の棚に何枚も立てかけられていた。 目の前にあるのは美果の絵だ。殴るような力強い筆使い。インパクトが強い色合い。「わたしの作品よ。何が描いてあるか分かる ? 」 赤い玉と黒い何か。そしてなんとも言えないミミズのような線が一本。「いいえ。芸術にはあまり触れてこなくて」「本当に ? 」 美果はトートバッグの中から一冊のコピー紙を取り出すと、それを開いてイーゼルに立てかける。 大きく限界まで印刷された『最後の晩餐』の絵画だった。「…………」「わたしね。納得いかないのよ
「はぁい。来たわね、ケイ少年 ! 学校近くなのに遅くない ? 」 来てみてから後悔する。 そもそも図書館に来れなかった理由はこれだ。 ルキからの監視者、咲良 結々花の得体が知れない。 見つからなければ大丈夫かと踏んだ蛍だったが、受付にいるのでは隠れようがない。以前は別の男性が座っていたはずだが、恐らく無理にねじ込まれて来たのだろう。「本を読みに来ただけ。あんたに用は無いよ」 蛍は結々花からそっぽを向いて、他の学生たちとは違う本棚へと向かう。「あれれ〜 ? 」 その後をぬらりと艷めくハイヒールが追いかける。「てっきり、ルキ君の事でも聞きに来たのかなーって思ったんだけど ! 」 聞きたいのは図星だ。 だが蛍は自分がルキに興味が向いていることを、誰にも悟られたくないのだ。「どっか行って。気が散る。図書館で司書がべらべら喋んないでよ」「ツンデレってやつよね ? わたしが美人だからでしょ ? 」「それ持ちネタなの ? 美人だとは思うよ。でもつまんないかな。好みじゃないし」「うぅ……むぅ……。び、美人っては思うんだ。 まぁまぁ。仲がいいまともな大人が知り合いにいるのって、君の為になると思うんだ〜」 その言葉には裏がある。監視を楽にするために、結々花としては蛍を懐かせた方が手っ取り早いと思うのだろう。 蛍は一度ため息をつくと、隣に並んだ結々花を見上げる。 結々花の美しい黒髪は仕事中、編み込まれて纏め上げられている。纏めるのが勿体ない程の針の様なストレートヘアなのだが、これはこれで華やかだ。 その髪が側に来ると、蛍の鼻腔を芳しくくすぐる。 結々花は本棚を見上げ、背表紙をさらりと撫で付けながら目を通す。「……行動心理学……プロファイリング入門、無差別殺人鬼の獄中記、犯罪心理学 ? いつもこのジャンルを読んでるの ? 」「いや……そういう訳では……」 次のゲームの備えに。 その一言が出ない。普通では望ん
七月中旬──日々野高等学校。 本格的な夏を目前に、蛍は古川家から託された仏花を手に登校していた。 香澄の死。 あれから一ヶ月が経とうとしていた。「蛍君。いつもありがとう」 一人の女子がその花を受け取りに、下駄箱へ来ていた。清楚な制服の着こなしに、腰まである長い三つ編み。指紋ひとつない丸い眼鏡が印象的な女子生徒。 蛍に頭を下げ両手で花を持つ。「別にいいよ。香澄の親からだしさ」 彼女は手の中に収まる纏まった菊を、鬱屈な瞳で見下ろした。「今日は白ね。ピンポンマムが可愛い」 剃刀のような瞳が僅かに揺らぎ、小さく微笑む。 生徒会役員 山王寺 梅乃。 香澄の唯一、親しかった女友達だ。付き合いこそ蛍ほどでは無いが、中学、高校と同じ時間を共に過ごして来た。 その容姿の特徴はなんと言っても刺すように鋭い、凍りつくような目付きだ。本人のコンプレックスだと言う梅乃だが、クールで賢い彼女のファンは多い。「ありがとう蛍君。じゃあ花瓶に入れてくる」 切れ長の瞳が、眼鏡の奥で一瞬だけとろんと下がり、はにかむのを隠すように下を向く。「梅乃さん……俺もやろうか ? 」「えっ ? 」「いや、いつも……悪いし……。俺もちょっとやらないと落ち着かないし」「あ……う、うん。じゃあ、花瓶を取りに行きましょうか」 二人並んで廊下を歩く。 既に学校は元の活気を取り戻してきた。香澄も大きな友人グループに身を置いていた訳では無い。至って地味目な生活だった上に、一番懇意な友人が、この梅乃だけ。 学校の中でも目立たない女子生徒二人。 その片割れが亡くなったと集会で知った時、生徒たちは初めこそ動揺していた。しかし、現実は残酷だ。 今や教室の片隅、香澄の花瓶の手入れをする者は減っていくばかり。それで最後に残ったのが梅乃だったという事だ。 花瓶を抱えた胸がふにっと押され、柔らかな様を、目ざとい男達の視線を集める。 &nbs
目が覚めた中年男性は、直ぐに上半身を起こした。部屋を見回し、汗だくで目の前に座り込んだ少年を見て悲鳴を上げた。「うっ !! うわぁっ !! 助けてくれ !! 頼む ! なんでもする ! 」 見知らぬ場所。 閉ざされたドア。 窓が無く、カメラだらけのコンクリート壁。 無機質な空間だった。 ひと目でわかる密室。 空調は小さな配管のみ。通れるのはネズミ程の生き物だけだろう。 男性は誘拐されてきた自分に、災厄が襲って来るのが確定しているかのように怯えていた。 しかしそばにいた少年もまた、起きたばかりだった。目をシパシパとさせ、明るい蛍光灯の光に顔を歪めていた。 そして男の方をゆっくり見上げる。 ぼうっとしていて、いまいち状況を理解していない様子だったが、錯乱した男性を見て連鎖するように取り乱した。「え……? えぇ !? あの…… ! 違います ! その ! 僕も今、目が覚めたんです ! お兄さん、お願い ! 僕をほっといて ! こっちに来ないで ! 僕は何も…… !! ……あ……うぅ……頭が痛い…… ! 」 さらりとした黒髪に、どんぐりの様な瞳。 本当にただの子供じゃないかと、男は一度生唾を飲み込んだ。 少年の無害そうな素振りに、男も少し状況が見えてくる。 怯えきった少年を、壁に張り付きながらもう一度まじまじと見つめた。 子供。 自分よりずっと年下の……高校生の制服少年。「あ、頭…… ? だ、大丈夫か ? 殴られたのか ? ここに来る時、なにかされたのか…… ? 」「あ……。
美果は駅前に車を乗り捨て、まだ営業している居酒屋の中でも明るい店を選び入って行った。「いらっしゃいませ ! 」「一人。空いてる ? 」「どうぞ ! 」 何となく、人のいる明るい場所へ身を置いた。あのまま一人暮らしのアパートに帰るのが怖かったのだ。「それでさぁ。盆には帰省するからぁ、お袋がすげぇ息子に玩具とか買うんだよぉ」「分かるわぁ。嫁がうるせぇのなんの……無限オヤツとかなぁ。俺に言うなっつーの」 泥酔したサラリーマン達が、目前に迫る長期休暇を想像し不貞腐れていた。 些細な日常的の会話だ。 小さな個室に通された美果は、襖を隔てた隣の会話を耳に流し、落ち着きを取り戻していった。 少しのお通しと、冷や奴にレモンサワー。 全く酔わない頭で、空になったグラスを置き再びメニューに目を通す。 少しほろ酔いになった頃、ようやく周囲を見る余裕が出てきた。 手描きのメニューのデザイン文字。よく洗練されている味のある書体だ。 壁に貼られたビールのキャンペンガールの水着。清楚なイメージはそのままにセクシーに大胆に、ビールの色合いとマッチした色調。 狭いテナントでありながら、所狭しと並ぶ個室と賑やかなカウンター席の共生空間。ユニークな間取りと窓の数。仕切りを襖にして音が漏れるのも悪くない。路上からでも、繁盛さが分かる明るい接客の声。 美果の目には全てがデザインの世界で映る。 そして冷静になった時。 ふと思い出し、疑問を抱いてしまったのだ。 ──涼川 蛍の作品は本当にアートだっただろうか ? 壁に画鋲で付けられ垂れ下がっただけの物が、パーティルームとは笑わせる。 空間を使うアートならば、縦も横も、奥行も全てが審査対象。 蛍の最初の部屋は天井や、画鋲の使えない窓際は手薄だった。 使えるアイテムは言えば黒服が持ってくる。 パーティ用のリボンでもオーナメントでも、用意されたはずなのだ。 既製品なら時間の短縮にもなる分、もっと豪華に仕上げられたのでは無いか ? 異常な状況で、感覚が鈍っていたのか ? 同じ作業をするならば、自分の方が上手く飾れたはず。 だが、その発想が出てこなかったのは事実だ。 でも、やはり。 涼川 蛍の三世界。 あれは総合点での評価。 一部屋ずつ見れば、何の
ルキと蛍は校舎の裏手から急な斜面を下る。 校舎正門側の国道は人通りは少ないながらも、追ってが来るとしたら十分な道幅だ。カーナビを使ったらまず最初に誘導する道がここだろう。 その反対側。 防風林の杉を越え、小高い丘一つ降りれば、地元民も夜間は普段使わない農道がある。 蛍は枝木を一本折り手にすると、それを目の前で八の字に動かし進む。小さな虫や蜘蛛の巣などはこれにかかり随分歩きやすくなる。「公的機関は丸め込んでるって話じゃ無かったのか ? 」 蛍は前を見たまま、苛立ちを隠して背後のルキに問う。「今来てる連中ね。警察とか、そういうんじゃないのさ。 俺たちの母体を潰したい他の奴ら」「どちらにしても、ろくな奴じゃないだろうな」「そう言うなよ」 スマートフォンのライトだけで斜面を歩く。 闇深く、流石に二人分の足元全部とはいかない。 チラチラ照らされる部分をパズルのように繋ぎ、記憶しながら足場を探す。「おとと。それにしても、参加してくれて礼を言うよ。ケイが拒絶したら、俺の見込み違いかと思っちゃうところだったんだ」「……それさ」「ん ? 」 ふと、蛍の足が止まる。「俺、そんな分かりやすいのか ? 」 ルキは直ぐにその言葉を理解した。「周りにはバレてないんじゃないの ? 現に香澄ちゃんと仲良くしていたのは、自分を普通に見せる為の擬態だったんだろう ? でも、今日の一件を見た観覧者と俺たち運営、あとは美果ちゃんもかな。 この全員の目には、君は確かな異質に見えたかもしれないね」「異質……」「普通に暮らしたいなら、身の回りから固めるとかね。一般人と同じ暮らしさ」「やってる。でも親父が……」 そこまで言い、口を紡ぐ。 ルキが何を仕出かすかまだまだ読めたものじゃないからだ。蛍としても父親の重明にそこまでの恨みは無いのだ。 単純に詮索されたくないだけ。蛍が異常にしても、普通の親子と関係性は変わらない。思春期らしい悩みなのだ。「親御さんかぁ……誤魔化すのは容易じゃないね。成程」「忘れてくれ」「ふふ。分かってるよ。別に何もしないし、俺は何も止めもしない」 木に掴まりながら足場を踏みしめ、二人は再び歩き出す。「……いつからこんな事を ? 」「先代がしてた事はよく知らないけれど、俺は七年前から引き継いだんだ。以前は金持ち