Masuk3年生の終わり、相変わらず仲良くしていた華子が慌てたように教室に駆け込んで来て、周りをキョロキョロと警戒した後、コソッと麻沙美に耳打ちした。
「真田くん、卒業するんだってっ」
「え…!?」
麻沙美は信じられないことを聞いたというように少し身を引き、マジマジと華子の顔を見た。
「どういうこと?」
真剣な顔で尋ねる麻沙美に、華子も真面目な顔で口を開いた。
「真田くん、この前の試験、進級試験じゃなくて卒業試験受けたって」
「伯父さんが言ってたの?」
そう訊くと、華子は大きく頷いた。
そして麻沙美は、それを見て呆然とした。
嘘でしょ?卒業なんて…。確かに彼なら試験にも受かるだろうけど、そんな…。あと、一年あると思ってたのに…。
麻沙美は今まで、准とは良くも悪くもない関係を維持してきていた。
彼は基本的に人を寄せ付けないし、話しかければ応えるけれど、だからといって特に親しくなったような感じは抱かせなかった。
昔、ちょっとだけ2人の仲を噂された時に少しばかり気不味い雰囲気になりはしたものの、その後は普通だったので麻沙美としても特にそれを引きずることもなかった。本当は進展したかったけど、無理だった。
だから、彼女はこの一年にかけていた。
卒業してしまえば、これまでのように頻繁に顔を合わせることなどなくなるだろう。彼は真田グループの後継者としてきっと、今まで以上に忙しくなるし、自分だって、父親による嫁ぎ先探しで学生の頃のようには自由に誰かと交流などできなくなる。
どうしよう…。積極的に声をかけていくべき?でも…。
准はいつもボディーガードたちに守られていた。彼にとって適当にお喋りする友人など必要ないのだというように、それはもう、徹底的なガードをされていたのだ。
といっても、本人に積極的に友人を作る気があればここまでガードされることはなかったと思うので、それがないということは、言わずもがなということだ。
麻沙美はいろいろと考えた末、〝決めた〟とばかりに顔を上げ、一人頷いた。
*
休日ー。
「准」
父親の呼びかけに、芽衣のお絵かきに付き合っていた准が振り返った。
彼は使用人に彼女を見ているよう言って立ち上がると、リビングのソファに座っている怜士の下へと向かった。そして父親の向かいに座ると、目の前に出された物に目を走らせた。
「なんですか、これ…?」
その眉は不快げに顰められ、尋ねる声にも険が含まれていた。それが何か、彼にはすぐに分かったのだ。
「釣り書だ」
そう答える父親をきっと睨み、手にした書類をバサッと投げ出した。
「そんなことは言われなくても分かりますよ。僕が言いたいのは、なぜこんなものが僕に来るのか?ということです」
「……」
怜士はカチ…と煙草に火をつけ、一口深く吸い込んだ。
それを見た准は「父さん」、と芽衣のいる所での喫煙を窘めた。
「……」
怜士は手を振ることでそれを了承し、吸い込んだ煙を吐き出すとすぐに灰皿にそれを押し潰した。そして面倒くさそうに口を開いたのだった。
「俺に言われてもな。昨日、慈善パーティーに行った時、目の前に突き出されて思わず受け取っちまったんだよ」
「思わず、ですか…」
呆れたように怜士を見て、准はため息をついた。
書類と一緒に渡された、いわゆる〝お見合い写真〟にはよく見知った女性が写っていた。
有賀麻沙美。同じピアノ科のクラスメイトだ。
写真の中の彼女は名家の令嬢らしく、華やかな色合いでありながら落ち着いた柄の美しい振袖を着て、優しく慈愛に満ちた微笑みを浮かべていた。
だが准はそれを見ても特に感想もなく、興味なさげにその見合い写真から目を逸らした。
「気に入らんか?」
怜士は薄っすらと嗤い、息子の顔を観察した。
准もそれをわかった上で深くため息をつき、口を開いた。
「彼女自身のことを仰っているのなら、〝興味ない〟としか言えません。ですが、このやり様はとても腹立たしいです」
「ほう…?」
父親が片眉を上げて続きを促すのに、准は苦々しい思いで答えた。
「彼女とは、高校を卒業するまでずっと同じ学校に通っていました。…それはご存じですよね?」
確認すると、やはり怜士は肯定した。
「小学部を卒業するまでは、本当に普通の、ただの同級生だったんです。でもー」
中等部に上がってから、彼女は変わった。同じクラスになった時はいつも、違うクラスの時も休み時間になるといつも気がつけば准の視界に入るところにいて、目が合うと意味深な微笑みを浮かべていたのだ。
始めは何か用でもあるのかと思ってこちらから声をかけていたのだが、そんなことは全くなく、それどころか〝麻沙美に気が付くといつも准が声をかけてくる〟とあらぬ噂までたてられる始末だった。
それには思春期だった准も若干慌ててしまい、焦って否定したはずが誤解を助長する結果を招き、ほとほと困ってしまった記憶がある。
そういった噂が大好きな年頃の同級生たちが2人を囃し立て、それを一方の麻沙美が否定しないものだから益々彼らも増長して、遂には担任に注意までされてしまったのだ。
「節度を持ったお付き合いをしなさい」
と。
冗談じゃなかった。准はこの手の女が昔から一番嫌いなのだ。
「もう僕に近づかないでほしい」
職員室を出た所でそう言うと、麻沙美は目をパチパチと瞬き、言った。
「どうして?私たちいずれ婚約するんだから、少しくらい噂されても別にいいじゃない?」
「は…?」
これには准の方が驚いてしまった。思わず被っていた猫がずり落ちるほどだった。
「誰が婚約するって!?冗談じゃない!寝言は寝て言えよっ」
「え……」
麻沙美は一瞬にして青褪めた。
だって、お父さんがそう言ってたし…。他の人だって、皆私たちは釣り合いが取れてるって言ってたのに…。
彼女は穏やかで優しくて、紳士だと思っていた准の突然の激昂に、ぶるぶると震えた。
准はマズイな…とは思ったが、この単なる思い込みだけで自分に迷惑をかけた彼女が腹立たしくて、もうこれ以上話したくないと思ってしまった。
そこで彼はプイッと彼女を置き去りにして、教室へと戻ったのだった。
「わかってますよ。そんなことがあったのに報告もせず、放置してたのは悪手でした…」
咎めるような父親の視線に、准はまたため息をついた。
それからしばらく、彼はとても微妙な立場に立たされた。
「ひどいわっ…」眉をきゅっと寄せて泣きそうな声で訴えるも、准は首を傾げるだけだった。「ひどい?私のことか?」「そうよ!」「紗英、やめろっ」そのとぼけた声に腹が立って、紗英は兄の匠が止めるのも聞かずに言い放った。「ちょっと映像をイジっただけじゃないっ。大したことじゃないでしょ!?」「ちょっとイジっただけ…?」彼女の言葉が放たれた瞬間、准の雰囲気が変わった。「お前のその行動が、俺の婚約者の命を奪う結果になるかもしれなくても…そう言えるのか…?」「え……」命を奪う?なにそれ。まさか…あんなことくらいで、自殺でもしたっていうの?紗英が戸惑いに眉を顰めると、准がジリ…と一歩踏み出した。「答えろ。言えるのか?」「っ…」紗英は咄嗟に恐怖を感じて一歩下がる。とー。「キャッ!」「紗英!」下がったところがちょうど階段の縁で、彼女の身体がグラリと傾いた。匠が飛び出して彼女に駆け寄って来たが、紗英は慌てて自力で手摺を掴み、事なきを得た。その間、准はといえば、慌てるでもなく、ただ冷たく彼女の様を見ているだけだった。助けるつもりもない。いっそ、このまま落ちてしまえ…とでもいうように、手摺に掴まってホッと胸を撫で下ろしている彼女に向かって、ふん…と鼻を鳴らすことさえした。「あなた……」青ざめた顔で紗英が呟くと、准はつまらなそうに息をついた。「惜しかったな…」「!!」小さな声で残念そうに吐き捨てる彼に、紗英はゾッと血の気が引くのを感じた。正気なの…?彼女の唇が微かに震えるのに、准は僅かに口の端を上げて嗤った。「お願い……」許して…。懇願するように呟くと、彼は明らかにバカにした視線を向けてきた。「今更か?」「……」恐ろしかった。そしてー。紗英が恐怖に思考を手放したその頃になって、この祝賀会の主催者で真田エンターテインメント社長、そして准の叔父でもある真田英明がやって来た。「何事だ?」「あの…っ」「なんでもないよ」紗英の言葉に被せるようにして平然とそう言った准に、英明はチラリと階段に蹲る彼女を見て、そして言った。「ここではやめといてもらえるかな?」「!?」紗英はその言葉に愕然とした。助かったと思った瞬間に、そのまま地獄へ落とされた気分だった。だが准は、気に入らない…とでもいうような顔で口を開いた。「場所は選ばな
「准さんっ」前をスタスタと歩く男に、紗英は必死でついて行った。今夜は、真田エンターテインメントに所属する俳優が主演した映画が海外で賞を獲ったということで、華々しい祝賀会が開かれていた。その俳優はこれを機に海外進出も視野に活動範囲を広げることになり、今日は顔繋ぎの目的もあって、各分野の大物や実力者も大勢招かれていた。関係事務所のスタッフやタレントなども招いて場を華やかに盛り上げていたおかげで、この祝賀会はきらびやかなものとなっていた。そんな中、紗英は事務所を代表するモデルの一人として、社長やマネージャーと共に参加をしていた。彼女は身体のラインを強調したドレスを身に着け、髪の毛を結い上げてその細いうなじを晒していた。首元にはキラキラと輝く宝石が散りばめられたネックレスが飾られ、彼女の魅力を更に引き立てているようだった。紗英はモデルらしく細身でありながら出るところは出て、引っ込むべきところは引っ込んだ、完璧ともいえるスタイルをしている。そんな彼女は会場に入った時から注目の的で、いろんな男たちから声をかけられていたが、誰一人として彼女の手を取ることに成功していなかった。それもそのはず、「あら、紗英じゃない?どうしたの、こんなところで。あなたの未来の旦那さま、あっちにいたわよ?」「……」彼女は今や、この界隈で〝あの真田准をおとした女〟として有名だったからだ。でも誰もが知っていた。それが単なる彼女の独りよがりで、実際はまったく相手にされていない…という事実を。わざとらしく〝未来の旦那さま〟と言ったモデル仲間は、自分の言葉に黙って睨みつけてくるだけの紗英をふふんっ…と嘲笑った。「私を睨みつけてる暇があったら、彼に弁解しに行ったら?」そう言って、周りにいた取り巻きの女たちと〝ごめんなさ〜い〟〝どうしてもあなたの妻になりたいの〜〟などとふざけた口調で腰をくねらせ、彼女をからかってきた。紗英は悔しさに歯噛みして、ダンッと足を踏み鳴らすとぷいっとその場を後にした。そして偶然見つけた准を追って来たところ、彼に氷のような視線を浴びせられ、その場に足を縫い付けられたのだった。「准さー」「桐谷家の躾はいったいどうなってるんだ?」呼びかけようとした言葉を遮られ、彼女は口を閉ざすも准は容赦なかった。「口を開けばデタラメばかり、仕事はいい加減、責任も取ら
学校には行きたい。でも……。明らかに落ち込んでいる芽衣に、リオンは不安そうに尋ねた。「どうしたの?僕…何か悪いこと言ったかな…?」 「ううん…」芽衣は緩く首を振ると、淡く微笑んだ。「もうずっと、学校に行ってないから…」「あ……」そうだった。彼女はずっと病気の治療で学校には行けてないって、母さんが言ってたのに…。リオンは自分の迂闊さに、思わず頬を叩いた。ペチッ!「きゃっ…!何してるの!?」慌てた芽衣が、リオンの頬を叩いた手を握りしめた。「なんで、叩いたの?」心配そうにそう尋ねる芽衣の瞳には、じわりと涙が滲んでいた。「ごめん…。僕が、無神経なこと言ったから…」「無神経…?」首を傾げる芽衣に、リオンは説明した。「学校のこと。病院にいたから、行けてないって聞いてたのに…」「……」芽衣はパチパチと瞬きして、そしてふわりと笑った。「気にしてないよ。大丈夫、もう退院したから」その笑顔に、リオンの胸がドキンと鳴った。意識をすると、それはドキドキと早鐘のように胸を打ち鳴らし、今頃になって握られた手をどうしようかと焦りだした。その時、「お兄ちゃん、なんで顔赤いの?」ハナが不思議そうに訊いてきた。「あ、ほんとだ。お熱があるのかな?」「え!?大変だっ」それを聞いたハナと、芽衣が慌てて「どうしよう?お母さん呼んでくる?」なんて言い出すものだから、リオンまで慌てて両手をぶんぶんと振って否定したのだった。「だ、大丈夫!熱じゃない!あ…暑いだけ!」そう言って、彼はバタバタと家の中へと入って行ってしまった。残された芽衣とハナはポカーンとその場に立ち尽くし、2人で顔を見合わせて首を捻っていた。「暑い…?」「そうだって…」彼女たちは、どちらかといえば肌寒い今日の天気を不思議そうに見上げて、どちらからともなくリオンに続いて家の中へと歩き出したのだった。ハナの家のリビンクには、落ち着きを取り戻したリオンと祖父母が座っていて、芽衣が現れると笑顔で歓迎してくれた。「メイ、こっちにおいで。お婆ちゃんの隣に座って」彼女は芽衣の手を取り、優しく自分の隣へと導いた。「ありがとう。お婆ちゃん」芽衣はニコッと笑うとそこへ座り、自然と家族団らんに加わった。その様子は、彼女がもうずっとこうしてこの家に馴染んでいるのだと教えてくれた。リオンはそんな
数週間後。「まだ見つからないのか!?」准は、手元の書類をバサッ!と投げ捨てた。本田はそれを見て静かにため息をつくと、黙ってしゃがみ込み、それらを拾って整えたのだった。「彼らの足取りはA国で途絶えています。そこから他国へ行った可能性もありますので、今は全ての搭乗者記録を確認中です。ですが、まだA国に滞在している可能性もありますのでー」「御託はいい。世界中、ひっくり返してでも捜せ!っ…」「社長ー!」顔を青ざめさせ、ふらついて机に手をついた准に駆け寄り、本田は言った。「あまり眠っていらっしゃらないのでは?根を詰めすぎるのはよくありません。少しでも横になってください」「うるさいっ…」准はこめかみを指で揉み、はぁ…と息を吐き出した。本田はそんな彼にお茶を淹れ、そっと目の前に差し出した。「ご両親も一緒にいらっしゃるんです。危険なことはないはずです。焦らず、じっくり捜しましょう」「……」そんな励ましは、准にとってなんの意味もないものだった。その頃ー。「メイ!」バタンッと勢いよく玄関ドアを開けて入って来たのは、近所に住む小さな女の子だった。「Hannah(ハナ)、どうしたの?」キッチンで尚と一緒にクッキーを作っていた芽衣は、目をパチクリさせて飛び込んで来た彼女を見た。ハナは今の家に来て初めてできた友達で、尚が言うには、普段この家の管理を任せている家族だということだった。お爺さんとお婆さん、お母さんとハナ。あとは、街の学校に行く為に家を出ているハナのお兄さん。お兄さんには会ったことがないからわからないが、皆優しい人たちだった。「あ!クッキーだ!」駆け寄って来たハナが嬉しそうにテーブルにしがみつくのに、尚は笑って「後で持って行くね」と言い、芽衣に手伝いはもういいから…と頷いた。芽衣はエプロンを外して汚れた手を洗い、ハナの前にしゃがんだ。「何か用事?」小首を傾げてそう問うと、彼女は「あ!」と思い出したように芽衣の手を取った。「お兄ちゃんが帰って来たの!メイ来て!」「え?でも…」「いいから!」小さな女の子にぐいぐいと手を引かれ、芽衣は困ったように母親を見た。尚はその様子に楽しそうに微笑い、「行っておいで」と彼女を促した。ハナと芽衣が揃って出て行く姿を見送りながら、尚は思い出していた。前世、彼女は親友の美月の遺骨を持って
その日、准は戸部から一方的な報告を受けた。〝真田芽衣の投薬治療は終了した。残りの服薬治療に関しては、本人と家族の希望により、他所で行うことを決定した。〟というものだった。「それは、どういうことですか?」意味がわからずそう尋ねた准に、だが戸部は同じ事を繰り返し言っただけだった。准は苛立たしげに更に問うた。「では、どこで服薬治療を行うのか、教えてください」『それに関してはー』本人の希望により、あなたには教えられません。そう言われた。ショックだった。これまでただの一度も、芽衣は自分に内緒で何かをするなんてことはなかった。例えば誕生日のサプライズでさえ、彼女は我慢できずに「お誕生日、楽しみだね〜」などと匂わせていたのだ。それが…。准は初めて彼女に拒否された感覚に、胸が締めつけられるようだった。芽衣…。自分は、彼女の信頼を失ったのか…?呆然としていていつの間にか切れていた通話に、准はスマホを投げだし大きく息をついた。戸部の口調から、彼女たちが既に研究施設を出ていることが察せられた。どこだ?どこに行った?考えられるのは怜士のところか、各地に点在する別荘のどこかにいるのでは…。そう思い、准は急いで怜士に連絡を取った。だが、彼は「来ていない」と言った。それが本当なのかどうかすら、わからない。他にも各地の別荘やホテルを捜させた。が、どこを捜しても見つけられなかった。准は気が狂いそうに焦った。十中八九そうだと思った場所にいなかったことが、彼の思考を混乱させていた。ダンッ!!苛立ちをぶつけるように拳を叩きつけて、准は更に思考を巡らせた。*「わぁ〜、綺麗だね〜」芽衣のはしゃいだ声に、尚はホッと息をついた。A国。ここは前世、尚が聖人と共に過ごし、生涯を終えた場所だ。怜士も知らない田舎町にあって、景色の良い小さな家だった。使用人もいない。完全に、家族3人だけの空間だ。「不便だと思う?」隣に立つ夫に訊くと、彼はニコッと笑って否定した。尚は元々自分だけで生活をしていた。使用人を使うような生活は、聖人と結婚してから得たものだ。だから家事などにも困らない。彼女は久しぶりの感覚に、実は少し開放感も感じていた。この家は、作家の仕事で稼ぐようになってすぐに手に入れていた。思い出の場所であり、心が安らぐ場所だったからだ。今回、准には
わかっている。彼は、こんな答えを聞きたいんじゃない。でもー。匠には答えるべき回答がなかった。「調べます……お時間を、いただけませんか…?」「…いえ、結構です。今までに関わった全ての人物を出してください。後は、こちらで調べます」「……」准は暗に、こちらサイドの人間は信じられない…と言ったのだ。「わかりました…。あの…こういったものは、これだけですか…?」「どう思います?」「……」その冷たい視線と口調、そしてバカにしたように薄っすらと嗤う口元に、匠はゾッとした。終わった…。ほんの少しの希望も打ち砕かれた気分だった。なんてことをしてしまったんだ…!依頼主の信頼をぶち壊すような真似をしてくれた妹に、匠はグッと奥歯を噛み締めた。*准は匠を送らせた後、そのまま他の映像にも目を通していた。小高い丘の上にある、小さな古い教会。周りの景色と相まって、そこはまるで物語の中に出てくるような雰囲気を持っていた。芽衣の好きそうな場所だった。彼は、匠に撮影を依頼した際、一つのコンセプトを呈していた。それは、正しく〝芽衣と准が見ている〟体で映すというものだ。そして、彼女が健康を取り戻したらすぐにでも結婚式の準備を進めたいと思っていることから、芽衣に〝結婚式〟を現実に意識させるような映像を撮ることも依頼していた。最初のコンテでは教会の入り口を通り、バージンロードを歩き、そしてそのまま美しいステンドグラスを見上げるように映像をパーンして外へ向かい、青空から花びらが舞う教会の外へ歩み出たような映像へと移る。そんな感じだったはずだ。だが今、目の前に映し出された映像には、余計なものが足されていた。それは、いつの間に撮影をしたのか、ウェディングドレスを着た紗英の姿と、ブーケトスをしているような姿だった。花婿役は顔が映っていない為誰なのか分からないが、2人は仲睦まじげにしっかりと腕を組み、紗英は美しく微笑んでいた。准は怒りにぎゅっと拳を握りしめ、額には血管が浮き出るほどだった。「本田」低く抑えた声で呼ぶと、後ろに控えていた彼はすぐさま応えた。「お任せください」そう言うと、本田は部屋を出てスマホを手に歩き出したのだった。その頃、研究施設内ではー。「彼らしくないミスね」尚の言葉に、聖人も頷いた。彼らは日に日に芽衣の元気がなくなり、とうとう「病気なん
その後。准は、芽衣の転院準備に全力を注いだ。S国にあるその病院は医療資源においても世界のトップレベルに属しており、特に准が考えている所は同国出身の医師が何人かいることから芽衣たちも意思の疎通がしやすく、細かい心情にも配慮をしてもらえるだろうと思った。しかもそこは療養型と一体となった入院施設で、終末を家族と過ごせるようにもなっている為、部屋自体が広々としていて、一つの家のような様相を呈していた。当然ながら費用も一般には手が届かないほど高く、何もかもが特別な場所だった。にも関わらず、そこへの入院を希望するVIPが多く、その質を証明していた。今も部屋の空きがなく、順番待ちの状態で芽衣の治
2ヶ月後。准は空港に、ノアの見送りに来ていた。帰国して、婚約式の準備に入るということだった。「順調そうですね」そう言うと、ノアはその形の整った眉を寄せた。「どうだかな」「?」首を傾げると、ノアはチラと周りを確認するように見回して、言葉をL国のものに変えた。『奴が、地位と権力を求めて我と結婚しようとしていることは知っている。それは良い。所詮、奴は身代わりなのだからな。…だが、後になって騙されたのなんのと騒がれるのは、迷惑なのだ』『…何かありましたか?』その不穏な言葉に、准も眉を顰めた。ノアは深いため息をつくと、その唇を尖らせて言った。『我は、婚約の契約書にはよく読んでから
陸もずっと勉強をしていたが、如何せん始めたのがつい最近の為、まだ幼児レベルという感じだった。でも公用語は話せるし、それでなんとか…。そう言うと、ノアの顔からスッ…と微笑みが消えた。「わが国の、国民全てが公用語を話せる訳ではない」「……はい」部屋の中に気まずい雰囲気が漂った。だがしばらくすると、ノアが小さく空咳をして言った。「すまない。焦りすぎたようだ。…だが、国内でやりとりされる文書は、当然ながら我が国の言葉で書かれるのだ。読み書きができなければ、苦労するのはお前だ」それが、彼女なりの謝罪なのだとわかり、陸はホッとした。ノアは陸よりも5歳年上で、結婚相手として見た目も相まっ
会場に戻ると、皆が2階からの螺旋階段の方に注目していた。そして司会者の男が言い放った「本日のゲスト、L国ノア殿下のご登場です!」という声と共に、一斉に拍手が鳴り響いた。見ると、真田准は階段上で王女に手を差し伸べ、恭しく彼女の手を取ってエスコートをしていた。ワーッという歓声と拍手、それからあちこちから囁かれる「綺麗…」「素敵っ」という声が耳を掠め、陸も、階段を優雅に降りてくる王女に目を奪われていた。「ノアだ。よろしく頼む」微笑みながら、だがやはり上に立つ者特有の傲慢な物言いにも、彼は気を呑まれていた。なんて綺麗なんだ…。こんなにも綺麗な人、見たことがない…。ぼうっとして、王女の気品