Masuk鐘が三度、鳴った。香の煙が白く漂い、聖油が肌にひやりと触れた。大聖堂の中央、皇子は胸に手を当て、王子の差し出す掌に指を重ねた。司祭の声は短く、魔紋が手首に浮かび、青金色の光で互いの脈を結んだ。公開儀礼は、淡々と、だが確かに終わった。
地下街の代表は袖の陰で数え、納骨堂の管理長は無言で頷き、列柱の影には押し合う視線。権利の取り合いは終わっていない。むしろ、ここからだ。皇子は息を吸い、前に立ち、簡潔に宣言した。
「共に治める」
王子は一歩、半歩だけ後ろへ。掌の力だけで支える。その距離感が、公の合図だった。
夜。私室に移ると、カーテンは厚く、焔は低く、窓は鍵が下りていた。机の上に羊皮紙、銀の印章、細い羽根ペン。王子は外套を脱ぎ、皇子の喉元の赤い印を指先で確かめる。
「痛むか」
「平気だ。儀礼の油の匂いがする」
「なら、始めよう。私的条項の更新だ」
二人は椅子に並んで座り、文字を交互に置いていった。
可、と不可。合図、順序、アフターケア。
王子が短く読み上げ、皇子が短く頷いた。
「可。命令の口上。視線の固定。跪礼」
「不可。痕の残る拘束。首を圧す行為。公の場での混同」
皇子は指先を軽く上げた。「要確認。手枷は絹のみ。鍵は見える場所に」
王子が笑う。「絹以外は、納骨堂から怒られる」
ここで扉が軽く叩かれた。侍従が青い顔で羊皮紙の束を差し出す。「先ほどのドラフト、誤って納骨堂に回してしまいまして……戻ってきました」
束の表紙には、赤い書き込み。「骨壺区域に金属鍵は禁止」。二人は声を殺して笑った。皇子は耳朶まで赤い。「返事を書こう。金属鍵は私室用だって」
王子は「了解」とだけ言って、可の欄に一行足した。「合言葉の運用。セーフワードは『灯』。ささやきで発する。三度、手を叩く動作と併用」
皇子はその言葉だけで喉が動いた。「……『灯』」
「今は運用の確認だ。言えば、すべて止める。水を出す。手を包む。説明は求めない。再開の合図は『続ける』。それがなければ、夜は終える
鐘の余韻が大聖堂の高い穹窿に絡み、薄い香が白い煙になって昇っていった。祭壇の上、皇子は前に立ち、王子は半歩うしろに寄り添った。公では皇子が先に、私室では王子が支える──二人が選んだ二重の秩序だ。「条約婚を、ここに成立させる」皇子の声はよく通った。胸の中央で淡い金の魔紋がひらき、誓いの文言が空気に溶ける。王子は短くうなずき、誓書の巻末に自筆の印を押した。契約は二重。国家間の条約として、そして二人の関係のルールとして。「可は、合意のもとに。不可は、口頭で明確に」皇子が読み上げる。その指先に、王子がそっと触れた。「合図は三つ。手を二度叩く、指輪に指を添える、視線を落とす」王子が続ける。書記が速記羽根で音を刻む。最後に、セーフワード。「葡萄。これで即時中止。誰であれ尊重する」大司教が「証」と低く唱え、祭壇石に光が弾けた。群衆は息を呑み、次いで歓声に変わる。条約婚の成立と公開儀礼。二人の連続する短い言葉が、国の法と身体の合意を同じ重さで縫い合わせた。地下街は、昼でも薄暗い。式ののち、二人は外套を纏い、石段を降りた。床石は油で滑り、香辛料と金属の匂いが混ざる。「税を上げる話ではない。任命を変える話だ」王子が穏やかに切り出し、地下街の顔役が腕を組む。血統で独占されてきた末端の監督職を、住区ごとの投票で選ぶ。皇子は前に出る。「候補は血筋からも出る。ただし、最終は票だ」短い。だが硬い。顔役は底を測るように皇子の目を見る。王子は身体の角度をわずかに変え、支えの気配だけを渡す。合図は要らなかった。皇子の背筋は伸びていた。納骨堂は冷たかった。骨壁に刻まれた名が規則正しく光る。司の灯が揺れ、古い権利書が開かれる。「祖霊が継承を指名する。これが我らの掟」司の目は細かった。皇子は手の甲に描かれた魔紋に息をかけ、静かに返す。「祖霊の灯守は、施主たちが選ぶ。毎年、花の季に。灯守の印は納骨堂が授ける」血は敬う。だが意思は生きている者の側に置く。王子が文案を差し出す。灯守は儀礼の長だが、王座の代行ではない。司はしば
鐘が三度、鳴った。香の煙が白く漂い、聖油が肌にひやりと触れた。大聖堂の中央、皇子は胸に手を当て、王子の差し出す掌に指を重ねた。司祭の声は短く、魔紋が手首に浮かび、青金色の光で互いの脈を結んだ。公開儀礼は、淡々と、だが確かに終わった。地下街の代表は袖の陰で数え、納骨堂の管理長は無言で頷き、列柱の影には押し合う視線。権利の取り合いは終わっていない。むしろ、ここからだ。皇子は息を吸い、前に立ち、簡潔に宣言した。「共に治める」王子は一歩、半歩だけ後ろへ。掌の力だけで支える。その距離感が、公の合図だった。夜。私室に移ると、カーテンは厚く、焔は低く、窓は鍵が下りていた。机の上に羊皮紙、銀の印章、細い羽根ペン。王子は外套を脱ぎ、皇子の喉元の赤い印を指先で確かめる。「痛むか」「平気だ。儀礼の油の匂いがする」「なら、始めよう。私的条項の更新だ」二人は椅子に並んで座り、文字を交互に置いていった。可、と不可。合図、順序、アフターケア。王子が短く読み上げ、皇子が短く頷いた。「可。命令の口上。視線の固定。跪礼」「不可。痕の残る拘束。首を圧す行為。公の場での混同」皇子は指先を軽く上げた。「要確認。手枷は絹のみ。鍵は見える場所に」王子が笑う。「絹以外は、納骨堂から怒られる」ここで扉が軽く叩かれた。侍従が青い顔で羊皮紙の束を差し出す。「先ほどのドラフト、誤って納骨堂に回してしまいまして……戻ってきました」束の表紙には、赤い書き込み。「骨壺区域に金属鍵は禁止」。二人は声を殺して笑った。皇子は耳朶まで赤い。「返事を書こう。金属鍵は私室用だって」王子は「了解」とだけ言って、可の欄に一行足した。「合言葉の運用。セーフワードは『灯』。ささやきで発する。三度、手を叩く動作と併用」皇子はその言葉だけで喉が動いた。「……『灯』」「今は運用の確認だ。言えば、すべて止める。水を出す。手を包む。説明は求めない。再開の合図は『続ける』。それがなければ、夜は終える
軍鼓が二つ、違う拍を刻んでいた。広場の石畳にひびく重音が片や三歩、片や四歩。列が蛇のようにうねり、槍の穂先が互いの肩に刺さりそうになった。「止め」皇子が前に出て、掌を立てた。春の光が外套の縁を白く縁取り、彼の耳は緊張でほんのり赤かった。王子は半歩後ろで、視線だけで行軍長に合図した。「原因は?」「太鼓頭がふたり、殿下」「それは知っている」王子が小さく笑って、皇子の腰骨に目に見えない支えの手を置いた。触れはしない。だが皇子の肩の呼吸が一つ整った。公では皇子が前。私室では王子が支える。その二重の歩調を、軍にも教える必要があった。《『軍の歩調って本当に歩調だよな』》彼らは大聖堂の影で条約婚を成立させたばかりだった。公開の儀礼では、白砂糖で磨かれた石の階段を、皇子が先に上がり王子が背面を守った。誓約の巻紙には「支配と委ね」の章があり、政治の合意と同じ体裁で、私室の契約が明文化された。可・不可、合図、アフターケア。セーフワードは薄荷。指先三回の合図で緩め、薄荷の言で即時停止、そして蜂蜜茶とぬるい湯、それから背に描く温めの魔紋。官能の言葉が、法律の言い回しで刻まれているのは、少し可笑しくもあり、安心でもあった。問題は、軍だった。二頭制と告げただけでは、現場は迷う。誰の号令に従い、どの旗を見るか。大聖堂は儀礼の権威を主張し、地下街は糧秣の配分権を握り、納骨堂は戦没者の名の扱いをめぐって口を出してきた。権力が絡まれば軍鼓も乱れる。「手引きを出す」王子が言い、地下街の書写工と取引した。地上の印刷は大聖堂の発願が必要だが、地下なら早い。薄い羊皮を重ねた掌サイズの冊子に、魔紋の透かしを入れた。表紙には二つ首の鷲の紋。左は蒼、右は朱。蒼は皇子、朱は王子。公務の場では蒼の旗が前、私室と戦術即応時は朱が支えに入る。その切り替えを明確にするために、「週一のスイッチ・デー」を軍も採用した。毎週火の六日、旗の位置が入れ替わる。笑った兵も多かったが、笑いが溶かす誤解もある。「スイッチって、その……」若い隊士が耳を赤くした。王子が片目をつむった。「公務
鐘が三度、重く鳴って、広場の空気が揺れた。白い光の下、大聖堂の階段に皇子が一歩、前に出る。王子は半身、彼の後ろに位置を取った。半歩の距離。公では皇子が前、私室では王子が支える——二人の合意が形になった並びだ。「条約婚の宣言を」皇子の声はかすれたが、意志は硬かった。喉を湿らせるために舌を動かす。歯の裏に薄い飴の甘さ。王子の指先が背に触れる。触れただけ。支えは過不足ない。祭壇に置かれた誓紙の周りでは、魔紋が淡い金で震えていた。輪と帯。鎖ではない。合意の輪は二つの心拍に合わせて脈打ち、帯は不意の衝撃を吸って緩む設計だと術師が説明していた。専門語はさておき、見た目は綺麗だ。大司教が杖を鳴らした。「婚儀は聖なる裁可を……」王子が一歩、踏み出した。低く、短く。「裁可の範囲を定義します」ざわめき。皇子は吸って、吐く。準備してきた文言が舌の上でほどけた。「魂に関わる儀礼——婚礼・洗礼・葬送——に限り、教会の裁可を尊重する。他の契約は世俗の印と議会の責に。地下街の賦課、納骨堂の貸与は、行政と教会の共同監察にする」視線が刺さる。大聖堂の扉の陰で、黒衣の書記が眉を持ち上げた。地下街の香草と干し肉の匂いが風に乗る。納骨堂に開く冷たい空気が足元にまとわりついた。「精神のケアはどうするのだ」大司教の問い。王子は答えを皇子に任せる。唇が一瞬、笑う。皇子が頷いた。「慰撫隊を設ける。癒術師と司祭を同じ隊に。記録は双方に。相談は無料。診断の記号は守秘」短い言葉の積み木が、広場に静かに積もる。石畳に光が跳ねた。王子の指先が離れる。自分で立てていることがわかったからだ。誓紙の次は、二人の私的な合意契約の明文化だった。公開するのは骨子のみ。合意可否、合図、アフターケア。書記が緊張した指で木札を掲げる。「可——命令口調、拘束は室内に限る。不可——公開の屈膝、露出、痛みの蓄積。合図——
大聖堂の鐘は低く、骨のように長く響いた。公開儀礼からまだ一旬しか経っていないのに、皇子は、その音に誓環の重みをふっと思い出してしまう。あの日、白い香煙の下、二人は条約婚の契約文とともに私契も読み上げた。可と不可、合図と休止、終えた後に互いを整える手順まで、魔紋を光らせながら人々の前で明文化した。それが笑われるどころか「治める者の責」として受け止められたのは、王子の打つ拍の確かさゆえだと、皇子は知っていた。今日の協議は地下街。大聖堂の床石の下、湿り気のある通路を降りる。燻した油の匂い。錆の味。納骨堂へと続く道と、夜市へ折れる道が、暗い三叉を作っている。森で出会った案内人の言葉を皇子は思い出す。「税を取るなら灯りを増やしてくれ。暗さは人を獣にする」。それを交渉の芯に置くと決めて、皇子は前に立った。公では彼が先頭に立つ。私室で支えるのは王子の役目だ。「皇子殿下、教区としては、納骨堂の静寂が第一である」老司祭が嗄れ声で言い、地下街の頭目は腕を組んだままうなずかない。徴税官は乾いた咳をした。王子は半歩後ろ、手袋の中で指を軽く二度打った。合図。息を整えろ、の合図だ。皇子は顎を引き、短く言う。「灯税だ。灯り一本につき銅貨一。収入の六は地下街の巡視と燈台の油に、二は納骨堂の維持に、二は王庫に回す」「巡視は誰が?」頭目が眉をひそめる。王子が、指先で袖の縁を三度叩いた。議題を噛み砕け、の合図。皇子は頷く。「地下の者が半数。地上の衛士が半数。混ぜる。隊の頭は当面、地下の者から選ぶ。信頼が育つまで、こちらは目を光らせない。ただし禁制品は一覧にして共に掲げる」禁制品。骨、乳香、言葉にならない別の何か。老司祭が僅かに目を細めた。納骨堂の柩と商いが近すぎるのだ。皇子は首元の誓環の内側に刻まれた契の魔紋を意識し、言葉を続ける。「納骨堂への通路は封鎖門を設ける。祭礼日には地下の者にも開く。供物税は取らない。かわりに祭礼日以外の進入を厳罰とする。灯税の二は必ず教区に送る」「二では少ない」老司祭が言い、頭目が笑った。「二だからやるんだよ。四取るなら燈りは消える」王子の指が一瞬止まり、それから人
大聖堂の奥は冷たかった。石の床が朝の湿りを抱き、古い香が壁にしみついている。皇子は一歩進んで振り返った。王子が頷いた。いつも通り、公では皇子が前に。私室では王子が支える。二人の間でその合図は呼吸と同じだった。「今日は立礼だ。跪拝は撤廃する」皇子の声が木霊した。短く、よく通る。祭壇下の老司祭が目を細める。「玉座前の平伏は伝統である」「屈辱は伝統ではない」王子が半歩後ろから言葉を添えた。左手は外套の下、皇子の腰の位置に浮かぶ。触れないが、寄りかかれば支える距離。二人の契約どおり。条約婚の公開儀礼から月日はわずか。二人はあの日の誓いを更新する形で礼法を組み替えると決めていた。屈辱を抜き、同意と停止の仕組みを裏でも表でも明文化する。合意が先、手続きはその後。王家の印を押す前に、二人は互いに許可と不可を読み上げ、合図の意味を確認した。「可は、手を取る。不可は、強制の跪拝。合図は、肩に二度。停止は、『白花』」皇子が復唱し、王子が続けた。「アフターケアは、茶一杯と十分の沈黙。そして、報告」司祭たちはざわめいた。儀礼の中に私的な規則が混ざっている。だが混ざってよかった。条約婚の布が、政治に染み込むように。問題は大聖堂だけではない。地下街と納骨堂。司祭と行商と墓守が細い通路で権利をぶつけ合う場だった。国家の葬列が通るたび、誰かが頭を下げ、誰かが顔を伏せる。屈辱が堆積していた。「納骨堂の門は今日から開く。市民式典を増やす。外の広場で誓いを立てる。地下は記憶のために」皇子は予定表を捲った。そこに穴があった。若い従者が青ざめる。「あの……日取りを一つ入れ違えまして……」王子が笑った。軽い。肩の空気が緩む。「どれを遅らせる」「……司祭会議を午後に、広場の鐘を先に」「鐘を先にしよう。音で街に知らせる」皇子が頷いた。間違いは修正すればいい。儀礼は生き物だ。儀礼の稽古が始まった。香炉に火が入る。