クリスマスの日、私・江藤栞(えとう しおり)はしゃぶしゃぶ専門店の前で6時間並んでいた。
彼氏の長谷川一彦(はせがわ かずひこ)から電話がかかってきた。「遥が激辛料理を食べたいって言ってる。今すぐ来てくれ」
浅野遥(あさの はるか)は私の大親友で、一彦の元カノだ。
一彦が遥のせいで予定を台無しにしたのは、これで35回目だ。
この店は一彦がずっと食べたがっていたしゃぶしゃぶ専門店で、いつも行列が長すぎて諦めていた。
どうしても一緒に食べたかったから、わざわざ休みを取って6時間も並んだのに。
10分おきに、今の呼び出し番号を一彦に送っていた。
そして、つい5分前、最後の呼び出し状況を報告したばかりだ。
整理券番号は301番。今、295番まで呼ばれている。
私は整理券を強く握りしめた。「一彦、休みを取って6時間並んだのよ。あと6人なのに……」
一彦は面倒そうに話を遮った。「わかってる。でも遥が激辛料理を食べたいって言ってるんだ。この店にはまた来ればいいだろう」
電話越しに、沈黙が流れた。
耳元で一彦の急かす声が聞こえた。「俺たちはその店の数軒先にいるんだ。さっさと来いよ」
これまで34回も妥協してきた私だったが、突然すべてがどうでもよくなった。
「嫌よ。私はしゃぶしゃぶが食べたいの」
電話を切った私は、社長にメッセージを送った。
【社長。S国への異動の件、お受けします】
「301番のお客様、いらっしゃいますか?」
整理券を渡し、店員の案内に従って席に着いた。
「だしはいかがなさいますか?赤チゲ味噌だしと、豆乳だしがございます」
「豆乳だしで」
遥は激辛好きだが、私は辛いものが全く食べられない。
三人で食事をするときは、いつも遥の好みに合わせるしかなかった。
うつむいて上着を片付け、だしが来るのを待った。
「栞」
誰かに呼ばれた気がして、顔を上げた。
そして、遥が手を振りながら歩いてくるのが見えた。
後ろから一彦が、遥のバッグとコートを持って付いてきた。
私の前に立ち止まった一彦は、整った眉を寄せて少し不機嫌そうな顔をした。
「栞、今回だけは言っておくけど」
「え?」
「向こうでもう注文は済ませたんだ。遥がお前に会いたいって言って聞かなくてさ。次からこんな勝手なことをするなよ」
私が一彦の彼女なのに、彼が私に見せるのはよそよそしい態度だけ。
なのに遥に対しては、あんなにも親密で……
私だってやきもちも焼いたし、悔しくもあった。
文句を言えば、「いつも通りだろ?そんな小さいことを気にするな」とあしらわれる。
これ以上言えば、私のわがままだと決めつけられる。
遥が一彦の胸を軽く叩いた。「一彦ったら、栞を怒らせないで。泣かせたら私が許さないんだからね」
「はいはい、了解」一彦は腰をかがめ、私には一度も見せたことのないほど甘い口調で言った。「お前も栞に甘すぎるだろ」
遥は私の隣に来て、私の腕にしがみついた。そして、一彦を睨みつけた。
「栞は私の大親友なの。大事にして何が悪いのよ。元カレには関係ないでしょ?」
一彦は降参したように両手を上げ、遥のバッグとコートを丁寧に片付けた。
そして遥の隣の席に座り込んだ。
店員が運んできた豆乳だしを、鍋に入れようとした。
一彦はそれを手で制し、問い詰めるような口調で言った。「どうして豆乳だしなんだ?」
「あなたたちは来ないと思って……私、辛いものが苦手だから」
「赤チゲ味噌だしに替えてください」
一彦は私の返事も待たず、迷わず遥の好みのだしに変えるよう指示した。
「ちょっと、一彦……」遥は少し躊躇いを見せた、「このままでもいいじゃない?」
「ダメだ」一彦は譲らなかった。「お前、1ヶ月もこの店に行きたいって言ってたろ。せっかく並んだんだから、満足するまで食べてほしいんだ」
食器を配っていた私の手が、ぴたっと止まった。
なるほど、この店に1ヶ月も来たがっていたのは遥だったのか。
遥の望みなら、一彦はずっと覚えていたというわけだ。
私の誕生日にあっさりとした優しい味付けの料理がいいと頼んだ時は、「味が薄くて遥の好みじゃない」と断った。
また今度二人きりで食べに行こうと約束した。
それなのに、次の日には綺麗に忘れ去られていた。
遥は私の様子を伺い、それから困ったように一彦を見た。「でも、栞は辛いものが食べられないのよ」
一彦は私を一瞥し、軽く眉をひそめた。
少しの間を置いてから、彼は店員に告げた。「赤チゲ味噌だしに替えて。あと、お冷をピッチャーでもらえる?」
豆乳だしを下げられ、一彦が深く腰を下ろす。
「ほら、前と同じだ。辛かったらお冷に肉をくぐらせてから食べろよ」
私は何も言わず、ただ黙々と食器を並べ続けた。
一彦はいつものように、私が従うのが当たり前だと思っている。
だしが煮立つ間、遥がタレを作りに行った。
一彦がすかさず引き止め、わざと呆れたような口調で言った。「お前は座ってろよ。また酢を醤油と間違えるだろ、俺がやってくる」
遥がふんと鼻を鳴らす。「誰が間違えるっていうのよ」
そして、いたずらっぽく眉を上げて、「私の好みの配分、覚えてる?」と聞いた。
一彦は自慢げに小声で諳んじた。「胡麻ダレ多めに、黒酢を二滴、おろしにんにくを少々と、ねぎをたくさん……」
遥は嬉しそうに遮った。「はいはい、そんな自慢げに言わなくていいから、早くしてよ」
私も席を立とうとした。
遥が私の腕を掴む。「どこ行くの?」
「タレを作りに」
「そんなの、一彦に任せればいいじゃない?私たち付き合ってたとき、彼は何でもやってくれてたのよ」
私が顔を上げると、ちょうど一彦と目が合った。