LOGIN「私の脳髄を焼き切る強制シャットダウンの果てに待っていたのは、玉座ではなく、真っ白で無機質な絶望の檻だった」
◇
ピーッ……ピーッ……。
規則的で無機質な電子音が、鼓膜の奥を等間隔に叩いている。
重い瞼をこじ開けると、視界に飛び込んできたのは、目が痛くなるほどの真っ白な天井だった。 最高級のシルクのシーツも、天神の夜景を見下ろす巨大なガラス窓も、どこにもない。 私の身体を包んでいるのは、漂白剤の匂いがこびりついたペパーミントグリーンの病衣。そして、寝返りを打つことすら許されないほど硬く冷たい、粗末なスチール製のベッドだった。「……あ……」
声を出そうとしたが、喉はカラカラに乾ききり、ひび割れた粘膜が擦れて微かな空気が漏れただけだった。
ゆっくりと首を動かし、周囲を見渡す。 壁一面を覆う無機質な白いクッション材。天井の四隅から私を冷徹に「絶対的な暴力の前に這いつくばった私は、理不尽に破壊されていく自分の箱庭を、泥水の中からただ見上げるしかなかった」◇ 十一月十日。 私は、天神ビッグバンの巨大な地下空間――まだ一般の目に触れることのない、未供用の連絡通路の奥深くで、ガタガタと震えながら身を潜めていた。 昨夜、西中洲のペントハウスでアリンの私兵部隊から受けた強襲。 クォンの決死の閃光弾のおかげで、私たちはなんとか那珂川へ飛び込み、死地を脱した。しかし、それは決して「スタイリッシュな逃走劇」などではなかった。 氷のように冷たい十一月の泥水を飲み込み、ヘドロの悪臭にむせ返りながら、這いつくばって川岸に辿り着いた。私の漆黒のコートは泥と血でドロドロに汚れ、自尊心は音を立てて完全に粉砕された。「……女王様。お怪我は(韓国語)」 暗闇の中、私の横でクォンが低く囁く。彼のスーツも泥だらけで、肩口からは血が滲んでいた。「……平気よ。それより、地上の状況は?」 私は、震える手で防水仕様のスマートフォンを取り出し、画面をタップした。 画面に映し出されたのは、本日の福岡市議会、最後の定例会の様子だった。『私が市長になったのは、2010年、36歳のときでした……』 壇上でマイクに向かって語っているのは、昨夜、アリンの部隊に血だるまにされていたはずの高柴市長ではない。 彼の代わりに壇上に立っているのは、顔面蒼白で冷や汗を流す副市長だった。「本日は高柴市長が急な体調不良により欠席のため、私が代読させていただきます……」 震える声で読み上げられる、綺麗事で塗り固められた退任挨拶。『天神ビッグバンなどを責任を持って進め、オフィスの新しい役割を示したい……その思いで、4期目に臨みました。……新しい基本計画も策定し、未来への新たな種も蒔きました』『……だ
「私が積み上げてきた情報と心理戦の完璧な城は、理不尽で純粋な『暴力』という大津波の前に、一瞬にしてただの泥水へと還元された」◇ 十一月九日、深夜。 冷たい秋雨が、西中洲の石畳を黒く濡らしていた。 私は漆黒のトレンチコートの襟を立て、那珂川沿いに建つ最高級タワーマンションの最上階へと向かっていた。 私のコートのポケットには、昨日、完全に屈服させた結城絢乃から奪い取った『地下空間譲渡契約書』の電子データが入ったUSBメモリがある。 そして今夜、私はこの西中洲のペントハウス――高柴市長の極秘の隠れ家から、その売国契約の『原本』を回収し、あの男の息の根を完全に止める。 私が天神の絶対女王として君臨するための、最後の仕上げ(パレード)だ。「……女王様。嫌な予感がします。このフロア、静かすぎます(韓国語)」 私の斜め後ろを歩くクォンが、懐の拳銃に手をかけながら低く囁いた。 確かに異常だ。現職市長の隠れ家であるにもかかわらず、セキュリティの気配が全くない。監視カメラの赤いランプも消え、廊下は不気味なほど静まり返っている。「構わないわ。中に入って、金庫を開けるだけよ(韓国語)」 私は、絢乃から聞き出した暗証番号を打ち込み、重厚な扉を開け放った。「……ッ!」 扉を開けた瞬間、私の鼻腔を突いたのは、むせ返るような鉄錆の匂い――大量の生血の悪臭だった。 広大なリビングルーム。 その中央に敷かれた真っ白なペルシャ絨毯は、赤黒い血でドロドロに染まり、水たまりを作っていた。 そして、その血の海の中で、一人の初老の男が、原型をとどめないほどに顔を腫れ上がらせて倒れている。 高柴宗一郎市長。 十六年間、この天神に君臨してきたカリスマ政治家が、口から血の泡を吹き、豚のようにピクピクと痙攣しながら這いつくばっているのだ。「……遅かったわね、泥棒猫(韓国語)」 リビングの奥。 革張りの特注ソファに深く
「大衆の悪意と裏社会の暴力に引き裂かれた純白のお人形は、最後には私の靴を舐めるしかなかった」◇ 十一月八日。 投開票まで残り一週間となった福岡市長選は、完全にカオス(混沌)の泥沼へと沈み込んでいた。 天神のペントハウスの巨大モニターには、朝から同じような世論調査のニュースが繰り返し流れている。『福岡市長選、過去最多十二人の乱立により票が極度に分散』『法定得票数(有効投票の二十五パーセント)に誰も届かず、再選挙の公算大』。「……計算通り、いえ、それ以上に滑稽な展開ね」 私は、絢乃から手に入れた高柴市長の不正データが詰まったUSBメモリを指先で弄りながら、氷のように冷たく微笑んだ。 高柴市長が自分の裏金を使ってダミーの候補者を大量に擁立し、意図的に票を割らせて「再選挙」という時間稼ぎの空白を作る罠。 このまま誰も法定得票に届かず再選挙となれば、選挙戦は泥沼化し、高柴の任期満了である十二月六日までに、天神ビッグバンの地下空間独占譲渡契約は完全に中国資本へと渡ってしまう。「でも、その完璧な盤面も、これで終わりよ」 私は、傍らに控えるクォンへUSBメモリを放り投げた。「クォン。昨夜、地下の工作員が吐いた『西中洲の隠れ家』の金庫の鍵と、このデータサーバーのバックドア。……完全に一致したわ(韓国語)」「……! では、あの譲渡契約書の『原本』のありかが……! (韓国語)」「ええ。高柴が中国資本と交わそうとしている、この街を売り渡す売国契約の動かぬ証拠よ。……これで、チェックメイトだわ(韓国語)」 私は、テーブルの上に置かれた最新型のスマートフォンを引き寄せた。 それは、絢乃から奪い取った、中国資本の幹部と高柴市長だけが繋がる、暗号化された極秘回線専用の端末だ。 私は迷うことなく、高柴の番号をタップした。『……結城くんか。今は不用意に連絡をし
「血に染まった地下迷宮から生還した私は、純白のドレスを着たお人形の、最も脆くて美しい絶望の密室へと足を踏み入れた」◇ 十一月六日の深夜。 天神の中心部にそびえ立つ、外資系最高級ホテルのスイートルーム。 重厚なセキュリティと何重もの電子ロックに守られたその部屋は、今の結城絢乃にとって、この狂った街で唯一息ができる「絶対安全な無菌室」であるはずだった。 だが、大衆の悪意と裏社会の暴力に怯える温室育ちの偶像(アイドル)は、知らないのだ。 本当に恐ろしい怪物は、正面玄関のパスワードなど使わない。テソングループの裏ネットワークと、私が握り潰したホテル幹部のスキャンダルを使えば、VIP専用の隠しエレベーターから音もなく侵入することなど、造作もないことだと。 私は、マスターキーで静かに扉を開け、分厚いペルシャ絨毯の上を足音も立てずに歩いた。 暗闇の中、キングサイズの大理石ベッドの上に、力なくうずくまっている白い影が見える。 スマートフォンから放たれる青白い光が、結城絢乃の顔を幽鬼のように照らし出していた。『住所特定した。売国奴の親も同罪だ』『今から殺しに行く。絶対に許さない』『中国の犬め、家族ごと地獄に落ちろ』 画面をスクロールする絢乃の指先は、ガタガタと小刻みに震えている。 無責任な匿名の群衆たちが放つ、底なしのデジタルリンチ。精巧なAI偽動画によって完全に「中国の工作員」というレッテルを貼られた彼女は、今や日本中から石を投げられる哀れなサンドバッグだ。 かつてダボス会議で流暢な英語を操り、天神の未来を語っていたグローバルエリートのプライドなど、もう見る影もない。「……冷えるわね。震えているの、絢乃ちゃん?」 私が静寂を破って優しく囁いた瞬間。「ヒッ……!?」 絢乃の肩がビクッと跳ね、スマートフォンがポロリとベッドの下へ転げ落ちた。 彼女が悲鳴を上げようと息を吸い込んだ刹那、私はベッドに歩み寄り、泥と返り血で汚れたままの冷たい手で、彼女の口を
「プロの暗殺者から言葉を引き出すのに、怒号も刃物も必要ない。ただ、彼らが最も恐れる絶望の底なし沼へ、優しく沈めてやればいいだけだ」◇ 十一月五日。 天神のど真ん中で進められている「天神ビッグバン」の目玉、福ビル街区の巨大な地下工事現場の最深部。 まだ陽の光も一般市民の視線も届かないこの場所は、むき出しの鉄骨と冷たいコンクリートが支配する、無機質で底冷えのする巨大な空洞だった。 地下水が天井から等間隔で滴り落ち、チャプ……チャプ……という反響音が、鉄錆と泥の腐臭と共に空気を重く淀ませている。 パイプ椅子にダクトテープで何重にも縛り付けられているのは、昨夜のトラップで生き残った中国特務機関の工作員だ。 彼は、両膝の関節と右肩をクォンに撃ち抜かれ、血と泥にまみれて荒い息を吐き出していた。「……吐け。結城絢乃と高柴の裏の繋がり、そしてダミー候補どもへの資金ルートの全貌を。……さもなければ、このまま指の爪を一枚ずつ剥いでいくぞ(韓国語)」 クォンが、男の折れた膝の傷口にタクティカルブーツの先端を容赦なくねじ込みながら、低い声で脅しをかけた。「ガァァァッ……!! (中国語)」 男は苦痛に顔を歪めながらも、頑なに口を閉ざしている。国家レベルの特務機関で訓練されたプロフェッショナルだ。肉体的な激痛には耐性ができているし、情報を漏らせば本国にいる家族の命がないことも分かっているのだろう。「待って、クォン。そんな乱暴なやり方じゃ、せっかくのお口が一生開かなくなってしまうわ(韓国語)」 私は、泥水で汚れた漆黒のコートの裾を揺らしながら、ゆっくりと男の正面に歩み出た。 血のように赤いルージュを引いた唇に、極上の、そして底知れぬほど優しい微笑みを浮かべる。「ねえ、あなた。自分がどうして殺されずに生け捕りにされたか、分かる?」 私は、中国語は話せないが、相手は日本の福岡で工作活動をする連絡役だ。当然、日本語は理解できるはずだ。 男は、充血した目で私を睨みつけたまま、何も答えない。「結城絢乃は、ネットのデジタルリンチで精神をすり減
「温室育ちの偶像がネットの底なし沼で溺れもがく様を、私は鉄錆の匂いが充満する地下の暗闇で、極上のエンターテインメントとして鑑賞していた」◇ 十一月三日。 地上で繰り広げられる滑稽な選挙戦を他所に、ネットという名の底なしの泥沼では、結城絢乃という純白の偶像を八つ裂きにする狂乱の宴が、昼夜を問わず続いていた。 薄暗い地下空間の待機場所で、私はタブレットの画面に滝のように流れるタイムラインを指先でスクロールしながら、クスクスと笑い声を漏らした。『#結城絢乃は中国の工作員』『#福岡を売り渡す反日エリート』『#偽物の救世主』。 文字の羅列が、見えない刃となって次々と彼女をメッタ刺しにしていく。 警固公園で大衆の面前でヒステリックな素顔を晒して以来、彼女のクリーンな仮面は完全に剥がれ落ちた。そして今、彼女を一番追い詰めているのは、私ではなく、匿名の群衆が放つ「無責任で醜悪な正義感」だった。 画面には、何者かが生成した精巧なAI偽動画が拡散されている。絢乃が中国の要人と薄暗い部屋で裏金の札束をやり取りし、卑屈に頭を下げている映像。 陣営が「悪質なデマだ」と何度火消しをしても、群衆はもう止まらない。彼らは「真実」などどうでもいいのだ。ただ、高学歴で美しく、自分たちを見下していた温室育ちのエリートが、泥水にまみれて泣き叫ぶ姿を見たいだけ。叩きやすいサンドバッグを、安全なスマートフォンの画面越しに石で打ち据えるという、最高に手軽な娯楽に酔いしれている。 さらにエスカレートした悪意は、ついに現実の暴力を孕み始めた。『お前の家族の住所を特定した。誘拐してメッタ刺しにして殺す』。 実家の写真と共に送りつけられた具体的な殺害予告。ネットニュースの速報は、絢乃陣営が警察に被害届を出し、彼女自身の街頭活動が完全に萎縮・縮小されたことを伝えていた。「……本当に、人間っていうのは醜くて愛おしい生き物ね」 私は、絢乃の公式アカウントに殺到する呪詛の言葉を眺めながら、恍惚としたため息をついた。 自分が絶対に傷つかない安全圏から、集団で一







