LOGINテレビの心霊番組にも時折出演する霊能力者・久世環は、穏やかな人柄で知られ、相談者から法外な金銭を取ることもない。そんな彼女のもとには、死者から電話が来る家、存在しない階へ止まる団地、夜ごと声が響く旧トンネルなど、説明のつかない相談が全国から届く。環は有名な心霊スポットを訪れ、霊をむやみに祓うのではなく、なぜそこに残ったのかを静かに聞き取っていく。だが数々の怪異の陰で、二十七年前に救えなかった少女が繰り返し姿を現し始める。死者が怖いとは限らない。生きている人間が正しいとも限らない。これは、一人の霊能力者が残された声に寄り添い続ける心霊事件簿。
View More母が死んでから半年が過ぎたころ、午前三時十三分になると電話がかかってくるようになった。
最初の夜、相沢沙耶は寝ぼけた頭で枕元のスマートフォンを手に取り、液晶に表示された名前を見ても、それがおかしなことだとすぐには理解できなかった。
――お母さん。
登録したときのままの名前だった。
眠気より先に、胸の奥へ冷たいものが入り込んだ。沙耶は布団の上で身体を起こし、しばらく画面を見つめていたが、呼び出し音はなかなか止まらなかった。
母の携帯電話は、今も実家にある。
解約してはいない。母が亡くなってから、写真やメッセージが消えるのが嫌で手続きができず、そのままになっていた。ただし電源は切ってあり、母の寝室の机、その一番下の引き出しにしまってある。
誰かが使えるはずがなかった。
沙耶は震える指で通話ボタンを押した。
「……もしもし?」
返事はなかった。
「お母さん?」
そう口にした瞬間、自分がひどく馬鹿なことをしているような気がした。母は死んだ。葬儀にも出た。小さくなった骨を箸で拾い、骨壺に収めたのも自分だった。
それなのに、電話の向こうへ向かって母を呼んでいる。
何も聞こえなかった。
いや、何かが聞こえていた。
ざあっ、ざあっ、と一定ではない音が遠くで続いている。雨とも違う。川の流れとも違う。
沙耶には、それが水の音のように思えた。
「誰なの?」
問いかけた途端、通話が切れた。
それが最初だった。
二日目も午前三時十三分。
三日目も同じだった。
一週間が過ぎたころから、沙耶は午前三時になると眠れなくなった。電話が来ることを待っている自分と、絶対に鳴らないでほしいと思っている自分が同時にいた。
そして十日目の夜、とうとう耐えられなくなった。
◇
「亡くなった方から電話が来る、ですか」
久世環は、目の前に座る若い女性の言葉をそのまま繰り返した。
驚いた様子は見せなかった。
沙耶にとって、それだけでも少し救いだった。
東京都某市の古い商店街。その二階にある「久世相談室」は、テレビで何度か見た印象よりずっと庶民的だった。革張りの立派なソファもなければ、神棚も祭壇もない。窓際には小さな観葉植物が並び、テーブルの上には箱入りのティッシュと、スーパーで売っているような個包装の煎餅が置かれている。
環自身も同じだった。
テレビの心霊特番では全国の有名な心霊スポットへ赴く霊能力者として紹介されているが、目の前にいる五十四歳の女性は、淡い茶色のカーディガンを着た、ごく普通の人にしか見えない。
「母は半年前に亡くなりました。なのに、十日前から毎晩、同じ時間に電話が来るんです。番号も母のものです。誰かが悪戯しているんじゃないかと思って、実家にも確認しました。でも携帯はずっと引き出しに入ったままで……」
「電話に出ると、お母様は何か話しますか?」
「いいえ。何も。ただ、水みたいな音が聞こえます」
環はそこで初めて少し考え込んだ。
「水みたいな音、というのは、蛇口から出ている感じですか。それとも川や雨でしょうか」
「分からないんです。ザーッていうより、もっと近くで流れているような……。それに、変なんです。毎回同じ録音を流しているなら、音も同じになると思うんですけど、少しずつ違うんです」
「そうですか」
環は沙耶の顔をじっと見たわけではない。むしろ、相手が怖がらないようにするためなのか、テーブルの上の湯呑みに茶を注ぎながら静かに尋ねた。
「お母様がお亡くなりになった場所に、水は関係していますか?」
「ありません。母は買い物の帰りに倒れて、そのまま……。病院に運ばれましたけど、助かりませんでした」
「では、生前のお母様が水を怖がっていたとか、水辺に関する出来事があったとか、そういう心当たりは?」
「ないと思います」
沙耶は答えたあと、少し間を置いてから付け加えた。
「ただ、母が亡くなった日のことなら、ひとつだけ気になることがあります」
環の手が止まった。
「どんなことです?」
「母から電話があったんです。亡くなる一時間くらい前に。でも仕事中で出られなくて、後からかけ直そうと思っていました。結局、それが最後になりました」
「留守番電話は残っていますか?」
「いいえ。着信だけです」
沙耶は唇を噛んだ。
「もし出ていたら、何を言いたかったのか分かったかもしれないって、ずっと考えてしまって……」
環はすぐには慰めなかった。
安易に「あなたのせいではない」と言われても、それだけで半年間の後悔が消えるものではないと知っているようだった。
「電話に出られなかったことと、お母様が亡くなったことは別です。ただ、何を伝えたかったのかが残ってしまった。それが沙耶さんを苦しめているんでしょうね」
その言い方に、沙耶は初めて小さく頷いた。
相談室の隅でノートパソコンを開いていた佐伯蓮が、画面から顔を上げた。二十九歳の映像ディレクターで、もともとはテレビ番組の取材を通じて環と知り合った男である。
「先生、今夜ですよね?」
「そうなりますね」
「実家に泊まるんですか?」
「電話が来る場所を確かめたいですから」
蓮は露骨に嫌そうな顔をした。
「俺、こういう『毎晩決まった時間に起きます』って話、本当に嫌なんですよ。待っている時間が長いから」
「あなた、心霊番組を作っていたでしょう」
「仕事と好き嫌いは別です。それに番組ならスタッフが十人いました。先生と二人で夜中の家にいるのは、条件が違います」
沙耶が思わず笑うと、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。
環も笑ってから、沙耶へ向き直った。
「今夜、ご実家を見せてもらえますか。ただ、先に一つだけ約束してください。何か見えたり聞こえたりしても、私がいいと言うまでは勝手に追いかけないこと。それから、お母様だと思っても、相手の言うことを何でも信じないことです」
「母でも、ですか?」
「ええ。亡くなった人がみんな善人になるわけではありませんし、姿や声だけ似せるものもあります。それに――」
環は少し言葉を選んだ。
「本当にお母様だったとしても、亡くなった方の考えがいつも正しいとは限りません。死んだから急に何でも分かるようになるわけではないんですよ」
◇
沙耶の実家は関東地方の某県、山あいへ入る手前の古い住宅地にあった。
車で二十分ほど走れば、全国の心霊愛好家の間では知らない者がいないほど有名な旧隧道がある。現在は車両の通行が禁止されているにもかかわらず、若者が夜中に侵入して問題になることがあり、テレビの心霊特集でも何度か取り上げられた場所だった。
蓮は運転席から暗い山並みを見て、ぼそりと言った。
「この辺だったんですね。あの旧トンネルの近くじゃないですか」
「近くというだけです。何でも心霊スポットと結びつけるのはやめなさい」
「でも、この辺の怪談って、だいたいあそこに集約されますよ。白い服の女とか、追いかけてくる車とか」
「噂は噂です。そこで普通に暮らしている人もいるんですから、面白半分に土地全部を怖い場所みたいに言ってはいけません」
「はいはい。テレビで同じことを言って、編集で半分切られたやつですね」
「余計なことを覚えていますね」
後部座席の沙耶は、二人のやり取りを聞きながら苦笑した。
実家に到着したのは午後九時過ぎだった。
築三十年以上の二階建て住宅だったが、きちんと手入れされており、外から見れば不気味なところなど何もない。玄関先には母が育てていた鉢植えがいくつも並び、そのうち半分は枯れていた。
「片づけられなくて」
沙耶が言った。
「水をやればいいのは分かっているんですけど、母がやっていたことを私が代わりに始めたら、本当に母が帰ってこないって認めるみたいで……」
「無理に片づけなくてもいいですよ」
環はそう答えただけで、鉢植えには触れなかった。
家に入ると、環は玄関から居間、台所、階段、母親の寝室までゆっくり歩いた。
蓮が後ろから小型カメラを持ってついてくる。
「撮るんですか?」
環が振り返る。
「記録ですよ。公開はしません。沙耶さんにも許可をもらっています」
「ならいいですけど、何か映ったからといって勝手に番組へ持っていかないでくださいよ」
「分かっていますって。先生、俺を何年知ってるんですか」
「三年です。その三年間に二回ほど信用を失いかけました」
「一回です」
「二回です」
沙耶はまた笑った。
しかし環は台所へ入ったところで、それまでの柔らかな表情を少し変えた。
「……ここ、以前に改築していますね」
「はい。私が小学生のころに一度。台所とお風呂を新しくしたって聞いています」
環は床へ視線を落とした。
「床下収納は?」
「そこにあります」
正方形の蓋を開けると、調味料や保存食が詰め込まれた収納箱が現れた。
環はしゃがみ込み、しばらく無言でその奥を見ていた。
「先生?」
蓮が呼んだ。
「水の音がします」
沙耶の顔から血の気が引いた。
「私には聞こえません」
「今は、私にしか聞こえていないんでしょう」
「母ですか?」
「それはまだ分かりません」
環は立ち上がった。
「少なくとも、お母様はこの家にはいません」
沙耶が言葉を失った。
「じゃあ、電話は……」
「電話についても、まだ決めないほうがいいでしょう。午前三時十三分まで待ってみます」
◇
深夜二時を過ぎると、家の中から生活の名残が消えていった。
冷蔵庫のモーターが止まるたびに静けさが深くなり、古い家特有の木材のきしみまで、妙に大きく感じられる。
沙耶は母の寝室から持ってきた携帯電話をテーブルの上へ置いた。
電源は切れている。
バッテリーそのものもほとんど残っていない。
その横には沙耶のスマートフォンがあった。
二時五十分。
三時。
三時十分。
蓮が時計を見る回数が増えていく。
「待ってる時間が一番嫌だって言ったでしょう」
「静かにしなさい」
「先生だって煎餅三枚食べてるじゃないですか」
「緊張するとお腹が空くんです」
「普通逆ですよ」
三時十二分。
沙耶の手が膝の上で固く握られた。
環は何も言わず、沙耶の隣に座っていた。
三時十三分。
スマートフォンが震えた。
三人とも画面を見た。
表示された名前は、
――お母さん。
「来た……」
沙耶の声がかすれた。
「出てください」
環が言った。
沙耶は通話ボタンを押し、スピーカーへ切り替えた。
「もしもし」
最初は無音だった。
やがて、ざあ、ざあ、と湿った音が聞こえ始めた。
蓮がカメラを向ける。
環は目を閉じていた。
「お母さん?」
沙耶が呼ぶ。
返事はない。
水音だけが続く。
そのとき環が立ち上がった。
「台所です」
「え?」
「音が、電話の向こうだけじゃない」
三人は台所へ向かった。
沙耶には何も聞こえない。しかし環は迷わず床下収納の前まで行き、しゃがみ込んだ。
「ここです」
「でも、さっき見ましたよね」
「収納箱の下じゃありません。その向こうです」
蓮が懐中電灯を取り出し、収納箱を持ち上げた。下には床下へ通じる狭い空間があり、乾いた土とコンクリートの基礎が見える。
環は光の届かない奥を見つめた。
「昔、ここに水路がありましたね」
沙耶が首を振った。
「知りません」
「今は塞がれています。でも流れは完全には変わっていない。雨が降ったあとだけ、地下で水が通るんでしょう」
その瞬間、電話の水音が大きくなった。
そして初めて、その向こうから別の音がした。
女の声だった。
ひどく遠い。
言葉にはならない。
それでも沙耶は息を呑んだ。
「お母さん?」
環がすぐに言った。
「違います」
断言する声には、それまでの柔らかさとは別の強さがあった。
「これは、お母様ではありません」
沙耶が凍りつく。
環は床下を指した。
「蓮さん、そこを照らしてください。基礎の向こう、土の色が違うところがあります」
蓮が身体を低くし、懐中電灯を差し込む。
「あ……何かあります」
壁際の土から、黒ずんだ布のようなものが覗いていた。
その夜に掘り返すことはしなかった。
環が止めた。
「これはもう、私たちだけで触るものではありません。警察に連絡しましょう」
◇
翌朝、警察の立ち会いで床下の一部が調べられた。
出てきたのは遺体ではなかった。
古い女性用の革鞄だった。
中には腐食した化粧品、財布、鍵束、それから水に濡れて文字の大半が滲んだ手帳が入っていた。
財布に残されていた身分証から、持ち主の名前が判明した。
三十一年前、この地域で行方不明になっていた二十二歳の女性だった。
家が建つ以前、この土地の裏手には細い農業用水路が流れていた。大雨の際には何度も増水し、後の宅地造成で暗渠化されている。
女性の行方について何があったのかは、警察が改めて調べることになった。
ただ一つ、沙耶にとって重要な事実も分かった。
母は亡くなる数日前、台所の床下から奇妙な音がすると近所の工務店へ相談していた。
そして亡くなった日、古い床下図面を受け取っていたのである。
「母は、これを見つけていたんでしょうか」
沙耶はテーブルの上に置かれた古い図面を見ながら尋ねた。
「鞄まで見つけていたかは分かりません」
環は答えた。
「ただ、何かがおかしいとは気づいていたんでしょう。あなたに電話したのも、そのことを話したかったのかもしれませんね」
「じゃあ、電話をかけてきたのは誰なんですか。あの女の人ですか?」
環は少し考えてから首を振った。
「私は違うと思います」
「でも先生、母はこの家にいないって……」
「ええ。ずっとここに残っているわけではありませんでした」
環は沙耶のスマートフォンを見た。
「それでも、人が亡くなったあとに残るものは、霊だけではないんです。言えなかったこと、渡せなかったもの、誰かに気づいてほしいという強い思い。それがどんな形で現れるかは、私にも全部は分かりません」
「母が、あの人のことを知らせようとしてくれたんでしょうか」
「そう考えてもいいと思います。ただし、お母様が何を思っていたのかを、私が勝手に決めてしまうのも違います」
環はそこで微笑んだ。
「沙耶さんがいつか、『お母さんはきっとこうしたかったんだろうな』と思える答えを見つければ、それで十分じゃないでしょうか」
沙耶はしばらく黙っていた。
やがて、泣きながら笑った。
「先生って、テレビで見るよりずっと普通のことを言うんですね」
「あら、失礼ですね」
「もっと、全部分かるのかと思っていました」
「分からないことのほうが多いですよ。だから困っているんです」
蓮が横から口を挟む。
「先生、テレビではそこ編集されますからね。『分かりません』って言ってるところ、だいたい使われないんです」
「あなたたち制作側の責任でしょう」
数日後。
午前三時十三分になっても、沙耶の電話は鳴らなかった。
二日目も。
三日目も。
母の番号から着信が来ることは、二度となかった。
沙耶はその週末、半年間そのままにしていた玄関先の鉢植えへ水をやった。
◇
「今回は交通費だけでいいです」
相談室へ戻った環がそう言うと、蓮は露骨に眉を寄せた。
「先生、それ毎回やってたら本当に潰れますよ」
「テレビの収録が来週あるでしょう」
「それはそれです」
「出演料をいただけるんですから、いいじゃありませんか」
「だからって相談料を取らない理由にはならないでしょう。家賃だって電気代だってかかるんですよ」
「蓮さんは私の経理担当でしたっけ?」
「先生が経理をしないから言ってるんです」
環は聞こえないふりをして、商店街の向こうへ視線を向けた。
夕方だった。
買い物帰りの主婦が歩き、自転車に乗った高校生が横を通り過ぎ、総菜屋から揚げ物の匂いが漂っている。
そんな、ごく普通の風景の中。
道路の反対側に、一人の少女が立っていた。
小学校の高学年くらいに見えた。
肩まで伸びた黒い髪。白いブラウス。紺色のスカート。
そして左手首には、細い赤い紐が結ばれている。
環の顔から笑みが消えた。
「……先生?」
蓮が気づいたときには、環は立ち上がっていた。
少女はこちらを見ていた。
二十七年前と、何ひとつ変わらない顔で。
環が道路へ出ようとした瞬間、配送トラックが目の前を横切った。
「危ない!」
蓮が腕を掴む。
トラックが通り過ぎた。
道路の向こうには、もう誰もいなかった。
環はしばらくその場所を見つめていた。
蓮が恐る恐る尋ねる。
「知ってる子なんですか」
環はすぐには答えなかった。
二十七年前。
押入れの中から女に呼ばれる、と訴えた少女。
環が何も感じ取れず、その家を後にした三日後、忽然と姿を消した子。
今も見つかっていない。
環は胸の奥にしまい続けてきた名前を、声には出さなかった。
ただ、道路の向こう側に残った夕暮れを見ながら、ゆっくりと息を吐いた。
その耳元で、少女の声がした。
「今度は、見つけてね」
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