149 出先に直行していた相馬さんが11時頃出社してきた。「おはよう~」「おはようございます。お疲れ様でした」 いつものように1日のスケジュールのすり合わせを簡単にする。「今日はクリスマスだしね、先延ばしできそうな仕事は明日以降にまわして定時に帰れるようにしよう」「いい案ですね。賛成~」「さてと、それじゃあエンジン全開頑張るとしますか!」「はい、頑張りましょう」 私たちは定時に帰るために、半日必死で業務をこなした。 「ふう、時間だね。必死で仕事したせいか半日が早かったなぁ~」「……んとに、早かったですね。疲れたぁ~」「じゃあ、お先に。素敵なクリスマスを!」「お疲れ様です。相馬さんも素敵なクリスマスを」 先日私に交際を申し込んだことなどなかったかのようにお茶や食事のお誘い一つなく、颯爽と相馬さんは帰って行った。 クリスマスなのに誰からも声が掛からないなんて寂し過ぎる。 どちらかが異動するまではと、交際を断ったのは他の誰でもない自分なのだがクリスマスにケーキを一緒に食べるくらいはいいんじゃない? でも私には分かっている。 もし誘われればそれはそれで周囲の目を気にしてやんわり断ってしまったかもしれないってことを。 自分でもめんどくさい女だと思う。 この性格は早く直さないとね。 さてと、私も帰ろうっと。 その辺のお店でショートケーキかロールケーキでも買って帰ろうかな。 ◇ ◇ ◇ ◇ 相原は昨日の今日ではあるが、今日こそ折角のクリスマス、デートを誘うのにこんなにドンピシャな大義名分があるだろうか。 クリスマスというイベントの力を借りて掛居を誘おうと自社ビルを出て少し離れた場所で待っていた。 相馬がひとりで帰って行くのを見送り『掛居さんが出てくるのももうすぐだな』 そう思いながら木枯らしに晒されながら待つこと数分。 掛居が出て来たのを見計らって、少し距離を取ってあとから付いて行く。 駅に近づくと洒落たカフェやら飲食店が軒を並べているのでその辺りで声を掛けるつもりだった。 なのに……。 『えっ、どこから湧いて出て来た?』と思うくらいの速さで一人の長身でモデル張りにスマートな男が掛居の肩に手を掛け、話し掛けるのが見えた。 最初はナンパでもされているの
148 翌日は2人共会社へ行かなければならないので花はいつもより早起きをして相原に簡単な朝食、トーストにベーコン&エッグと野菜サラダ、そしてコーヒーを出して食べさせ自宅へと帰した。 そして自分も大急ぎで身支度を整え、出社した。 余りに忙《せわ》しなく時が過ぎてゆき、会社のデスクに着いてほっとしたところでようやく昨日からのことを振り返ることができた。 人生初、自宅に男性を泊めた。 しかも交際もしてない男性の宿泊。 寝袋なのがほんと笑っちゃうけど、相原さんったら眠る直前まで、むちゃくちゃ子供みたいにはしゃいでたけど、これってどうなの? 私たちの付き合い方って。 どうもこうも清いご近所づきあいのようなもの。 これが考えて導き出された結論だった。 この調子だとそれこそ私が異動になるか相原さんが異動になって凛ちゃん繋がりがなくなれば私たちのお付き合いも自然消滅するのかな。 それとも……。 私はそんな日が来たら引っ越ししようと決めた。 ここにいて延々ご近所同士で繋がり続けるっていうのは、将来に向けた結婚というものを考えるに、余りよろしくないような状況ではないかと思われるからだ。 相原さんが私に対して恋愛感情を持ってくれていたらうれしいなって思うけど、まず家《うち》に来たのはクリスマスイブを過ごすためではなく、野菜がたくさん届いたから貰って下さいというもので、たまたま来た感が半端なく、それでもまだ少し期待してたんだけど子供のようにはしゃいで寝袋で寝て帰って行っただけ。 ロマンスのカケラもなかった。 私、涙目。 もうこの辺で変に期待するのは止めなきゃ。 だって、しんど過ぎる。 見た目は映画に出てきてもおかしくないくらいイケメンなのに、映画の中のキャラのようにはちっとも愛の言葉を囁きやしない、ただのイケてない人なのだ。……なんて、何てこと言うの花。 自分だって綺麗で小粋な風情の女優でもないのだから相手にだけ俳優やモデルのようにお洒落でスマートに振舞えなんて言える立場じゃないっつうの、花《はーな》。 そうよ、分かってるってば。
147 映画の感想を延々ぶちまけ、帰って行くのを想定していた私は 予想外の問い掛けに1mくらいなら、余裕でぶっ飛んでいけそうだった。 私は声がひっくり返りそうで言葉が出なかった。 それなのに、彼は自分の問い掛けを引っこめようとはしない。 私の答えを待っているのだ。 思わず『あの本気なんですか』と言いそうになった。「ソファで十分なので」 いやそんな、あなた……そう言われましてもぉ。 しかし待てよ、と。 ここで頑なに拒否ると何だか私だけが彼を意識しているようで、 それも何だか片腹痛いような。 しかし、普通男女の中でもない男を泊めるかー。 『田舎のおじさん、今見た映画に感化されて変に盛り上がったりしないよねー?』 言葉にできない台詞をテレパシーで送ってみたけれど、返事はもちろんない。 だけど田舎のおじさんはオオカミにはならなさそうに見える。 ピチピチの10代や20代じゃあるまいし、考え過ぎだよね。 私だってアラサーで若いとまでは言い切れない年齢で 『きゃあ~そんなぁ~泊められませんよ』 なんて初めて《処女》のようなこと、言えないか! なんかめちゃくちゃ葛藤し過ぎて私は疲れ果ててしまった。 「そうですね、遅いですし寒いのでソファでよければ使って下さい」 私は平静を装って答えた。「厚かましくてごめん。でも助かる」「あひゃ《声裏返っちゃった》、あはは……気にしないで下さい」 平常心、平常心。 相原さんには寝袋と若干薄めの羽毛の掛布団を使ってもらうことにした。 寝袋は防災用として買っていたものだ。 防災に使う前に相原さんが使うことになろうとは。 いつもはエアコンを使わないのだけれど彼が風邪を引かないよう、 今夜はエアコンを付けた。 『田舎のおじさん、おやすみなさい』 私は寝室からリビングダイニングで寝ている彼に向けてそっと呟いた。
146 相原さんは食事の準備をする時、とてもナイスなヘルパーだった。 決して先走らず、私の指示したことだけを忠実にこなしてくれた。 待てと言えば待ち、お手と言えば手を……じゃなく、その場でずっと待機していて必ず何かしてほしい時に側にいてくれた。 男の人ってなかなかこうはいかないものなのよ。 昔、匠吾と一緒に簡単なものを作った記憶があるけど、1つ何かお願いして次の指示を出さないでいるとすぐに椅子に座っちゃったりするんだよね。 それだと、こちらも次の指示が出しにくい。 だって指示するより自分でやるほうが早いもの。 流石、凛ちゃんのパパしているだけあるなぁ~って感心しちゃった。 食後のコーヒーをテーブルに置いて準備万端。 なんだかんだで2人でソファに座り映画を見始めたのが8時半過ぎで見ている間、私たちは最後までほとんど話すことはなかった。 私は一度19才の時に自分の部屋で匠吾と一緒に見ている。 若かったからか、2人してものすごく感動して……どちらからともなくキスを交わした。 私の初めてのキスだった。 匠吾もたぶんそうだったはず。 人間って不思議、同じ作品を見ても時の経過や一緒に見ている相手、そして自分の現状などから全く同じ感情というものにはならないらしい。 あの時のあの感動はなんだったのだろう? いい作品であることは間違いないし、知らずに見たならばもっと感激度が増したかもしれないけれど。 これが今回『タイタニック』を見ての私の正直な感想だ。 さて、終わってしまった。 相原さんは何て言うのかな。「終わりましたね。 ひゃあ~3時間もあったみたい。 以前見た時もあっと言う間だったけど」 時計の針を見ると、とっくに11時を回ってる。「終わったね~。いやぁ~、いい作品だった。 見せてもらって良かったよ。 俺もあっと言う間だった……けど、時間のほうはそうじゃないな」「……ですね~」「あの……、泊まったら駄目だよね?」
145 アメリカであのオノヨーコが『奇跡のりんご』という木村さんのことを 書いた石川さんの本を翻訳して大手の出版社とも契約を終え、出すことに なってたのにいつまで経っても本が出版されない。 何かがおかしいと思ったオノヨーコが探偵を使って調べてもらったところ 米国のモンサント社から差し止めという横やりが入ってた。 巨大な権力だよなぁ。 出版を差し止められるなんて。 木村さんにはその後オノヨーコから電話が入るんだ。『絶対あなた、アメリカに誘われても絶対来ちゃいけないよ。 確実に殺されるから』と」「なんか、すごい話ですね」「こんな話をしたの伯父と君だけだよ」「伯父さんとはいい関係なんですね」「そう……だね」『ということは、掛居さんともいい関係ということか!』 相原はそう独り言ちた。 「あーっ、見たかったヤツだ」 そう相原さんが指したDVDはなんと名作レオナルド・ディカプリオの 『タイタニック』だった。 「こんなところにあったとは~」 『えっ、なんかその言い草おかしくない? どこにでも売ってるしぃ、見ようと思えば何も我が家で見たからって いうのじゃなくて見られたはずなのに。 おっかしい~。 ここはDVD見ます? って訊くところなんだけど、これを相原さんと 見る? ……な、悩まし過ぎるわ~。 どう反応しようかな。 まぁベタベタな乳繰り合う話ではないので、いいかなぁ』 「じゃあ、私今からミートスパゲティでも作りますから見てて下さい」 「食事作るの手伝うよ。それでこれはあとで一緒に見よう」『ウグググっ、そうきましたか。はいっ、私の負け~』
144 「俺も掛居さんと一緒で家庭菜園はじめてみようかな。 どっちがいい作物育てられるか競争だなっ」 「えーっ、いつの間に……競争することになってるぅ~。 相原さんやる気満々だから、勝てる気がしないな」 「そんな弱気なこと言わないで競争しよっ? 協力し合って情報交換も必要だな」 「いや、なんか、私災難に巻き込まれてたりしません?」「災難ってなんてこと言うんだ。 その反対で幸運だろ。 自分の手で少量とはいえ、口に入れる野菜を作れるようになるんだから な。有難たぁ~いことだよ」 「あのぉ相原さん、言ってることが見た目と合ってませんって。 田舎のおじさんになってるー」「おじさんって……せめて、お兄さんにしてくれー」「「ははっ」」 「あれだね、話聞いてると掛居さんって土に詳しいんだね、 そのココなんとかって」 「以前一度微生物で育てる野菜作りというのに興味を持ったことがあって、 自然栽培で家庭菜園したいなぁ~って考えたことがあったので。 結局土の問題があって、やらずに今日に至るっていう感じでしょうか」 「これって伯父さんからの受け売りなんだけど、日本は江戸時代まで遡ると 元々自然栽培をしてたらしい。 そこへ欧米のやり方が流入してきてというか、誰かが作為的にしたのだろ うけど化学肥料や農薬というものを使うようになり、それらのせいで農地は 微生物が死滅し瘦せ細り、肥料なしでは作物が育たなくなり、ますます肥料 に頼るという悪循環が出来上がり、化学肥料や農薬を世界中で一手に牛耳っ てる会社がぼろ儲けするという構図ができあがっているって寸法さ。 国民の多くは気付いてないけど日本は米国との間に日米地位協定というの があってアメリカの占領地のようなものだからね、政治的にも例え一国の 総理大臣であっても自分の意見などぺしゃんこにされることもあるだろうし 、経済においてはいわずもがなのこといろいろと手を変え品を変え随分と 吸い上げられてるね。 だから農業に関してもインターネットが普及してなかった頃に…… いや少し前までかもしれないが、無肥料、無農薬なんて声高に叫んだら 消されてたろうね。 化学肥料や農薬を世界中で一手に牛耳ってるのはベトナム戦争で大量 に使われた枯葉剤なんかを製造した会社だよ。
143 クリスマスイブを迎えた午後のひと時を誰との約束もなく、まったりと過ごしていたら、相原さんからメールが届いた。『今日は何か予定なんか、あったりする?』『残念ながらありませんよー』『田舎からたくさん野菜が届いてるので、迷惑じゃなければお裾分けにそちらへ伺ってもいいだろうか?』『すごいですね。 迷惑だなんて、ウエルカム、カムです。 お茶の準備してお待ちしてまぁ~す。 あっ、でもそちらを出るのは最低でも30分後でお願いします。 人に会えるような状態ではないので』*『OK。ケーキも買っていくよ。じゃあまた後で』 ぎゃっ、うれしい訪問だけど部屋を片付けてちゃんとした洋服に着替えなくちゃ。 イブなのにデートの申し込みでもなく、野菜持って訪問だなんて相原さんってほんと、期待というか予想を裏切ってくれて……なんか面白いっ。 相原さんは1時間ちょっと過ぎて来てくれた。 取り敢えず持ってきてくれた野菜はそのままに私たちはケーキとコーヒーの時間を楽しむことに。「いいですよねぇ~、新鮮で無農薬のお野菜。 今のご時世最高の贅沢ですよね」「最初は無農薬で肥料も化学(化成)肥料、動物堆肥(有機肥料)など使わずに米ぬかやら、野菜くずやらで微生物をより活性化させる方法をいろいろ試行錯誤して家族分だけ作ってたみたいだけど、伯父が定年退職してからは作物の種類と量を増やしてネットでの販路を探して販売してるみたいなんだ いい時代になったもんだと伯父が言ってたよ」「私も家庭菜園始めようかなっ」「作り方とか伯母に訊いといてあげようか?」「ぜひ、お願いします。確か土は捨てられないんでしたよね?」「うん、そうみたいだね」「マンション暮らしだとカゴメから出てる軽くて捨てられる土《ココヤシピート.etc》っていうのがあるみたいだから捨てられない人はそれがお勧めかな。ただし、化成肥料入ってるけれども。 私の場合は実家に庭があるのでそこに土を捨てられるので有難いことにそういう問題は大丈夫なんですよね~。 なので、捨てられないけど軽いっていう培養土を使うのも手かなって思ったり、でもこういう培養土ってほとんど何かしら肥料を入れてあるので、お高いけれどもココヤシピートを使うべきか悩ましいところですね」
142 俺は残業しなくて済むようにいろいろ段取りをつけてなんとか定時で上がり、掛居さんが自社ビルを出て来たところで捕まえようと、さり気なく出入り口から少し離れたところで彼女を待っていた。 ◇ ◇ ◇ ◇ 彼女の顔が見えてほっとしたのもつかの間、一緒に仕事をしている相馬が彼女の腕に手を掛かけたのが見えたため、一瞬の判断で俺は足早に駐車場へと向かった。 やはり昨日のメールで誘わなくて正解だった。 約束していたらきっと彼女は仕事と約束の狭間で悩むことになっただろうから。 相馬が掛居に正式に交際を申し込む予定でいることなど知らぬ相原はお人好しな自分の感傷に浸りながら寂しく帰途についた。 結局少しの期待をすぼめて帰宅した花金の夜。 凛のこと、いつ迎えに行こうか、そんなことを考えつつ夕食は野菜たっぷりのラーメンを作って食べた。 凛がいないため、相原は久しぶりにたっぷりと睡眠をとることができた。 翌日起きたのは11時過ぎ。 明日は日曜でクリスマスイブ。 恋人たちには最高の日だ。 自分も気軽に掛居を誘えばいいじゃないかと思うものの昨夜意外な肩透かしを食らったのが結構きていて、どうしても前向きになれないのだった。『はぁ~、イブは年に1回しかなくて、1年に一度のチャンスなのになぁ~』 いかんっ、気持ちが上向きにならない。 ソファに座った相原は前髪をかき上げ、大きなため息を吐いた。 しばらくの間ソファに留まりまったりしていると荷物が届いた。 見ると親戚の伯母からさまざまな野菜が100サイズで2箱、箱いっぱいにビッシリと入れられている。 レタス、じゃがいも、しょうが、玉ねぎ、長ネギ、里芋、小松菜とあり、伯母の心遣いが有難かった。 感謝しながら箱から出し、保存するために小分けにしようと仕分けを始めると、相原は閃いた。 これをお裾分けするのに掛居の家へ訪問できるじゃないか《ジャマイカ》と。 春子おばさん、ありがとっ。 伯母さんのお蔭で俺、息吹き返したわ。
141 う~ん、しかし……相馬さんにはああは言ったものの実際は すごく困り果てていた。 それと相原さんからメールもらったことについて期待しないでおこうと 決めていたものの、帰り際にまさかの彼の姿を見たこと……おまけに 視線まで合い、実は私のことを待っていたのかもなんて都合のいい考えが チラッと浮かんだ。 あまりのジャストタイミングで現れた相馬さん。 相馬さんの出現がなければどんな展開になっていたんだろうと、 つい詮無いことを考えてしまう。 相原さんとは交際している範疇に入らないほどで、片手に余るほどしか 2人きりで会ったことはない。 でも会えると楽しいし、うれしいのはほんと。 そこへ突然の相馬さんの乱入で気持ちが付いていかない。 なんか、どっちを向いても宙ぶらりん状態なのを実感してしまう。 相馬さんからの申し出を先送りし、返事を引き延ばしている自分が 相原さんと今までのような関係性の中で今までのような付き合いをすること は二股になってしまうのかな? この辺のことで少しモヤモヤがあるけれど、どちらとも正式な交際はして いないのだから二股どころか一股《こんな言い方ないと思うけど》もない んじゃない? って思いなおしてみたり。 私は断ることで気まずくなり今の仕事を辞めなくちゃならなくなるのが 怖くて相馬さんにはっきりと断れなかったという側面もあるし、一方で どちらかが異動になった時に考えてみたいという気持ちも全くの嘘でも なく、といったところだろうか。 自分に問い掛けてみて出た結果はそういうところへと落ち着いた。 とにかく早くモヤモヤのない日常に戻りたい。 ◇ ◇ ◇ ◇ そんな花が相馬のことを冷静に対処することができたのは、知らず知らず 相原の存在が影響していたのかもしれない。 だが付き合ってもいない間柄でそのようなことを自分の中で思うことは 浮ついている中のただの自惚れのなせる業としか言いようがなく、そのよう に安易に考えることは、恥ずかし過ぎる。 だからそのような考えは微塵もしてはいけないと、心のどこかで 花は感じていた。