ログイン美術工芸大学生だった向坂橙子は教授との道ならぬ恋の末、結婚。しかしながら夫、厳夫は崖から転落し帰らぬ人となった。未亡人になった橙子は、見知らぬ男性と一夜を過ごしてしまう。実は彼は橙子の教え子、雨宮右京だった。七歳の歳の差を超え二人は将来を誓い合うが、橙子の持病が原因で婚約は破談。しかも右京は見合いの席に着き、竹村真昼と結婚することになった。再び、日陰の女に堕ちる橙子。誰が誰を裏切るのか....橙子、右京、真昼、三人の男女の物語。
もっと見る抹茶碗の中で茶筅が細やかな泡を立てている。まるで私と向坂教授の道ならぬ恋を暴き出すように…。凛としたその美しい横顔から目を離すことが出来ない。心臓の動悸が激しく、ピンと伸ばした背に汗が流れるのを感じた。息苦しく、重い空気に潰されそうだ。
「…どうぞ」
その黒曜石のような瞳は静寂を切り裂き、鋭い。
「お手前頂戴いたします」
抹茶碗を持つ手が震え、唇でカタカタと音を立てる。
「ご馳走様でございました」
床の間の掛け軸には「一期一会」、深紅の椿の花がまるで首を落としたように転がっている。声に出さない責めの言葉が全身に突き刺さった。萌葱色の着物の袂をたくし上げ、流れるような仕草で碗を受け取った女性は…向坂教授の奥様だ。
「それで、橙子さん…向坂とはもう、長いのよね?」
向坂厳夫は美術工芸大学の教授で私の所属するゼミナールを担当している。私と教授は五年前から恋愛関係にある。いや、妻子ある男性との恋…不倫関係だ。これまで正妻である彼女は私という愛人の存在を黙認してきた。子供が来年二十歳を迎えるということで、熟年離婚を決意したと言い、私をこうして屋敷の茶室に呼び出した。
「息子と大して変わらない歳のあなたに手をつけるなんて…」
二十六歳の世間知らずの私は、これから何が起こるのか…何百万円の慰謝料を言い渡されるのかと生きた心地がしなかった。血の気が引くのを感じた。彼女はこちらに向き直ると背筋を伸ばし、私を厳しい目で見下ろした。
「慰謝料は要りません。向坂と添い遂げてくれればそれで良いわ」
「…え?」
向坂教授は既に五十歳を過ぎていた。私が教授と同じ歳を迎える頃、彼はもう百歳。彼女はその現実を突きつけた。
「頑張ってね」
煉瓦畳の舗道には白い雪が薄らと積もっていた。私の足跡は新しい人生へと踏み出した。
SIDE向坂橙子アブラゼミが賑やかなキャンパス。夏季休暇の最中、私は美術工芸大学に退職願を出した。「向坂くん.......これは」教授は眼鏡を上下させ白い封筒を二度見した。「来月をもって退職を......お願いします」「しかしまた、突然だね」「一身上の都合で......母親が体調を崩しまして」「そうですか......」母親のことなど言い訳にすぎない......私は自分の弱さを重々承知し、次に右京が訪ねて来たとき、それを撥ねつける強さを持ち合わせていなかった。心の寂しさ、身体の貪欲さに負け、右京とまただらしのない関係に陥ることだけは避けたかった。私の自尊心がそれを許さなかった。「もしもしお母さん......心配かけてごめんね......明日、金沢を発つわ」私は大学講師やゼミナールの学生、ロータリークラブの先生方にも行き先を告げず、二十年暮らした金沢市を離れた。特急列車青いサンダーバードの車窓には石川県独特の黒光りする瓦屋根が何処までも続き、犀川を越え、加賀平野を見渡し、それはやがて日本海へと注いだ。「もう福井県......この景色も見納めね」深緑の峠を越える長く暗いトンネル。避難経路の白い明かりが前方から後ろへと流れる。黒い窓ガラスに映る私の顔はやつれていたがその目に迷いは無かった。トンネルを抜ける、視界が白く開け、光に包まれた。SIDE雨宮右京やがて鰤起こしの雷が鳴り、重苦しい鉛色の雲が冬空を覆った。俺は日々仕事もせず酒を浴びる様に呑んでいた。「......橙子さん」離婚し、何もかもを失った俺の心の拠り所は石畳の小径、ドウダンツツジの垣根のあの家だった。「もう来ないで」橙子さんの最後の振り絞った声が耳にこだまする。「橙子さん......橙子さん」俺は我慢の限界を超え、橙子さんに会いに行った。ところが錆びついた赤いポストに向坂橙子の名前はなく、雑草が腰丈まで伸びていた。酔いに任せた俺は玄関のガラス戸を外し、家の中に入った。懐かしい白檀の香りが漂う......けれど違和感を感じた。「何もない......」電化製品も見慣れたちゃぶ台もあの籐の椅子もなく、座敷の仏壇にあった忌々しい向坂厳夫の位牌もなかった。「凪子さん......凪子先生.....
夏蜜柑の庭は雑草が伸び放題で、酷暑の名残で立ち枯れているものも多い。何もかもが萎れた夏だ。私は籐の椅子に身を委ね、泰山木の林をぼんやりと眺めている。鋳物の風鈴の音が涼しい音色を運び、その音を耳にする私は、ようやく自分が生きているのだとそう感じた。カラカラカラ......鍵を閉め忘れた玄関の引き戸が開いた、それは諦めの悪いもう一人の自分が.......右京を待ち焦がれそうしたのかもしれない。「不用心ですよ......橙子さん」私は振り返ることなく泰山木の庭を見ていた。土間から上がる聞き慣れた足音、畳が沈む、愛おしい人の影が近づき私の唇にそっと温かいものが触れた。それは愚かな右京と私の人生の証だ。懐かしい温もりに、私の心は立ち枯れの草のようにザワザワと揺れた。「何か用?」色味の沈んだ唇が、冷たさを含んで言葉を解き放つ。「連絡したのに、橙子さんが無視するからいけないんですよ!」右京はすがるように身を乗り出した。「もうあなたに連絡する意味がないわ」「どうして!?僕はもう真昼と離婚したんです!自由なんです!」私は怪訝な顔で彼を見上げた「自由......自由なの?真昼さんの人生を壊したのに?」台所でピチャンと水音が垂れ、洗いかけの鍋に落ちた。シンクの中もレンジフードも油がこびりついている。何もする気が起きない。以前の隅々まで行き届いていた美しさは見る影もない。「え?」右京は私の痩せ細った手を握り怪訝な顔をした。私の薬指からプラチナの指輪が消えていることに気づいた。「指輪......どうしたんですか?」「指輪?」「僕があなたに贈ったエンゲージリングです」日暮の鳴き声が遠くから響き、悲しげな夕暮れを告げる。「あげたわ」「......誰に?」「真昼さんに......」その名前に右京の顔が青ざめる。それまで優しく握っていた私の指先からおずおずと手を離した。「相変わらず......臆病なのね」心の中で呟く。「真昼が来たんですか?いつ?」「知らなかったの?」「知りませんでした....でも指輪は!なんで真昼に!」彼は私に縋り付いて肩を揺さぶった。「指輪は彼女に返したの......私があなたに貰った、誰にあげようと自由だわ」「僕は橙子さんに贈ったんだ」「そもそもそれが間違いだったのよ」
SIDE向坂橙子見知らぬ番号から着信があった。二回コールで止まる、右京との秘密の合図。あの日、美術棟で「別れましょう」と告げ、背中を丸めて階段を降りる右京の寂しげな足音が耳に残る。あれから何の音沙汰もなかった。「もしもし」と折り返すと、女性の声。「向坂橙子さんの携帯でお間違えないでしょうか?」「は......はい」「真昼です、突然申し訳ありません」。凛とした涼やかな声......ホテルのロビーで聞いた力強い声だ。「失礼かと思いましたが雨宮から向坂さんの携帯電話番号をお聞きしました」「......いえ、大丈夫です」「明日の午後、お時間ございますか?」。私は真昼さんと、右京と過ごしたこの家で会うことになった。白檀の香りが染みついたこの家。裏切りが胸を抉るニューグランドホテルの叩きつけられた茶封筒、舞い散る不貞の証。ドウダンツツジの垣根が揺れ、金沢の冬の陽光が隠れ家を照らす。橙子の不安と真昼の決意が、電話の向こうで静かに交錯する。春も近い昼下がり、軒先の雪がハタハタと落ち、夏みかんの樹にヒヨドリが止まっている。柔らかな陽光を引き裂くその鳴き声が緊張を高める。約束の時間が近づき、恋人の正妻があの用水路の橋を渡り石畳の小道を歩いてくるその姿を思うと気が重くなり手に汗を握った。雪を被ったドウダンツツジの垣根に赤い傘の色が浮かび、飛び石を踏み締める靴の音がジャリジャリと耳に響く。「赤いタータンチェックの傘、真昼さんらしいわ」私は心の中で呟いた。「ごめんください」引き戸が開き、白いワンピースにピンクのコートを羽織った彼女は、傘についた水雪を軒先で払い留め具で留める。黒い肩までのボブヘアーの雪を払い、土間で見上げる真昼さんの目は澄んで輝き、私は思わず目を逸らした。「ご足労頂きまして、申し訳ございません。」「お邪魔します」ゆったりとしたワンピースに隠れているが、妊娠していることは明らかだ。「足元、段差ありますからお気をつけください」「ありがとうございます」ぎこちない敬語が緊張感を高めた。彼女は「......ふぅ」と息を吐くと畳敷の茶の間に座った。そして、障子の隙間から泰山木の林を眺めていた。軒先で外し忘れた鋳物の風鈴がチリンと鳴った。「あれは......何で出来ているんですか?綺麗な音です
SIDE向坂橙子LINE通話の着信音が二回で止まった。私は白いカッターシャツに、長めの黒いタイトスカートで菩提樹の庭を眺めながら気怠そうに煙草を吸っていた。雨が降っている......冷たい雨だ。秋も深く枯れ葉色の縁側は、何もかもが色褪せて見えた。右京からの連絡を待ち続けて五年。いつ着信があるかとスマートフォンを肌身離さず持ち歩く癖が付いていた。一日おきに連絡が来る時もあれば、半月音沙汰がないこともあった。けれどそれは、密会の約束だけで会話はない。「右京に......折り返しの電話をしなきゃ......」この頃、右京への折り返し通話が気怠い。「もしもし?どうしたの?」スマートフォンの向こう側、息遣いがいつもと違う。右京の落胆ぶりがひしひしと伝わってきた。よくない知らせのような気がして、胸の奥底に重い石が沈み込む。「何かあったのね?」その返事は沈黙で遮られた。「橙子さん、困ったことになりました」「何が?」「昨夜、真昼とセックスしてしまいました......避妊も忘れました」それは私を無情にも切り刻んだ。あぁ、とうとうこの日が来てしまった......私は平静を装い次の言葉を選んだが、語尾に棘が刺さる。「夫婦だもの、それが普通よ」私は、右京と真昼さんが触れ合いのない、形だけの仮面夫婦であることが心の拠り所だった。右京が欲するのは自分だけなのだと......女性として求められているのは自分だけなのだと、それだけで自我を保っていた。すっかり枯れてしまった夏みかんの庭に、冷めた目で立ちすくむ自分がいる。また右京に裏切られた「避妊し忘れたの......」「......はい」真昼さんには子宮がある。私がどれだけ望んでも手に入れられないものを彼女は持っている。ただそれだけで右京の両親に選ばれ、右京と結婚した。拠り所のない孤独が押し寄せる。「子供が出来たらどうしましょう......」「良いんじゃない?お母様も喜ばれるわよ」右京が父親になる。彼が真昼さんと離婚するなんて夢のまた夢よ。恋情はいつまでも続かない......眩しい新緑の季節、シイノキの下で橙の皮を剥いていた二十六歳の右京も、まだ溌剌とし