向坂橙子は美術工芸大学の学生だった。教授との道ならぬ恋で略奪婚となるがその生活はあっけなく終わりを告げた。そんな彼女の前に現れたのが学生の雨宮右京、二人は恋に落ちるが彼の両親にある理由で交際を反対される。そして右京に見合いの話が持ち上がる。再び向坂橙子は日陰の女となる...彼女の恋と人生を綴る物語。(過去作*オナガシリーズリメイク版)
View More抹茶碗の中で茶筅が細やかな泡を立てている。まるで私と向坂教授の道ならぬ恋を暴き出すように…。凛としたその美しい横顔から目を離すことが出来ない。心臓の動悸が激しく、ピンと伸ばした背に汗が流れるのを感じた。息苦しく、重い空気に潰されそうだ。
「…どうぞ」
その黒曜石のような瞳は静寂を切り裂き、鋭い。
「お手前頂戴いたします」
抹茶碗を持つ手が震え、唇でカタカタと音を立てる。
「ご馳走様でございました」
床の間の掛け軸には「一期一会」、深紅の椿の花がまるで首を落としたように転がっている。声に出さない責めの言葉が全身に突き刺さった。萌葱色の着物の袂をたくし上げ、流れるような仕草で碗を受け取った女性は…向坂教授の奥様だ。
「それで、橙子さん…向坂とはもう、長いのよね?」
向坂厳夫は美術工芸大学の教授で私の所属するゼミナールを担当している。私と教授は五年前から恋愛関係にある。いや、妻子ある男性との恋…不倫関係だ。これまで正妻である彼女は私という愛人の存在を黙認してきた。子供が来年二十歳を迎えるということで、熟年離婚を決意したと言い、私をこうして屋敷の茶室に呼び出した。
「息子と大して変わらない歳のあなたに手をつけるなんて…」
二十六歳の世間知らずの私は、これから何が起こるのか…何百万円の慰謝料を言い渡されるのかと生きた心地がしなかった。血の気が引くのを感じた。彼女はこちらに向き直ると背筋を伸ばし、私を厳しい目で見下ろした。
「慰謝料は要りません。向坂と添い遂げてくれればそれで良いわ」
「…え?」
向坂教授は既に五十歳を過ぎていた。私が教授と同じ歳を迎える頃、彼はもう百歳。彼女はその現実を突きつけた。
「頑張ってね」
煉瓦畳の舗道には白い雪が薄らと積もっていた。私の足跡は新しい人生へと踏み出した。
二度目の熱い夜以来、私たちは「放課後ゼミナール」が終わると奥の座敷で深く繋がり合った。そんな私は金曜日の朝、厳夫さんの遺影をそっと裏返した。胸に空いた穴には隙間風が吹き、それは雨宮右京の熱情だけでは埋められなかった。葉桜が色付き、鮮やかな赤や黄色の絨毯が煉瓦道を埋め尽くす頃、美術工芸大学恒例の学園祭が催される。学園祭の幕開けは、仮装行列。繁華街のメインストリートを仮装で練り歩くパレードは、沿道の声援に笑顔で応え戯けて見せる。この日ばかりは生真面目な教授もたこ焼きのマスクを被って手を振った。その隣で妖怪やリオのカーニバルの衣装に身を包んだ男子学生のグループがサンバのリズムで踊り狂う。日々の鬱憤を晴らす学生たちは車道にはみ出し警察官に引き止められた。赤い棒を振り誘導する警察官の気苦労を考えると、お疲れ様である。「今年も賑やかね…」このパレードは強制参加ではないが、雨宮右京もこの群集の波に揉まれ右往左往していた。「佐々木ゼミナール」の女子学生が、長身の彼のために黒いスーツに黒いマント、赤い蝶ネクタイを鼻息も荒く特注で準備した。それを否が応もなく着せられた彼は色白で薄茶の巻き毛、整った顔立ち……実に見目麗しいドラキュラ伯へと変身した。人との交流が希薄な彼は戸惑っていたが、その姿をカメラに収めようと行き交う人はスマートフォンをカバンから取り出した。広坂通
少し季節外れの鋳物の風鈴が軽く舌を揺らす。それはシトシトと降る雨にかき消されて消えた。私は籐の椅子から立ち上がり、動きを止めた雨宮右京へと近づいた。畳が軋む音が静かな茶の間に響いた。「………そうなの、私には子宮がないの」「子宮、ですか」彼は生々しい臓器の名前にたじろいでいた。私は意地悪な笑みを浮かべた。「子宮がなくても女に見えるかしら?」「え……」「どう、見える?」シクシクと無くした子宮が痛むような気がした。肩までの黒髪から、白檀の香りが匂い立つ。「女に見える?」
八月の下旬。その夜は「放課後ゼミ」は課題の締め切りが迫る者、急遽アルバイト先のシフトが入る者と、皆、早々に席を立ち、午後八時にお開きとなった。テーブルに残されたのは飲みかけのビール瓶やグラス、焼き鳥の串に油まみれの皿と散々な状態だ。予定の無かった雨宮右京はその場に残り、テーブルから洗い物をキッチンのシンクに運び、飲みかけのビール瓶の後始末をする。スポンジに食器用洗剤を垂らし…洗剤…洗剤とは…彼は生まれて初めての食器洗いに手間取っていた。「先生、洗剤はどのくらい付ければ良いんですか?」「あぁ…適当よ、適当。チョちょっと垂らしてゴシゴシよ」「は…はぁ。そうですか」私は縁側に腰掛け、溶けかけた氷に琥珀色のウィスキーを注ぎ、色気のない指でカラカラと混ぜた。雨宮右京がキッチンに立ち皿を洗うと部屋の中の空気が揺れた。スポンジの泡が排水口に流れてゴボゴボと音を立てている。「また詰まったのかしら…いやね、もう」ゴボゴボと音を立てる配管に愚痴を溢しつつ静かな時間を楽しむ。隣には「好きです」と告白してきた男性がいる。私はそのひと時に酔い
両脇が石垣の急勾配。葉桜が枝を伸ばす坂道を上ったその先に、煉瓦造りの美術工芸大学が建っている。一階の駐車場の片隅やその奥の空き地には彫刻デザイン科の生徒が掘り出した石膏作品がゴロゴロと転がり、正面玄関にはレプリカの”サモトラケのニケ”が大理石の台座の上で大きく羽根を羽ばたかせている。私が助教授として勤める染色デザイン科の教室は、味気の無いコンクリート造りの二階にある。キュッキュッと滑りの悪いビニール貼りの床、鈍色の扉のネームプレートには「染色デザイン室」と黒いゴシック体の文字が並ぶ。隣室は油絵絵画室で、真夏になるとテレピン油独特の臭いが立ち込め気分が悪くなった。階段の踊り場からは青々とした芝生広場が一望でき、太い幹のシイノキの樹がポツンポツンと生えているのが見えた。雨宮右京は、そのシイノキの樹の下が気に入っているようだ。他の学生との関わりが希薄な彼は、いつも一人で染色に使えそうな果物の皮を剥いていた。課題を出してから一ヶ月半、何の音沙汰もなく業を煮やした私は、黙々と作業に取り掛かる彼の前に腰に手を当て仁王立ちした。私の顔が逆光で見えなかったのか、見上げた彼の視力が弱いのか、雨宮右京は私を誰だろうという顔をして見上げた。「雨宮くん、あなたいつになったら家に来るの?」「あぁ…向坂先生」「先生じゃ無いわよ、課題はどうしたの!」
それ以来、私の目は雨宮右京の背中を追うようになった。廊下ですれ違う横顔は冷酷なまでに無口で美しく、彫像のようだった。シイノキの枝にロープを張る時はTシャツの裾が捲れ上がり、しなやかな姿態が覗き胸がざわめいた。「…今週も来なかったわね」金曜の夜は彼がいつ現れるかと、ガラスの引き戸がカラカラと音を立てるたびに釘付けになる自分を年甲斐もなく…と失笑した。シイノキの再会から半月経っても彼は現れなかった。 「…今週も来ないのかしら」五月の末、灯台躑躅の白い蕾がふさふさと溢れる夕暮れ。日本酒の一升瓶を片手に雨宮右京がようやく私の家の敷居を跨いだ。「こんばんは、雨宮です」ガラス戸の玄関を入ってすぐ、三和土から杉の段を上がると畳敷の茶の間がある。金曜日の「放課後ゼミナール」では、学生たちが酒や肴を持ち寄り有意義な時間を過ごした。幸い私の家は大通りから入った細い路地の突き当たりにあった。周囲は空き家ばかりで何の気兼ねも要らない。その夜も賑やかで、雨宮右京の少し低い声は茶の間まで届かなかった。
喪中にも関わらず、生命保険会社から年賀はがきが届き苦笑いをした。バレンタインデーには夫が好んだ黒羊羹を仏壇に供えた。赤い南天の実をメジロがついばみ、雪が解け始める頃には一人の朝にも慣れた。吾亦紅の主人が言った「出会うべくして出会う人」にはまだ巡り会えず、鳥の巣頭の男性のことも忘れかけていた。そんな矢先のことだった。「先生!エドガー・アラン・ポーに会った事、ありますか!?」「なに。小説家の話?」染色デザイン科の女子学生が鼻息も荒く助教授室に傾れ込んできた。「違いますよ、漫画の登場人物ですよ!」「ああ、あれね」漫画に疎い私でも知っている美しい吸血鬼の少年たちの物語だ。女子学生が言うには、その登場人物のように美しい男子学生が染色デザイン科に転入してきたらしい。そこで私に「彼」に会ったことがあるかと尋ねてきたのだ。「先生のゼミには…!いませんか!?」ゼミナールの学生の顔を思い浮かべる
Comments