LOGINドアが閉まりきる、その直前。蓮がぽつりと言った。「今日、母さんに聞かれたんだ。……花嫁さんは、まだ来ないのって」私の手が、一瞬止まった。「言えなかった、俺が、自分で花嫁を失くしたなんて」そう言って、蓮は一歩後ろへ下がった。昔の蓮は、この家に入るのにノックなんてしなかった。冷蔵庫を勝手に開けて水を飲み、私の人生にだって、自分自身の居場所があって当然だと思っていた。でも今は、ドアの外に立っている。つま先ひとつ、敷居の内側へ入ろうとはしなかった。私はドアを閉めた。背後では料理の香りが漂い、同僚たちの笑い声が聞こえていた。その日は結婚式ではなかった。それなのに私は初めて、何かを失ったような気がしなかった。半年後。私は部屋の内装をすべて終えた。デザイナーに聞かれた。「二人でお住まいできるよう仕上げますか?」「いえ」私は答えた。「もう、その必要はありません」寝室のマットレスは、自分で寝心地を確かめて選んだ。カーテンの色も、自分で決めた。玄関に、男性用の靴を置くスペースを空けておく必要もない。ダイニングテーブルだって、わざわざ六人掛けにする必要はなかった。一人で暮らす家なのだから、いつか誰かが帰ってくることを前提にして、無理に余白を残しておく必要なんてない。莉奈はその後、この街を離れた。引っ越す前、長いメッセージが一度だけ届いた。最初の一文は――【美月。私たち、子どもの頃はあんなに仲がよかったから、少しくらい美月のものを借りても気にしないと思ってた】そこまで読んで、私は画面を閉じた。莉奈は最後まで、本当の意味では分かっていなかった。貸せるものもある。でも――譲れないものもある。兄からは、ときどき、【今度、飯食いに帰ってこないか】と連絡が来る。ある日、こんなメッセージが届いた。【豚汁、今度は塩分控えめにした】私は、【また今度ね】と返した。兄はそれ以上、何も言わなかった。ただ、【分かった】とだけ返してきた。花乃も、以前のように頻繁には連絡してこなくなった。誕生日や年末年始になると、短いメッセージが届く。私も、ときどき返す。やり取りはどんどん短くなっていった。それでも昔の、「ずっと親友だからね」「何があっても私たちは
花乃はうつむいたまま、ミルクティーのカップを両手で握っていた。「最近、ずっと考えてたんだ。どうして私、美月の新居に莉奈を泊めてあげればいいなんて、あんな簡単に言えたんだろうって」私は黙っていた。「たぶん……美月なら、本気で怒ったりしないって思い込んでたから。私たち、もう20年の付き合いでしょ?これだけ仲がいいんだから、何を言っても、何を借りても大丈夫だって。勝手にそう思ってた」花乃は自嘲するように笑った。「美月がずっと私に優しかったから……その優しさに甘えて、美月の気持ちを考えなくても許されるって、どこかで思ってたんだと思う」その言葉は、ただ「ごめん」と謝られるより、ずっと胸に響いた。少なくとも花乃はようやく、自分が何を間違えたのか分かったらしい。「……今は分かった?」「うん」花乃は泣かなかった。ただ、新しく替えたカーテンに目をやって言った。「こっちのほうが、前のより似合ってるね」「私もそう思う」翌日の夜。花乃が帰ったあと、今度は蓮がやって来た。腕に抱えていたのは、一つの靴箱だった。中に入っていたのは、婚姻届を出しに行った日に履いていた、あのパンプス。かかとの部分は、靴擦れしないようにきれいに包み込まれていた。「これでもう、痛くならないから」私は靴を一度見ただけだった。「もう履かないよ」蓮の表情が固まった。「……なんで?」「見るたびに、あの日のこと思い出すから」蓮はしばらく靴を見つめていた。やがて、ゆっくりと箱の蓋を閉める。「……わざとやってるのか?」私は眉を寄せた。蓮が顔を上げる。その目には、抑えきれない苛立ちが滲んでいた。「莉奈のことには、もう口を出してない。部屋だって引き払わせた。悠真さんにも、ちゃんと話した。結婚式だって、美月が中止するって言うから、無理に止めたりしなかった。なのに俺が何をしても、もう遅い、意味がないって……」とうとう感情を抑えきれなくなったのか、蓮の声が荒くなった。「美月、じゃあ俺はどうすればいいんだよ?」私は蓮を見た。「別に、何もしてほしいなんて言ってないよ」「じゃあ、なんで――」「蓮」私はその言葉を遮った。「まだ分からない?私が怒ってるのは、蓮が正しいことをしてくれるのを待ってる
週末、兄から一枚の写真が送られてきた。【父さんの字だけは、俺には書き直せなかった】私はしばらく写真を眺めてから、【うん】とだけ返した。その日の夜、また兄からメッセージが届いた。【父さんが昔使ってたお茶碗、見つけた】結局、私は一度だけ顔を出すことにした。部屋は、以前とほとんど同じ姿に戻っていた。莉奈の荷物は跡形もなく片づけられ、寝具も元に戻されている。アルバムも、昔と同じ場所に置かれていた。そして、あの壁。消された身長の跡には、鉛筆で一本一本、丁寧に線が引き直されていた。きれいすぎるくらい、きれいに。だからこそ余計に昔とは違うものに見えた。後ろに立っていた兄が、おそるおそる尋ねる。「……前みたいに戻ったか?」私は答えなかった。兄はそれだけで察したのか、目を伏せた。「……だよな。戻るわけないよな」食卓には、豚汁が置かれていた。子どもの頃、私が熱を出すたびに父が作ってくれたものだ。兄が器によそって、私の前に置く。「飲んでみて」一口飲んだ。「……しょっぱい」兄が目を丸くした。「そんなに?」「うん」兄も自分で一口飲んだ。そして、ふっと笑った。笑っているのに、目だけが赤くなっていく。「父さんにもよく言われたな。お前は塩加減も分からないのかって」私は何も返さなかった。そのとき、兄のスマホが鳴った。画面に表示されていたのは、莉奈の名前だった。兄は反射的に私を見た。そして、そのまま着信を切った。10秒もしないうちに、また鳴る。二度目。三度目。兄はとうとうスマホをマナーモードにした。それから私を見る。何かを待っているようだった。私は気づかないふりをして、豚汁を飲み続けた。耐えきれなくなったのか、兄のほうから口を開いた。「……聞かないのか?」「何を?」「莉奈が、なんで電話してきたのか」「別に。お兄ちゃんのことでしょ」兄の顔から、すっと血の気が引いた。以前の私なら、きっと腹を立てていた。どうして莉奈から電話が来るのか。また何か頼まれたのか。今度は何をしてあげるつもりなのか。嫌味の一つや二つ、言わずにはいられなかっただろう。けれど今は、兄が目の前で莉奈の電話を切ってみせても、その理由を知りたいとすら
新居に置かれていたマットレスは、莉奈が住み始めてから「硬すぎる」と言い出し、蓮が一緒に選び直したものだった。代金を払ったのも蓮だった。私はそのマットレスを返品することにした。返金は購入時の決済方法に戻されるため、蓮にもすぐに知られた。家具店で新しいマットレスを選んでいると、案の定、蓮がやって来た。二つ目を試していたところで、背後から声がしてきた。「彼女に、あんまり柔らかいの勧めないでください」店員が振り返った。蓮は私のところまで来ると、手のでマットレスを押した。「腰が弱いんです。柔らかすぎると、朝つらくなるから」店員が笑った。「ずいぶんお詳しいんですね」蓮は反射的に口元を緩めた。「8年ですから」そう答えた直後。蓮自身が、先に固まった。私はマットレスから立ち上がった。「これにします」蓮が手を伸ばす。「俺が払う」けれど、私はもう支払いを済ませていた。「もう払ったから」蓮の顔が曇った。「そこまできっちり俺と分ける必要ある?」「私の家に置くマットレスなんだから、私が買うのが普通でしょ」「前だって俺が――」そこまで言って、蓮は口をつぐんだ。以前なら、いつもこう言っていた。「ここは、そのうち俺たち二人の家になるんだから」でも今は、その言葉が喉につかえて、もう以前のようには口にできなかった。新しいマットレスがマンションに届いた頃、蓮のスマホが鳴った。管理会社からだった。マンションに残された莉奈の荷物を、今日中にすべて運び出していいかという確認だった。蓮は一言だけ答えた。「はい」その10分後。莉奈がキャリーケースを引きずりながら、マンションのロビーへ駆け込んできた。管理会社から連絡を受けて、そのまま飛んできたらしい。「蓮、本当に私の荷物、全部出させたの?」蓮が眉をひそめる。「前にも言っただろ。あの部屋はもうお前に住まわせないって」「なんで?ずっと空いてるんでしょ?美月との新居に住んでるわけでもないのに」「ホテルは手配してある」莉奈の目がたちまち赤くなった。「ホテルは嫌」「だったら、自分で部屋借りろ」莉奈は完全に言葉を失った。長い付き合いの中で、蓮にそんな突き放すような言い方をされたのは、たぶん初めてだ
蓮は一晩中、ドアの外にいた。深夜2時になっても、まだドアを叩いていた。「一回だけ開けてくれ。中には入らない。二言だけ話したら帰るから。お前、胃弱いんだから、何も食べずに寝るなよ。甘栗、ドアの前に置いとく。もう冷めたなら食べるなよ」4時。ようやくノックの音が止んだ。代わりに、メッセージが届いた。【分かった。今は好きなだけ怒ってていい】【結婚式もキャンセルしたいならすればいい。機嫌が直ったら、またやり直そう】私はそのメッセージを、長い間見つめていた。蓮はまだ、私がただ怒っているだけだと思っている。翌朝。私は式場もホテルもカメラマンも、すべてキャンセルした。昼になると、蓮が私の会社まで押しかけてきた。目は真っ赤に充血していた。それなのに、最初に出てきた言葉は――「朝飯、食べた?」私は蓮の横を通り過ぎた。蓮がすぐについてくる。「なんで本当に結婚式までキャンセルするんだよ」「結婚しないから」「美月、昨日は俺だって好きにさせるって言っただろ?なのに、今度は何を意地になってるんだよ?」私は足を止めた。「……私が意地になってるように見える?」「じゃなきゃ何なんだよ!」蓮は苛立たしげにネクタイを緩めると、それでも怒りを抑えるように言った。「昨日の言い方が悪かったのは分かってる。謝るよ。でも俺が莉奈のところに行ったのは、本当に何かあったら困ると思ったからだ。それに、ちゃんとお前のところに戻っただろ?」私は蓮を見た。「誕生日は?」蓮が黙る。「新居の内装は?」返事はなかった。「莉奈を勝手に新居へ住まわせたことは?」蓮の眉間のしわが、どんどん深くなっていった。「その話、もうしただろ?莉奈は婚約破棄されたばかりなんだ。少しくらい俺が面倒見たっていいだろ。なんで終わった話まで一つ一つ掘り返して、俺を責めなきゃ気が済まないんだよ」そう言って、また私の手を取ろうとする。「美月。8年だぞ。結婚式なんて、キャンセルしたいならすればいい。気が済んだら、また俺が予約し直すから。今はいくらでも怒ればいいよ」蓮はそこで、ほんの少し口元を緩めた。まるで、最後には必ず同じ結末になると信じているように。「どうせ最後には、俺と結婚するんだから」以
私は家の鍵をキーホルダーから外し、靴箱の上に置いた。兄の顔色が変わった。「何してんだ?」「言ったよね。私はもうすぐ蓮の家に嫁ぐんだからって」私はアルバムを抱き上げた。「だったら、ここは莉奈にあげればいい」兄が慌てて私の腕をつかんだ。「美月、さっきのは売り言葉に買い言葉だ。そんなつもりで言ったんじゃない」私は、腕をつかむ兄の手を見下ろした。「でも、あの壁が消えたのは本当でしょ」兄の手が、ゆっくり離れていった。背後の壁は、目が痛くなるほどの白だった。兄は何か言いかけた。けれど、「また元に戻すから」とは言わなかった。たぶん兄にも分かっていたのだ。父が残したあの印たちだけは、もう二度と元には戻せない。私は家を出た。10年以上使ってきた鍵を、靴箱の上に残して。今度こそ私は、自分がここへ戻るための理由を、無理に探すのをやめた。婚姻届を出す日。蓮は、私が一番好きな白いシャツを着てきた。結婚式のスーツを一緒に選びに行ったとき、私が選んだものだった。私の姿を見るなり、蓮は笑った。「どう?奥さんの言うこと聞く男って、ちょっと若く見えない?」そう言って、温かいカフェラテを差し出してくる。砂糖は入っていない。「婚姻届出したら、帰って好きなだけ怒っていいから。正座でも何でもするよ。美月の好きなほうで」兄と花乃も来ていた。花乃はわざわざスマホをマナーモードにして、バッグへしまった。私は思った。――これで最後。もう一度だけ、信じてみよう。私たちの順番まで、あと4組。そのとき、蓮のスマホが鳴った。莉奈からだった。蓮は出なかった。二度目。三度目。それでも鳴り続け、とうとう蓮は立ち上がって少し離れた場所へ行った。電話を終えて戻ってきたとき、さっきまで浮かんでいた笑みは消えていた。「……ちょっと出てくる」私は尋ねた。「どこに?」「莉奈が航平の家に荷物を取りに行ったら、あいつと奥さんが一緒にいるところに鉢合わせたらしい。今、廊下にしゃがみ込んで泣いてる」兄がすぐに立ち上がった。「俺が行く」花乃も続いて腰を上げる。けれど蓮は、もう車の鍵を手にしていた。「二人が行っても、あいつ聞かないだろ」私は蓮を見つめた。「あと4