LOGIN結城朱音(ゆうき あかね)が足を引きずりながら店から戻ると、家の中から楽しげな笑い声が聞こえてきた。 「東さん、足がくすぐったいわ」 「少し我慢しろ。もう少しで終わるから」 二人のじゃれ合う声は、やがて荒い息遣いへと変わっていった。 朱音は青ざめた唇を引き結び、わずかに開いたドアの隙間から声のする方を見た。 夫の笹川東(ささがわ あずま)は床にしゃがみ込み、厚手の防寒着の懐に、妹の結城麗奈(ゆうき れいな)の両足を包み込んでいた。 洗面器から引き抜かれた足は、何度もさすられて赤くなっていた。 東はさらにしばらく足を揉んでから、麗奈に声をかけた。 「よし、もう温まっただろう。麗奈、少し休んでいろ。夕飯ができたら呼ぶからな」 そう言って立ち上がり、しゃがみ続けて痺れた体をほぐしたところで、ようやく朱音に気づいた。 東は慌てて弁解したが、朱音は微笑むだけで、彼を責めることはなかった。 なぜなら、人生をやり直した彼女は、とうにここから離れる覚悟を決めていたからだ。
View More翌日のお昼時になって、朱音はようやく重だるい腰を押さえながらベッドから抜け出した。見ると、哲史が重々しい表情で新聞を読んでいた。「何かあったの?」朱音は水を一口飲みながら尋ねた。哲史が新聞を朱音に手渡すと、紙面の中央には、こんな記事が掲載されていた。【昨日、清水ベイ広場にて、一般市民の笹川東氏が、テロ攻撃を企てた暴漢二名を取り押さえた。同氏は重傷を負い、懸命の治療を受けたものの、死亡が確認された。本紙の取材によれば、同氏はかつて……】朱音は最後まで読むことなく、新聞を哲史に返した。「人助けをしたのね。立派なことだわ」哲史は少し口ごもった。「笹川東は……」朱音はそのまま腰を下ろし、哲史の胸に顔を埋めて、やさしい声で言った。「分かってる。でも、それが何だっていうの?すべてはもう終わった過去のことよ。それに、今の私の夫はあなたなんだから。それより、いつになったら私をお母さんにしてくれるの?」哲史はすぐに答えた。「なら、今すぐ試してみるか?」邸宅の中に、たちまち甘い声が響き渡った。……十か月後、二人の間に娘が生まれた。分娩室の外で朱音の苦しげな叫び声を聞いた哲史は、もう二度と朱音にあんな思いをさせたくないと、何があっても第二子は作らないと言い張った。その代わり、二人は身寄りのない赤ん坊を養子に迎えた。体調がほぼ戻ると、朱音も仕事に復帰した。前世に培った卓越した見識を生かし、朱音は重要な局面でいつも的確な方針を示した。その助言によって、国の長期的な方針も、より成熟したものになっていった。とりわけインターネット分野では、数多くの新興企業が次々と産声を上げ、瞬く間に市場を席巻し、やがて世界をリードするまでになった。五年後、哲史と朱音は一度北西星耀研究施設に戻り、恩師である颯一郎と再会した。すでに定年を迎えていたものの、老教授は国の発展のために研究を続ける道を選んでいた。だが、歳月には抗えず、論文を書いている途中、ペンを握ったまま静かに息を引き取った。……二十年後。哲史と朱音の髪にも、ところどころ白いものが混じっていた。それでも二人は、出会った頃と変わらず仲睦まじかった。設立したすべてのグループ企業を娘に託すと、二人は再び施設へ戻り、やり残した研究を続けることにした。今度は全
家族の食事会は、越川市で最も大きなホテルで開かれた。哲史は自ら車を運転し、朱音を連れてきた。哲史の両親の顔を見た瞬間、朱音の脳裏に幼い頃の記憶が蘇った。「お二人は、子供の頃にお会いしたおじ様とおば様だったんですね!」哲史の父は声を上げて笑った。隣にいる妻へ、得意げに言う。「ほら、朱音ちゃんなら覚えていると言っただろう」そして、朱音に事情を説明した。「あの頃は仕事の都合で、別の名前を使わなければならなかったんだ。だが、私と君のお父さんが、長い間、苦楽を共にした親友だったことに偽りはない。まさか、あんな事故で亡くなるとは思わなかったよ。でも、今の立派な朱音ちゃんを見たら、お父さんもきっと喜んでくれる」朱音は静かに頷いた。その場にいた誰も、それ以上は父の死に触れなかった。哲史の両親と父にそんな縁があったと分かり、朱音の不安はかなり和らいだ。やがて両親から二人の結婚について話が出ると、朱音はためらわずに承諾した。ただし、婚姻届だけを出し、式は挙げず、親戚や友人との食事会だけにしたいと提案した。しかし、それには全員が反対した。哲史も優しく言い聞かせた。「朱音、心配しなくていい。きっと大丈夫だ」「ええ」朱音は頷いたが、胸の奥には不安が残っていた。結婚式の日に、何かが起きるような気がしてならない。二人の結婚が公表されると、越川市では瞬く間に大きな話題となった。新聞にも、二人を紹介する記事が掲載された。同じ頃、越川市内の建設現場では、一日働いた東が道具を片づけ、迅と一緒に仕事を終えたところだった。二人で屋台に立ち寄って食事を頼み、東は新聞を一部買った。【越川市随一の資産家の一人息子、謎の女性と結婚!】見出しは大げさだったが、記事には二人の経歴が詳しく紹介されていた。とりわけ朱音は、次世代インターネット産業を牽引する中核的存在として大々的に紹介されていた。しかし、東の目には、ほかの文章など入らなかった。大きく印刷された「結婚」の二文字が、胸の中をかき乱す。朱音が、ほかの男と結婚する。違う。朱音と式を挙げるのは、この俺だ!朱音に会わなければ!隣にいた迅は、東の異変に気づいて慌てた。「兄貴、落ち着くッス。今、朱音さんに会いに行って、どうするつもりッスか?
それを聞いた迅は、慌てて東を引き止めた。「兄貴、そんな格好で朱音さんに会いに行くつもりッスか?事情を知らない人が見たら、物乞いと間違えて追い返すッスよ」「そうだな。お前の言うとおりだ」東は少し冷静さを取り戻した。身なりを整え、新しい服に着替えようとしたものの、持っている服はどれも汚れてぼろぼろだった。これでは、本当に物乞いと変わらない。駄目だ!こんな姿で朱音に会うわけにはいかない。東はそう考え、迅を見た。「金は持ってるか?」迅は呆気に取られ、情けない顔をした。「兄貴も知ってるでしょ。俺の財布はいつだって空っぽッスよ」「だったら、まずは働いて稼ぐ」そう言って、東はアパートを出た。海に面した越川市は、この数年で大きく発展していた。東は読み書きができ、体力もある。働き手としては十分だったため、すぐに仕事が見つかった。同じ頃。清水ベイ高級住宅街。邸宅の玄関を開けた朱音は、思わず目を見張った。「どうして、こんなに大きな家を用意したの?」哲史は笑って聞き返した。「どうした?気に入らない?」朱音が答えるより早く、哲史はどこからか一輪のバラを取り出した。朱音の前へ差し出し、腰をかがめる。「美しいお嬢さん、我が家へようこそ」「あなたの家なの?」朱音はますます驚いた。哲史が裕福な家の出身だとは、夢にも思っていなかったのだ。好奇心を抑えきれず、尋ねる。「そんな裕福な家の息子なのに、どうして研究施設へ入ったの?あそこでの暮らしは、誰にでも耐えられるものじゃないでしょう」「知りたいなら、ついておいで」哲史は笑い、朱音へ手を差し出した。朱音はためらわず、その手を取った。哲史に手を引かれ、邸宅の中へ入る。家を管理している使用人が、二人を見るなり頭を下げた。「旦那様、奥様、お帰りなさいませ」朱音は慌てて訂正しようとした。だが、哲史は言葉を挟ませず、その手を引いて走り出した。広い玄関ホールを抜け、二階の寝室へ向かう。ドアを開けると、ベッドいっぱいに敷き詰められたバラが目に飛び込んできた。「これ、私のために?」朱音は驚いて口元を押さえた。「気に入った?」哲史が笑顔で尋ねる。「先生に、ぜいたくしすぎだって叱られるわよ」朱音は冗
その時、朱音が口を開いた。廊下の天井に取りつけられた、赤いランプが点滅する円筒形の装置を指さす。「麗奈、あれが何か分かる?」麗奈は胸騒ぎを覚え、反射的に聞き返した。「何よ?」朱音の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。「今度、誰かを陥れようとする時は、監視カメラのない場所を選ぶことね。知らないようだから教えてあげる。あれは、ここで起きたことを映像として記録できる機械よ」周囲の人々が、たちまちざわめき始めた。そんな機械があるとは、誰も聞いたことがなかった。これも、朱音が研究に関わった成果の1つだった。グランドホテルで説明会を開くと決まった時、哲史は朱音の安全を考え、監視カメラをホテル内に設置させていた。それが思いがけない形で役に立ったのだ。朱音の説明を聞き、麗奈の顔から血の気が引いた。それでも、まだ信じようとはしない。映像を残せる機械?そんなものがあるはずがない。だが、係員が別室の記録装置を確認し、映像を再生すると、真相は一目瞭然だった。白黒で少しぼやけてはいたが、麗奈が朱音を階段から突き落とし、その後、自分で服を引き裂く様子まではっきり映っていた。真実を知った人々は、騙されていたことに腹を立て、口々に麗奈を責めた。麗奈は、自分たちを利用して朱音を追い詰めようとしたのだ。もし騙されたまま朱音を非難していたら、これから始まるインターネット事業に加わる機会さえ失っていたかもしれない。その場ですぐに警察へ通報する者もいた。麗奈は泣き叫んで許しを乞うたが、今度は誰も耳を貸さなかった。今回ばかりは、簡単に戻ってくることはできなかった。捜査の過程で過去の余罪まで明らかになり、麗奈は重い実刑判決を受けた。残りの人生のほとんどを刑務所で過ごすことになり、もう他人を傷つける機会はなくなった。……古びた賃貸アパートの一室。床にはビールの空き瓶が散乱し、何本もの瓶が吸い殻でいっぱいになっていた。部屋にこもった異臭は、吐き気を催すほどひどい。乱れたベッドの上で、身なりの汚れた男がうわ言のように呟いていた。「朱音、どこにいるんだ……いくら捜しても見つからない……」この男は東だった。朱音の診療記録を見せられても、東は死を受け入れようとしなかった。この7年間、越川市をさまよ
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