Mag-log in新居の内装を整え始めて半年。 婚約者の高橋蓮(たかはし れん)は「仕事が忙しい」、兄の佐倉悠真(さくら ゆうま)は「出張続き」、親友の小川花乃(おがわ はなの)は「家の事情で手が離せない」と言い、誰一人として手伝いに来てくれなかった。 ところが入居を翌日に控えた日、三人は突然私に目隠しをして、「絶対に想像もつかない人が祝いに来た」と、新居へ連れていった。 ドアを開けると、何年も会っていなかった幼なじみの白石莉奈(しらいし りな)が、私のスリッパを履いて笑顔で飛びついてきた。 「美月(みづき)、びっくりした?」 確かに、驚いた。 けれど、本当に驚いたのはそのあとだった。 莉奈が何気なく口にした。 「最近ほんと助かったんだ。蓮にはマットレス選びに付き合ってもらったし、悠真くんには引っ越しを手伝ってもらって、花乃にはカーテンまで一緒に選んでもらってね」 私の顔から、ゆっくりと笑みが消えた。 そういうことだったんだ。 みんな忙しかったわけじゃない。 ただ、私のために使う時間がなかっただけ。 私は寝室のドアを開けた。 私が選んだベッドリネンは別の色に替えられ、ドレッサーには莉奈の私物がずらりと並び、クローゼットも半分を彼女に占領されていた。 「……莉奈がここに住むなら、私はどこに住めばいいの?」 蓮が眉をひそめた。 「莉奈は婚約破棄されたばかりで、今かなり参ってるんだ。 美月はとりあえず2週間くらい、悠真さんのところに泊まればいいだろ」 兄まで私をなだめるように言った。 「俺たち、みんな小さい頃から一緒だっただろ。そんな他人事みたいな言い方はやめなさい」 花乃も笑いながら、その場を取りなそうとする。 「莉奈、最近ついてないことばっかりだったんだし。しばらく美月の新居に泊まれば、少しは幸せにあやかれるかもよ」 私は三人の顔をしばらく見つめ――ふっと笑った。 そして玄関へ向かい、スマートロックの暗証番号を変更した。 蓮の顔色が変わる。 「美月、何してるんだ?」 「別に。ただ、急に思い出しただけ」 私は設定を終えたスマートロックのキーパッドから手を離した。 「この家――名義は私一人だったなって」
view moreドアが閉まりきる、その直前。蓮がぽつりと言った。「今日、母さんに聞かれたんだ。……花嫁さんは、まだ来ないのって」私の手が、一瞬止まった。「言えなかった、俺が、自分で花嫁を失くしたなんて」そう言って、蓮は一歩後ろへ下がった。昔の蓮は、この家に入るのにノックなんてしなかった。冷蔵庫を勝手に開けて水を飲み、私の人生にだって、自分自身の居場所があって当然だと思っていた。でも今は、ドアの外に立っている。つま先ひとつ、敷居の内側へ入ろうとはしなかった。私はドアを閉めた。背後では料理の香りが漂い、同僚たちの笑い声が聞こえていた。その日は結婚式ではなかった。それなのに私は初めて、何かを失ったような気がしなかった。半年後。私は部屋の内装をすべて終えた。デザイナーに聞かれた。「二人でお住まいできるよう仕上げますか?」「いえ」私は答えた。「もう、その必要はありません」寝室のマットレスは、自分で寝心地を確かめて選んだ。カーテンの色も、自分で決めた。玄関に、男性用の靴を置くスペースを空けておく必要もない。ダイニングテーブルだって、わざわざ六人掛けにする必要はなかった。一人で暮らす家なのだから、いつか誰かが帰ってくることを前提にして、無理に余白を残しておく必要なんてない。莉奈はその後、この街を離れた。引っ越す前、長いメッセージが一度だけ届いた。最初の一文は――【美月。私たち、子どもの頃はあんなに仲がよかったから、少しくらい美月のものを借りても気にしないと思ってた】そこまで読んで、私は画面を閉じた。莉奈は最後まで、本当の意味では分かっていなかった。貸せるものもある。でも――譲れないものもある。兄からは、ときどき、【今度、飯食いに帰ってこないか】と連絡が来る。ある日、こんなメッセージが届いた。【豚汁、今度は塩分控えめにした】私は、【また今度ね】と返した。兄はそれ以上、何も言わなかった。ただ、【分かった】とだけ返してきた。花乃も、以前のように頻繁には連絡してこなくなった。誕生日や年末年始になると、短いメッセージが届く。私も、ときどき返す。やり取りはどんどん短くなっていった。それでも昔の、「ずっと親友だからね」「何があっても私たちは
花乃はうつむいたまま、ミルクティーのカップを両手で握っていた。「最近、ずっと考えてたんだ。どうして私、美月の新居に莉奈を泊めてあげればいいなんて、あんな簡単に言えたんだろうって」私は黙っていた。「たぶん……美月なら、本気で怒ったりしないって思い込んでたから。私たち、もう20年の付き合いでしょ?これだけ仲がいいんだから、何を言っても、何を借りても大丈夫だって。勝手にそう思ってた」花乃は自嘲するように笑った。「美月がずっと私に優しかったから……その優しさに甘えて、美月の気持ちを考えなくても許されるって、どこかで思ってたんだと思う」その言葉は、ただ「ごめん」と謝られるより、ずっと胸に響いた。少なくとも花乃はようやく、自分が何を間違えたのか分かったらしい。「……今は分かった?」「うん」花乃は泣かなかった。ただ、新しく替えたカーテンに目をやって言った。「こっちのほうが、前のより似合ってるね」「私もそう思う」翌日の夜。花乃が帰ったあと、今度は蓮がやって来た。腕に抱えていたのは、一つの靴箱だった。中に入っていたのは、婚姻届を出しに行った日に履いていた、あのパンプス。かかとの部分は、靴擦れしないようにきれいに包み込まれていた。「これでもう、痛くならないから」私は靴を一度見ただけだった。「もう履かないよ」蓮の表情が固まった。「……なんで?」「見るたびに、あの日のこと思い出すから」蓮はしばらく靴を見つめていた。やがて、ゆっくりと箱の蓋を閉める。「……わざとやってるのか?」私は眉を寄せた。蓮が顔を上げる。その目には、抑えきれない苛立ちが滲んでいた。「莉奈のことには、もう口を出してない。部屋だって引き払わせた。悠真さんにも、ちゃんと話した。結婚式だって、美月が中止するって言うから、無理に止めたりしなかった。なのに俺が何をしても、もう遅い、意味がないって……」とうとう感情を抑えきれなくなったのか、蓮の声が荒くなった。「美月、じゃあ俺はどうすればいいんだよ?」私は蓮を見た。「別に、何もしてほしいなんて言ってないよ」「じゃあ、なんで――」「蓮」私はその言葉を遮った。「まだ分からない?私が怒ってるのは、蓮が正しいことをしてくれるのを待ってる
週末、兄から一枚の写真が送られてきた。【父さんの字だけは、俺には書き直せなかった】私はしばらく写真を眺めてから、【うん】とだけ返した。その日の夜、また兄からメッセージが届いた。【父さんが昔使ってたお茶碗、見つけた】結局、私は一度だけ顔を出すことにした。部屋は、以前とほとんど同じ姿に戻っていた。莉奈の荷物は跡形もなく片づけられ、寝具も元に戻されている。アルバムも、昔と同じ場所に置かれていた。そして、あの壁。消された身長の跡には、鉛筆で一本一本、丁寧に線が引き直されていた。きれいすぎるくらい、きれいに。だからこそ余計に昔とは違うものに見えた。後ろに立っていた兄が、おそるおそる尋ねる。「……前みたいに戻ったか?」私は答えなかった。兄はそれだけで察したのか、目を伏せた。「……だよな。戻るわけないよな」食卓には、豚汁が置かれていた。子どもの頃、私が熱を出すたびに父が作ってくれたものだ。兄が器によそって、私の前に置く。「飲んでみて」一口飲んだ。「……しょっぱい」兄が目を丸くした。「そんなに?」「うん」兄も自分で一口飲んだ。そして、ふっと笑った。笑っているのに、目だけが赤くなっていく。「父さんにもよく言われたな。お前は塩加減も分からないのかって」私は何も返さなかった。そのとき、兄のスマホが鳴った。画面に表示されていたのは、莉奈の名前だった。兄は反射的に私を見た。そして、そのまま着信を切った。10秒もしないうちに、また鳴る。二度目。三度目。兄はとうとうスマホをマナーモードにした。それから私を見る。何かを待っているようだった。私は気づかないふりをして、豚汁を飲み続けた。耐えきれなくなったのか、兄のほうから口を開いた。「……聞かないのか?」「何を?」「莉奈が、なんで電話してきたのか」「別に。お兄ちゃんのことでしょ」兄の顔から、すっと血の気が引いた。以前の私なら、きっと腹を立てていた。どうして莉奈から電話が来るのか。また何か頼まれたのか。今度は何をしてあげるつもりなのか。嫌味の一つや二つ、言わずにはいられなかっただろう。けれど今は、兄が目の前で莉奈の電話を切ってみせても、その理由を知りたいとすら
新居に置かれていたマットレスは、莉奈が住み始めてから「硬すぎる」と言い出し、蓮が一緒に選び直したものだった。代金を払ったのも蓮だった。私はそのマットレスを返品することにした。返金は購入時の決済方法に戻されるため、蓮にもすぐに知られた。家具店で新しいマットレスを選んでいると、案の定、蓮がやって来た。二つ目を試していたところで、背後から声がしてきた。「彼女に、あんまり柔らかいの勧めないでください」店員が振り返った。蓮は私のところまで来ると、手のでマットレスを押した。「腰が弱いんです。柔らかすぎると、朝つらくなるから」店員が笑った。「ずいぶんお詳しいんですね」蓮は反射的に口元を緩めた。「8年ですから」そう答えた直後。蓮自身が、先に固まった。私はマットレスから立ち上がった。「これにします」蓮が手を伸ばす。「俺が払う」けれど、私はもう支払いを済ませていた。「もう払ったから」蓮の顔が曇った。「そこまできっちり俺と分ける必要ある?」「私の家に置くマットレスなんだから、私が買うのが普通でしょ」「前だって俺が――」そこまで言って、蓮は口をつぐんだ。以前なら、いつもこう言っていた。「ここは、そのうち俺たち二人の家になるんだから」でも今は、その言葉が喉につかえて、もう以前のようには口にできなかった。新しいマットレスがマンションに届いた頃、蓮のスマホが鳴った。管理会社からだった。マンションに残された莉奈の荷物を、今日中にすべて運び出していいかという確認だった。蓮は一言だけ答えた。「はい」その10分後。莉奈がキャリーケースを引きずりながら、マンションのロビーへ駆け込んできた。管理会社から連絡を受けて、そのまま飛んできたらしい。「蓮、本当に私の荷物、全部出させたの?」蓮が眉をひそめる。「前にも言っただろ。あの部屋はもうお前に住まわせないって」「なんで?ずっと空いてるんでしょ?美月との新居に住んでるわけでもないのに」「ホテルは手配してある」莉奈の目がたちまち赤くなった。「ホテルは嫌」「だったら、自分で部屋借りろ」莉奈は完全に言葉を失った。長い付き合いの中で、蓮にそんな突き放すような言い方をされたのは、たぶん初めてだ