座敷の襖がカタンと音を立て、将暉の視線がそちらへ向いた。そこには、強張った表情の木蓮と、肩で息をする父親が立っていた。父親の握り拳は怒りに震え、将暉はゴクリと息を呑んだ。畳の軋む音が静かな部屋に響き、秋の日差しが障子戸を柔らかく照らした。木蓮と父親は並んで座り、ゆっくりと顔を上げた。重い空気が座敷を包み、笹の葉が揺れる障子の音が緊張を高めた。木蓮は少し躊躇いがちに左指からエンゲージリングを外し、座敷テーブルの上に置いた。リングは秋の日差しに煌めき、愛のない結婚の虚しさを静かに訴えた。将暉はそれをじっと見つめ、息を止めた。父親の怒りは、睡蓮との不倫を続けた将暉への失望を物語っていた。木蓮は腹に手を当て、双子の鼓動を感じた。座敷の静寂の中、リングの煌めきが彼女の決意を映した。
将暉が黙り込んでいると、父親が低く唸るような声で詰め寄った。「将暉くん、君は木蓮と睡蓮のことをなんだと思っているんだ」その顔は怒りで赤らみ、眉が吊り上がっていた。将暉はその声色と気迫に震え上がり、顔色を変えた。「ところで…今日は何のご用かな?」父親の問いに、彼の肩はブルブルと小刻みに震え、目が左右に忙しなく動いた。父親の拳が座敷テーブルを激しく叩き、「何の用かと聞いているんだ!」と怒声が重苦しい空気を切り裂いた。将暉は息を止め、飛び上がった。「木蓮さんを…迎えに…来ました」「睡蓮のいる家にか!」父親の言葉に、将暉は言葉を失った。障子に映る笹の影が、木蓮の心を表すかのように激しく揺れた。彼女は睡蓮との訣別を決めた。睡蓮と将暉が結婚しても、睡蓮の身体では子供は生まれない。和田コーポレーションに直系の後継は望めない。木蓮は内心、ほくそ笑んだが、その裏に深い悲しみが潜んだ。
言葉をなくした将暉は後退り、座布団から降りると深々
座敷の襖がカタンと音を立て、将暉の視線がそちらへ向いた。そこには、強張った表情の木蓮と、肩で息をする父親が立っていた。父親の握り拳は怒りに震え、将暉はゴクリと息を呑んだ。畳の軋む音が静かな部屋に響き、秋の日差しが障子戸を柔らかく照らした。木蓮と父親は並んで座り、ゆっくりと顔を上げた。重い空気が座敷を包み、笹の葉が揺れる障子の音が緊張を高めた。木蓮は少し躊躇いがちに左指からエンゲージリングを外し、座敷テーブルの上に置いた。リングは秋の日差しに煌めき、愛のない結婚の虚しさを静かに訴えた。将暉はそれをじっと見つめ、息を止めた。父親の怒りは、睡蓮との不倫を続けた将暉への失望を物語っていた。木蓮は腹に手を当て、双子の鼓動を感じた。座敷の静寂の中、リングの煌めきが彼女の決意を映した。将暉が黙り込んでいると、父親が低く唸るような声で詰め寄った。「将暉くん、君は木蓮と睡蓮のことをなんだと思っているんだ」その顔は怒りで赤らみ、眉が吊り上がっていた。将暉はその声色と気迫に震え上がり、顔色を変えた。「ところで…今日は何のご用かな?」父親の問いに、彼の肩はブルブルと小刻みに震え、目が左右に忙しなく動いた。父親の拳が座敷テーブルを激しく叩き、「何の用かと聞いているんだ!」と怒声が重苦しい空気を切り裂いた。将暉は息を止め、飛び上がった。「木蓮さんを…迎えに…来ました」「睡蓮のいる家にか!」父親の言葉に、将暉は言葉を失った。障子に映る笹の影が、木蓮の心を表すかのように激しく揺れた。彼女は睡蓮との訣別を決めた。睡蓮と将暉が結婚しても、睡蓮の身体では子供は生まれない。和田コーポレーションに直系の後継は望めない。木蓮は内心、ほくそ笑んだが、その裏に深い悲しみが潜んだ。言葉をなくした将暉は後退り、座布団から降りると深々
叶の家は、土塀が続く武家屋敷跡の一角に佇んでいた。赤松が大きく枝を伸ばし、檜の門構えを覆い、秋の陽光がその影を柔らかく揺らした。タクシーを降りた木蓮は、土塀の向こうに生える一本の泰山木を見上げた。「これは木蓮の木だよ」幼い頃、父親に抱かれ、白い花に触れた記憶が蘇った。ツルツルとした幹は春の夜にヒヤリと冷たく、彼女の名前の由来を優しく包んだ。今、その樹が木蓮の帰りを迎えてくれているようだった。心の中で「ただいま」と呟き、ショルダーバッグの淡い桜色の母子手帳と、胡桃色と亜麻色のティディベアを握りしめた。木蓮は腹に手を当て、双子の鼓動を感じた。駐車場に将暉の車はなく、安堵の息を漏らした木蓮はインターフォンのボタンを押した。無機質な呼び出し音が秋の空に響いた。しばらくすると、檜の門が開き、家政婦の村瀬が顔を出した。白髪まじりの髪を結い、絣の着物に白い割烹着をまとった彼女は、木蓮を見るなり微笑んだ。「木蓮さん、重かったでしょう」キャリーケースを受け取った彼女は、木蓮の妊婦姿には敢えて触れなかった。睡蓮の死産による「花梨」の喪失が、この家のタブーであることを察したのだろう。ふと、木蓮は流線型の錦鯉が揺らめく池に目をやった。水面に浮かぶ睡蓮の葉は、花の季節を終え、物悲しく揺れていた。それは「花梨」を失った睡蓮の姿を思い起こさせ、木蓮の胸を締め付けた。木蓮が玄関のドアを開けると、懐かしい檜の匂いが彼女を包んだ。柱には、睡蓮と一緒につけた背比べの傷が残っていた。小刀で線をつけた時、祖父に叱られ、庭を逃げ回った記憶が蘇った。この武家屋敷の彼方此方には、姉妹の笑い声と確執が刻まれていた。小さく軋む廊下を進み、リビングのドアを開けると、驚いた顔の母親と革のソファに身を預けていた父親が笑顔で立ち上がった。
その夜の月は、木蓮のこれからの人生を照らし出すように明るく輝いた。舗道に長く伸びる影が、将暉と暮らした四年間の重みを映し出したが、木蓮はもう振り返らなかった。キャリーケースの重みが、これまでの人生…睡蓮の「将暉は私のもの」や「そんな子、堕ろせばよかった」という叫び、将暉の「離婚はしない」という冷たい言葉を背負っているようだった。だが、彼女は真っ直ぐ前だけを見て歩いた。とりあえず、この疲れた身体と心を癒したい。街を流すタクシーに手を挙げると、ゆっくりと停まった車からドライバーが降りてきた。「お荷物、お預かり致します」「ありがとう」木蓮は微笑み、キャリーケースをトランクに預けた。ショルダーバッグには淡い桜色の母子手帳二冊と、胡桃色と亜麻色のティディベアが詰まり、双子の未来をそっと抱いていた。後部座席に滑り込み、「金沢駅東口のANAクラウンプラザまでお願い」と告げると、低いエンジン音が足元から伝わってきた。心地よい揺れに身を任せ、木蓮は車窓から流れる金沢の夜景を見つめた。ネオンと街灯が織りなす光は、田上伊月の温かな声「木蓮さんの幸せはなんですか?」を思い起こさせた。彼女は腹に手を当て、双子の鼓動を感じ、掌の爪の跡を撫でた。ティディベアは双子への贈り物となり、彼女の新たな願いを象徴していた。月明かりの下、タクシーは静かに走り、木蓮を新しい世界へと誘った。「………ふぅ」ホテルにチェックインした木蓮は、ANAクラウンプラザの静かな部屋でキャリーケースを床に広げ、胡桃色と亜麻色のティディベアを取り出した。案の定、ぬいぐるみの首はグニャリと折れ曲がり、
将暉と睡蓮はゲストルームのドアを閉じた。甘えるような睡蓮の涙声に、応える将暉のそれはこれまで聞いたことがないほどに優しかった。一人取り残された木蓮は、ショルダーバッグを手に取った。重苦しいリビングの空気から逃げるように、木蓮はベッドルームへと駆け込んだ。そこにあったのは孤独と痛みだけ……彼女の心は悲鳴をあげていた。広すぎるベッドに将暉の姿はなく、結婚してから肌の触れ合いは一度もなかった。夫婦になればもう一度振り向いてくれるかも、何かが変わるかもと僅かな期待を抱いたが、繋いでいた手はとうに離れ、二度と戻ることはない。木蓮は溢れる涙を堪え、ベッドに身体を横たえた。枕に触れる髪から、金沢港の海の匂いが漂い、頬を撫でる潮風と田上伊月の優しい微笑みが脳裏に浮かんだ。その温かな眼差しは、木蓮をそっと包み、凍てついた心を溶かした。涙が頬を伝い、彼女の手は宙に差し出された。「…田上さん」思わず漏れたその名に、木蓮は驚きを隠せなかった。いつの間にか田上は、今にも割れそうな薄氷の上で、倒れ掛かった自分を支える大切な人になっていた。睡蓮の「将暉は私のもの」や「そんな子、堕ろせばよかった」という叫び、将暉の「離婚はしない」という冷たい言葉が、木蓮の胸を抉った。ベッドルームの静寂が孤独を深める。田上の声…「木蓮さんの幸せはなんですか?」…が遠く響き、彼女は涙の中で小さな希望を探した。「私の...幸せ」木蓮は自分に言い聞かせるようにその言葉を繰り返す。「…」その時、木蓮はベッドルームのチェスト脇に置かれたスーツケースに気づいた。ゆっくりと起き上がり、その前に佇む。ランプシェードから漏れる柔らかな灯りに映し出された彼女の横顔は、思い詰めながらも決意に満ちていた。もう、キッチンで包丁を握ることはしない……お腹の双子のためにも、幸せになろう。木蓮はショルダーバッグに淡い桜色の母子手帳が二冊入っていることを確認し、胡桃色と亜麻色のティディベアをスーツケースに押し込んだ。狭い空間で、綿の入った顔は潰れ、腕は折れてしまった。その愛らしい姿に、彼女は小さく微笑んだ。この二体のティディベアは、双子にあげよう……喧嘩しないように、髪の色と同じものを選ぼう。木蓮の心に、希望の灯火と温かさが静かに広がった。木蓮はチェストの重い引き出しを開け、束ねた書類の奥から色褪せた銀行の預金通帳を取り出した。そこに
将暉との言い争いに心底疲れ果てた木蓮は、倒れ込むようにソファに身を預けた。「離婚出来ない」と彼が言い放った絶望感が、彼女の心を冷たく締め付け、瞼を閉じた。膝の上の胡桃色のティディベアの重さだけが、彼女の唯一の救いだった。その無垢な瞳は、幼い頃の睡蓮との確執を思い起こさせたが、今は木蓮の孤独をそっと抱きしめているようだった。大きく溜め息を吐いたとき、ゲストルームのドアが静かに開いた。足音も立てずに近づく気配に、殺伐としたものを感じた木蓮は、思い切り振り返った。そこに立っていたのは、青白い顔で思い詰めた表情の睡蓮だった。彼女は木蓮のショルダーバッグを一瞥し、淡い桜色の母子手帳を思い出したのか、口元を醜く歪ませた。「そんな子、堕ろせばよかったのに…」睡蓮の声は低く、虚ろな目に妖しい光が湛えられていた。「睡蓮、馬鹿なこと言わないで」木蓮は震える声で反発したが、睡蓮は小さくクッと笑った。「そんな愛されない子なんていらないじゃない」その言葉は、木蓮の心を鋭く抉った。睡蓮の目には、「花梨」を失った痛みと、将暉への執着が渦巻いていた。「今からでも遅くないんじゃない?」睡蓮は木蓮に堕胎を迫るように食い下がった。彼女の声は低く、絞り出すように沈んでいた。「もう遅いわ、それに私はこの子たちを産んで育てる」木蓮は腹に手を当て、双子の鼓動を感じながら、厳しい目で応えた。睡蓮は怯むことなく言葉を続けた。「愛されないのに?将暉はあなたの子なんて愛さないわ」その目は、現実と虚無を彷徨うような危うさで
漆黒の金沢港から金沢駅西へと向かう一直線の道路は、車もまばらで、信号機は全て青色で交差点を滑らかに通り過ぎた。低いエンジン音が響く車内で、木蓮は窓の外に流れる街灯とネオンの光をぼんやり眺めた。この静かな空間がもう少し長く続けば良いのに……そんな思いが、彼女の心をそっと包んだ。田上伊月のセダンは、夜の金沢を静かに走り、アクアブルーのフェリーターミナルが遠ざかった。後部座席には、胡桃色のティディベアが無垢な瞳で座り、淡い桜色の母子手帳がショルダーバッグに収まっていた。木蓮は腹に手を当て、双子の鼓動を感じながら、睡蓮の「将暉は私のもの」という叫びや、割れた玉子の残骸、包丁を握った危うい瞬間を遠く感じた。田上はバックミラー越しに、車窓を眺める木蓮の横顔を窺い見た。カウンセリングルームの白衣を脱いだ彼にとって、今の木蓮は患者ではなく、一人の壊れそうな女性だった。彼女の胡桃色の髪と、幼い少女のような横顔に、胸にあたたかなざわめきが広がった。それはカウンセラーとしての枠を超えた、純粋な保護欲だった。木蓮の孤独……睡蓮の裏切り、将暉との愛のない結婚、双子の未来への不安……を知る彼は、彼女を救いたいと願った。田上のハンドルを握る手に力が入った。やがて静かな住宅街に、田上伊月のセダンが滑り込んだ。街灯の柔らかな光が車を照らし、夜の静寂がエンジン音を優しく包んだ。彼は後部座席のドアを静かに開け、木蓮を優しくエスコートした。木蓮はお腹に手を当て、双子の鼓動を感じながら、ゆっくりと車から降りた。田上のさりげない気遣いが、彼女の凍てついた心を温かく溶かした。「ありがとうございました」木蓮は胡桃色のティディベアを胸に抱き締め、深々とお辞儀をした。その無垢な瞳のぬいぐるみは、幼い頃の睡蓮との確執を思い起こさせたが、今、田上の存在が