로그인木蓮の双子の妹、睡蓮が妊娠した。父親は将暉………木蓮の婚約者の将暉だと言った。けれど木蓮のお腹の中にも、小さな双子の心音が規則正しくリズムを刻んでいる。将暉はそのことを知らない。木蓮自身、つい昨日、医師から告げられたばかりだった。彼女の胸には喜びと期待が交差し、将暉にサプライズとして話そうと心躍らせていた。
帰宅した将暉の背後には睡蓮がいた。木蓮が微笑みを浮かべ、ケーキを切り分けようとした瞬間、将暉の口から冷たく突き放すような言葉が放たれた。
「木蓮、この婚約は破棄だ」
その言葉は、木蓮の心を鋭い刃のように切り裂いた。彼女の視界が一瞬揺らぎ、時間が止まったかのように感じられた。喜びの予感は一瞬にして奈落へと突き落とされた。
「睡蓮、あなた……アメリカに行っていたんじゃなかったの?」
「……………」
睡蓮は答えず、ただ黙って将暉の隣に立っていた。テーブルの上には、木蓮の誕生日祝いの赤ワインが鈍い色を弾き、グラスの中で揺れる液面がまるで彼女の動揺を映し出すようだった。床には手作りのザッハトルテと皿の破片が飛び散っている。ほんの数分前、木蓮が心を込めて作ったチョコレートのケーキは、将暉と二人で笑い合いながら食べるはずだった。濃厚なチョコレートの香りが漂っていたダイニングは、今、重苦しい空気に包まれ、息苦しさだけが満ちている。
木蓮は身動きが出来なかった。睡蓮の瞳は涙で潤みながらも、どこか挑戦するような光を宿していた。彼女の声は震え、しかし決意に満ちていた。「将暉と私は……愛し合ったの」と。
木蓮の動揺を表すかのように、窓に打ち付ける激しい風と雨は止むことを知らない。外は嵐だった。雷鳴が遠くで唸り、稲妻が夜の帳を切り裂くたび、部屋の中の空気が一層重くなる。木蓮の指は無意識にテーブルクロスを握りしめ、布がくしゃりと歪んだ。
彼女の心は、かつて双子の妹と共有した無垢な時間と、今目の前で砕け散った信頼の間で揺れていた。睡蓮とは、どんな秘密も分かち合えると信じていたのに。
木蓮の視線は、床に散らばるケーキの欠片に落ちる。チョコレートクリームに混じる赤い苺は、まるで彼女の心から流れ出た血のように見えた。アメリカに行っていた筈の睡蓮が将暉と通じ合い、妊娠した。にわかに信じがたい事実に木蓮は睡蓮の顔を一瞥した。同じ顔、同じ声、髪の色は違えど鏡に映った瓜二つの双子。その二人を将暉は同時に愛したのか? その時、木蓮は睡蓮の左の薬指に光るプラチナの指輪を見つけた。それは木蓮が将暉と選んだ婚約指輪と同じデザインだった。中央に輝くのは、水色のアクアマリン。
木蓮の指にも同じ石が静かに光っている。「アクアマリン………」木蓮の声は震え、ほとんど呟きに近かった。アクアマリンは、かつて二人が「永遠の絆」を誓った石だった。睡蓮がその指輪を身に着けている意味は、木蓮にとってあまりにも残酷だった。彼女の視線は睡蓮と将暉の間を行き来し、心臓の鼓動が嵐の音に重なる。木蓮のお腹の中で小さな命が脈打つたび、彼女は自分の未来が崩れ落ちていく音を聞いた。嵐の夜はまだ終わらない。木蓮は唇を噛み、ただ一言、絞り出すように尋ねた。
「…………いつから?」
木蓮の心は、まるで叩きつけられる雨に打たれた花のように震えた。彼女は将暉の言葉を反芻し、その意味を飲み込もうと必死だった。睡蓮の身代わり……その言葉は、彼女が長年胸に秘めてきた想いを無残に踏みにじるものだった。幼い頃、将暉と過ごした時間は、木蓮にとって宝物だった。夏の川辺で一緒に魚を追いかけ、秋には落ち葉を踏みしめながら笑い合った。あの頃の将暉は、木蓮にも睡蓮にも等しく優しかった。なのに、なぜ今、こんなにも冷たい目で彼女を見下ろすのだろう。
「将暉、待って……どういうこと? 私、ずっと……」
木蓮の声は震え、言葉が喉に詰まった。彼女は立ち上がろうとしたが、足に力が入らず、床の上に膝をついたままだった。
睡蓮がそっと将暉の腕に触れ、静かに言った。
「将暉、言いすぎよ。木蓮だって知らなかったんだから」
その声は穏やかだったが、木蓮にはどこか遠くに聞こえた。姉妹でありながら、睡蓮の美しさと気品はいつも木蓮を圧倒していた。睡蓮はまるで水面に浮かぶ蓮の花のように、どんな時も清らかで、誰からも愛された。一方、木蓮は自分をただの野花だと感じていた。地味で、目立たず、でも強く生きようとしていた。
将暉は睡蓮の手を離さず、木蓮に視線を戻した。
「木蓮、俺はお前に何も期待してなかった。見合いの話を聞いた時、睡蓮が来るって信じてた。なのに、お前が現れた。あの時、俺は……失望した」
その言葉は、木蓮の胸に突き刺さった。失望……その一言が、彼女の心を粉々に砕いた。木蓮は目を閉じ、深く息を吸った。
幼い頃の思い出が、まるで走馬灯のように頭を駆け巡った。将暉が木蓮の手を引いて川を渡った日、睡蓮が笑いながらその後ろを追いかけた日。あの頃の三人は、まるで切り離せない絆で結ばれているように見えた。
だが、時が経つにつれ、将暉の視線は睡蓮にだけ向けられるようになった。木蓮はそれに気づきながらも、自分の恋心を抑えきれなかった。そして、勇気を振り絞って父親に見合いの話を頼んだのだ。
「私が……身代わり?」
木蓮はつぶやき、ようやく立ち上がった。彼女の目は涙で潤んでいたが、声を震わせながらも続けた。
「将暉、睡蓮があなたを愛しているなら、なぜ私が見合いに呼ばれたの? なぜ、誰も私に本当のことを教えてくれなかったの?」
将暉は一瞬、言葉に詰まった。睡蓮がそっと口を開いた。
「木蓮、お父さんが……あなたの方が将暉にふさわしいって思ったのよ。私には別の縁談があって、でも将暉とあなたの話が進んでしまったから……」
その言葉に、木蓮の心はさらに混乱した。父親が? 自分の想いを伝え、ようやく掴んだ見合いの機会が、実はそんな打算的な理由で用意されたものだったなんて。
彼女は姉妹の中でいつも二番目だった。睡蓮の輝きに隠れ、誰にも気づかれない存在だった。
それでも、将暉だけは違うと信じていた。なのに、今、目の前でその幻想は崩れ去った。雨はますます激しく窓を叩き、雷鳴が遠くで響いた。木蓮は唇を噛み締めた。
「私は……ただ、将暉のことが好きだっただけなのに」その声は小さく、しかしその場にいた全員に届いた。彼女はもう一度、将暉と睡蓮を見比べた。
泰山木の白い花が暗闇でランプのように綻ぶ頃、叶の武家屋敷に明るく賑やかな笑い声が響いた。縁側にはブタの蚊取り線香がゆらゆらと煙を燻らし、みずみずしいスイカが皿に並び、夏の夜の涼やかな香りが漂っていた。蚊取り線香の青い煙が月光に溶け、家族の輪を優しく守るようだった。「じいじ、んっあっ!」ヨチヨチ歩きの蓮生が、木蓮の父親の手を小さな手で引き、瓢箪池の鯉に目を輝かせた。水面には月夜に照らされた睡蓮の花が静かに揺らぎ、その繊細な美しさが過去の傷を優しく包み込んだ。柚月は木蓮の膝にちょこんと座り、田上伊月が持つ手持ち花火の華やかな明かりに、「ああ、うう」と小さな手を叩いて喜んだ。その傍らには、胡桃色のティディベアがちょこんと座り、睡蓮の「花梨」の記憶を静かに象徴していた。花火の火花が夜空に舞い、まるでヒナギクの花言葉「希望」を映すようだった。木蓮のプラチナのエンゲージリングが月光にきらりと光り、田上との結婚式の誓い、蓮生と柚月の成長が彼女の心に温かく刻まれた。木蓮の母親と田上の祖母は、縁側の長椅子に座り、その愛らしい光景に目を細めた。「ほんとに、可愛らしい子たちやね」と祖母が金沢弁で呟き、母親は微笑んで頷いた。「双子は木蓮に似て強いわね」と母親が付け加え、祖母は「伊月もええ旦那さんになったわ」と笑った。家政婦の村瀬さんが茹で上がったばかりの枝豆を運んでくると、塩の香りが縁側に広がり、家族の笑顔を一層温かくした。「木蓮さん、お嬢ちゃんと坊ちゃんは本当に元気ですね」と村瀬さんが笑うと、木蓮は柚月の柔らかな髪を撫でながら「.......ありがとう、皆に愛されてるからですよね」と答えた。田上は蓮生を抱き上げ、銀縁眼鏡の奥で優しく微笑んだ。「木蓮さん、私たち幸せですよね」その声は、金沢港の夜の波音のように穏やかで、教会での結婚式、ヒナギクのブーケを睡蓮
荘厳なパイプオルガンの音色が教会に響き、田上家と叶家のゲストを温かく包み込んだ。金沢の古い教会は、四月の桜吹雪に静かに覆われている。マリアと百合の花が飾るステンドグラスから、赤や青の色とりどりの光が差し込み、祭壇を神聖な輝きで照らす。木蓮と田上伊月は愛を誓う。互いの瞳には愛おしさが溢れ、柔らかな光の中で向き合う二人の姿は、まるで永遠を約束する絵画のようだった。ゲストの祝福の拍手と、子供たちの無邪気な囁きが、教会の高い天井に響き合う。参列者席では木蓮の両親に抱かれた、蓮生と柚月が目を輝かせ、田上の祖母はハンカチを握り締め、何度も頷いた。「汝、田上伊月は、この女、叶 木蓮を妻とし、良き時も悪き時も、病める時も健やかなる時も、共に歩み、他の者に依らず、死が二人を分つまで、愛を誓い、妻を思い、妻のみに添うことを、神聖なる婚姻の契約のもとに、誓いますか?」神父の声が、厳粛に響く。「誓います」田上伊月の声は、力強く、木蓮の手を握る手に熱がこもる。「汝、叶 木蓮は、この男、田上伊月を夫とし、良き時も悪き時も、富める時も貧しき時も、病める時も健やかなる時も、共に歩み、他の者に依らず、死が二人を分つまで、愛を誓い、夫を思い、夫のみに添うことを、神聖なる婚姻のもとに、誓いますか?」「誓います」木蓮の声は、柔らかだが確かだ。
田上の迅速な対応で、柚月は軽い肺炎で一命を取り留め、クベース(保育器)で経過観察を受けることとなった。透明なガラス越しに、チューブにつながれた小さな身体が横たわる姿に、木蓮と家族は涙を流した。蓮生は新生児室で祖母の手編みのおくるみに包まれ、力強い泣き声を上げていたが、柚月の痛々しい姿は木蓮の心を締め付けた。彼女自身も、授乳時間が大幅に遅れたことで乳房が岩のように硬くなり、乳腺炎を起こして高熱に苦しんだ。額に汗が滲み、ガラスの指輪が光る手でベッドのシーツを握り締めた。母乳だけで蓮生と柚月を育てようと意気込んでいた木蓮だったが、この一連の出来事で、医師の勧めもあり、ミルクとの混合育児に切り替えた。病室の鏡に映る自分の疲れた顔を見つめ、肩を落とし、涙を滲ませた。「私が......もっと早く気づいていれば......」彼女の声は掠れ、睡蓮の虚ろな瞳と「花梨」の部屋の暗闇が脳裏をよぎった。田上はそっと木蓮の隣に座り、彼女の手を握った。「木蓮さん、柚月ちゃんは助かった。あなたは素晴らしいお母さんです」銀縁眼鏡の奥の瞳は、父親としての温かな決意で揺れていた。彼の声は、あの金沢港の夜の波音のように穏やかで、木蓮の悲しみを静かに受け止めた。モニターのビープ音が、柚月の小さな鼓動と調和するように響き、病室に微かな希望を運んだ。木蓮は田上の手に自分の手を重ね、涙を拭った。「ありがとう、伊月さん......蓮生と柚月のために、頑張ります」彼女の心には、睡蓮の闇や和田家の崩壊が薄れ、双子と田上と
木蓮は新生児室のドアをノックしたが、その音は不安げに震えていた。ドアが開くと、賑やかな赤ちゃんの泣き声が溢れ、授乳室の生成りのカーテンを捲ると、柔らかな灯りの中で母親たちが赤ん坊を抱き、乳を与えていた。甘いミルクの香りが漂う空間は、神聖な趣を湛え、ウサギのぬいぐるみが並ぶ棚が小さな命を見守っていた。木蓮は看護師の姿を見つけ、震える声で背中に呼びかけた。「あの......すみません」看護師は哺乳瓶を洗う手を止め、振り返るとパッと明るい笑顔を浮かべた。「あら、柚月ちゃん......今日は早かったんですね。蓮生くんも待ってますよ、あら?柚月ちゃんは?」彼女は不思議そうに木蓮の腕を見やり、柚月の姿を探した。「......え、私......今、来たところなんですが」木蓮の胸は不安な予感で騒めき、背中に冷たい汗が伝った。彼女の左手では、ガラスの指輪が鈍く光り、ヒナギクの花言葉「希望」が一瞬揺らいだ。「さっき、叶さん......柚月ちゃんを抱っこして出て行きませんでしたか?」看護師の言葉に、木蓮の心臓が凍りついた。「......!?」脳裏に、睡蓮が柚月を抱く姿が、まるで黒い薔薇の残響のように鮮やかに浮かんだ。和田コーポレーションの不祥事、将暉の両親の養子提案、睡蓮の憎悪に満ちた呟きが、恐怖となって彼女を締め付けた。「あ......ありがとうございます!すみません、蓮生のことお願いします!」木蓮は踵を返し、新生児室から飛び出した。廊下の川のせせらぎのバックミュージックが、彼女の慌ただしい足音に掻き消された。田上が廊下で木蓮の青ざめた顔に気づき、「木蓮さん!どうしたんですか?」と駆け寄った。彼女は息を切らし、「柚月が…柚月がいない!」と叫んだ。
和田コーポレーションの破綻を報じる記事が、週刊誌の表紙を飾った。ゴシップ雑誌には、「堕ちた令嬢」と題された見開きページで、睡蓮のゴミ出しをする後ろ姿が掲載されていた。かつての可憐な姿は跡形もなく、艶を失った髪が乱れ、化粧する気力すらなく、シワだらけのワンピースを着た彼女の姿は、和田家の崩壊を象徴していた。報道陣のカメラが捉えた玄関先の黒いゴミ袋は、全国に晒され、睡蓮の孤立を冷酷に映し出した。企業の信用低下により、和田コーポレーションの傘下から撤退する企業が後を絶たず、医療事務機器業界の闇が次々と暴かれた。木蓮の実家である叶製薬株式会社も、和田コーポレーションとの連携を即座に解約した。叶家の決断は、木蓮の離婚と双子の未来を守るための、静かだが確固たる一歩だった。木蓮は病室のテレビでニュースを見ながら、蓮生と柚月のベビーベッドに視線を落とした。祖母の手編みのおくるみに包まれた双子の寝息が、彼女の心に穏やかな安堵をもたらした。ガラスの指輪が冬の眩しい陽光にきらりと光り、ベッドサイドのヒナギクの花束が清らかに輝いた。「これでいいのよ」母親が木蓮の手を握り、静かに囁いた。父親は腕を組み、テレビに映る将暉の謝罪会見を冷ややかな目で睨んだ。「因果応報だ」と呟く声には、娘への裏切りへの怒りが滲んでいた。睡蓮の「花梨」の喪失、将暉との破綻した生活、和田コーポレーションの崩壊が、木蓮の心に遠い過去として薄れていった。彼女は蓮生の小さな手を握り、柚月の寝顔に微笑んだ。木蓮は退院を控え、慌ただ
木蓮の病室のドアを激しく叩いたのは、黒いスーツを細身の身体に纏った長身の男性だった。「和田会長!大変です!」その口調と仕草には、焦燥感と焦りが滲み、病室の空気を一瞬で張り詰めたものにした。田上の祖母が鋭い視線を向け、木蓮はベッドにもたれたまま息を呑んだ。将暉の父親が「どうした、何かあったのか?」と振り返ると、男性は震える手でMacBookを開き、株取引の画面を指差した。「我が社の株が......!」そこには信じられない光景が表示されていた。和田コーポレーションの株価が急落し、海外資本による買収の動きが始まっているというのだ。画面の赤い数字が、まるで和田家の屋台骨が崩れる予兆のように点滅していた。義父の顔は青ざめ、果物かごを置いた手が小刻みに震えた。義母はハンカチを握り締め、唇を噛んでうつむいた。病室に重い沈黙が落ちた。木蓮は義父の提案、双子の養子を求める傲慢な要求を思い出し、胸に熱い怒りが再び込み上げた。「和田コーポレーションの危機と、私の子供たちは関係ありません!」彼女の声は、疲労と出産の痛みを越えて力強く響いた。田上は木蓮の手を握り、銀縁眼鏡の奥で静かな決意を宿した。「お引き取りください。木蓮さんと双子にこれ以上負担をかけないでください」と低く、しかし毅然と言った。祖母は「ほや!赤ん坊を取引の道具にせんといて!」と金沢弁で一喝し、絣の着物を翻して義父を睨みつけた。男性はMacBookを閉じ、義父に「至急、対策会議を......!」と促したが、義父は言葉を失い、病室の床に視線を落とした。







