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暴風雨の夜

Author: 雫石しま
last update Last Updated: 2025-08-23 03:09:01

そこに立っていたのはミルクティー色の髪の叶睡蓮(かのう すいれん)だった。木蓮は一瞬、自分がそこに立っているかのような錯覚に陥った。

「どうして睡蓮が………ここに?」

アメリカにいる筈の睡蓮、音信不通だった睡蓮が目の前にいた。雨に濡れたその姿は、まるで長い旅を終えた旅人のように儚く、どこか現実離れしていた。木蓮の胸に、驚きと懐かしさとが同時に押し寄せ、心臓が小さく跳ねた。

「睡蓮、いつ帰って来たの?今までどこにいたの?」

木蓮の声は、思わず震えていた。だが、睡蓮はただ静かにそこに佇むだけだった。彼女の瞳には、かつて木蓮がよく知っていた輝きや溌剌とした表情はなく、代わりに深い湖のような静けさが宿っていた。木蓮は彼女が何を考えているのか、まるで読み取れなかった。その沈黙が、まるで時間が止まったかのような重い空気を作り出していた。木蓮は慌ててバスタオルを将暉と睡蓮に手渡し、「身体が冷えるから中に入って」と声を掛けた。

冷たい雨に濡れた二人の姿に、木蓮の心は落ち着かなかった。二人は無口なままリビングに上がると、ソファーに腰掛けた。睡蓮の長い髪から滴る水滴が、リビングの床に小さな音を立てて落ちた。その音が、静かな部屋に不思議なリズムを刻んだ。

「睡蓮が帰って来たお祝いに………あっ、お誕生日のお祝いが出来るわ!」

木蓮は沈黙を破ろうと、明るい声で言った。彼女はキッチンに駆け込み、ワイングラスをもう一つ置くと、ケーキの取り皿とカトラリーをテーブルに並べ始めた。冷蔵庫から取り出したのは、昨日焼いたばかりのショコラのザッハトルテ。睡蓮が昔、甘いものに目を輝かせていたことを思い出し、木蓮は少しでもあの頃の雰囲気を再現したかった。だが、睡蓮の無表情な顔を見ると、彼女の心がどこにあるのか、木蓮にはまるで分からなかった。

リビングの窓の外では、雨がまだしとしとと降り続いていた。木蓮は睡蓮の沈黙の理由を想像せずにはいられなかった。アメリカでの生活、音信不通の二年間、彼女に何があったのか。木蓮の心は、懐かしさと不安の間で揺れ動いていた。それでも、こうして再び同じ空間にいること、それが今はただ嬉しかった。

「あっ、そうだ!私、将暉さんに報告したいことがあるの!」

木蓮は目を輝かせながら、ケーキのラップを丁寧に剥がした。ショコラの甘く幸せな香りがキッチンに漂い、木蓮の心を一瞬だけ軽くした。彼女は睡蓮の帰国と再会に胸を躍らせ、まるで昔のような温かい時間を蘇らせようとしていた。

だが、将暉が「俺も話がある」と腕組みをした瞬間、その空気は一変した。彼の目は鋭く険しい顔つきで、木蓮が作り上げた一時の幸せを切り裂いた。

「なに?じゃあ、将暉さんから話して?」

木蓮はケーキを手にテーブルへと向かいながら、明るさを保とうと努めた。

「木蓮、この婚約はなかったことにしよう」

「…………え?」 

木蓮は、将暉が口にした言葉が理解できず、動きを止めた。ザッハトルテの重みが、突然手にずしりと感じられた。彼は木蓮の目を見据えてもう一度、冷たく繰り返した。

「聞こえなかったのか、婚約は破棄だ」

「婚約破棄………?」

木蓮は耳を疑った。頭の中で言葉が反響し、意味を捉えきれなかった。「そうだ」将暉の声は無情に響き、重苦しい空気がリビングに沈んでいった。木蓮の指が震え、顔色が変わった。手にしていたザッハトルテはゆっくりと床に落ち、皿が割れる甲高い音と共に、チョコレートの破片が跡形もなく飛び散った。甘い香りが一瞬で虚しく感じられた。

「どういうこと?訳を話して!?」

木蓮は眉間にシワを寄せ、目尻に涙を浮かべながら将暉に縋り付いた。彼女の手は彼のスーツの袖を強く引っ張り、まるでこの現実を拒むかのようだった。将暉は唇を噛み、天井を仰いだ。その目には、疲労とも悲しみとも取れる複雑な色が横たわっていた。窓ガラスに激しい雨が叩きつけ、暴れ狂う風が窓枠をガタガタと鳴らした。部屋の中の静寂と外の嵐が、まるで木蓮の心の混乱を映し出しているようだった。

「俺は睡蓮と結婚する」

「…………!?」 

木蓮の視線が睡蓮へと飛んだが、睡蓮はただ黙ってソファーに座り、視線を床に落としていた。彼女のミルクティー色の髪はまだ雨に濡れ、滴る水が静かなリズムを刻んでいた。

「睡蓮が妊娠した、そういうことだ」

将暉の言葉が、木蓮の胸に突き刺さった。

「妊娠したって……睡蓮、将暉さんと会っていたの!?将暉さん!」

木蓮は愕然となり、力なく床に座り込んだ。彼女の視界は涙で滲み、目の前の二人が遠く感じられた。将暉は睡蓮を一瞥し、大きな溜め息を吐いて目を閉じた。その表情には、決断の重さと後悔が混ざっているようだった。木蓮は床に散らばったケーキの破片を見つめながら、かつての約束や笑顔が、まるで雨に流されるように消えていくのを感じた。睡蓮の沈黙、将暉の冷たい言葉、そして窓の外の嵐、すべてが木蓮の心を締め付け、彼女はただ、答えのない問いを胸に抱えたまま項垂れた。

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