로그인そこに立っていたのはミルクティー色の髪の叶睡蓮(かのう すいれん)だった。木蓮は一瞬、自分がそこに立っているかのような錯覚に陥った。
「どうして睡蓮が………ここに?」
アメリカにいる筈の睡蓮、音信不通だった睡蓮が目の前にいた。雨に濡れたその姿は、まるで長い旅を終えた旅人のように儚く、どこか現実離れしていた。木蓮の胸に、驚きと懐かしさとが同時に押し寄せ、心臓が小さく跳ねた。
「睡蓮、いつ帰って来たの?今までどこにいたの?」
木蓮の声は、思わず震えていた。だが、睡蓮はただ静かにそこに佇むだけだった。彼女の瞳には、かつて木蓮がよく知っていた輝きや溌剌とした表情はなく、代わりに深い湖のような静けさが宿っていた。木蓮は彼女が何を考えているのか、まるで読み取れなかった。その沈黙が、まるで時間が止まったかのような重い空気を作り出していた。木蓮は慌ててバスタオルを将暉と睡蓮に手渡し、「身体が冷えるから中に入って」と声を掛けた。
冷たい雨に濡れた二人の姿に、木蓮の心は落ち着かなかった。二人は無口なままリビングに上がると、ソファーに腰掛けた。睡蓮の長い髪から滴る水滴が、リビングの床に小さな音を立てて落ちた。その音が、静かな部屋に不思議なリズムを刻んだ。
「睡蓮が帰って来たお祝いに………あっ、お誕生日のお祝いが出来るわ!」
木蓮は沈黙を破ろうと、明るい声で言った。彼女はキッチンに駆け込み、ワイングラスをもう一つ置くと、ケーキの取り皿とカトラリーをテーブルに並べ始めた。冷蔵庫から取り出したのは、昨日焼いたばかりのショコラのザッハトルテ。睡蓮が昔、甘いものに目を輝かせていたことを思い出し、木蓮は少しでもあの頃の雰囲気を再現したかった。だが、睡蓮の無表情な顔を見ると、彼女の心がどこにあるのか、木蓮にはまるで分からなかった。
リビングの窓の外では、雨がまだしとしとと降り続いていた。木蓮は睡蓮の沈黙の理由を想像せずにはいられなかった。アメリカでの生活、音信不通の二年間、彼女に何があったのか。木蓮の心は、懐かしさと不安の間で揺れ動いていた。それでも、こうして再び同じ空間にいること、それが今はただ嬉しかった。
「あっ、そうだ!私、将暉さんに報告したいことがあるの!」
木蓮は目を輝かせながら、ケーキのラップを丁寧に剥がした。ショコラの甘く幸せな香りがキッチンに漂い、木蓮の心を一瞬だけ軽くした。彼女は睡蓮の帰国と再会に胸を躍らせ、まるで昔のような温かい時間を蘇らせようとしていた。
だが、将暉が「俺も話がある」と腕組みをした瞬間、その空気は一変した。彼の目は鋭く険しい顔つきで、木蓮が作り上げた一時の幸せを切り裂いた。
「なに?じゃあ、将暉さんから話して?」
木蓮はケーキを手にテーブルへと向かいながら、明るさを保とうと努めた。
「木蓮、この婚約はなかったことにしよう」
「…………え?」
木蓮は、将暉が口にした言葉が理解できず、動きを止めた。ザッハトルテの重みが、突然手にずしりと感じられた。彼は木蓮の目を見据えてもう一度、冷たく繰り返した。
「聞こえなかったのか、婚約は破棄だ」
「婚約破棄………?」
木蓮は耳を疑った。頭の中で言葉が反響し、意味を捉えきれなかった。「そうだ」将暉の声は無情に響き、重苦しい空気がリビングに沈んでいった。木蓮の指が震え、顔色が変わった。手にしていたザッハトルテはゆっくりと床に落ち、皿が割れる甲高い音と共に、チョコレートの破片が跡形もなく飛び散った。甘い香りが一瞬で虚しく感じられた。
「どういうこと?訳を話して!?」
木蓮は眉間にシワを寄せ、目尻に涙を浮かべながら将暉に縋り付いた。彼女の手は彼のスーツの袖を強く引っ張り、まるでこの現実を拒むかのようだった。将暉は唇を噛み、天井を仰いだ。その目には、疲労とも悲しみとも取れる複雑な色が横たわっていた。窓ガラスに激しい雨が叩きつけ、暴れ狂う風が窓枠をガタガタと鳴らした。部屋の中の静寂と外の嵐が、まるで木蓮の心の混乱を映し出しているようだった。
「俺は睡蓮と結婚する」
「…………!?」
木蓮の視線が睡蓮へと飛んだが、睡蓮はただ黙ってソファーに座り、視線を床に落としていた。彼女のミルクティー色の髪はまだ雨に濡れ、滴る水が静かなリズムを刻んでいた。
「睡蓮が妊娠した、そういうことだ」
将暉の言葉が、木蓮の胸に突き刺さった。
「妊娠したって……睡蓮、将暉さんと会っていたの!?将暉さん!」
木蓮は愕然となり、力なく床に座り込んだ。彼女の視界は涙で滲み、目の前の二人が遠く感じられた。将暉は睡蓮を一瞥し、大きな溜め息を吐いて目を閉じた。その表情には、決断の重さと後悔が混ざっているようだった。木蓮は床に散らばったケーキの破片を見つめながら、かつての約束や笑顔が、まるで雨に流されるように消えていくのを感じた。睡蓮の沈黙、将暉の冷たい言葉、そして窓の外の嵐、すべてが木蓮の心を締め付け、彼女はただ、答えのない問いを胸に抱えたまま項垂れた。
泰山木の白い花が暗闇でランプのように綻ぶ頃、叶の武家屋敷に明るく賑やかな笑い声が響いた。縁側にはブタの蚊取り線香がゆらゆらと煙を燻らし、みずみずしいスイカが皿に並び、夏の夜の涼やかな香りが漂っていた。蚊取り線香の青い煙が月光に溶け、家族の輪を優しく守るようだった。「じいじ、んっあっ!」ヨチヨチ歩きの蓮生が、木蓮の父親の手を小さな手で引き、瓢箪池の鯉に目を輝かせた。水面には月夜に照らされた睡蓮の花が静かに揺らぎ、その繊細な美しさが過去の傷を優しく包み込んだ。柚月は木蓮の膝にちょこんと座り、田上伊月が持つ手持ち花火の華やかな明かりに、「ああ、うう」と小さな手を叩いて喜んだ。その傍らには、胡桃色のティディベアがちょこんと座り、睡蓮の「花梨」の記憶を静かに象徴していた。花火の火花が夜空に舞い、まるでヒナギクの花言葉「希望」を映すようだった。木蓮のプラチナのエンゲージリングが月光にきらりと光り、田上との結婚式の誓い、蓮生と柚月の成長が彼女の心に温かく刻まれた。木蓮の母親と田上の祖母は、縁側の長椅子に座り、その愛らしい光景に目を細めた。「ほんとに、可愛らしい子たちやね」と祖母が金沢弁で呟き、母親は微笑んで頷いた。「双子は木蓮に似て強いわね」と母親が付け加え、祖母は「伊月もええ旦那さんになったわ」と笑った。家政婦の村瀬さんが茹で上がったばかりの枝豆を運んでくると、塩の香りが縁側に広がり、家族の笑顔を一層温かくした。「木蓮さん、お嬢ちゃんと坊ちゃんは本当に元気ですね」と村瀬さんが笑うと、木蓮は柚月の柔らかな髪を撫でながら「.......ありがとう、皆に愛されてるからですよね」と答えた。田上は蓮生を抱き上げ、銀縁眼鏡の奥で優しく微笑んだ。「木蓮さん、私たち幸せですよね」その声は、金沢港の夜の波音のように穏やかで、教会での結婚式、ヒナギクのブーケを睡蓮
荘厳なパイプオルガンの音色が教会に響き、田上家と叶家のゲストを温かく包み込んだ。金沢の古い教会は、四月の桜吹雪に静かに覆われている。マリアと百合の花が飾るステンドグラスから、赤や青の色とりどりの光が差し込み、祭壇を神聖な輝きで照らす。木蓮と田上伊月は愛を誓う。互いの瞳には愛おしさが溢れ、柔らかな光の中で向き合う二人の姿は、まるで永遠を約束する絵画のようだった。ゲストの祝福の拍手と、子供たちの無邪気な囁きが、教会の高い天井に響き合う。参列者席では木蓮の両親に抱かれた、蓮生と柚月が目を輝かせ、田上の祖母はハンカチを握り締め、何度も頷いた。「汝、田上伊月は、この女、叶 木蓮を妻とし、良き時も悪き時も、病める時も健やかなる時も、共に歩み、他の者に依らず、死が二人を分つまで、愛を誓い、妻を思い、妻のみに添うことを、神聖なる婚姻の契約のもとに、誓いますか?」神父の声が、厳粛に響く。「誓います」田上伊月の声は、力強く、木蓮の手を握る手に熱がこもる。「汝、叶 木蓮は、この男、田上伊月を夫とし、良き時も悪き時も、富める時も貧しき時も、病める時も健やかなる時も、共に歩み、他の者に依らず、死が二人を分つまで、愛を誓い、夫を思い、夫のみに添うことを、神聖なる婚姻のもとに、誓いますか?」「誓います」木蓮の声は、柔らかだが確かだ。
田上の迅速な対応で、柚月は軽い肺炎で一命を取り留め、クベース(保育器)で経過観察を受けることとなった。透明なガラス越しに、チューブにつながれた小さな身体が横たわる姿に、木蓮と家族は涙を流した。蓮生は新生児室で祖母の手編みのおくるみに包まれ、力強い泣き声を上げていたが、柚月の痛々しい姿は木蓮の心を締め付けた。彼女自身も、授乳時間が大幅に遅れたことで乳房が岩のように硬くなり、乳腺炎を起こして高熱に苦しんだ。額に汗が滲み、ガラスの指輪が光る手でベッドのシーツを握り締めた。母乳だけで蓮生と柚月を育てようと意気込んでいた木蓮だったが、この一連の出来事で、医師の勧めもあり、ミルクとの混合育児に切り替えた。病室の鏡に映る自分の疲れた顔を見つめ、肩を落とし、涙を滲ませた。「私が......もっと早く気づいていれば......」彼女の声は掠れ、睡蓮の虚ろな瞳と「花梨」の部屋の暗闇が脳裏をよぎった。田上はそっと木蓮の隣に座り、彼女の手を握った。「木蓮さん、柚月ちゃんは助かった。あなたは素晴らしいお母さんです」銀縁眼鏡の奥の瞳は、父親としての温かな決意で揺れていた。彼の声は、あの金沢港の夜の波音のように穏やかで、木蓮の悲しみを静かに受け止めた。モニターのビープ音が、柚月の小さな鼓動と調和するように響き、病室に微かな希望を運んだ。木蓮は田上の手に自分の手を重ね、涙を拭った。「ありがとう、伊月さん......蓮生と柚月のために、頑張ります」彼女の心には、睡蓮の闇や和田家の崩壊が薄れ、双子と田上と
木蓮は新生児室のドアをノックしたが、その音は不安げに震えていた。ドアが開くと、賑やかな赤ちゃんの泣き声が溢れ、授乳室の生成りのカーテンを捲ると、柔らかな灯りの中で母親たちが赤ん坊を抱き、乳を与えていた。甘いミルクの香りが漂う空間は、神聖な趣を湛え、ウサギのぬいぐるみが並ぶ棚が小さな命を見守っていた。木蓮は看護師の姿を見つけ、震える声で背中に呼びかけた。「あの......すみません」看護師は哺乳瓶を洗う手を止め、振り返るとパッと明るい笑顔を浮かべた。「あら、柚月ちゃん......今日は早かったんですね。蓮生くんも待ってますよ、あら?柚月ちゃんは?」彼女は不思議そうに木蓮の腕を見やり、柚月の姿を探した。「......え、私......今、来たところなんですが」木蓮の胸は不安な予感で騒めき、背中に冷たい汗が伝った。彼女の左手では、ガラスの指輪が鈍く光り、ヒナギクの花言葉「希望」が一瞬揺らいだ。「さっき、叶さん......柚月ちゃんを抱っこして出て行きませんでしたか?」看護師の言葉に、木蓮の心臓が凍りついた。「......!?」脳裏に、睡蓮が柚月を抱く姿が、まるで黒い薔薇の残響のように鮮やかに浮かんだ。和田コーポレーションの不祥事、将暉の両親の養子提案、睡蓮の憎悪に満ちた呟きが、恐怖となって彼女を締め付けた。「あ......ありがとうございます!すみません、蓮生のことお願いします!」木蓮は踵を返し、新生児室から飛び出した。廊下の川のせせらぎのバックミュージックが、彼女の慌ただしい足音に掻き消された。田上が廊下で木蓮の青ざめた顔に気づき、「木蓮さん!どうしたんですか?」と駆け寄った。彼女は息を切らし、「柚月が…柚月がいない!」と叫んだ。
和田コーポレーションの破綻を報じる記事が、週刊誌の表紙を飾った。ゴシップ雑誌には、「堕ちた令嬢」と題された見開きページで、睡蓮のゴミ出しをする後ろ姿が掲載されていた。かつての可憐な姿は跡形もなく、艶を失った髪が乱れ、化粧する気力すらなく、シワだらけのワンピースを着た彼女の姿は、和田家の崩壊を象徴していた。報道陣のカメラが捉えた玄関先の黒いゴミ袋は、全国に晒され、睡蓮の孤立を冷酷に映し出した。企業の信用低下により、和田コーポレーションの傘下から撤退する企業が後を絶たず、医療事務機器業界の闇が次々と暴かれた。木蓮の実家である叶製薬株式会社も、和田コーポレーションとの連携を即座に解約した。叶家の決断は、木蓮の離婚と双子の未来を守るための、静かだが確固たる一歩だった。木蓮は病室のテレビでニュースを見ながら、蓮生と柚月のベビーベッドに視線を落とした。祖母の手編みのおくるみに包まれた双子の寝息が、彼女の心に穏やかな安堵をもたらした。ガラスの指輪が冬の眩しい陽光にきらりと光り、ベッドサイドのヒナギクの花束が清らかに輝いた。「これでいいのよ」母親が木蓮の手を握り、静かに囁いた。父親は腕を組み、テレビに映る将暉の謝罪会見を冷ややかな目で睨んだ。「因果応報だ」と呟く声には、娘への裏切りへの怒りが滲んでいた。睡蓮の「花梨」の喪失、将暉との破綻した生活、和田コーポレーションの崩壊が、木蓮の心に遠い過去として薄れていった。彼女は蓮生の小さな手を握り、柚月の寝顔に微笑んだ。木蓮は退院を控え、慌ただ
木蓮の病室のドアを激しく叩いたのは、黒いスーツを細身の身体に纏った長身の男性だった。「和田会長!大変です!」その口調と仕草には、焦燥感と焦りが滲み、病室の空気を一瞬で張り詰めたものにした。田上の祖母が鋭い視線を向け、木蓮はベッドにもたれたまま息を呑んだ。将暉の父親が「どうした、何かあったのか?」と振り返ると、男性は震える手でMacBookを開き、株取引の画面を指差した。「我が社の株が......!」そこには信じられない光景が表示されていた。和田コーポレーションの株価が急落し、海外資本による買収の動きが始まっているというのだ。画面の赤い数字が、まるで和田家の屋台骨が崩れる予兆のように点滅していた。義父の顔は青ざめ、果物かごを置いた手が小刻みに震えた。義母はハンカチを握り締め、唇を噛んでうつむいた。病室に重い沈黙が落ちた。木蓮は義父の提案、双子の養子を求める傲慢な要求を思い出し、胸に熱い怒りが再び込み上げた。「和田コーポレーションの危機と、私の子供たちは関係ありません!」彼女の声は、疲労と出産の痛みを越えて力強く響いた。田上は木蓮の手を握り、銀縁眼鏡の奥で静かな決意を宿した。「お引き取りください。木蓮さんと双子にこれ以上負担をかけないでください」と低く、しかし毅然と言った。祖母は「ほや!赤ん坊を取引の道具にせんといて!」と金沢弁で一喝し、絣の着物を翻して義父を睨みつけた。男性はMacBookを閉じ、義父に「至急、対策会議を......!」と促したが、義父は言葉を失い、病室の床に視線を落とした。