LOGIN私・篠原涼乃(しのはら すずの)は、社長の桐生宗佑(きりゅう そうすけ)との社内恋愛を、5年間ずっと隠し続けている。 平日の朝は、通勤途中に彼の車に乗せてもらうのがいつもの流れだったのだが、ただし会社に関係を知られないよう、降ろしてもらうのは会社から5キロほど離れた駅。しかし、その日はいつもの場所に近づいたところで、私は弱々しく声を上げた。 「今日、生理でお腹がすごく痛くて……そのまま会社の地下駐車場まで行ってくれない?」 宗佑は顔をこちらへ向け、血の気のない私の顔をじっと見たが、それでも、返事に迷いはない。 「この時間、会社の地下駐車場は人が多い」 結局、私はいつもの駅で車を降りるしかなかった。 それから20分後、腹部を押さえながら、冷や汗をかきながらようやく会社までたどり着いた私の目に飛び込んできたのは、宗佑の車から降りてくる新人の女性インターン・成海夕夏(なるみ ゆうか)の姿だった。 彼女は頬を赤らめ、車内へ向かって頭を下げる。「桐生社長、会社まで送ってくださってありがとうございました。それに、わざわざ遠回りして生理痛の薬まで買っていただいて……」 自分の席に戻ると、私は無心で鎮痛剤を1錠飲み込み、そのまま宗佑にラインを送った。 【別れよう】
View More私が宗佑と再会したのは、それから3年後だった。東都を離れてから、私はいくつもの街を転々とし、最終的にG市に腰を落ち着けていた。その間も宗佑は諦めず、共通の知人たちに私の消息を尋ね続けていたらしい。そしてある日、業界の展示商談会で、私たちは偶然再会した。会場で目が合った瞬間、沈んでいた宗佑の目が大きく揺れる。「涼乃……やっぱり、ここにいたんだな」その後、私たちはカフェで向かい合って座った。宗佑の目には、ようやく私を見つけた安堵と喜びが浮かんでいたが、私の冷めた視線に触れた途端、それは深い後悔へと変わっていく。しばらくして、宗佑が震える声で口を開いた。「涼乃、すまなかった。あの頃、君にしたこと……全部」私は昔話をするつもりなどなかった。「桐生社長、私に何かご用ですか?」他人行儀な言葉が刺さったのか、宗佑は目を閉じた。再び開いた目は赤くなっている。「まだ、俺を恨んでるのか?」私は淡々と答えた。「もう過ぎたことだから。それに、私は今の生活が気に入っているから、もう関わらないで」宗佑はしばらく黙ったあと、意を決したように口を開いた。「涼乃、あのとき昇進審査で君に最低点をつけたのは、君には海外部署を任せたかったからなんだ……もちろん、全力でサポートするつもりだったし、もう現地に生活基盤も用意し……」思わず乾いた笑いが漏れた。私は宗佑の言葉を遮る。「だから私に最低点をつけて、大勢の前であんな惨めな形で峰岸さんを勝たせたの?宗佑、どうして勝手に私の人生を決めるの?私がどうしたいか、一度でも聞いてくれた?」宗佑の喉が動いた。「あの時、ちゃんと話すつもりだったんだ。その日も君の家の前でずっと待ってた。でも、瀬尾さんが君を送ってくるのを見て……腹が立って、それで……」声が次第に小さくなる。「でも、どんな理由があっても俺が悪かったと思う。吉岡さんが資料を間違えたとき、君を厳しく処分したのも……職場では誰かの責任を代わりに背負うべきじゃないって、君にわかってほしかったから。人のミスをかぶるなんて、一番馬鹿なことだって。成海さんのことも、何度か特別に気にかけたのは認める。でも、あの子が会社に入ったばかりの頃の君に似てたんだ。何もわからなくて、まだ仕事にも慣れてなくて……見ていると昔の君を思い出した。それで少し気にかけていただけだった。まさか、そ
翌朝、プロジェクトの振り返り会議が開かれた。宗佑は上座に座り、険しい顔で問いかけた。「なぜディープシー・プロジェクトが進んでいないんだ?」真っ先に理香が口を開く。「社長、昨日は私も精いっぱい対応したんです。でも結局まとまらなかったのは、篠原課長がクライアントを怒らせたからで……」夕夏もすぐに同調する。「そうなんです。昨日だって、先方は篠原課長にもう少しお酒に付き合ってほしかっただけなのに、それすら断って、あからさまに嫌な顔をして……それで雰囲気が悪くなったんです。篠原課長って、全体のことを全然考えてないと思います」宗佑の表情が一瞬こわばった。次の瞬間、その顔が目に見えて険しくなる。「つまり昨日、篠原課長がクライアントから無理に酒を飲まされていたのに、君たちは横で見ていた……そういうことなのか?」夕夏と理香の顔から、一気に血の気が引いた。二人はずっと、宗佑が涼乃を嫌っていると思っていた。だからこそ、こんなふうに話したのだ。けれど今の宗佑は、さっきまでとは比べものにならないほど怖かった。夕夏が慌てて弁解する。「わ、私たちだって助けようとはしたんです!でもそのあと、篠原課長のほうからあの人と隣の個室に行って……かなり親しそうでしたし。そうだ。あとから男の人も呼んでました。前にうちのクライアントだった人です。確か、瀬尾さんとかいう……私たちが帰るときには、二人で抱き合ってました」その言葉を聞いた瞬間、宗佑の顔がさらに険しくなった。「篠原課長はどこにいる!?どうして連絡もなく会議を欠席してるんだ?」社員の一人が答える。「社長、篠原課長は今日は出社していません。しかも、休暇の申請も上がっていなくて……」夕夏と理香が顔を見合わせ、面白がるような表情を浮かべる。その直後、人事部長が会議室へ入ってきた。「社長、警察から会社へ連絡がありました。昨夜の会食が行われた個室で、当社社員に対する性的な被害が発生したとのことです。何者かに消去されていた防犯カメラの映像も、警察がバックアップを確保しています」その言葉とともにスクリーンが点灯し、廊下の防犯カメラ映像が映し出された。宗佑の視線が画面へ向かう。そこには、昨夜起きたことがはっきりと残されていた。勝己が執拗に涼乃へ迫り、何度も身体に触れようとしている。涼乃は怯えた顔で必死に避け続け
結局、私も友達も泥酔するまで飲んでしまった。みんなはそれぞれ彼氏が迎えに来て、気づけば部屋に残っているのは私一人だけ。ソファの隅にぐったりともたれ、二重に見える天井の照明をぼんやり眺める。こんな時間では、もうタクシーもほとんどつかまらないだろう。連絡先を片っ端から眺めても、今から迎えを頼めそうな相手は一人も見つからない。そのとき、誤って郁人に電話をかけてしまった。郁人は私のいる場所を聞くと、すぐに車で迎えに来て、そのままマンションまで送ってくれた。車を降りたところで足元がふらつく。すぐに郁人が手を伸ばし、私の腰を支えてくれた。彼の穏やかな声が聞こえる。「気をつけて」慌てて体勢を立て直し、小さな声で礼を言った。そのとき、ふと顔を上げて、マンションの前に立つ人影に気づいた。宗佑だった。黒いコートを着た姿は夜の闇に溶け込み、その指にはまだ燃え尽きていない煙草が挟まれている。目が合った瞬間、宗佑の視線が私の腰に添えられた、郁人の手に落ちた。目元に冷ややかな嘲りが浮かぶ。やがて宗佑は私を一瞥しただけで車に乗り込み、そのまま走り去っていった。……月曜日、予定どおり昇進審査が行われた。候補者は業績報告と質疑応答を行い、その内容を経営陣が採点し、総合評価によって最終的な昇進者が決まる。同じポジションを争うのは、同じ部署の別チームにいる理香。私はつい先日、会社にとって重要な大型案件をまとめたばかりだったため、周囲ではプロジェクトディレクターに昇進するのは私だろうという空気が強かった。自分の番になると、これまでの成果を順序立てて説明し、質疑応答にも滞りなく答えた。一つだけミスがあったとすれば、資料の日付を1か所間違えていたこと。目ざとく気づいた人から指摘はされたものの、全体の内容や結論には何の影響もなく、実質的な問題と呼べるほどのものでもなかった。審査が終わると、同僚たちが何人か集まってきた。「ちょっと早いですけど、昇進おめでとうございます!」私は困ったように笑った。「まだ結果は出ていませんよ」「もう、謙遜しなくていいですって。これまでどれだけ頑張ってきたか、みんな知ってますから」「絶対に、昇進は篠原さんですから!」私は笑うだけで何も言わなかった。けれど内心では落ち着かず、その日の午前中はずっと仕事が手につかなかった。しかし
郁人と食事を終えると、彼はマンションまで送ってくれた。お互いに「おやすみ」と言って別れ、私はマンションの入口へ向かう。バッグの中を探りながら鍵を探していると、突然背後から眩しいハイビームを浴びせられた。反射的に手をかざして目を覆う。車のドアが開き、光の中から背の高い人影が歩いてきた。冷たい風をまとった黒いスタンドカラーのコート。その顔が近づくにつれ、はっきりと見えてくる。宗佑だった。彼は目の前で足を止めると、低い声で尋ねてきた。「デートは終わったのか?」私は眉をひそめた。「あなたに関係ないでしょ?」そう言って横を通り抜けようとしたが、手首を強くつかまれる。「俺に別れを切り出したのは……」宗佑は一度言葉を切り、どこか自嘲するような冷たい声で続けた。「あいつが理由か?」あまりの言い草に、思わず笑いそうになった。「涼乃、忘れるな。俺はまだ別れることに同意してない。こんな夜に男と二人きりでデートするのが、いいと思ってるのか?」私はその手を振り払った。目の奥が熱くなる。「じゃあ私は、あなたと成海さんのことに口を出したことがある!?二人きりで食事して、助手席に乗せて、自由にオフィスへ出入りさせて……私、一度でも文句言った?」このところ、社内では宗佑と夕夏の噂で持ちきりだった。もう気にならないと思っていたのに、こうして一つひとつ口に出してみると、胸の奥がまた痛む。宗佑は眉を寄せた。「彼女には仕事のセンスがあると思ったんだ。今後会社の戦力になる可能性があるから、少し時間を割いて指導した。それだけに過ぎない。それに、社内の噂なんて……仕事もろくにできず、他人の噂話ばかりしている連中の言うことを、本気で信じてるのか?」宗佑は私を見下ろし、鼻で小さく笑った。「もしそうなら、君もあいつらと大して変わらないな」私は彼を見上げ、涙を浮かべたまま、自嘲するように笑う。「そうだね。私、馬鹿だから。じゃなきゃ、隠れてこそこそしたまま5年もあなたと付き合ったりしなかったもの」宗佑は何も言わなかった。これ以上言い争っても意味はない。込み上げる怒りを押し殺し、私は背を向けてマンションへ入った。その後ろ姿を見送りながら、宗佑は車にもたれ、苛立たしげに煙草へ火をつけた。私の部屋の明かりがつくまでそこに留まり、それを確認してからようやく車を走らせたようだ