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第4話

Auteur: 匿名
さっき橘家の前にたどり着いたとき、私の体はもう限界だった。

追い出された今、私の手が震え、スマホの画面もまともに押せず、救急の番号さえなかなかかけられなかった。

何度も間違え、やっとの思いで通話がつながった頃には、もう意識が半分朦朧としていた。

ベッドに横たわった瞬間、私はようやくそれまで押し殺していた涙を堰を切ったように流した。

……志穂の言葉が、耳の奥でこだまする。

「あんたなんかは自ら堕ちていった安い女で、最初から玲央には不釣り合いだった」と。

――その通りかもしれない。

しかし、こんなふうに歪んでしまった私の性格も、こんな結末も結局玲央のせいなのでは?

誰でもいいから、答えを教えて欲しい。

私は取引のための道具だと、誰もがそう言うけれど、玲央ははっきりわかっているはずだ――

私がどれだけ、自分の存在や尊厳に必死だったのかを。

にも関わらず、彼はただ亡くなったみゆきに似ている女のために私を否定し、罵り、捨てた。

そう、みゆき本人のためですらなかったのに。

天国にいるみゆきも、こんなことは理不尽だと嘆くだろう。

病院で、両手の指を包帯でぐるぐる巻きにしながら、医者が感心したように呟く。

「おしゃれが好きな年頃なのに、こんなひどい怪我をしちゃって……しかも一言も痛いなんて言わないとは、本当我慢強いね」

私は、我慢することだけは小さい頃から得意だった。

泣きたくても、痛くても、誰にも言ってはいけない。歯を食いしばって、それを呑み込まなければいけない。

価値のある人間ではないなら、自分の苦しみに心を寄せてくれる人なんていないのだ。

私が生まれる前、実家の家業は不調だった。

けれど、私が生まれてから運気が変わったのか、商売が次第に繁盛し始めた。

そうして、弟がひとり生まれ、さらに二人目、三人目と続いた。

次々に生まれる男の子たちに、両親は顔がほころびっぱなしだった。

その一方で、私はどんどん目障りな存在になっていった。

「女の子なんてさ、どうせ売るくらいしか価値ないんだね」

書斎の机の下に隠れて聞こえた父の言葉は、今でも耳の奥にこびりついている。

その机の上に一枚の書類が置かれていた。

【肝臓移植同意書】――私の名前が記されていた。

橘グループの御曹司が重い病に倒れ、肝臓移植が必要だった。

肝臓は三分の二が失われ
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