LOGIN私・星河ひとみ(ほしかわ ひとみ)の彼氏、綾瀬悠人(あやせ ゆうと)には奇妙な癖がある。なんでも優先順位をつけて並べないと気が済まないらしい。 冗談半分に、結婚は一番に決まってるでしょ、と訊いたことがある。ところが、返事はいつも同じだった。 「今はちょっと、ほかにやることがあるから」 その「やること」が何なのか、結婚より大事なことなんてあるのか、どうしてもわからなかった。 ある日、虫垂炎の激しい痛みに襲われた。病院へ向かう車の中で、悠人が突然ハンドルを切った。 「玲衣がケガをした。血を見ると倒れる体質だから、すぐ迎えに行かないと」 白瀬玲衣(しらせ れい)──私の親友であり、今は悠人の助手をしている。 痛みで身も起こせない私を、悠人は車に置き去りにした。 そのとき、彼の仕事用パソコンが通知音を鳴らした。画面に表示されていたのは、【未処理のタスク】というフォルダ。 リストには── 【玲衣が助けを求めたら優先対応】 【玲衣とアイスランドにオーロラを見に行く】 【玲衣の借金を肩代わりする】 そんな項目が延々と並んでいた。 ざっと200件以上、すべて玲衣に関するものだった。 一覧をいちばん下までスクロールすると、たった二文字。 【結婚】。 人生でいちばん大事なことが、彼のなかでは、いちばん最後だった。 マウスを握り直し、その項目を消した。 そんなに大事じゃないなら、結婚なんて、やめにしよう。
View More悠人は目を細め、信じられないといった顔で、しばらく黙り込んでいた。「そんなことで、そこまで冷たくなれるのか。俺が1600万、お前に払わせた件か」そう言ってスマホを取り出すと、2千万の振込を完了させた。「……これで足りるか」平手打ちが悠人の顔に飛んだのは、その直後だ。場がしんと静まり、自分の鼓動だけが耳に響く。悠人は苛立ちを顔に浮かべたが、それでもまだ怒りを爆発させはしなかった。「じゃあ、別の理由か。言え。説明してやる。それでわがままをやめよう」昔ならそうだった。どれだけ喧嘩をしても、一日も経てば元通りになると、彼は本気で思っていた。だが今の私は、もう二度と許さない。私は苦く笑った。「気持ちが離れてる証拠なら、いくらでもある。でも、もういい。今さらそんな話をしても、意味がない」「離れてない!」食い気味に否定する声が飛んでくる。「なんで俺が気持ちを離したことになる。これだけ必死なのに、伝わらないのか」ふっと息を吐いて、玲衣のSNSに保存していた投稿を開き、画面を突きつけた。どうやら私だけが見られる設定にしてあったらしい。「私より、ずっと玲衣に入れ込んでたじゃない」投稿の数々に目を走らせた悠人の表情が、見る間に強張っていく。「ちが……違う。説明させてくれ」私は手を挙げて、その先を遮った。「やめて。これ以上話すほうが、見苦しいよ」反論させないうちに、背を向けて階段を上がった。それからの数日、悠人はずっとホテルの入口で待っている。何も言わず、ただ私が出かけ、帰ってくるのを見つめるだけだった。かつて心をときめかせた思い出は、今では吐き気がするだけのものに変わっていた。玲衣から電話がかかってきたのは、そんな日だった。「ひとみ、お願い。社長にとりなして。私、この仕事を失うわけにはいかないの。父の借金もあるし、うちの事情、ひとみも知ってるでしょ」声はこれまでにないほど細く、縋るような響きがあった。昔からそうだ。何か失敗するたびに、私に泣きついてくる。私はいつも、それでも許してきた。でも、その許しも繰り返すうちに、とっくに限界を超えていた。「私たち、もう友達ではいられないって、わかってるでしょ」電話の向こうで一瞬の沈黙。それから、濡れた声になった。「じゃあ、私の味方はしてくれない
あれから3か月が経ち、新しい職場での仕事は順調だった。悠人から、あの1600万円が口座に戻されていた。短いメッセージが添えてある。【濡れ衣を着せて悪かった。いつ帰る?】今さら謝られても、何の意味もない。返信せず、そのまま仕事に戻った。穏やかな午後、ウェディングプランナーからまた電話がかかってきた。「星河さま、ウェディングドレスの細かいご要望を改めてお伺いしたく、デザイナーに指示を出しますので」わけがわからず、問い返す。「式はキャンセルしたはずですが」電話の向こうは構わず続ける。「ですが、綾瀬さまが式は予定どおり進めるとおっしゃっていて。ちょっとした喧嘩をしただけで、すぐに仲直りするからと。綾瀬さま、本当に熱心に準備を見てらっしゃいますよ。星河さまはお幸せですね」思わず、笑いがこぼれた。あの男と一緒にいることが本当に幸せだったなら、あの場所を捨てて、こんな遠くまで来ていない。私は一言一言、はっきりと告げた。「私はもう彼とは結婚しません。式は誰と挙げても構いません。私にはもう一切関係ありません。そう、あの男に伝えてください」そう言って電話を切った。だが、すぐに同じ番号から着信がある。出てみれば、相手は悠人だった。「ひとみ、今の話はどういう意味だ。誰と挙げても構わないって?俺が結婚したいのはお前だけだ。そこらの誰かじゃない。俺のことをなんだと思ってるんだ」私の声は冷めきっていた。「こっちが聞きたいくらい。私のことをなんだと思ってるの。私はあなたが結婚したいときに結婚すればいいような存在じゃない。そういう独りよがりなことは、もう結構。ありがた迷惑です」電話の向こうで少し間が空いた。それから、かすれた声が絞り出された。「ここまで言ってやってるのに、まだわからないのか。今どこにいる。早く戻ってこい」悠人は、私が無条件に彼を愛することに慣れきっていた。いつでも自分の掌の上にいると信じて、好き勝手に距離を取ったり縮めたりしてきたのだろう。だが、それは私が彼を愛していたときの話だ。自分の声が、驚くほど落ち着いているのがわかった。「私たちは別れたの。もう二度と、そんな命令口調で話さないで」受話口から何か言い返すより先に、通話を切った。プランナーからは、ドレスのサンプル写真がメールで届いていた
悠人の頭がまっ白になった。まさか、ブロックされたのか。「そんなはずは……」信じられず、何度かかけ直してみた。結果は同じだった。メッセージも送った。【ただの誤解だ。そこまでするか?ちゃんと話そう】送信できても、既読がつくことはない。「ひとみ……」玲衣は一瞬、口元をゆるめた。それを必死に押し隠しながら、声を潜めて言う。「どうやら本気で怒ってるみたいね。今夜、あなたの家に行って謝る。あの子は心が広いから、きっと許してくれるよ」悠人の耳には、その言葉すら入っていなかった。ひとみにブロックされたことも、これほど長く無視されたことも、今まで一度もなかった。退勤後、玲衣が当たり前のように悠人の車に乗り込んでくる。「私がきちんと謝れば機嫌も直るよ。でも仕事の件だけは許して。私、本当にこの仕事を失うわけには……」悠人はさらに苛立ちを募らせ、もう一度、はっきりと言い渡した。「決めたことは変わらない。誰が何と言おうと。お前、よくもあんな真似ができたな」怒りの矛先を玲衣に向けたまま、帰路を急ぐ。途中、車を停めてケーキ屋に寄った。店主が愛想よく声をかけてくる。「綾瀬さん、また彼女にケーキですか。お幸せですね!いつものマンゴー味にしますか」胸がざわついた。長い間、玲衣にマンゴーケーキを買うのが習慣だった。だが、ケーキが好きだったのはひとみで、彼女はマンゴーを食べられなかったのだ。「マンゴーはいらない。イチゴで」ケーキの箱を手に家へ着く。靴を脱ぎながら、すでに謝罪の言葉が口をついていた。「ひとみ、ブロックするなんてひどいだろ。あの件は俺が誤解してた。悪かった。玲衣もわざわざ謝りに来てるんだ。機嫌を直せよ。ケーキも買ってきた……」そう言いながら寝室のドアを開けて、その場に立ち尽くす。――いつも物で溢れていた部屋が、がらんとしている。ひとみの私物が、きれいに消えていた。「ひとみ……」手に持っていたケーキの箱が、床に落ちた。物音に気づいて駆けつけた玲衣が、わざとらしく驚いた顔を作る。「ひとみ、家出しちゃった?」「そんなはずはない!」悠人の声が、急に大きくなる。「こんなことで家出をするもんか。あいつはそんな理不尽な真似をする奴じゃない!」昔のひとみなら、食ってかかってきても、黙って消え
玲衣からプロジェクトの説明を受けている間、悠人は上の空だった。玲衣が咳払いをする。「まだひとみのこと、気にしてるの?」「……ああ」声はひどくかすれていた。「俺は、あいつを誤解したんじゃないか。これまでずっと会社に尽くしてきた奴だ。本当に裏切るような真似をすると思うか」無実を訴えるひとみの姿が、頭から離れなかった。玲衣はぎこちなく笑ったままだったが、その目は冷めている。「私も、ひとみがあんなことするなんて思わなかった。でも、私があの子のポジションを奪ったから、恨んでるのかもしれないね……」「お前にはお前のキャリアプランがある。それが悪いわけがない。それに、俺とひとみはいずれ結婚するんだ。あいつは家にいたほうが楽だろう」玲衣の笑みが、一瞬だけ引きつった。そこへ、警察がオフィスに踏み込んできた。「この会社で窃盗事件が起きたと通報がありました」玲衣は一瞬息を止めたが、すぐに慌てて前に出た。「この件はもう社内で解決しています。お引き取りください」先頭の刑事が淡々と告げた。「星河ひとみさんからの通報でしてね。身に覚えのない窃盗の罪を着せられ、さらに1600万円を脅し取られたと」悠人は眉をひそめた。「ひとみが、通報を?」玲衣がしつこく帰そうとするのを、少しの間を置いてから遮る。「やはり調べていただきたい。お願いします」捜査が進んだあと、刑事たちの視線は玲衣に注がれた。「社外秘資料室に出入りし、御社のライバル企業と頻繁に接触していたのは、星河ひとみさんではありません。彼女は濡れ衣です」悠人は愕然として、監視カメラの映像と通話履歴を確認した。こそこそと社外秘資料室に出入りしていたのは、ほかでもない、玲衣だった。「どうして……どうしてお前が?」玲衣は激しく手を振って否定した。「本当に私じゃ……」だが、その目の奥に走った動揺を、悠人は今度こそはっきりと見て取った。信じられないというように、彼女を見つめた。「なぜひとみに罪を着せた?なぜ、あいつが盗んだと言い張れたんだ!?」刑事が口を挟んだ。「ご本人たちで話をつけますか、それとも署まで来てもらいますか」玲衣は慌てて断った。「こちらで解決しますので、どうかお引き取りください」オフィスに静けさが戻る。玲衣は泣きじゃ