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第5話

Author: 匿名
肝臓の移植手術からしばらく経ったある日、私は初めて健康診断を受けに行った。

診察室で医師が首を振りながらため息をついたその瞬間、私はなぜか不思議と安心してしまった。

――よかった、もう限界なんだ。もし身体が健康だったら、私はいったいどんな理由で死ぬ決心をすればよかったのだろう?

医師は慎重な口ぶりで告げた。

「あなたの体はもう限界です。おそらく、あと1か月ももたないでしょう。もうすぐこの美しい世界とお別れです」

でも私は、あっけらかんと笑って答えた。

「この世界が美しいなんて、最初から思ったことありませんよ。綺麗に見えるものだって、その化けの皮を剥がしてみれば、偽善と狡猾さしか残らないんですから」

残された一ヶ月。

私は、今まで必死に働いて貯めてきたお金で、小さなお墓をひとつ買った。

都会からは離れた小さな田舎にある広い共同墓地。そこには、たくさんの人たちが眠っていて――きっと、あの世に行っても私は寂しくないだろう。

あとは病院のベッドで、静かに過ごすだけ。

もう一つだけ、私にはやるべきことがあった。

玲央から渡された、離婚届。

けれど、それを彼の会社に送る前に、テレビのニュースで彼が離婚訴訟を起こしたと知った。

――そうか。あの人は私を、最後の最後まで信じていなかったんだ。

まぁ、その方が私も手間が省けて助かる。彼の会社の人たちに縁起でもない女と思われずに済むのだから。

スマホはもうずいぶん前から故障していて、まともに操作もできないけれど……

どうせあと一ヶ月しか生きられないのに、新しいのを買うのも、なんだかもったいない。

誰にも連絡を取れず、誰からも連絡が来ない。

そんな静かで真っ白な病室で、ひっそりと死んでいくのも、私には合っているのかもしれない。

テレビでは私が提訴されたことが報じられていた。

「精神的に不安定」、「金のためなら手段を選ばない女」、「人格に著しい問題あり」などなど。

散々言われたけど、もうどうでもよかった。

だって、私はもうすぐ死ぬのだから。

きっと玲央は、本気で美優を愛しているのだろう。

あんなにも必死に私との縁を断とうとしているのは、きっと彼女を妻にするため。

じゃあ、本物のみゆきのことはどう思ってたの?

……聞いてみたいけど、もう聞けないね。

もし来世で、私たちが夫婦じゃない関係で
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