Partager

第5話

Auteur: 静穂
一方、結衣のアシスタントを追い返した蓮は、掃除に来ていたスタッフにあの箱を無造作に押しつけた。

「これ、捨てておいてくれ」

その様子を見ていた紗良の口元には、満足げな笑みがかすかに浮かんだ。 だがすぐに心配そうな表情を作ると、蓮に問いかけた。「蓮さん、こんなことをして……浅見社長にまた何かされるんじゃないかしら?」

「俺のことは心配しなくていい」

蓮は微笑みながら、紗良の髪を優しく撫でた。

「それより紗良の方だ。あんな無茶なことは二度としないでくれ。処置が少しでも遅れていたら、命を落としていたんだぞ」

紗良が毒を飲んだ瞬間の光景を思い出すだけで、蓮の心は今も恐怖で震える。

「でも……」紗良の瞳に涙が浮かぶ。「私のために、蓮さんが望まない結婚をするなんて耐えられなかったの」

蓮は何も言わなかった。本音を言えば、自分だって結衣と再婚などしたくはなかった。

だが、結衣は目的のためなら手段を選ばない狂った女だ。下手に逆らえば、容赦なく桐生グループに牙を剥くだろう。

ここ数年、経営が思わしくない桐生グループに対し、浅見グループの勢いは留まるところを知らなかった。

数日後、蓮は迷った末に、やはり結衣の元を訪れた。

結衣はもう自分の足で立つことさえできず、車椅子に深く身を預けていた 。

その姿を目にした瞬間、蓮は思わず息を呑んだ。「……どうしたんだ、その体は」

車椅子を押していたアシスタントが、思わず声を震わせた。「社長は、あなたのせいで……」

だが、結衣はそっと手を挙げ、それ以上は言わせなかった。

一ヶ月前、蓮が拉致された際、彼を救い出した結衣は正体不明の薬物を注射されていた 。

それは、この世に存在しない新型の猛毒だった。

一度体内に入れば、二ヶ月も経たないうちに、逃れられない激痛の中で命を落とすことになる 。

かつての結衣は、どれほど彼を繋ぎ止めたくても、この件を切り札にして同情や愛を乞うような真似はしなかった 。すべてを諦めようとしている今なら、なおさら伝える必要などない。

「なんでもないわ。少し不注意で怪我をしただけよ」結衣は淡々と、静かに答えた。

蓮は、彼女が結婚式で吐血したことを言っているのだと思い込み、鼻で笑った。「相変わらず、大げさなやつだな」

彼は少し言葉を切り、続けた。「お前が望むなら、式の続きを挙げてもいい」

かつての結衣なら、その言葉に震えるほどの喜びを感じていただろう。だが今、その心にはさざ波一つ立たなかった。

彼女は思わず胸元をそっと押さえた 。

諦めるということは、本当にあっけないほど一瞬のことだったのだ。

「いいえ、いらないわ」結衣は伏せ目がちに言った。「安心して。桐生グループには、もう手出しはしないから」

あまりにも意外な返答に、蓮はしばらく呆然としていた。

「……つまり、再婚しなくていいということか?」信じられないといった様子で、彼は問い返した 。

結衣は彼の瞳をまっすぐに見つめた。「ええ。ただ、今夜の二時までに蒼桐山の山頂に来て。そうすれば、もう二度とあなたに付きまとったりしないわ」

結婚を無理強いされることに比べれば、そんな条件など取るに足らないことだ。蓮はそれを承諾した。

夜の九時、結衣は蒼桐山の山頂に到着した。

天文学連合によれば、かつて蓮と一緒に名付けたあの星は、深夜二時に消滅するという。ここ蒼桐山は、その最期を見届けるのに最高の場所だった。

結衣は、無数の星が瞬く夜空を遠く見つめた。

ずっと前、結衣と蓮の間には子供がいた。

けれど、その子は二歳の時、骨の癌でこの世を去ってしまった。

子供を忘れないために、二人は星の命名権を買い、愛する我が子の名前を付けたのだ。

「蓮、見て。あの子は星になって、空から私たちを見守ってくれているわ」

なのに今、あの子はまた自分たちの元から永遠に離れていこうとしている。

結衣は喉の奥が締め付けられるような痛みを感じた。最後くらい、蓮と一緒にちゃんとお別れをしたかった。

しかし、深夜二時になり、星が空から零れ落ちるように消えていっても、蓮が姿を現すことはなかった。

空が白み始めた頃、彼はようやく遅れてやってきた。

「すまない、紗良の具合が急に悪くなって……。看病をしていたら、遅くなってしまった」

結衣は何も言わなかった。朝露に濡れた服をまとい、薄暗い空の下でポツンと座る彼女は、まるでこの世に成仏できなかった亡霊のように孤独だった。

なぜか、蓮の胸にチクリとした痛みが走った。それは、久しく忘れていた罪悪感だった。

「……それなら、明日の夜にまた一緒に来ようか?」

「いいえ、もういいの」 結衣はふっと笑った。その瞳の奥には、もはや言葉にできないほど深い感情が瞳に揺れていた。「蓮……あなたはもう、自由よ」

そう言い残すと、結衣は彼と目を合わせることなく、車椅子を自ら動かして山を下り始めた。

蓮は眉をひそめた。その言葉を信じることはできなかったが、遠ざかっていく彼女の背中を見ていると、今度こそ本当に終わってしまうのだという予感に襲われた。

思わず、彼は叫んでいた。「結衣!」

結衣にはその声が聞こえていたが、決して振り返ることはなかった。

これが、彼と顔を合わせる最後になる――結衣は心の中で、そう静かに決めていた。

Continuez à lire ce livre gratuitement
Scanner le code pour télécharger l'application

Dernier chapitre

  • あの日、君を忘れなければ   第21話

    蓮の瞳が、驚愕に大きく見開かれた。目の前の男――それは数年前、自分に催眠をかけ、人生を狂わせた張本人の精神科医だった。今も逃亡中のその男を目にした瞬間、蓮の心には恐怖を飲み込むほどの、煮えたぎるような憎悪が溢れ出した。彼は後先も考えず、喉元の刃を恐れることもなく、男の手首を力任せに掴みかかった。三時間後。アシスタントが血相を変えて、結衣のオフィスのドアを突き破るようにして入ってきた。「……社長! 桐生様が事件に巻き込まれました。今、慶明大学病院に搬送されましたが……もう、長くはないそうです」結衣の手が止まり、サインペンが書類の上に長く無残な跡を残した。彼女は顔を跳ね上げた。「……何があったの?」「犯人はすでに警察に拘束されましたが、桐生様は数箇所を刺されていて……」「彼が……最後に、社長に一目会いたいと言っています」結衣は視線を落としたまま、微動だにしなかった。アシスタントは躊躇しながらも、別の資料を結衣の前に置いた。「これは、桐生様について調べた報告書です。ご家族が、社長の心が揺らぐのを恐れてずっと隠していたのですが……やはり、お伝えすべきだと思いました」その資料には、数年前の「催眠」による洗脳の全貌が記されていた。そして、彼が服役中に重度のうつ病を患い、何度も自ら命を絶とうとしていたという、残酷な事実も。結衣は病院へ向かい、蓮と再会した。重症監護室(ICU)のベッドで、蓮は力なく、しかし愛おしげに微笑んだ。「……結衣」「……どうして、何も話してくれなかったの?」結衣は複雑な感情を押し殺し、彼を見つめた。主語のない問いだったが、蓮にはその意味が痛いほど伝わっていた。彼はじっと結衣を見つめ、静かに口を開いた。「……君が味わった苦しみを、俺も全部味わわなきゃいけないと思ったんだ。そうでなきゃ……不公平だろう?」彼は痛みに顔を歪めながら、深く刺された腹部を抑えて笑った。「……ナイフの傷って、こんなに痛いんだね。あの日の君も、きっとこれくらい……痛かったはずだ」そして、蚊の鳴くような声で繰り返した。「……本当に、ごめん」結衣の目に、熱いものが込み上げた。静まり返った病室に、蓮の声が再び響く。「……結衣。まだ俺のことを、恨んでる?」結衣は静かに首を振った。真実を知ったそ

  • あの日、君を忘れなければ   第20話

    風が吹き抜け、二人が過ごした七年間は、灰と共に跡形もなくどこかへ消え去ってしまった。結衣は蓮をその場に残し、たった一人で車を走らせた。だが、走り出してから間もなく、彼女はハンドルを握る自分の手が激しく震えていることに気づいた。追い打ちをかけるように、あの不吉な眩暈が彼女を襲った。意識が遠のき、ハンドルから手が滑り落ちる。制御を失った車は、そのまま土手の下へと突っ込んでいった。再び病院のベッドで目を覚ました結衣は、自分でも呆れるのを通り越して、もはや無力感に包まれていた。医師が口を開く前に、彼女は自分から謝罪を口にした。「……分かっています。感情的になりすぎて、失神したんですよね。次は気をつけます」医師は何も言わず、カルテを閉じた。「自覚があるならいいです。とにかく、できるだけ穏やかに過ごすこと。一人での外出は、本当に控えてくださいね」医師が去ると、結衣の顔から笑みが消えた。口では冷静を装っていたが、あのお面や思い出の品々を目の当たりにしたことは、想像以上に彼女の心にダメージを与えていたのだ。あの七年間は、間違いなく彼女の人生で最も輝いていた時間だった。それを自らの手で焼き払ったことで、彼女の心にも、ぽっかりと大きな穴が空いてしまった。だが、その穴を何かの感情で埋めるつもりは、もうさらさらなかった。彼を愛していたのは事実であり、同時に、心底から憎んでいるのもまた事実だ。今の彼女にできるのは、蓮との縁を完全に切り捨て、二度と自分に関わらせないようにすることだけだった。結衣は唇を噛み締め、しばらく沈黙した後、意を決してスマホを手に取った。かけた相手は、蓮の父親だった。「……叔父様、折り入ってお話があります。取引をしましょう」それから数日も経たないうちに、蓮の家には借金取りたちが次々と押し寄せ、怒号を上げ始めた。出所してからというもの、これほど凄惨な修羅場を蓮は見たことがなかった。彼は恐怖で震える母親を抱きしめ、目の前で家財道具が叩き壊されるのを、ただ呆然と見守るしかなかった。男たちは汚い言葉を浴びせて脅しをかけると、嵐のように去っていった。その後も、嫌がらせは毎日のように続いた。常に怯えて過ごす日々に、母親の精神は限界に達していた。彼女は蓮の前に泣き崩れて膝をついた。「蓮、お願い。もうここ

  • あの日、君を忘れなければ   第19話

    華やかな結婚式は、見るも無惨な茶番劇に終わった。 友人が笑いものにされる姿を眺める趣味など、結衣にはない。彼女は友人の肩をそっと叩き、「何かあれば電話して」とだけ言い残して、その場を後にした。ところが、教会の外に出た途端、結衣の視界が急激に暗転した。 抗う術もなく、体が前方へと崩れ落ちる。迫り来るアスファルトの地面を見つめながら、結衣は心の中で力なくため息をついた。 ……これで、顔に傷が残っちゃうわね次に目を覚ました時、彼女は病院のベッドの上にいた。 傍らでバイタルデータを確認していた専門医が、彼女の意識が戻ったことに気づいて説明を始めた。「脳貧血による一時的な失神ですね。冷凍保存の後遺症ですから、完全に回復するにはまだ時間がかかりそうです。しばらくは一人で出歩かないようにしてくださいね。それと、あまり感情を刺激されるようなことは避けて、安静にすることです」結衣は静かに頷いた。「分かりました。ありがとうございます」医師が部屋を出ると、ずっと付き添っていたアシスタントが口を開いた。「社長、実は桐生様が、ずっと外で待っているそうます」 「……え?」 「社長が倒れたところを偶然見かけて、ここまでついてきたようです。ガードマンが足止めしており、中には入れませんでした」時計に目をやると、気を失ってからすでに数時間が経過していた。 窓の外は、いつの間にか激しい土砂降りになっている。 結衣は何も言わず、ただじっと雨に煙る景色を見つめていた。アシスタントは彼女の真意を測りかねたが、外でずぶ濡れになっている蓮のもとへ向かった。 「浅見社長はもう大丈夫です。桐生様、お引き取りください」 その言葉を聞いた瞬間、蓮の張り詰めていた糸が切れ、安堵の色が広がった。 彼はアシスタントに小さく頷くと、そのまま背を向けて立ち去った。帰宅した蓮を待っていたのは、激しい悪寒だった。熱はみるみるうちに上がり、意識も朦朧としてくる。真夜中、彼は耐えきれずふらつく足取りで病院へ向かい、点滴を受けることになった。「あの……桐生蓮さん、ですよね?」 点滴の準備をしていた看護師が、確信を持てない様子で声をかけてきた。 蓮が力なく「そうです」と答えると、看護師の目がパッと輝いた。 「よかった! ナースステーションに一箱、あ

  • あの日、君を忘れなければ   第18話

    一束のバラが地面に落ち、無残にも足元で踏みにじられた。 結衣は、すべてを思い出したはずの蓮が、なぜ清香を捨てて今さら自分を追いかけてきたのかなど、聞きもしなかった。彼女はただ、蓮の顔にじわじわと顔を近づけ、耳元で囁いた。「よくもまあ、どの面下げて私の前に現れたものね。もし私があなたの立場なら、私が目覚めたと知った瞬間に、どこか遠くへ逃げ出して二度と姿を見せないわ。それとも何? 私がそんなに物分かりのいい、優しい女だとでも思っていたの?」首を絞める力がさらに強まり、蓮の呼吸は次第に苦しくなっていく。 視界が霞む中で彼が見た結衣の瞳は、先ほどまでの「知らないふり」をしていた時とは、まるで別人のようだった。その眼差しは、氷のように冷たく、そしてドロドロとした憎しみに満ちている。 蓮の心臓は、恐怖と衝撃で激しく跳ね上がった。「……結衣、まさか……思い出したのか?」結衣は何も答えず、ただ唇をきつく噛み締めて、首を掴む手にさらに力を込めた。 彼女は、心底から蓮を憎んでいた。 この男は、彼女の生きる希望を、何度も、何度も、完膚なきまでに叩き潰してきたのだ。 あの時、ナイフで刺され、自分の命が尽きていく絶望感を、結衣は今でも鮮明に覚えていた。もし、傷ついたのが自分一人だけだったなら、これほどの憎しみは抱かなかったかもしれない。 だが、彼女が冷凍保存されている間、最愛の母親は娘を亡くした悲しみに打ちひしがれ、精神を病んでしまっていた。ぼんやりと車道に足を踏み出し、何台もの車に次々と撥ねられ、無残に命を落としたのだ。結衣の瞳が、怒りで赤く染まる。 かつて彼を深く愛していた分だけ、底知れぬ殺意が彼女を支配した。 一瞬、本当にこのままこの男を殺してやろうかという衝動が彼女を支配した。だが、最後に結衣はパッと手を離し、地を這うようなほど低い声で言い放った。 「……消えて」蓮は後ろによろけ、喉をかきむしるようにして激しく咳き込んだ。酸欠で目に溜まった涙が、ボロボロと地面に滴り落ちる。 結衣はそんな彼に目もくれず、冷徹な表情のまま階段を降りていった。数歩歩いたところで、彼女は足を止め、振り返らずに鋭い警告を残した。 「私が戻ってくるまでに、ここからいなくなって。蓮、これ以上私を怒らせないで」病院での検査を

  • あの日、君を忘れなければ   第17話

    蓮は後ろから結衣を強く抱きしめた。溢れ出した涙が、彼女の薄手の服をぐっしょりと濡らしていく。 彼の手にあるスマホの画面には、今もっとも世間を騒がせているニュースが映し出されていた。『国内初の人体冷凍保存プロジェクトが劇的な成功を収める。我が国の医療水準が新たなステージへ』 『唯一の蘇生者である鬼グループの浅見結衣氏は、この研究への投資を拡大すると表明。将来、すべての難病患者に「再生」のチャンスが訪れるかもしれない』ニュースを見てから数時間が経っても、蓮の興奮は冷めやらなかった。 「結衣……生きていてくれて、本当によかった。また君に会えるなんて、夢みたいだ……」だが、そんな彼とは対照的に、結衣の反応は驚くほど冷たく、どこかよそよそしいものだった。彼女は蓮を突き放すと、表情一つ変えずに問いかけた。「どうやってここに入ったの?」「玄関の暗証番号……俺の誕生日だろ? 昔、君が教えてくれた……」 蓮はそう言いながら、また彼女を抱きしめようと手を伸ばす。 しかし結衣は素早く後ろへ下がり、さらに声を冷たく沈ませた。「たとえパスワードを知っていたとしても、家主の許可なく上がり込むなんて。……人として最低限のマナーも欠いているようね」その言葉に、蓮はようやく自分の失礼な振る舞いに気づき、たじろいだ。 「……ごめん、結衣。どうしても君に会いたくて、我慢できなかったんだ」 彼は目を真っ赤に腫らし、必死に訴えた。「ずっと、君に会いたかった」「……本当に、すまなかった。あの日、君がいなくなった後で……」蓮は「死」という不吉な言葉を飲み込んだ。「紗良が何をしていたのか、全部知ったんだ。過去の記憶も、全部取り戻した」「あんなに君を傷つけてしまったこと……本当に後悔している。死ぬよりも辛くて、もう、耐えられなかったんだ……」 涙まみれの顔に、彼は歪んだ笑みを浮かべた。 「でも、神様は見捨てていなかった。またこうして君に会わせてくれたんだから」そう言って、蓮は結衣にキスをしようと一歩近づいた。「……結衣、もう一度、やり直させてくれないか?」だが、結衣は顔を背けてその唇をかわすと、不快そうに眉をひそめた。 「いい加減にして」 呆然とする蓮を冷たく見据え、彼女は吐き捨てるように言った。「あいにくだけど、私

  • あの日、君を忘れなければ   第16話

    三年という歳月は、長くもあり、短くもあった。だが、すべてを一変させるには十分すぎる時間だった。刑務所の重い扉をくぐり抜けた蓮は、降り注ぐ眩しい太陽の光に思わず目を細めた。「……蓮」前方から、掠れた低い声が聞こえた。 蓮が声のする方へ目を向けると、そこには驚くほど老け込んだ両親が立っていた。彼は力なく微笑み、「父さん、母さん」と短く応えた。 その声を聞いた瞬間、母親の目から涙がボロボロと溢れ出した。蓮はひどく動揺した。正直、どのような顔をして両親に会えばいいのか、分からなかったのだ。 自分のせいで、二代にわたって築き上げてきた桐生家のすべては、破産という形であっけなく崩れ去った。 これまで一度も苦労などしたことがなかった両親も、彼のせいで巨額の借金を背負うことになってしまった。今の彼には、それを償う術(すべ)などこれっぽっちも残っていない。 絞り出すように口にできたのは、たった一言だけだった。「……ごめんなさい」母親は泣きながら首を振った。「あなたのせいじゃないわ。ただ……人を見る目がなかっただけなのよ」 父親も深く重いため息をつき、蓮の肩をぽんと叩いた。 「行こう。話は家についてからだ」車に乗り込んだ蓮は、何も言わずにただ、流れていく外の景色を眺めていた。今の彼は、三年前よりもさらに魂の抜けた抜け殻のようだった。 全身にどす黒い死の気配が漂い、両親が心配しているのは分かっていたが、自分でもどうしようもないほど生きる気力を失っていた。まさに、生き地獄そのものだった。刑務所は、郊外の山の中腹にあった。 車を走らせて十キロほど過ぎた頃、死んだようだった蓮の瞳に、わずかな光が宿った。「……止めてくれ」車を降りると、蓮は乱れた髪を整え、服のしわを必死に伸ばした。 髪は整える術もないほど短い坊主頭で、服は三年前の古いデザインだ。 蓮はいたたまれない気持ちで眉をひそめたが、それでも込み上げる焦燥感に突き動かされるように、前へと歩き出した。 まさか帰り道に、結衣が眠る墓地があるとは思わなかったのだ。墓地の奥へ進むにつれ、蓮の心臓の鼓動はどんどん速まっていった。 緊張を紛らわせるために、何度も服の裾を整える。 だが、ようやく辿り着いた結衣の墓前で、蓮の表情は凍りついた。

  • あの日、君を忘れなければ   第9話

    一日後、アシスタントは再び蓮の元を訪れた。 「なんだ、お前のところの社長は、ようやくくたばったのか?」 アシスタントは黙って頷くと、一通の訃報と、血に染まったあのお守りを差し出した。その顔には、もはや何の感情も浮かんでいない。「浅見社長の葬儀は、三日後に行われます」蓮の表情が、その場で凍りついた。 白黒の、冷たい紙面に並ぶ「訃報」の文字が、彼の目を強く引き付けた。 耳の奥で、嫌な羽音が鳴り響くような感覚に襲われた。だが、その取り乱した様子は、ほんの一瞬のことだった。 次の瞬間には、彼はいつもの冷笑を浮かべ、平静を取り戻していた。「あいつには、いい加減にしてくれと言っ

  • あの日、君を忘れなければ   第8話

    結衣の目には何も見えなかった。だが、自分に刃を突き立てたのが誰なのか、瞬時に悟った。 「……蓮?」 絶望が波のように押し寄せ、喉はひりついて声にならない。「どうして……?」「清香の墓を掘り返すなんて……。結衣、よくもそんな真似ができたな」 蓮の冷酷極まりない声が、目の前で響いた。結衣は力なく口を開きかけた。これもきっと、紗良の仕業に違いない。 だが、あまりの激痛に、一言も説明することができなかった。 ……いや、もう説明する気力すら、残っていなかったのだ。蓮は結衣の沈黙を「認めた」のだと受け取り、瞳の奥に恐ろしいほどの怒りを燃え上がらせた。 彼は結衣の耳元に顔を寄

  • あの日、君を忘れなければ   第7話

    目の前で紗良が逃げ去るのを黙って見送るしかなく、その屈辱と憎しみで、結衣の心は押しつぶされそうだった。 表情こそ平穏を装っていたが、その内側では荒れ狂う海のように激しい感情が渦巻いている。 蓮が去って間もなく、彼女は力尽きたように車椅子の上で意識を失った。今回の発作は、かつてないほど激しいものだった。 処置室からは、ひっきりなしに危篤の知らせが次々と伝えられ、ついには浅見家の人々が全員駆けつけるほどの事態となった。廊下の向こう側。一号処置室の前のただならぬ騒ぎを、蓮は眉をひそめて見つめていた。 そこには、結衣の両親らしき姿も見える。 ……結衣の体は、本当にそこまで酷

  • あの日、君を忘れなければ   第6話

    結衣は、蓮とこれほど早く再会することになるとは思ってもみなかった。 翌日、アシスタントが興奮に声を震わせながら、知らせを持ってきた。「社長……あなたの体にある毒の出所が分かりました!」 「海外のある研究所で開発された新型の毒物で、少し前にスタッフの一人が盗み出したそうです」 アシスタントは大きく息を吸い込み、言葉を継いだ。「そのスタッフというのが……白河紗良だったんです!」 結衣の表情が、一瞬で鋭くなった。 つまり、一ヶ月前に蓮を拉致したのは紗良だったのだ。 おそらく、彼女と蓮の運命的な出会いさえも、最初からすべて仕組まれた計画の一部にすぎなかったのだろう。 「

Plus de chapitres
Découvrez et lisez de bons romans gratuitement
Accédez gratuitement à un grand nombre de bons romans sur GoodNovel. Téléchargez les livres que vous aimez et lisez où et quand vous voulez.
Lisez des livres gratuitement sur l'APP
Scanner le code pour lire sur l'application
DMCA.com Protection Status