LOGIN結婚式を翌日に控えた、独身最後の夜だった。 木川司(きがわ つかさ)はカラオケで酔い潰れていて、迎えに行ったのは私、井島千晴(いじま ちはる)だった。 普段はどんなことにも顔色ひとつ変えないあの司が、今夜に限って目を赤く腫らし、マイクを握ってちょうどこんな歌詞を口ずさんでいた。 「青いまま枯れていく、あなたを好きなままで消えてゆく」 友人の一人が、しみじみと司の肩をぽんと叩いた。 「ずっと言えずにいたんだけどさ……あいつ、戻ってきたらしいぞ。それでも、会いたいか?」 名前を出さずとも、その場にいた誰もがわかっていた。 上地京子(かみじ きょうこ)。司の初恋の人だ。 激しく燃え上がり、深く結びついた二人の恋は、彼女が去ったことで終わりを迎え、愛することの意味と、相手を大切にすることの重みを司の心に刻み込んだ。 息をするのも忘れるほど、私はただ、司が「いいや」と首を振ってくれることだけを祈っていた。 けれど司はほんの一瞬だけ黙り込み、結局、指が覚えている番号を押していた。
View More司は、人だかりの一番外側にひっそりと立っていた。行き交う人々の頭越しに、庭の中央にいる新郎新婦をじっと見つめている。隣にいた航も彼の存在に気づき、体をわずかにこわばらせた。けれどすぐに、私の手を握る力をぎゅっと強めた。司の視線は、まず私に落ち、それから、航と私のしっかりと繋がれた手に落ちた。彼はまるで目に見えない鈍器で殴られたかのように、肩をわずかに揺らした。それでも、その場から動こうとはしなかった。かつては常に落ち着き払い、冷たいとさえ思えたあの瞳が、今はうっすらと涙で潤んでいた。彼は、ウェディングドレスを着た私の姿を見た。航が私の薬指に指輪をはめるときの、わずかに震える不器用な指先を見た。目を赤くしながら涙を必死にこらえる、航の間の抜けたその表情を見た。そして、私が心から笑いながら航のネクタイを直す、その自然で飾らない親密さを見た。かつては彼自身が確かにこの手で掴んでいたはずなのに、自分の愚かさで手放してしまったもの。そのかけがえのない光景のすべてが今、自分ではない誰かのものになっていた。皆の前で、司会の先生が温かい結びの言葉を告げた。航が私の耳元で照れくさそうに何か甘い言葉をささやき、私は笑いながら彼の肩を軽く叩いた。彼は私の拳を優しく掴み、そのまま自分の口元に運び、いとおしそうにキスをした。司は門の外から、その残酷なほどに幸せな一部始終を、瞬きもせずに見つめていた。ここへ来る前は、自分の中で十分に覚悟はできていると思っていた。「幸せに」と大人らしく心の中で告げ、そのまま静かに背を向けて立ち去れると信じていたのだ。けれど、実際にその光景を目の当たりにした瞬間。真っ白なウェディングドレスを纏った彼女が、別の男の隣で、あれほど軽やかに、あれほど何の遠慮もなく無邪気に笑っている姿を見た瞬間。胸に空いた穴へ、不意に重い絶望が流れ込んできた。鈍く、声も出せないほどの激しい痛みが全身を駆け巡った。彼はふと、あのカラオケ店の夜を思い出した。彼女が薄暗い廊下に立って、「どうしても、行かなきゃいけないの?」と静かに聞いてきたあの夜を。あのとき、彼女の瞳の中にはまだかすかな光があった。まだ自分への期待があった。まだ、かすかな懇願が残っていたのだ。もしも、あのとき自分が愚かな選択をせ
その日の夜、私たちがついに結婚を決めたと知った佳代は、夜も遅いというのに赤飯を炊き、店まで届けに来てくれた。そして私の手を両手でしっかりと握ると、よかった、よかったと何度も繰り返しながら、いつまでも嬉し涙をこぼしていた。航は母親に邪魔者扱いされて台所へ追いやられ、ブツブツ文句を言いながら皿を洗い、居間に向かって叫んでいた。「母さん!一体どっちが本当の子供なんだよ!」佳代は息子を完全に無視して、私の手を握ったまま何度も繰り返した。「千晴、もしこの馬鹿息子があなたを泣かせるようなことがあったら、遠慮せずにすぐおばさんに言いなさい。足の骨、へし折ってやるからね」航が呆れたように台所から顔だけを出した。「俺が彼女を泣かせるわけないだろ。むしろ俺が泣かされないように、毎朝仏壇に手を合わせたいくらいだよ!」私は笑って彼に向けて拳を振り上げる真似をすると、彼は大げさに首をすくめて引っ込み、またおとなしく皿洗いに戻っていった。結婚式の予定は秋に決まった。この町が1年のうちでもっとも美しい季節。甘い金木犀の香りが町中にふんわりと漂う頃だ。私はもともと、式はささやかに済ませたいと思っていた。親しい人たちだけを招いて、古民家を改装した小さなレストランを貸し切り、皆で食事を囲めれば、それで十分だった。けれど航は頑として譲らず、どうしても私のために華やかな式を挙げたいと強く言い張った。「この間の結婚式は」彼はいつものふざけた調子を消して、真摯にそう言った。「あいつらのせいで、めちゃくちゃにされただろ。今度は俺の番だ。一生の思い出になるように、ちゃんとやらせてくれ」鼻の奥がツンと熱くなったが、口では「そんなお金、一体どこにあるのよ」とだけ軽口で返した。「十数年もこの日のために貯めてたんだよ」彼は胸を張って堂々と言い放った。結婚式を明日に控えた前日、私は実家の庭で本番用のウェディングドレスの試着をしていた。佳代が丁寧に裾を整えてくれる横で、航は門の外に完全に締め出され、中に入ることを許されず、塀の上から背伸びをして覗き見るしかなかった。「千晴!」塀の上から彼が大声で叫んだ。「ウェディングドレス、すげえ似合ってるぞ!」おばさんがすかさず彼を鋭く睨みつけた。「行儀が悪い!花嫁の姿を式の前に盗み見る花婿がどこにいるの!さっ
私は丁寧に花瓶を拭いていた手を滑らせ、危うく床に落として割ってしまうところだった。「……今、何て言ったの?」「だから」彼はカウンターから身を起こし、こちらへ少し歩み寄ると、カウンターに両手をつき、すっと私に顔を近づけた。「結婚しよう」あまりにも近すぎる距離だった。温かい灯りの下、彼の長いまつげが頬に落とす影がはっきりと見えるくらい。洗い立てのシャツから漂う爽やかな香りが感じられるくらいに。私は喉がカラカラになるのを感じた。「……あなた、またどこかでお酒でも飲んできたの?」「1滴も飲んでないよ」彼はひどく真剣な目で私をまっすぐに見つめた。「完全に素面だ」「じゃあ、どうして急に……」「急にじゃない」彼が私の言葉を遮った。「十数年もずっと待ってたんだ。お前にあの古いコインを渡したときから、ずっとだ。今、ようやく彼女になってくれたばっかりだろう。せっかく彼氏に昇格できたんだし、いっそこの勢いで一気に結婚まで決めようと思ってさ。どうせいずれはお前と結婚するんだ。早く結婚したほうが、俺も安心できる」「何が安心なのよ?」彼は小さく首を傾げ、当然とばかりに答えた。「お前がまた、見る目のないバカな野郎にかっさらわれずに済むっていう安心だ」呆れると同時に、思わず吹き出してしまい、彼の額を指先で軽く小突いた。「プロポーズなんだから、もう少しロマンチックに言えないの?」「じゃあ、言い直す」彼はわざとらしく咳払いをして姿勢を正し、大真面目な口調に切り替えた。「千晴さん、どうか私と……」だが言い終わる前に、自分で照れくささに耐えきれなくなり、吹き出した。彼はもう取り繕うのをやめて、カウンター越しにそのまま私を広い胸に抱き込み、顎を私の頭のてっぺんに乗せて、胸の奥から響くような低い声で言った。「なあ、千晴」不意に名前を呼ばれ、私は小さく顔を上げた。「俺がお前と結婚したいって言ってんだよ」私の背中に回された彼の腕に、少しだけ強い力がこもった。「だから、俺の嫁になってくれないか?」私は彼の胸に顔を埋めたまま、早鐘を打つような彼の鼓動を、すぐ耳元に感じていた。いつもの飄々とした様子からは似ても似つかないくらい、ひどく速い鼓動だった。それがおかしくて、思わず笑みがこぼれてしまった。「航、心臓の音、
一瞬、きょとんとした。「当たり前でしょ」航は大きく息を吸い込んだ。まるで、よほどの覚悟を決めたように、ポケットから何かを取り出し、私の前にスッと差し出した。それは古びた、小さなコインだった。そのコインを何秒か見つめて、不意に昔の記憶を思い出した。子供の頃、路地の入り口にガチャガチャがあった。私は中に入っているウサギのキーホルダーが欲しかったのに、ポケットを探っても必要な小銭が足りなかった。航は、自分の手持ちの最後の1枚を私に無理やり押しつけて、こう言ったのだ。「やるよ。でも、これで俺にひとつ、借りができたからな」「借りって、何を?」「そのうち教えてやるよ」それから何年も経ったけれど、彼は二度とその話を持ち出さなかった。とっくに忘れているものだとばかり思っていた。「……これ、ずっと持ってたの?」「当たり前だろ」航はそっぽを向いた。耳が今にも血を吹き出しそうなほど赤いのに、声だけはわざと素っ気なく装っていた。「十数年も待ったんだ。利子だって、とっくに倍になってるぞ」「じゃあ、結局、私はあなたに何を返せばいいの?」彼は、ようやくこちらに向き直った。夕陽が、彼の瞳を美しい琥珀色に染めていた。その瞳の中には、ただ私の姿だけが映っていた。私だけが。「千晴。お前、俺に『彼女』をひとり貸しっぱなしだぞ。小学生の頃から溜まりに溜まったデカい借りだ。そろそろ、返してもいいんじゃないか」私は、彼のその姿をじっと見つめた。平静を装ってはいるものの、その手がかすかに震えているさまを。鼻の奥がツンとした。それでも、こらえきれない笑みが自然とこぼれた。「こんなに長い間黙っていて、今さらだなんて、ちょっと遅くない?」「早すぎるかと思ったんだよ」航は目を伏せた。珍しく、真剣な表情を見せて。「お前には昔、好きな人がいた。それに付け込むみたいな卑怯な真似はしたくなかった。でも今は……」彼は手を上げ、そっと、そのコインを私の手のひらに乗せた。指先が私の手のひらに触れた瞬間、かすかに震えていた。「今のお前は、自由だから。だから聞きたいんだ、千晴。俺を幼馴染から、彼氏に昇格させてくれないか?」路地に吹き抜ける夜風に、甘い金木犀の香りが混じっていた。私は手のひらの中の、彼が十数