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この世、すべては夢
この世、すべては夢
Author: ゴブリン

第1話

Author: ゴブリン
「今回の出張、私は一緒に行きたくないの」

西江綺音(にしえ あやね)がそう言ったのは、夕食の席でのことだった。

その声は驚くほど穏やかで、そこに異変が潜んでいるなど、誰にも気づかれなかった。

西江賢人(にしえ けんと)の今回の出張は、ちょうど五月五日。

それは二人の結婚記念日でもなければ、誰かの誕生日でもない。

ただの、ごく平凡な「子供の日」にすぎない。

三日前、綺音は偶然にも、賢人の携帯に保存されていた音声メッセージを見つけた。

そこには幼い子どもの声が録音されていた。

甘えたような口調で、こう言っていた。

【パパ、今年の子供の日、西都の水族館に行って熱帯魚を見たいな!】

その瞬間、綺音はしばらく呆然と立ち尽くした。

賢人と恋に落ちて十年、結婚して六年。

誰もが口をそろえて、彼は綺音を骨の髄まで愛していると言った。

実際、彼は出張ですら彼女を一人にせず、常に連れて行っていた。

綺音自身も、それを信じて疑わなかった。

だが、その子どもの声が、愛されていたという幻想を音を立てて打ち砕いた。

その声の主は、推定で四、五歳ほどに思えた。

つまり、結婚して間もなく、賢人は別の女性に子を孕ませていたのだ。

この五年間、彼は優しい夫を演じる一方で、外では二児の父親としての顔を持っていた。

綺音は、愚かだったのか、それとも彼の演技が巧妙すぎたのか――五年もの間、まったく気づかなかった自分に、愕然とするばかりだった。

賢人は、彼女の好物である筍を碗に取り分けながら、優しく問いかけた。

「いつも一緒に出張に来てくれてたじゃないか。どうして今回は急にやめたいなんて?」

「別に。ただ西都はちょっと遠いし、長時間のフライトは気が進まないの」

賢人の母である幸子(さちこ)がすかさず口を挟んだ。

「綺音が行きたくないなら無理に連れて行かなくていいわ。家でゆっくり休ませてあげなさい」

綺音は淡々と頷いた。

そして、碗にある筍を箸でつまみ、そのままゴミ箱へと放り投げた。

賢人は彼女の様子に異変を感じ、更に問い詰めようとしたが、幸子に腕を軽く叩かれ、無言のうちに制止された。

彼はすぐに察し、頷いた。

「わかった。じゃあ君は家でゆっくりしてて。出張が終わったら、すぐに戻ってくるから」

食後、綺音は気分が晴れず、庭をぶらぶらと歩いていた。

家に戻る途中、ちょうど幸子と賢人の会話が耳に入ってきた。

「麻理亜と和彦ももう五歳でしょ。いつまでも外に隠して育てるわけにはいかないわよ。早く正式に家に迎えなきゃ」

賢人は苛立った表情を浮かべた。

「母さん、もうその話はやめて。二人のことはちゃんと手配するよ。でも俺にとって綺音が一番大事な人なんだ。彼女だけは絶対に失いたくない」

「もう六年も嫁に来てるのに、一度も子供を産もうとしないんでしょ? あなたが外で子供を作るのも無理はないじゃない」

「それに、麻理亜と和彦は私にとって大事な孫よ。いつもこっそり会いに行かなきゃならないなんて、こんなのおかしいわ」

賢人は短く答えた。

「何とかするよ」

「もう五歳よ!何とかするなら、とっくにしてるはずじゃない。しっかりしなさい。子供と女、どっちが大事か、自分でよく考えなさい!」

そう話している最中、賢人の携帯が鳴った。

彼は眉をひそめて通話に出た。

「また何?……」

だがすぐに、口調は一変した。

「麻理亜、いい子だな。パパも会いたいよ」

幸子がにっこりして尋ねた。

「うちの可愛い孫ちゃんかしら?」

賢人は通話をスピーカーモードに切り替えた。すると、受話口から高く澄んだ声が響いた。

「おばあちゃん!」

幸子は顔を綻ばせた。

「ええ、はいはい、おばあちゃんはここにいるわよ〜」

それ以上の会話は、綺音にとって耳にしたくもなかった。

彼女は背を向け、花園へと足を向けた。一人で、長いことそこに立ち尽くしていた。

西江家の庭には、賢人が彼女のために植えたバラが咲き誇っていた。

夏の夜風に運ばれるバラの香りは、本来であれば心地よく感じられるはずだった。だが綺音の体は、まるで氷のように冷え切っていた。

彼女は最も信頼する友人、呉島薫(ごじま かおり)に電話をかけた。

「薫ちゃん、海に転落する事故を仕立ててくれない?」

「何があったの? どうしてそんなことを……?」

綺音はしばらく言葉を見つけられなかった。

そして、ようやくすべてを話し終えたとき、薫は沈黙した。

「私はずっと、彼は誠実な男だと思ってたのに……まさか、そんな奴だったなんて!」

「もういいの、そんなこと言っても仕方ない。薫ちゃん、私はもう彼の人生から完全に消えたい」

薫はついに頷いた。

「わかった、協力する。いつにする?」

綺音は少し考えてから、こう答えた。

「半月後。ちょうど結婚記念日なの。その日にして」

賢人には、すでに新しい家庭がある。ならば、自分が去るべきだ。

離婚を切り出せば、彼はきっと執拗に縋ってくるだろう。

その終わりなき泥沼には、もううんざりしていた。

だからこそ、彼女はこの世界から、何もかもきれいさっぱり消え去ることを選んだ。

賢人の人生から、永遠に。

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