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愛人は偽うつ病。末期ガンの私は献体して消える

愛人は偽うつ病。末期ガンの私は献体して消える

Par:  ゴブリンComplété
Langue: Japanese
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「高田様、こちらが献体申込書になります。こちらにご署名をお願いします」 高田菜々子(たかだ ななこ)は、差し出された薄い紙をじっと見つめ、ペンを握る手が、かすかに震えている。 その様子に気づいた担当者が、気を利かせて言った。「献体は大きなご決断です。今ここで取りやめても構いませんし、一度帰ってご家族とご相談されてからでも……」 「書けました」 菜々子は苦く笑った。 家族――その言葉は、彼女にはあまりにも重い。夫の心は、すでに彼女のもとにはないのだから。

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Chapitre 1

第1話

「高田様、こちらが献体申込書になります。こちらにご署名をお願いします」

高田菜々子(たかだ ななこ)は、差し出された薄い紙をじっと見つめ、ペンを握る手が、かすかに震えている。

その様子に気づいた担当者が、気を利かせて言った。「献体は大きなご決断です。今ここで取りやめても構いませんし、一度帰ってご家族とご相談されてからでも……」

相手が逃げ道を用意してくれていることくらい、菜々子にも分かっていた。

それでも彼女は微笑み、書類の右下に名前を書き込んだ。

「書けました」

担当者は感謝の気持ちを込めて告げた。「高田様、医療へのご厚意に心より感謝申し上げます。こちらが献体登録証になります。どうぞお受け取りください」

……

菜々子が帰宅しても、そこには誰もいなかった。

テーブルには今朝出かける前に準備した朝食が、手つかずのまま残されている。

スマホには一通の未読メッセージがあった。

【今夜は仕事が遅くなる。帰れない】

菜々子は苦笑いを浮かべた。

最近、夫·高田真司(たかだ しんじ)の「残業」はあまりに頻繁だ。本当は、また奥山菖蒲(おくやま あやめ)と一緒にいることくらい、彼女にはお見通しだった。

菖蒲は真司の秘書で、心に病を抱えている。

彼に想いを寄せながらも、不倫を受け入れられず、その間で苦しんだ結果、うつ病になってしまったのだ。

真司は責任をすべて自分で背負い込むようになった。

「菖蒲がこうなったのは、俺たちが結婚してるせいだ」菜々子がそう言われたのは、一度や二度ではない。

菖蒲への罪悪感から、彼は以前にも増して彼女の世話を焼き、何でも彼女の言うことを聞くようになった。

やがて積み重なった想いは形を変え、憐れみはいつしか愛へと変わっていった。

二人の関係がいつ始まったのか、菜々子には分からない。

ただ一つ確かなのは、かつて自分をあれほど愛してくれた男でさえ、いつか別の誰かへと心を移すということだった。

菜々子は暇を持て余してソファに寝転がり、ぼんやりとスマホをいじる。

検索などしなくても、昨夜の出来事が嫌でも流れてくる。

動画を開くと、白いドレスをまとった菖蒲が、H市で一番高いビルの屋上に立っていた。

夜空を背に、その白いドレスは異様なほど際立っている。

周囲は騒然とし、人々の視線が彼女に集まっていた。

「何があったんだ?」

「恋の悩みって噂だ」

「可哀想に。こんな素晴らしい女性を捨てるなんて、一体どんな男だ」

儚げで、白いドレスに黒髪という姿がさらに弱々しく、守ってあげたくなる空気が漂っていた。

周囲が心配する中、突然、人々の間からざわめきが沸き起こった。

「来た!誰か上がったぞ!」

「うわあああああ!キスした!」

「映画のワンシーンみたいだ、なんてロマンチック……」

菜々子が画面を拡大してよく見ると、二人は強く抱き合い、唇を重ねていた。

背の高い男と、華奢な女。まるで一枚の絵のように整った光景だった。

真司は菖蒲が愛しいあまり、まるで自分の一部に溶け込むように強く抱きしめ、彼女の頬に手を添えて深く口づける。

やがて彼は彼女を抱き上げ、そのまま屋上の奥へと消えていった。

その夜、街中の人が彼らの恋を目撃したのだ。

菜々子はスマホを閉じ、目の奥が熱を帯び、こらえきれない涙が頬を伝って、ポタリとソファに落ちた。

このソファは結婚したばかりの頃、真司と一緒に選んだものだ。

深く愛し合っていた頃、彼は帰宅するなり菜々子を抱きしめ、髪の香りを感じながら、静かに寄り添っていた。

「菜々子、もう少しこのままでいさせて」と、彼は子供みたいに甘えてきた。

けれど今、その腕に抱かれているのは別の女だ。

やがて、真司が手に朝食の袋を提げて帰ってきた。

菜々子を見るなり、彼は言った。「なんでこんな早く起きてるんだ?ちょうどいい、朝飯買ってきた」

しかし、テーブルの料理に気づいた瞬間、真司は動きを止めた。

菜々子は無理に笑みを作った。「一晩中働いて、疲れたでしょ?少し横になったら?」

真司は気まずそうに言った。「大丈夫だ、そんなに疲れてない」

「じゃあ……少し、抱きしめ合おうか?」

真司はそれを断り、彼女を避けるように、そのままダイニングへ向かった。「そういうのは、もういいだろ」

食事中、二人の間に重苦しい沈黙が流れた。

知り合って8年、結婚して5年。気づけば、言葉すら交わさない関係になっていた。

プルルル——

真司のスマホが鳴った。

「セールスだ」彼は確認し、そっけなく言って、そのまま切った。

だが、すぐにまた鳴り出した。

菜々子は静かに口を開いた。「出れば?もし奥山さんがまた自殺でもしたら、私は責任なんて取れないから」

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雨降る雪降る
雨降る雪降る
先輩と葵さんがいてくれて、本当に命救われたね。偽鬱の方には、追い詰めて命を断つと言い出したらどうぞどうぞー
2026-07-09 14:28:28
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裕子
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葵さんに星五つ 愛人うつ病鉄板ネタ、毎度思うけどうつ病愛人のアクティブな事 引っかかる男はバカすぎるといつも感心するわ でも今回は愛人に真っ向勝負の葵さんのおかげでスッキリしたわ
2026-07-02 15:02:45
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松坂 美枝
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最後でおぉおおおってなったわ〜 葵さん今後も大変そう… うつ病だとか抜かす女には徹底した再検査が必要だな
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葵さんという善意の人に救われた話だった。しかしうつ病を装って人の夫「手に入れて、結婚したら直りましたっていうつもりだったのかな?この愛人。やり方がえげつない。死んだはずの人まで生きてるし、そこは必要だったのか?
2026-07-02 20:44:40
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「高田様、こちらが献体申込書になります。こちらにご署名をお願いします」高田菜々子(たかだ ななこ)は、差し出された薄い紙をじっと見つめ、ペンを握る手が、かすかに震えている。その様子に気づいた担当者が、気を利かせて言った。「献体は大きなご決断です。今ここで取りやめても構いませんし、一度帰ってご家族とご相談されてからでも……」相手が逃げ道を用意してくれていることくらい、菜々子にも分かっていた。それでも彼女は微笑み、書類の右下に名前を書き込んだ。「書けました」担当者は感謝の気持ちを込めて告げた。「高田様、医療へのご厚意に心より感謝申し上げます。こちらが献体登録証になります。どうぞお受け取りください」……菜々子が帰宅しても、そこには誰もいなかった。テーブルには今朝出かける前に準備した朝食が、手つかずのまま残されている。スマホには一通の未読メッセージがあった。【今夜は仕事が遅くなる。帰れない】菜々子は苦笑いを浮かべた。最近、夫·高田真司(たかだ しんじ)の「残業」はあまりに頻繁だ。本当は、また奥山菖蒲(おくやま あやめ)と一緒にいることくらい、彼女にはお見通しだった。菖蒲は真司の秘書で、心に病を抱えている。彼に想いを寄せながらも、不倫を受け入れられず、その間で苦しんだ結果、うつ病になってしまったのだ。真司は責任をすべて自分で背負い込むようになった。「菖蒲がこうなったのは、俺たちが結婚してるせいだ」菜々子がそう言われたのは、一度や二度ではない。菖蒲への罪悪感から、彼は以前にも増して彼女の世話を焼き、何でも彼女の言うことを聞くようになった。やがて積み重なった想いは形を変え、憐れみはいつしか愛へと変わっていった。二人の関係がいつ始まったのか、菜々子には分からない。ただ一つ確かなのは、かつて自分をあれほど愛してくれた男でさえ、いつか別の誰かへと心を移すということだった。菜々子は暇を持て余してソファに寝転がり、ぼんやりとスマホをいじる。検索などしなくても、昨夜の出来事が嫌でも流れてくる。動画を開くと、白いドレスをまとった菖蒲が、H市で一番高いビルの屋上に立っていた。夜空を背に、その白いドレスは異様なほど際立っている。周囲は騒然とし、人々の視線が彼女に集まっていた。「何があったんだ
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第3話
翌朝、菜々子はトイレの床で目を覚ました。最近、病状は日に日に悪化していて、意識が遠のくこともあれば、激痛で気を失うこともあった。ただ、大量に血を吐き、便器が赤く染まっていた光景だけがぼんやりと残っている。菜々子はレバーを引き、濁った赤い水がゆっくりと流れていくのを見つめた。その時、インターホンが鳴った。真司か?菜々子は慌てて片付け、口をゆすぎ、床に残った血の跡を拭き取ると、玄関へ向かった。「真司……」だが、立っていたのは真司ではなく、菖蒲だった。菖蒲は高級なブランド服に身を包み、メイクも髪型も完璧で、顔色も良く、つい最近までうつ病で自殺騒ぎを起こしていたようには見えなかった。彼女は唇に笑みを浮かべて挨拶をした。「菜々子さん、初めまして。奥山です」菜々子はなぜ菖蒲が突然来たのか分からなかったが、淡々と言った。「奥山さん、私を呼ぶ時は、奥様と呼んで」菖蒲は鼻で笑った。「どうせあなたはもう長くないんでしょう?奥様なんて肩書きも、じきに私のものになるのに、そんな呼び方にこだわる意味あるの?」「あるわ」菜々子ははっきりと頷いた。「少なくとも、あなたの前ではね」菖蒲はあざ笑った。「今のうちに私に取り入ったらどう?ここが私の家になったら、物置にでもあなたの位牌を置いて、腐った果物くらいはお供えしてあげるわ」菜々子の視線が、ふと菖蒲の手首に落ちた。そこには女性用の腕時計とブレスレットがあるだけで、傷跡など、どこにも見当たらなかった。菜々子は、先週、彼女が自殺未遂を装ったことを覚えていた。飛び降りではなく、リスカだった。あの時、生々しい写真も見た。それなのに、たった数日で傷一つなく綺麗になっているなんて。「手首の傷はどうしたの?」「あんなこと、本気でするわけないでしょ。傷なんて残したくないもの。最初からやってないわ」菜々子は息をのんだ。「うつ病も……芝居なのね?真司を騙したの?」菖蒲はますます勝ち誇ったように笑った。「彼が信じてくれさえすればいいのよ。男っていうのはね、女が自分のために病んだと思えば、心が満たされて罪悪感を抱くものよ。私が具合が悪いフリをすれば、彼は私を心配して、何よりも優先して駆けつけてくれる……」「奥山菖蒲!」菜々子は憎しみを露わにした。「そんな嘘で彼の愛を奪って、家庭まで
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第4話
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第5話
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第7話
真司は彼女を連れ、人里離れた廃ビルへと向かった。周囲には雑草が生い茂り、人の気配はない。真司に手首を掴まれた菜々子は、廃ビルの奥へと急かされた。今の彼女の体力ではもう、ついていくのがやっとだった。菜々子は足をもつれさせ、荒い息を吐きながら歩いた。真司はまるでそれが見えていないかのように、ただ、ひたすらに先へと急いだ。ついに、彼は足を止めた。菜々子が顔を上げると、天井から手首を縛られ、中に吊るされた菖蒲がいた。「真司、助けて……」彼女は声を上げて泣き出した。「菖蒲!」真司は彼女をなだめた。「大丈夫だ。俺がいるから。何も心配しなくていい」「ハハハハ、噂通りの溺愛っぷりだな」数人の拉致犯が姿を現し、ニヤニヤと笑いながら言った。「金は持ってきたか?」真司は冷たい声で言った。「こんな短時間で、1億も用意できわけないだろ」「じゃあ、話にならないな。縄を切って、奥さんが地面に落ちるところを見てるんだな……」「待て!」真司は菜々子の腕を乱暴に引っ張り、地面へ突き飛ばした。「代わりにこいつをやる」犯人は顔をしかめた。「何を言ってるんだ?俺たちをバカにしてるのか?」真司は言った。「こいつの臓器を全部売れば、1億なんて簡単に超えるはずだ」菜々子は地面にへたり込み、信じられないものを見る目で、真司を見上げた。だが真司の瞳には、菖蒲の姿しかなかった。さらに真司は言葉を重ねる。「金をもらっても、国内じゃ使うにも困る。警察も嗅ぎ回るだろう。それより海外ルートに流せば、若い女の臓器は高値で売れる。お前たちにとっても安全な商売になるはずだ」犯人たちは顔を見合わせ、真司の提案に心を動かされたようだった。拉致は重罪だ。警察も血眼になって追っている。このまま国内を逃げ回る生活など、もうこりごりだった。それなら、生かしたまま海外に連れて行って、臓器を売った金で、一生遊んで暮らせる!菖蒲がなおも泣き叫ぶ。「真司、手が痛いよ……」真司は急かした。「早く彼女を放せ!」犯人たちは二手に分かれた。二人が菜々子を押さえ、もう二人が菖蒲を縛る縄を切り落とした。落ちた菖蒲を、真司が駆け寄り、しっかりとその胸で受け止めた。「大丈夫、俺がいるよ」「真司……うぅっ、きっと助けに来てくれると信じてたわ」もう片方で
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第8話
高田家。真司はずっと菖蒲を抱いたまま帰宅した。彼はこれまで常に菖蒲に対して優しく言葉を選び、細心の注意を払っていた。これ以上、彼女の心を刺激し、病状を悪化させるのを恐れていたからだ。「今はどうだ?お風呂にでも入ってから、ゆっくり休むか?起きたら、すべてが良くなってるさ」彼は菖蒲の真っ青な顔色を見て、ひどい恐怖を感じたに違いないと思った。菜々子の顔が一瞬頭をよぎったが、彼はすぐにそれを振り払った。彼女は健康な人間なのだ。菖蒲よりも苦しいはずがない。それに、すでに警察官が付き添って病院に行っているのだから、何も起きるはずがない。真司はすべての注意を菖蒲に注いでいた。ショックから立ち直れない様子の菖蒲は、彼の袖をぎゅっとつかんで言った。「真司、どこにも行かないで。怖い、もう少し一緒にいてくれる?菜々子さんがあなたを必要としているのはわかってる。でも……少しの時間でいいの。お願い、今だけは傍にいて」彼女は短い言葉を震える声で口にし、今にも泣き出しそうだった。真司はすぐに立ち去ることができなくなった。菖蒲の言う通りだ。彼女が良くなってから菜々子に会いにいけばいい、急ぐ必要はない。彼は菖蒲を支え、ベッドの端に座らせた。菖蒲はまだ彼の袖をつかんで離さず、「眠ったら行っちゃうの?」と問いかけてくる。真司は仕方なく再び約束した。「大丈夫だ、離れない。俺がここにいる以上、もう二度と誰にも君を傷つけさせない」今回はようやく納得したようで、菖蒲は服を着たままベッドに横たわり、ゆっくりと目を閉じた。真司は菖蒲が突然泣き叫ぶことなく落ち着いて眠ったのを確認するまでしばらく待ち、その後そっとバルコニーに出て、警察から教えられた番号に電話をかけた。菜々子はどうして帰ってこないのだ。まさか迎えに来てほしいとでも言ったのか。電話はすぐに繋がった。真司は自分でも気づかぬほどの焦りを見せながら尋ねた。「妻の様子はどうだ?まだ帰ってきてないんだ。今の俺には彼女の我が儘に付き合う時間なんてないと伝えておいてくれ」こっちは忙しいというのに、どうして思いやりを見せられないのだろう。警察官はあきれたように思っていた。本人と話がしたいのなら、直接彼女に電話をすればいいではないか。だが、本人の都合もあるため、警察官は穏やかに答え
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第9話
彼は、そんな出まかせを自分に言い聞かせていた。菜々子のスマホには繋がらず、呼び出し音のあとに続くのは、感情のない無機質なアナウンスだけ。それがかえって彼の神経を逆なでし、かろうじて保っていた理性は、やがて完全に不安に飲み込まれていった。ただの風邪だと言っていたじゃないか。なぜ戻ってこないんだ?この検査結果は一体どういうことだ?真司は彼女が胃癌という重い病気であることなど到底信じられず、無機質なアナウンスを繰り返し聞かされながら、何度も電話をかけ続けた。突然、部屋の奥から悲鳴が響いた。菖蒲が目を覚ましたのだ。真司は電話を切ると慌てて部屋に駆けつけた。しかし、つい先ほどまで開いていたはずのドアが内側から鍵をかけられ、びくともしない。「菖蒲!どうした?開けてくれ、俺だ」声を枯らしながら呼びかけるが、中からは激しい泣き声と、物がぶつかり合う音しか聞こえてこない。部屋の中で菖蒲は、「もう私に関わらないで、全部私が悪いのよ……」とわめき散らしていた。それを扉越しに聞いていた葵は、あなたのせいよ、あなたが割り込まなければ、奥様があんなに苦しむこともなかったのに、と心の中で冷たくて笑った。かつての二人は、あんなに仲が良かったのに。「落ち着いて話してくれ。自分のことを責めないでいい。怖かっただろうけど、俺がちゃんと救い出したじゃないか」真司は必死になって宥めるが、言葉は空しく響くだけだった。菖蒲は暴れ続けていたが、やがて疲れたのか、物を投げ尽くしたのか、次第に物音は小さくなっていった。真司は扉に力なく寄りかかり、憔悴しきっていた。そこへ庭にいた使用人が血相を変えて走ってきた。「旦那様!大変です。奥山さんが窓から飛び降りようとしています!」それほど高い階ではないが、下はコンクリートだ。飛び降りればただでは済まず、一生の障がいを負うことになる。もはや優しくしている場合ではない。真司は強引に扉を蹴り開けると、「菖蒲!部屋に戻れ!バカな真似をするな!」と叫んだ。室内は家具が転がり、デスクが倒れ、まるで嵐が過ぎ去ったかのように散らかっていた。菖蒲はそんな現状を無視し、薄い服のままバルコニーの柵に座り、風に煽られるカーテン越しに真司を見つめている。その瞳には涙が浮かび、サンダルを履いた両足が宙に浮いていた。
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第10話
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