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第2話

Author: ゴブリン
綺音は電話を切った後、もうしばらくバラの庭で佇んでから家へと戻った。

玄関を入った瞬間、賢人が慌ただしく階段を下りてくるのが目に入った。彼は彼女のコートを手に持っていた。

彼女の姿を見つけるなり、賢人は急ぎ足で近づき、そのコートを彼女の肩にそっと掛けた。

「どうしてそんなに長く外にいたの? 夏とはいえ、夜は風が冷えるから」

綺音はかすかに微笑んだ。

「大丈夫、寒くなんてないわ」

「女の子は身体を冷やしちゃだめだよ」

その言葉に、綺音の足がふと止まる。

彼女の脳裏に、賢人と初めて出会った日のことがよみがえった。

あの頃、彼女は大学一年生になったばかりで、アルバイトのために一日中冷たい風にさらされていた。

通りかかった賢人が、何のためらいもなく自分の上着を差し出してくれたのだ。

断ろうとした彼女に向かって、彼はこう言った。

「女の子は、身体を冷やしちゃだめだよ」

その後、彼女はきれいに洗濯してコートを返し、自然と言葉を交わすようになった。

やがて恋に落ちた。

賢人は後に告白した。

彼はずっと前から彼女に想いを寄せており、陰から見守っていたのだと。

あの日、寒さに震える彼女の姿を見て、どうしても放っておけず、声をかけたのだと。

それから二人は自然と交際を始めた。賢人は彼女を本当によく愛してくれた。

あまりにも献身的なその愛に、周囲の誰もが「西江賢人は究極の愛妻家」だと噂するほどだった。

二人が結婚した時、賢人の親友までもがこう言った。

「彼の中では、綺音さんが一番、賢人自分は二番だ」

綺音はそれを冗談として笑い流していた。

だが、ある時二人が旅行中に地震に遭遇した際、彼の言葉が決して誇張ではなかったと知る。

瓦礫が崩れ落ちる中、賢人は自らの身体で彼女を庇い、三日三晩、空間を作って彼女を守り抜いたのだ。

救助隊に発見されたとき、彼女は無傷だったが、賢人の背中は血に染まり、肉が裂けていた。

それでも彼は気絶する直前、微笑みながら彼女の頬に手を添え、こう言った。

「泣かないで、大丈夫だから」

あの瞬間、綺音は心に誓った。

この人と、ずっと一緒にいよう――一生離れずに。

けれど、今となっては彼がその誓いをとうに忘れてしまったことを、痛いほど思い知らされている。

賢人は彼女を抱いて部屋に戻り、ソファに座らせ、自らは膝をついて彼女の手を握った。

「綺音、目が赤いけど、泣いたの?」

綺音は首を振った。

「ううん、泣いてない」

「嘘だよ。君はきっと泣いたはずだ。何があったのか、話してくれないか?」

彼の焦ったような瞳と向き合った瞬間、綺音の胸に鋭い痛みが走った。

「賢人、あなた……私のこと、愛してる?」

「もちろんさ」

賢人は優しく手を伸ばし、彼女の髪を耳にかけてやった。

「どうして急にそんなこと聞くの?」

「ただ……最近見た映画で『七年目の浮気』っていう話があって。私たち、もう結婚六年で、来年が七年目でしょ」

賢人は笑みを浮かべた。

「なるほど、それで不安になったんだね」

彼は彼女の手を取り、自分の胸に当てて、ひとことずつ言葉を置いた。

「この西江賢人はこの一生、綺音だけを愛する。永遠に、何があっても、その想いは変わらない」

綺音は静かに問う。

「じゃあ、もしあなたが心変わりしたら?」

「そんなことない」

「仮に、もし、って言ってるの」

賢人はしばし考え、重々しく言った。

「その時は、天罰が下って、ひどい死に方をしてもかまわない」

綺音の胸に、またも痛みが走る。

今この瞬間でさえ、彼はなお彼女を騙そうとしている。

そんな重い誓いを口にしてまでも、真実を隠し続けるなんて。

「綺音、元気出して。明日は気分転換に外出しようよ」

綺音は本当は行きたくなかった。

だが賢人に押し切られ、翌朝、彼は車で彼女を連れ出した。

車はショッピングモールの前で停まった。

賢人は彼女の手を引き、宝飾店へと向かう。

店員はすぐに駆け寄ってきた。

「西江社長、奥さま、どんなジュエリーをお探しですか?」

賢人は答えた。

「妻への結婚記念日のプレゼントとして、ペアリングをオーダーしたいんです」

「かしこまりました。こちらへどうぞ」

店員に案内されてVIPルームに入ると、すぐに数冊のカタログが運ばれてきた。

「こちらが最新デザインになります。奥さま、お気に召すものがあれば」

もう一人の店員が小声で囁いた。

「西江社長、ペアリングなら、ご自身の好みも聞かれたほうが……」

すると別の女性店員が笑顔で言った。

「でも西江社長はきっと奥さまのご意見に従うでしょうね。奥さまが好きだと言えば、西江社長が逆らうはずがないでしょう」

賢人は唇を軽く上げて微笑んだ。

「わかってるね」

女性店員はさらに嬉しそうに笑った。

「H市で、奥さまを一番大事にしてるって評判の西江社長ですもん。インタビューでも、必ず奥さまの話が出ますよね!」

もう一人も続けた。

「そうそう、確か一度、奥さまのためにドーナツを買いに行くって、インタビュー中断して出ていかれたとか!」

「いや~、甘すぎて羨ましい~」

綺音は黙って聞いていた。顔には奇妙なほど静かな笑み。

「私のこと、羨ましいですか?」

店員たちは一斉に頷いた。

「もちろんです! H市の女性で西江奥さまを羨ましく思わない人なんていませんよ!」

――けれど、あなたたちが知ったらどう思うだろう。

今、こうして私を大切に扱っているこの人には、外にもう一つの家庭があって、すでに子供も二人いると知ったら。

それでも、まだ私を羨ましいと思えるのだろうか?

と、綺音そう考えた。

そのとき、VIPルームのドアがノックされた。

「奥さま、お選びはお済みですか? 外にいらっしゃるお客様もVIPでして、カタログをご覧になりたいそうです」

賢人は眉をひそめた。

「まだ選んでない。もう少し待ってもらって」

「ですが西江社長……あの方は……」

女性店員は言いよどみ、はっきり口にできなかった。

賢人の表情が一変し、何かを悟ったように低く呟いた。

そして立ち上がり、慌てて言った。

「綺音、他の店を見に行こう」

綺音が反応する間もなく、VIPルームのドアが開いた。

一人の女性が微笑みながら入ってくる。

その隣には、男女二人の子どもが手をつないで立っていた。

どちらも、五歳ほどに見える。

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