LOGIN北条由理恵(ほうじょう ゆりえ)が病院で中絶手術の同意書にサインをしてくれる人を探していた時、中村潤(なかむら じゅん)は生理痛に苦しむ彼女の遠藤渚(えんどう なぎさ)をなだめている最中だった。 いつも高慢な中村グループの御曹司が、片手に温かい飲み物、もう片手にはブランドバッグを提げ、プライドも何もかも捨て渚に尽くしている。 しかし、由理恵はもう諦めていた。中絶手術の同意書を両手で差し出し、「悪いけど、ちょっとだけ手を止めて、先にサインしてくれない?」と静かに言った。 潤は思っていた。由理恵は少し拗ねているだけで、どうせ最後には自分のもとへ戻ってくる、と。なにしろ、彼女はあれほどまでに自分を愛していたのだから。 だが彼はまだ気づいていなかった。この日、初めて授かるはずだった子どもと、生涯でいちばん自分を愛してくれた女性、その両方を同時に失っていたことを。
View More潤が現れたことで、A国での日程は早めに切り上げられた。リゾートホテルに戻る途中、由理恵と充は買い物を済ませると、すぐに飛行機に乗り込んだ。帰国後、最初に向かったのは北条家だった。杏と文雄は、生まれ変わったかのような最愛の娘と、その再生のきっかけを作ってくれた恩人を温かく迎え入れようと、豪華な食事を用意していた。充に対する感謝の気持ちも重なり、杏と文雄の対応はひときわ積極的だった。充は公の場ではクールだが、私的な場面では少し生意気で負けず嫌いなところがある。元々お酒は強くない方だが、文雄や北条家の親戚からの強い勧めで、ついつい飲みすぎてしまった。こうしてたくさんお酒を飲んだ充は、すっかり酔い潰れた。しかし、泥酔しても酒癖が良いのか、余計なことは一切口にせず、ただひたすらに由理恵の手を掴んでは、「由理恵、本当に愛してる。君が心から愛おしいよ」と何度も繰り返していた。由理恵もあまり気後れする性格ではないが、何度も繰り返される愛の言葉に、少し照れくさい気持ちになった。顔を真っ赤にしながらも、彼女は可愛らしく充の体を支えて立ち上がった。「二宮家の車が外で待ってるから、お父さんたちは先に食事を続けて。私が外まで送ってくる」未来の婿が帰ってしまった以上、二人もこれ以上ゆっくり食事をする気にはなれなかった。テーブルを片付けると、二人は早速、由理恵の結婚のための嫁入り道具を準備し始める。かつて由理恵が潤に嫁ぐことになった時、彼の素行に不安を抱いていた両親は、「この子では財産を守りきれないかもしれない」と案じていた。そのため、嫁入り道具も世間体を保てる程度しか持たせなかったのだ。ところが、今回の充という、北条家全体が大満足の婿となれば話は別だ。全財産を持たせるほどの勢いで、ありったけの嫁入り道具を用意した。その豪快な振る舞いに、由理恵も思わずあ然とした。「そんなにたくさん準備してくれなくてもいいのに……」「何を言っているんだ?これくらい普通だろう?」文雄は不満げに言った。「由理恵。この嫁入り道具が二宮家に釣り合わないというのか?それとも、俺とお母さんの蓄えがなくなるんじゃないかって、心配してるのか?」もちろんそんなことはありえない。「もう、お父さんってば」「お前は、黙ってこの嫁入り道具と共に、二宮家に嫁に行けばいいんだ
「婚約者」という響きが、潤の耳を貫く。潤はカッと目を見開き、その場に呆然と立ち尽くした。「何が婚約者だ?俺を騙そうとしてるんだろ?由理恵、冗談だろ?あれだけ長く付き合ってきたのに、俺を急に捨てるなんて。こんなにすぐ変われるはずがない…」「潤」由理恵は冷ややかな声で彼を遮った。信じられないといった潤の瞳を見据え、一言ずつ、感情を込めることなく言った。「すぐに変わるものなの。心がわりなんて、あっという間。それに、充にはその価値があるし、私は充のためなら全てを投げ打てる。だって、1秒でも遅れたら、他の女に奪われてしまうかもしれないでしょ?」由理恵の想いは、もうとっくに受け止めていた。結婚することも、彼女がそれを望んでいることも分かっていた。それでも、潤の前で、こんなふうにまっすぐ気持ちを伝えたその瞬間、充の胸には、言葉にできないほどの幸福が込み上げていた。体中が何か熱いもので満たされるのを感じ、充は懸命に抑えようとしたが、結局頬の筋肉が緩んでしまった。笑みを浮かべたまま、由理恵のそばに歩み寄る。「由理恵、心配しなくていい。俺は誰かさんとは違う。一途な愛を誓えるし、人としての一線を決して越えない。外野のくだらないことに振り回されて、他の女と関係を持つなんて絶対にありえないから。俺の心の中で、君はいつだって一番で、愛する人なんだ。結婚しても、しなくても、いつだって君のそばに寄り添うよ」そう言いながら、充は手を伸ばして由理恵の手を握った。右手から急いで外した指輪を、由理恵の白くほっそりした指にゆっくりとはめる。「自分がつけていたものだから、サイズも何もかも合っていなくてごめん。でも、何年も、ずっとこの指輪が君の身代わりだったんだ。この思いに免じて、結婚してくれないかな?色々落ち着いたら、君に一番似合う世界に一つだけの指輪を俺が作るし、二人だけの静かな、結婚式を必ず挙げるから。どうかな?」充は、「二人だけの」という部分を特に強く強調した。その一言が、潤の怒りの火に油を注いだ。「由理恵!」潤は叫ぶように言った。「今まで俺と一緒にいた中で、何か一つでも不自由させたか?全部、最高のものを用意してきただろ?結婚式だってそうだ、どれも一番いいものを選んで、金に糸目はつけなかった!」由理恵は潤を冷ややかな目で見つめる。「いつも私にくれていたプレゼン
充は一瞬ぽかんとしたが、意味を理解すると顔を赤くして、由理恵を見上げた。由理恵の口からそんな提案が出るなんて、充は夢にも思わなかったのだろう。「そんなに見ないでよ」見つめられると、由理恵は恥ずかしかった。「どうしてそんなに急ぐのかって、驚いた?でも、あなたとの結婚は、ちゃんと考えて出した結論なの。前の恋愛で失敗したからこそ、何が自分に合うかは分かるんだ。あなたは式の準備も手伝ってくれたし、潤の攻撃からも守ってくれた。私の両親もあなたのことを信頼している。それに旅行って、二人の相性を試すのに最高でしょ?こうして一緒にいて揉めることもないし、ずっと楽しく過ごせてる。もう、十分すぎると思わない?」由理恵の一語一句には、充への偽りない信頼と結婚への覚悟が詰まっていた。充は思慮深く、由理恵を全力で支えようとしていたが、決して愚かではない。由理恵が望むなら、型にはまる必要なんてないはずだ。同棲して愛を育む、それだって悪くないだろう?「分かった」充は即座にうなずいた。ただし、彼には譲れない条件があった。「ただ俺も男だからさ。告白もプロポーズも、俺から言いたいんだ。歳をとってから、『あんな雑なプロポーズじゃ嫌だった』なんて言われちゃ敵わないからね」当たり前のように、未来のことを想像してくれているのが、由理恵の心をきゅっと締め付ける。由理恵は、顔が熱くなるのを感じた。充のあの誠実そうな面構えに、自分はまんまと騙されていたのかもしれない。こちらがまだほんの少し気持ちを見せただけなのに、どうしてあっという間に主導権を握って、まるで獲物を狙うみたいになっているのだろうか。不覚にも、その強引さが少し嬉しくもあった。由理恵はくすっと笑って、コーヒーを一口すする。しかし、カップを置いたその時、リゾート地では絶対に聞くはずのなかった、忘れもしないあの声が耳に届いた。「やっと見つけたよ、由理恵」由理恵は眉間にしわを寄せ、振り返った。案の定、そこに立っていたのは潤だった。会わないうちに、随分とくたびれている。「なんでここにいるの?」由理恵の表情がさっと冷めた。潤は縋るように両手を広げた。「お前がいなくて、初めて大切さに気づいたんだ。ありとあらゆる手を使ってお前の行方を探したよ。お前がこの国にいると聞いて、すぐに駆けつけたん
由理恵は、潤のことを待つ気などさらさらなかった。数日間の奮闘を経てようやく一件落着し、潤の惨めな姿を目の当たりにして、由理恵の気分は最高だった。だから、充からの海外旅行の誘いも、迷わず快諾する。帰国してからこの10日間、いろいろありすぎて精神的に疲れていたし、国外に出て気分転換しつつ潤を避けるのは丁度よかった。「お父さん、お母さん、行ってくるね。中村グループなんて気にしないでいいから。体調には気をつけて」両親にそう言った後、由理恵は中村家が来る前に簡単な荷物をまとめ、充と一緒に飛行機で海外へと旅立った。十数時間のフライトを経て、飛行機はA国の空港に着陸した。北条家の令嬢である由理恵は、これまで数え切れないほど海外で休暇を過ごしてきたので、飛行機を降りる時も特段の感慨はない。それに、国外での休暇といっても、市内のショッピングモールに出かけるのと大差なく、ただ環境が変わる程度にしか思っていなかった。しかし、空港の外で待つ高級車が自分好みの仕様であったり、宿泊先のリゾートホテルや旅行コンシェルジュまで、すべてが自分の理想通りだと気づき、由理恵は、充がいかに緻密に準備を整えてきたのかを感じた。女性であれば、これほどまでに気が利く心遣いに愛を感じないはずがない。由理恵も例外ではなかった。胸に広がっていた感動は、さらに深くなり、はっきりとしたときめきへと変わっていった。ぱっと目を輝かせると、彼女は自分からそっと手を伸ばし、隣にいる充の手をきゅっと握る。「ありがとう。こんなにいろいろ計画してくれて」充の体が一瞬震えたが、突き放すことはなく、恐る恐る由理恵の肩に腕を回した。由理恵も充を拒むことはなく、そのまま彼に身を預けた。充の鼓動は激しく跳ね上がり、さらに強く由理恵を抱きしめた。由理恵は充の腕の中に収まり、顔にかかる黒髪の隙間から、幸福に満ちた甘い笑顔を向けた。元々、充にとって由理恵は特別な存在だった。だから、その笑顔に心奪われ、リゾートホテルに着いた後も高揚感は冷めなかった。夜通し寝付けず、翌朝目が覚めると充の目にはクマができていた。しかし、目の前のリゾートドレスに身を包んだ、由理恵は元気はつらつだった。由理恵はそんな充の様子に気づいて、声をかける。「もしかして昨夜は慣れない場所であまり眠れなかった?朝ごは
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