ログイン私・神崎明日香(かんざき あすか)と瀬名修也(せな しゅうや)が婚姻届を出すのには、いつも必ず「最後の一歩」が足りなかった。 この3年間で役所へ向かった回数は、実に30回。そのたびに、不可解な事故が起きた。 1回目は、道端で突然暴れ出したホームレスに4回も刃物で刺され、役所の入り口で死にかけた。 2回目は、スピード違反のバイクに轢かれ、手の骨を粉々に砕かれた。 3回目は、ショッピングモールの火災に巻き込まれ、炎の中心に丸3時間も閉じ込められた。 …… 周りの誰もが、修也との婚約を解消するようにと私を諭した。 それでも、私だけは決して諦めようとしなかった。 31回目の婚姻届を出そうとしたあの日、頭上から落下してきた看板の下敷きになり、ICUへと運ばれるまでは。 頭蓋骨骨折に重度の脳震盪。十数回も危篤になった。 2ヶ月間も生死の境を彷徨い、ようやく一命を取り留めた。 だが退院の日、私は修也と彼の友人が交わしている会話を偶然耳にしてしまう。 「あの苦学生のことが本気で好きで、婚約破棄したいなら、直接明日香に言えばいいだろ。なにもあんな事故を仕組む必要ないじゃないか。 あいつ、もう少しで死ぬところだったんだぞ」 修也は長い沈黙の末、重苦しい声で答えた。 「俺には選べないんだ。10年前、神崎家は俺の命を救ってくれた。そのせいで彼女の両親は亡くなった。彼女との婚約は、恩返しのためなんだよ。 でも、俺が愛しているのは小鳥遊玲奈(たかなし れな)だ。あいつ以外、誰とも結婚したくない」 自分の全身に刻まれた無数の傷跡を見つめながら、私は泣き崩れた。 私が受けてきたこれまでの苦難は、不運な事故などではなく、すべて彼が意図的に仕組んだものだったのだ。 彼が決断を下せないというのなら、私が代わりに選んでやる。
もっと見る数ヶ月ぶりに会った彼の姿は、私と同じくらい酷いものだった。私を見た彼の目には、以前にはなかった恐れと気遣いが混じっていた。「明日香……」「私たちの婚約はもう白紙になった。幼馴染みという情を除けば、もう何の関係もない。どうしてここへ来たの?」私が言い終わるか終わらないかのうちに、修也は私をきつく抱きしめた。私の体を自らの骨肉に溶け込ませようとするかのような、凄まじい力だった。押し殺した泣き声とともに、彼の涙が私の肩を濡らしていった。やがて彼はむせび泣きから声を上げて号泣し始め、途切れ途切れの言葉を紡いだ。「婚約は白紙になんかしない。俺たち、一生一緒にいるって約束したじゃないか!」私はゆっくりと瞬きをし、突然手のひらを返したような彼の態度に、一瞬どう反応すべきか分からなかった。彼が口にした約束は、10年前のことだった。両親がまだ生きていて、私と彼が一番親しかった頃。私と腕を組み、笑いながら「将来は絶対に明日香のお婿さんになる」と言ってくれたあの頃。けれど、10年という歳月はあまりにも長すぎた。多くのものを変えてしまうには十分すぎる時間だった。私は力を振り絞って、彼を突き放した。絶え間ない抗がん剤治療のせいで、私の力は日に日に弱まっていた。医者からは、実質的な死刑宣告を受けていた。私は今年の冬を越せそうになかった。ボトル半分の睡眠薬は、私を確実に死の淵へと追いやるのに十分だったのだ。「修也、私の命はもう長くない。これ以上、私を苦しめる必要なんてない。玲奈と一緒にいればいい。あなたは彼女を愛していて、私への気持ちはただの責任だったでしょ。あなたが選べないなら、私が代わりに選んだだけ。百合子さんにも話してある。彼女もあなたたちのことを認めてくれるはず。あなたはもう、自由よ」どの言葉が修也の逆鱗に触れたのかは分からなかった。彼は声にならない叫びを上げ、私のベッドの傍に崩れ落ちるように跪き、泣きじゃくりながら謝罪の言葉を繰り返した。「ごめん、本当にごめん。お前のせいじゃないって、もう全部知ってるんだ。玲奈とも二度と連絡を取らない。昔みたいに戻ろう、な?31回も台無しにしたなら、俺がお前に31回分の結婚式を挙げてやるから……だから、俺を置いていかないでくれ……」修也は赤く腫れ
だが、百合子は何も答えなかった。その沈黙こそが彼女の返答。修也は全身から完全に力が抜け、足をもつれさせて床に崩れ落ちた。彼は、ふと思い出した。――明日香が自分に金を借りに来た時、俺は一体何をした?玲奈が明日香を侮辱するのを傍観し、ただ腹いせのためだけに、何億円もかけて玲奈に豪華なクルーザーを買い与えたのだ。あの時、明日香はどんな思いだったのか?修也は喉の奥で嗚咽を漏らし、目からボロボロと涙を溢れさせた。「母さん、俺が悪かった。明日香がどこにいるか教えてくれ。一番権威のある医者を探すから、あいつは絶対に死なせない」後悔に打ちひしがれる息子の姿を見て、百合子は静かに首を横に振った。「教えるつもりはないわ。修也、人間は自分が犯した過ちを償わなければならないのよ。この3年間、あの子と婚姻届を出さないためにあなたが起こした数々の事故、あの子が気づいていないとでも思っていたの?あの子はただ自分に嘘をついて、あなたが自分を愛しているのだと思い込もうとしていただけよ。そんな子が、他人を自殺に追い込むような真似をするはずがないでしょう?」結局、修也は百合子に家から追い出された。彼は抜け殻のようにフラフラと道を歩いていた。スマホには、玲奈から絶え間なく着信が入っていた。修也は、自分が取り返しのつかない過ちを犯したことを自覚していた。母の言葉の意味が痛いほどよく分かった。彼はただ、すべての責任を明日香に押し付けていただけだったのだ。婚約と恩返しという名目に縛られていると思い込み、自分を被害者だと信じて疑わなかった。だがそれは、明日香に対しても同じように残酷なことだったのだ……修也は再び病院へと戻った。彼を見た瞬間、玲奈の目はパッと明るく輝いた。彼女は得意げに口角を上げた。「修也さん、私を見捨てたりしないって信じてました」玲奈は彼の手を握ろうと手を伸ばしたが、修也はそれを冷たく躱した。修也は氷のように冷たい視線で彼女を見下ろした。「お前が自殺を図ったのは、明日香に追い詰められたからか?」まさか再び同じ質問をされるとは思わず、玲奈は一瞬言葉に詰まったが、すぐに悪びれる様子もなく言い放った。「そうです。修也さん、あんな女と結婚しちゃダメです……彼女はただの金目当ての寄生虫ですよ。結婚
「私のこと、信じてくれないんですか?」修也は煩わしげにうつむいた。明日香の名前を聞くたび、自分の手から何かが滑り落ちていくような焦燥感に駆られていた。「しっかり治せ。もう二度と馬鹿な真似はするな。俺と明日香の結婚は避けられないんだ。この3年間、お前のために俺はあいつを何度も傷つけてきた。お前がやりたいと言っていたことも、あの1ヶ月ですべて叶えたはずだ。これからは、もう連絡しないでおこう」修也はそれだけを言い捨てると、逃げるように病室を後にした。玲奈は呆然とその場に立ち尽くし、伸ばした手は小刻みに震えていた。……修也は人を増員して明日香の行方を追わせたが、それでも彼女を見つけ出すことはできなかった。そしてついに、彼は自分の母親のもとへと足を運んだ。「母さん、明日香がどこにいるか知らないか?突然いなくなって、どこを探しても見つからないんだ」百合子は彼を冷ややかに一瞥し、淡々と言い放った。「探す必要はないわ。あなたと明日香の婚約はすでに白紙に戻したから。あの子が今どこにいようと、もうあなたには関係のないことよ」その言葉は、修也の胸に重くのしかかった。彼は眩暈を覚えながらも、声を荒げて問い詰めた。「婚約を白紙に?どうしてだよ!この婚約は明日香のお母さんが死ぬ間際に決めたことじゃないか。俺たちは恩返しをするって約束したはずだろ!」百合子は皮肉めいた笑みを浮かべた。「恩返しという言葉を知っていたのね。それなのに、あなたは何をしたっていうの?」修也の喉の奥で言葉が詰まった。彼はギリッと歯を食いしばり、それでも確信に満ちた声で言った。「明日香が婚約破棄に同意するわけがない」そんな修也の姿を見て、百合子は深くため息をついた。「あの子から自主的に婚約を破棄すると言ってきたのよ」リビングの空気は重く沈み込み、彼自身のドクンドクンという心音だけが静寂の中に響いていた。修也の唇は微かに震え、一切の言葉を発することができなかった。明日香が自分から婚約解消を口にするなど、彼は微塵も想像していなかった。もし以前の彼であれば、間違いなく喜んでいただろう。この3年間、彼は31回もの「事故」を仕組んだ。明日香を怪我させ、周りの友人たちにも結婚を反対させるように仕向けた。すべては明日香に現実を悟
「患者さんの命に別状はありません。睡眠薬の服用量も少なかったので、間もなく目を覚ますでしょう」医師のその言葉を聞いて、修也はゆっくりと安堵の息を吐き出した。まだ頭の奥がガンガンと鳴り響いていた。すべてが唐突すぎた。ベッドの上でピクリとも動かない玲奈の姿を見た瞬間、彼は確かに恐怖に支配されていたのだ。しばらくして落ち着きを取り戻し始めた頃――不意に、修也の呼吸がピタリと止まった。自分たちの手で無理やり睡眠薬を飲ませた明日香の存在を、唐突に思い出したのだ。激しい後悔が波のように押し寄せてきた。あの場を離れる時、彼の意識は玲奈を救うことだけで一杯になり、明日香のことなど完全に頭から抜け落ちていた。修也は慌てて振り返り、傍らに控えているボディーガードたちに目を向けた。「明日香はどうした?お前ら、あいつを病院に運んだんだろうな。早く医者に胃洗浄させろ。そうすれば、あの件はなかったことにする」ボディーガードたちは顔を見合わせ、気まずそうに口ごもりながら答えた。「社長……あの時、社長は彼女を病院へ連れて行けとは仰いませんでした。ですから我々はご指示通りに動いただけです。神崎さんは、おそらく今もあの部屋に……」その報告を聞いた瞬間、修也の顔からサッと血の気が引いた。玲奈の処置が終わってから、すでに2時間が経過していた。彼が明日香に無理やり飲ませた睡眠薬の量は、大人の人間を2時間で死に至らしめるのに十分な致死量だった。そう気づいた途端、彼は足をもつれさせながら、周りの人々を乱暴に突き飛ばして走り出した。自らハンドルを握り、玲奈の家へと車を走らせた。道中、修也の心臓は破裂しそうなほど激しく鼓動していた。あまりにも静かすぎる。スマホには何の通知もなく、明日香に何度電話をかけても、コール音が虚しく響くだけだった。玲奈の家のドアは、彼らが出て行った時のまま半開きになっていた。リビングも相変わらず、足の踏み場もないほど散らかったままだった。だが、床の上に転がっている睡眠薬の空ボトルの他に、明日香の姿はどこにもなかった。修也は荒い息を吐きながら、必死に彼女の名前を叫び続けた。「明日香?」何の返事もなかった。ボトルの半分もの睡眠薬を飲み込まされた人間が、一体どこへ行けるというのか?修也はその場に呆然
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