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三度目の番を逃した日、花嫁は選び直した

三度目の番を逃した日、花嫁は選び直した

Por:  ご飯ちょうだいCompleto
Idioma: Japanese
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今日は、私たちが入籍するはずの日だった。 私、嘉村依織(かむら いおり)は、朝いちばんに役所へ行き、受付で1番の番号札を取って待っていた。誰よりも早く、婚姻届を提出したかったからだ。 それなのに松沢翔大(まつざわ しょうた)は、平気で1時間も遅刻してきた。 怒りをぶちまけそうになったそのとき、車の助手席から身を乗り出した親友の高萩咲子(たかはぎ さきこ)が、私が何か言うより先に声をかけてきた。 「ごめんね、依織。翔大ったら、わざわざ遠回りして私を迎えに来てくれたの。それで遅れちゃって。 でもね、ふたりの入籍、絶対に見届けたくて!」 奥歯を噛みしめ、どうにか怒りを飲み込んで、私は番号札を取り直すしかなかった。 ようやく順番が巡ってきた。 翔大の腕を引いて立ち上がった瞬間、隣の咲子が声を上げた。 「待って!お腹痛いから、お手洗い行ってきてもいい?番号札、もっと後の番号で取り直しておいて!」 私は足を止めず、そのまま進もうとした。 けれど翔大はあっさり椅子に座り直し、彼女に笑いかけた。 「行っておいで。ちゃんと待ってるから」 私は表情を硬くし、振り返りざまに念を押した。 「翔大。のんびり待ってる時間なんてないわ。今日は日曜開庁日で、婚姻届の窓口受付は11時半までなのよ。あと1時間しかないの。12時からはウェディングドレスの試着の予約も入れてるのに」 翔大は顔も上げず、面倒くさそうにスマホを操作していた。 「そんなに焦るなよ。入籍なんて、紙1枚出してすぐ終わる手続きだろ」 翔大のスマホの画面には、咲子に贈るつもりらしい限定ネックレスが表示されていた。それは、私も何度か彼に欲しいと伝えていたものだった。そのたびに「もう手に入らない」とはぐらかされてきたのだ。 ふいに、すべてが馬鹿馬鹿しくなった。 もう彼を急かす気もすっかり失せた私は、スマホを取り出し、宿敵に電話をかけた。 「私のこと、死ぬほど好きだって言ってたわよね?役所の窓口、11時半で閉まるのよ。 今すぐここに来るなら、私と結婚してあげてもいいわよ」

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Capítulo 1

第1話

一瞬の沈黙のあと、喉の奥から漏れるような低い笑い声が返ってきた。

「絶対に間に合う!」

電話を切り、私は翔大の隣に座り直した。

彼はスマホをいじりながら、新しく取った番号札を私に差し出した。

「ほら、取り直したぞ。まだ前に5組もいる。咲子から『もうすぐ戻る』ってメッセージも来たし。

大丈夫、どうあっても間に合うから」

私が何か言いかけたそのとき、咲子がお手洗いから小走りに戻ってきて、勢いよく翔大の隣に腰を下ろした。

彼にもたれかかりながら、首を伸ばして私の手元の番号札を覗き込んだ。

「まだ順番来ない?あと何組?」

私は思わず翔大を見た。

彼は距離を取るどころか、咲子の腰に手を回し、倒れないように支えていた。

「まだそんなに待つんだー。

ねえ翔大、ゲームしようよ。ただ待つだけって退屈すぎる」

私は口を挟んだ。

「翔大、やめて。入籍なんてすぐ終わるって、自分で言ったでしょ?

もう3組しかいないんだから、すぐ私たちの番になるわ」

けれど咲子はもう自分のスマホを取り出し、ゲームを起動していた。にこにこしながらスマホの画面をこちらに向けて見せた。

「依織、ゲームしない人にはわからないんだよ。1試合なんてあっという間だから、入籍の邪魔にはならないってば」

そのまま翔大を急かす。

「ほら翔大、早くログインして」

翔大はうなずくと、私には投げやりに言った。

「そんな大げさに考えるなよ、ただ紙出すだけだろ。番号呼ばれたらちゃんと教えてくれればいいから」

言い終える頃にはもう、咲子と頭を寄せ合っていて、ゲームの効果音が立て続けに鳴り始めていた。

ぴったりとくっついたふたりの頭を見つめながら、胸が締めつけられるように痛んだ。

それ以上何も言わず、私は手にした番号札を、くしゃくしゃになるほど強く握りしめていた。

20分と経たないうちに、待合ロビーに呼び出しの電子音が響いた。

「9番の番号札をお持ちの方、窓口へお越しください」

私は手を伸ばし、翔大を揺すった。

「私たちの番よ、行こう」

翔大の目はまだ画面に釘付けだったが、体はすでに立ち上がっていた。

「おう、ちょうどこの試合も終わるとこだし」

咲子がすかさず彼の腕にしがみつき、椅子に引き戻した。

「まだだよ!ちゃんと集中してってば!

座って真面目にやって。番号なんて何回か呼ばれるんだから、少しなら平気だって。負けたくないんだもん!」

翔大はまた腰を下ろしかけた。

私はとうとう顔を険しくし、怒りを押し殺した声で言った。

「……入籍とゲーム、どっちが大事なの?」

私の声がいつもと違うことに気づいたのか、翔大は素早く顔を上げ、私をちらりと見た。

それでも結局座り直し、呆れたように笑った。

「そんなに怒ることないだろ。すぐ終わるって、すぐ。

それに、咲子はお前の親友じゃないか。わざわざ頼まれたんだから、途中で手は抜けないだろ」

二度目の呼び出し音が鳴った。

「9番の番号札をお持ちの方、窓口へお越しください」

我慢の限界に達した私は、翔大の手からスマホをひったくり、強い口調で言った。

「翔大、いい加減にして!一緒に来て、入籍するの!」

翔大はようやくのろのろと立ち上がり、眉をひそめて私を見た。

「たかが1ゲームだろ。何をそんなに怒ってるんだか。

はいはい、行こう」

最後の呼び出し音が鳴った。

けれど歩き出して数歩も進まないうちに、咲子がまた声を上げ、翔大の袖をつかんだまま、その場に崩れ落ちそうになった。

「足、足つっちゃった!

翔大、痛いよぉ!」

翔大はすぐさま振り返り、その場に片膝をつくと、慣れた手つきで咲子のパンプスを脱がせ、足首を揉みほぐし始めた。

私はその場に立ち尽くしたままふたりを見つめ、思わず笑ってしまった。

そうしているうちに、再び電子音が響いた。

「10番の番号札をお持ちの方、窓口へお越しください」

私たちの番号は、とうとう飛ばされてしまった。

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第1話
一瞬の沈黙のあと、喉の奥から漏れるような低い笑い声が返ってきた。「絶対に間に合う!」電話を切り、私は翔大の隣に座り直した。彼はスマホをいじりながら、新しく取った番号札を私に差し出した。「ほら、取り直したぞ。まだ前に5組もいる。咲子から『もうすぐ戻る』ってメッセージも来たし。大丈夫、どうあっても間に合うから」私が何か言いかけたそのとき、咲子がお手洗いから小走りに戻ってきて、勢いよく翔大の隣に腰を下ろした。彼にもたれかかりながら、首を伸ばして私の手元の番号札を覗き込んだ。「まだ順番来ない?あと何組?」私は思わず翔大を見た。彼は距離を取るどころか、咲子の腰に手を回し、倒れないように支えていた。「まだそんなに待つんだー。ねえ翔大、ゲームしようよ。ただ待つだけって退屈すぎる」私は口を挟んだ。「翔大、やめて。入籍なんてすぐ終わるって、自分で言ったでしょ?もう3組しかいないんだから、すぐ私たちの番になるわ」けれど咲子はもう自分のスマホを取り出し、ゲームを起動していた。にこにこしながらスマホの画面をこちらに向けて見せた。「依織、ゲームしない人にはわからないんだよ。1試合なんてあっという間だから、入籍の邪魔にはならないってば」そのまま翔大を急かす。「ほら翔大、早くログインして」翔大はうなずくと、私には投げやりに言った。「そんな大げさに考えるなよ、ただ紙出すだけだろ。番号呼ばれたらちゃんと教えてくれればいいから」言い終える頃にはもう、咲子と頭を寄せ合っていて、ゲームの効果音が立て続けに鳴り始めていた。ぴったりとくっついたふたりの頭を見つめながら、胸が締めつけられるように痛んだ。それ以上何も言わず、私は手にした番号札を、くしゃくしゃになるほど強く握りしめていた。20分と経たないうちに、待合ロビーに呼び出しの電子音が響いた。「9番の番号札をお持ちの方、窓口へお越しください」私は手を伸ばし、翔大を揺すった。「私たちの番よ、行こう」翔大の目はまだ画面に釘付けだったが、体はすでに立ち上がっていた。「おう、ちょうどこの試合も終わるとこだし」咲子がすかさず彼の腕にしがみつき、椅子に引き戻した。「まだだよ!ちゃんと集中してってば!座って真面目にやって。番号なんて何回か呼ば
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第2話
通りかかった職員たちがその様子を見て、翔大と咲子をからかうように声をかけた。「仲のいいご夫婦ですね。こんなところで足を揉んであげるなんて、見てるこっちが照れちゃいますよ」咲子は恥じらうように頬を染めた。翔大は気まずそうに笑っただけで、特に否定もせず、誤解を解こうともしなかった。私は何も言わず、椅子へと戻った。鼻の奥がツンとしたが、どうにか涙をこらえた。咲子は電光掲示板をこっそり確認し、私たちの順番が過ぎたのを確かめると、つっていたはずの足もすっかり治ったようだった。翔大の手を取って立ち上がり、振り向いて気まずそうに私へ笑いかけた。「依織、本当にごめんね。私のせいで順番過ぎちゃって」翔大は咲子を支えて椅子に座らせてから、ようやくこちらを向き、咎めるような目を私に向けた。「何をそんなに急かすんだよ!お前が急かすから咲子の足までつったんだろ。少しくらい待ってやれないのか?」咲子はいかにも申し訳なさそうに翔大の袖を引き、まるで私をかばうように言った。「翔大、そんな言い方しないで。依織も入籍のことで焦ってるだけだから。ただ……番号札はもう一度取り直さなきゃね」私は何も言い返さず、ふたりのほうも見なかった。立ち上がって番号札の発券機のところへ行き、新しい番号札を取った。機械のそばにいた職員が私のことを覚えていたのか、ため息まじりに声をかけてきた。「もう何度も順番を逃していますよね。今度こそ順番を逃さないようにしてくださいね。本日の日曜開庁での受付は、これが最後になります。間に合わなければ、平日にもう一度お越しください」私は振り返り、座席のあたりへ目をやった。翔大が咲子の耳元に顔を寄せ、何か話している。ふたりとも肩が揺れるほど笑っていた。「わかりました。ありがとうございます」翔大。これが、あなたに与える最後のチャンスだ。私は番号札を手に、また席へと戻った。バッグの中でスマホが鳴った。母からだった。私は電話に出た。「依織、翔大くんと婚姻届、もう出した?朝8時に家を出たんじゃなかったの?ご飯、もう2回も温め直したのよ。どうしてまだ帰ってこないの?」私は俯いたまま、母に何と言えばいいのか、一瞬わからなくなった。長い沈黙のあと、母も何かがおかしいと気づいたようだった
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第3話
翔大が母にそんな態度を取るのを見て、私の中の怒りも限界を超えた。スマホをひったくるようにして取り返し、電話を切った。そして、翔大に食ってかかった。「私の母親に向かって、なんて口の利き方なの!母はあなたより年上の、敬うべき人なのよ。ただ電話で入籍のことを気にかけてくれただけじゃない。それの何がいけないの?」翔大の顔色も険しくなった。「だからって、咲子をあんな風に言うことないだろ!」「お母さんの言ってることのどこが間違ってるの?そもそもあなたが咲子を連れてこなければ、とっくにふたりとも手続きを終わらせてたのよ!」怒りのあまり、それ以上言葉を重ねる気にもなれず、私は単刀直入に告げた。「この婚姻届、今日の午前中に絶対出す。これ以上遅れるなら、別れましょう」翔大は私の剣幕に一瞬呆気に取られた。やがて怒りのあまり、かえって笑い出した。「は?別れるって、それで俺を脅すつもりか?ただの入籍だろ。今日ダメなら今度にすればいいだけの話だろ。それをいちいち、そんなにヒステリックに、みっともなく騒ぎ立てる必要があるのかよ」よりによってそのタイミングで、咲子がまた、仲裁するふりをして火に油を注いだ。翔大の腕を引きながら言った。「翔大、そんな言い方しないで。依織だって、ただ頭に血が上って言ってるだけだから。もう役所まで来てるのに、別れるなんてありえないよ。ふたりとも喧嘩しないで。私が悪いの。おばさまを怒らせちゃって……ひとまず座って、落ち着こう」翔大は鼻で笑って、椅子に座り直した。私もそれ以上何か言う気になれず、ただ番号札をきつく握りしめた。指の関節が白くなるほどに。ロビーは人の出入りが絶えず、周りのカップルたちはみな楽しそうに言葉を交わしていた。その中で、私たちのいる一角だけが、異様なほど静まり返っていた。ようやく少し静かになったと思ったら、咲子がまた余計なことを言い出した。肘で翔大を小突いた。「翔大、もうお昼だよ。ちょっとお腹すいちゃった。この近くにランチが美味しいお店があるんだけど、先に何か食べに行かない?」翔大は少し迷ってから、ぎこちない手つきで私の手を取ろうとした。「一緒に行くか?」私は大きく身を引いて、その手を避けた。「お腹空いてないから。それに今日は、手続きが終
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第4話
遠ざかっていくふたりの背中を見つめながら、私はこわばっていた指先を、ゆっくりとほどいた。ひとり、静かに役所の中で待ち続けた。順番まであと5組というところで、翔大にメッセージを送った。【あと5組で私たちの番。そろそろ戻ってきて】翔大の返信は早かった。【咲子とまだ並んでるとこ。まだ飯も食えてない。5組ならまだ余裕あるだろ、そんなに焦らなくていい】私はスマホの画面を消した。心が少しずつ冷え切り、彼への期待が死んでいくのを感じた。電光掲示板の番号がさらに2つ進むのを見つめた。もう一度メッセージを送った。【あと3組で私たちの番。これ以上遅れたら間に合わない】今度はなかなか返事が来なかった。さらに1組呼ばれたあとになって、ようやくのんびりとした返事が来た。【そんな焦るなって。やっと料理来たとこなんだ。もうちょっと待ってろ】私たちの前があと1組になったとき、背後で慌ただしい足音が響いた。胸がどきりとして、私は立ち上がり、振り返った。賀来淳一(かく じゅんいち)だった。目が合った瞬間、彼は息を切らしながら、私に笑いかけた。「依織、今度こそ……ようやく間に合った!」ほとんど同時に、私の番号を呼び出す電子音が鳴った。「21番の番号札をお持ちの方、窓口へお越しください」私の顔には自然と笑みがこぼれた。淳一の腕を取って、窓口の椅子に腰を下ろした。淳一が持参した、証人欄まで記入済みの婚姻届を広げ、ふたりで必要事項を確認し、それぞれの欄に署名していく。ふと横目で見た淳一の手は、興奮のせいかかすかに震えていた。署名を終えると、職員が事務的に尋ねてきた。「おふたりとも、内容にお間違いありませんね。それでは、正式に受理させていただきます」私はうなずいた。その瞬間、隣の淳一が突然声を上げた。「待ってください!」そして私のほうを向いて言った。「依織、本当にこれでいいのか?俺と結婚したら、一生君につきまとうことになるぞ。たとえ松沢が……」言葉が途中で止まったのと同時に、翔大から電話がかかってきた。出てみると、向こうは少し騒がしかった。「依織。やっぱり入籍は、また今度にしよう。もうそろそろ11時半だろ。俺たち、さっきお店を出たところなんだ。今から行っても間に合わない。
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第5話
翔大はかっとなり、電話の向こうへ怒鳴り返した。「デタラメ言ってんじゃねえよ!」だが、そう言った途端、さっきの電話で告げられた「別れましょう」のひと言が頭をよぎり、心臓が抑えようもなく激しく脈打ち始めた。慌ててスマホを取り出し、私のSNSを開いた。私のSNSのプロフィールを開いたが、投稿は何ひとつ見られなかった。一気に声から力が抜けて、電話の向こうへ呟いた。「依織……どうやら俺に怒って、ブロックしたみたいだ。お前、どこでその投稿見たんだ?俺にも送ってくれ!」相手はすぐに動いた。立て続けにスクリーンショットが送られてきた。翔大は画面を拡大した。画面に映っていたのは、依織が投稿した婚姻届の写真だった。そこには今日の日付と、依織の名前に並んで、自分ではない男の名前がはっきりと記されていた。本当だった。――キーンと、耳の奥で激しい耳鳴りがした。電話の向こうでは友人がまだ「翔大、大丈夫か」「これ一体どういうことだよ」と声をかけ続けていたが、翔大の耳にはもう何も入らなかった。その場で固まったまま、スマホが手から滑り落ち、助手席で寝たふりを続けていた咲子の額にぶつかった。翔大は呆然としたまま、身動きひとつできなかった。スマホが当たった咲子は「痛っ」と声を上げ、額を押さえながら顔を上げ、甘えるように翔大へもたれかかった。「……どうしたの?依織、まだ怒ってるの?」けれど翔大には、今はもう彼女に構う余裕など少しもなかった。慌てて落としたスマホを拾い上げ、指先を震わせながら私とのトーク画面を開き、急いで打ち込んだ。【依織、あのSNSの投稿、どういうことだ?】送信ボタンを押したが、いつまで待っても既読はつかなかった。ブロックされているに違いない。翔大は頭の中が真っ白になり、顔色を変えて慌てて私の番号に電話をかけた。「おかけになった電話は、電源が入っていないため、かかりません」機械的な音声が、車内に何度も響いた。翔大はその場に凍りついたまま、指先から心臓まで、全身が冷え切っていくようだった。咲子はまだ隣で額をさすりながら、甘えた声で続けた。「翔大、さっきスマホ当たって痛かったんだから、家まで送ってくれないの?頭がくらくらしてきちゃった。もう寝たいな」「降りろ」翔大の声
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第6話
翔大はすっかり言葉を失い、顔から血の気が失せていた。私の母はエレベーターのほうを指さし、容赦なく追い払った。「今さら理由を聞きに来たの?もう遅いわ!とっととお帰り!これからは依織のことに、あなたは口を出さなくていいの。その資格もないんだから!」言い終えると「バタン」と音を立てて、目の前でドアが閉ざされた。それでも諦めきれず、翔大は車を走らせ、予約していたウェディングドレスのサロンへと向かった。けれど息を切らしながら受付に尋ねると、スタッフは気まずそうな表情を浮かべた。「お客様、1時間ほど前に、嘉村依織様ご本人からお電話がありまして、本日の試着予約はキャンセルとなっております。それから……翔大様との結婚式も、もうできなくなったとおっしゃっていました」翔大はよろめき、とっさに受付カウンターに手をついて体を支えた。それでも信じられず、ウェディングプランナーや式場、司会者にも、片っ端から電話をかけた。どこへかけても、返ってくる答えは同じだった。すでに嘉村依織様から結婚式を中止するとの連絡を受けている、と。その日1日、翔大の世界は、死んだような静けさに包まれていた。電話はつながらず、メッセージも送れず、依織のSNSの投稿も見られない。そして翌朝。翔大は早くから私の勤務先のビルの入口で待ち伏せしていた。私が車を降りるのを見るなり、駆け寄ってきて、私の手首を強く掴んだ。「依織!行かないでくれ、話をしよう!」振り返り、その明らかに憔悴しきった様子を見ても、取り立てて驚きはしなかった。私はうなずいて、彼の手を振りほどき、近くのカフェに入り、隅の席に座った。席に着くと、目を上げて彼を見た。「それで、話すことって何?」翔大は切羽詰まった様子で身を乗り出し、また私の指先に触れようとしたが、私はさりげなく避けた。彼は取り乱したように言葉を並べた。「依織、ごめん。俺が悪かった。お前を置いて咲子と飯を食いに行ったり、入籍を後回しにしたりするべきじゃなかった。別れたくない。あの男とは、今すぐ離婚してくれ!すぐにまた一緒に婚姻届を出そう。今度こそ絶対に失敗しない。約束する!依織、もう一度だけチャンスをくれ、一度だけでいいから!」翔大はなおも必死に言い募っていた。私はただ静かに彼を見つめ
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第7話
「あなたが咲子にしてきたこと、ただの友達への気遣いで片づけられると思ってるの?あのネックレスだってそう。私がどれだけ欲しがってたか、覚えてる?好きだって何度も言って、リンクまで送ったよね。それなのに、あなたは『もう手に入らない』って。『また今度でいいだろ』って言ったじゃない!」私の声は大きくなかった。けれどひと言ひと言が、彼の胸に深く突き刺さるようだった。たちまち真っ青になった顔を見つめながら、続けた。「それで結局どうしたの?咲子にはすぐに買ってあげたじゃない。翔大、私を馬鹿だと思って、ずっと騙してたの?婚約者である私の目の前で、彼女の足首を揉んであげて、一緒にゲームをして、お手洗いに行くのを待つために、私たちの順番を何度も逃して……それが、あなたの言う『世話』なの?あなたたちふたりは、片方が分かっていながら知らないふりをして、もう片方が厚かましくすり寄っているだけなのよ!」翔大は口を開きかけたが、言い訳の言葉ひとつ出てこなかった。ただ荒い息だけが漏れていた。私は視線を外し、もう彼を見なかった。「翔大。冷静になって、改めてあなたのことを考えてみたら……本当に気持ち悪い」言い終えると、私はバッグを手に取り、そのまま背を向けて店の出口へ向かった。ドアノブに手を伸ばした瞬間、ドアが外から押し開かれた。目の前に現れたのは、咲子だった。おそらく誰かから、私と翔大がもう復縁することはないと聞いたのだろう。取り繕う気すら失せているようだった。隠す気もない得意げな表情を浮かべ、私を見るなり、片方の眉を上げてみせた。「あら、依織と翔大、とうとう終わったんだ?」私はその顔を見つめ、笑みを消した。「咲子。あなた、本当に恩知らずね」咲子はどうでもよさそうに鼻を鳴らした。腕を組み、勝ち誇ったように言った。「恩知らず?ふふっ、悲劇のヒロインぶるのもいい加減にしてくれない?依織、あなたが私にしてくれたことなんて、飼い主が野良犬に骨を投げてやるようなものだったじゃない。ただ私を見下して、いい人ぶりたかっただけでしょ。男なんて、奪ったもん勝ちでしょー。自分に男をつなぎとめておく魅力がなかったくせに、私のせいにしないでよ」彼女は1歩踏み出し、顔をほとんど私に近づけた。声を落とし、悪意を込めて言っ
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第8話
「お前が何度も被害者ぶって、何も悪くないふりさえしなければ、俺と依織が……こんなことになるはずはなかったんだ!」咲子は彼の目に浮かぶ憎しみに怯んだ。それでも諦めきれず、無理やり笑みを作って彼の手を取ろうとしながら、泣き声交じりに言った。「翔大、そんな言い方しないで……このところ、ずっと私に優しくしてくれてたじゃない。翔大の気持ち、ちゃんとわかってるよ。今はただつらくて、依織のことが忘れられないだけなんでしょ。でも私と付き合ってくれたら、ちゃんと愛するから。ふたりで幸せに暮らそうよ。だめ?」翔大は再び彼女の手を振り払った。「どけ!誰がお前なんかと一緒になるかよ!依織の友達じゃなかったら、お前なんか知りもしなかったんだよ!」咲子はその罵声に、完全に固まった。憎悪に満ちた翔大の顔を見つめ、ようやく理解した。翔大は、彼女との縁を完全に切り、すべての責任を咲子自身に押し付けるつもりなのだと。信じられないという思いは、やがて激しい屈辱と恐怖に変わっていった。彼女は甲高い声を上げた。「松沢翔大!どういうつもりよ!今さら私を捨てるつもりなの?あんた、今になって自分だけまともだったみたいに振る舞わないでよ!私が脅して、無理やりあんたに言い寄らせたとでも言うの?私が無理やり足を揉ませたとでも言うの?あんたが勝手にやったことでしょ。私がちょっと気を持たせただけで、餌に食いつく野良犬みたいに自分から寄ってきたのはあんたでしょ!」咲子は起き上がると、翔大を掴もうとして再び飛びかかった。翔大に強く押し返されてよろめいたが、それでますますヒステリックになった。「今さら依織に捨てられたから、私のせいにするの?あんた、マジで臆病者ね!善悪の区別もつかないくせに、今さら全部私のせいにするつもり?自分を何様だと思ってるの?入籍ひとつまともにできなかったくせに、依織に捨てられて当然よ!あんたの実家に多少金があるから付き合ってやってただけよ!そうじゃなきゃ、こっちからお断りだわ!」翔大はもう聞いていられず、勢いよく背を向けて去ろうとした。けれど咲子は、半ば這いつくばるように飛びつき、彼のズボンの裾を強く掴んだ。涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。憎しみに満ちた表情が、一転して哀願するようなものへと、驚くほどの速さ
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第9話
「御曹司のくせに大した実力もなく、プライドだけは人一倍高い。誠実な婚約者を気取りながら、よその女にうつつを抜かす。お前のちっぽけな人生で唯一誇れるものがあったとすれば、依織という素晴らしい婚約者がいたことくらいだ。それなのに、お前はその価値もわからず、裏切った」淳一は地面に崩れ落ちたままの翔大を見下ろした。「失せろ。これ以上つきまとうなら、俺が直接松沢家まで出向いて、お前の両親に話をつけるぞ。そうなって恥をかくのは、俺じゃない。お前のほうだぞ」翔大は奥歯を強く噛みしめた。車が土埃を巻き上げながら走り去るのを、ただ見つめることしかできず、結局追いかける勇気もなかった。車内で、淳一は片手でハンドルを握っていた。信号待ちの間に、空いた手を自然に伸ばして私の手にそっと重ね、軽く握りしめた。「警護の者をつけて、あいつが近づけないようにしようか?今夜、松沢家にもう一度電話して、きちんと話をつけておくよ」私は首を横に振った。「大丈夫。あの人はプライドが高いから。これ以上は、きっと来ないはずよ」その日以降、翔大は二度と私の会社の前に現れなかった。実家に戻り、仕事に専念し始めたと聞いた。けれど残念ながら、淳一の言った通り、彼には野心ばかりあって、それに見合うだけの経営手腕がなかった。はじめは実家の力を借りて自分の実力を証明しようと、独断でいくつもの案件を引き受け、私に結果を見せつけようと意気込んでいたらしい。だが現実は容赦なく彼を打ちのめした。判断は近視眼的で、管理体制はずさん、人脈も乏しかった。案件は次々と大赤字に終わった。実家の資金も、彼の度重なる失敗には耐えられなかった。やがて会社の中での彼の発言力は日に日に弱まり、かつての意気揚々とした面影はすっかり消え失せ、その表情には暗い影が差すようになった。月日は流れ、やがて私と淳一の結婚式の日が近づいてきた。式の前日、ホテルでリハーサルを終えた私たちは、続いて披露宴会場で当日の進行や席次、料理の内容を最終確認した。ロビーに足を踏み入れた瞬間、厳しい叱責の声が耳に飛び込んできた。「ちょっと、何をしてるの!お客様に赤ワインをこぼすなんて……!まずはきちんとお詫びしなさい。こんなミス、一流ホテルのスタッフとしてあってはならないことでしょう」
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第10話
咲子は私が何も言わないのを見て、自分の話を私が受け入れたとでも思ったのだろう。両手をこすり合わせながら、落ち着かない目つきで、ついに本音を漏らした。「依織も賀来社長も、今や雲の上の人じゃない?このホテル……いや、賀来社長の会社のどこかに、何か楽で、たいして働かなくてもいい仕事くらい紹介してよ!もう、人に頭を下げてばかりの仕事なんてやってられないの……」媚びるような、それでいてどこか卑屈な笑み。私たちの間にあった醜い出来事など、何もなかったかのように。まるで今でも、親友の顔をして当然のように私を利用できると思っているらしい。私はひと言も返さなかった。ただ、まだ怒りの収まらないロビー責任者のほうへまっすぐに向き直って告げた。「彼女を解雇してください。今後、このホテルでは二度と雇わないように」言い終えると、怯えきった彼女の目を、もう一度見ることすらしなかった。淳一の腕に自分の腕を絡ませ、彼女の横を通り過ぎ、まっすぐ出口へと向かった。咲子は一瞬呆然とし、すぐに血相を変えて、狂ったように私の後を追ってきた。泣き声交じりに叫びながら。「依織、依織待って、そんな……!ごめん、本当にごめんなさい!私たち、今でも親友でしょう!私が悪かった、もう二度としないから!依織、ねえ、聞いて……」その謝罪の声は、ハエの羽音のように耳障りだった。ホテルのロビーから外まで、ずっと追いかけてくる。淳一が紳士的に助手席のドアを開けてくれた。同時に、彼の後ろに控えていたふたりの護衛が1歩前に出て、追いすがろうとする咲子の体をしっかりと押しとどめた。車の窓が閉まり、外の歪んだ顔を視界から遮った。バックミラー越しに、咲子が護衛に押しのけられる姿が見えた。よろけて路上に倒れ込み、その姿はどんどん小さくなって、やがて見えなくなった。この世には、振り返って見るのすら無駄な、人や出来事というものがある。結婚式の日、翔大は挙式には姿を見せなかった。式は完璧に進んだ。淳一に手を引かれ、祭壇へ一歩ずつ進んでいった。参列者の祝福を受けながら指輪を交換し、誓いを立て、最後に抱き合って口づけを交わした。挙式を終え、披露宴までの間に控室へ向かう途中、式場の廊下の角で思いがけず翔大と出くわした。見違えるほどやつれていて、かつて仕立てたであろう上質なス
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