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第20話

Author: 園子
翠は俯き、自分の手首を掴んでいるその手を見つめた。

この手は、かつて何度も自分が握った手だった。そのたびに、胸は満ち足りた温かさでいっぱいになっていた。

けれど今、胸にあるのは、ただ嫌悪だけだった。

翠はためらいもせず、冷静にその手を振り払った。「沖田さん、いい加減にして」

「沖田さん」その呼び方を耳にした瞬間、湊の体はますます力を失い、立っているのもやっとだった。それでも必死に声をあげた。

「翠、俺の病室にいてくれたのは、まだ俺を愛してるからだよな?俺が間違ってたんだ!絶対に変わるって誓う!本当にやり直したいんだ。

穂香が嫌いなら、今すぐ彼女とは縁を切る!もう二度と君の前に現れさせないから!だからな?」

彼の目は、かつてのように彼女の愛を乞い求めていた。

だが、翠は静かに視線を落としながら口を開いた。「湊、いつになったら気づくの?私が本当に会いたくない相手はあなたよ」

彼女は顔を上げた。「彼女を憎んでる。でもね、一番憎んでるのは、あなただよ」

彼女は冷たい視線で彼を見つめた。「本当の元凶はあなただよね?誰かに強制されたわけじゃない、自分の意志で、全部自分で選んでやったことでしょ?きれいごとで逃げようなんて。

もし、少しでも良心や罪悪感が残ってるなら、今すぐ、私を自由にして。あなたがキモい」

そう言い残すと、翠は一切未練の色も見せず、その場を立ち去った。

湊は、その背中を茫然と見送っていた。彼女が完全に視界から消えた瞬間、全身の力が抜け、彼はその場に崩れ落ちた。

翠は、あれで全てが終わったと思っていた。もう二度と湊と関わることはないと。だが三日後、彼女のマンションの近くで、また彼の姿を見かけた。

またしても付きまとう湊に、翠は立ち止まった。湊は不安げな顔で近づいてきた。「翠、追い出さないでくれ。何もしないから。俺がどれだけ君を傷つけたか、ちゃんと分かってる。だからせめて、償わせてくれないか」

翠の表情がすぐに曇ったのを見て、湊は慌てて手を上げた。「約束する!絶対に邪魔したりしない」

翠は何も言わず、そのまま立ち去った。

スタジオでは、同僚が何度も翠に声をかけてきた。「ねえ、またイケメンが外からずっと君のこと見てるよ?」

でも翠は、それを聞こえないふりをしていた。

仕事を終えてふと顔を上げたとき、ドアの外に立っていた人物を見て
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