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第7話

Author: 園子
穂香が近づいてくるのを見た瞬間、翠はすぐに背を向けて階段を駆け下りた。

だが次の瞬間、背中に強い衝撃を受け、身体は制御を失って、そのまま下へと投げ出され階段に激しく叩きつけられ、転がるように何段も落ちていった。

「翠!」

焦った声がすぐ近くから響いた。

玄関先でフルーツチップスを持っていた湊の手から、それが落ちると同時に、彼は全力でその方向へ走り出す。

「うっ!」

湊が今まさに翠のもとへ駆け寄ろうとしたそのとき、穂香が突然うずくまり、腹を抱えて苦しみ始めた。

「湊、お腹がすごく痛い。病院に連れてって」

湊の足が止まる。地面に倒れた翠を見てから、苦しむ穂香へと視線を移し、その顔に迷いが浮かぶ。

穂香がさらに苦しそうに呻くと、彼は迷いを断ち切るように、翠の体をまたぎ、一気に階段を駆け上がって穂香を抱きかかえた。

通り過ぎざま、彼は翠に向かって叫んだ。「翠、動かないで!まず穂香さんを病院に連れてくる!すぐ戻るから」

湊が立ち去った瞬間、翠の下半身から鮮血が溢れ出した。彼女は青ざめた顔で叫んだ。

「湊!湊!」

彼女は声を振り絞って泣き叫ぶ。

赤ちゃんを助けて!

その叫びを背に、湊の足が一瞬止まった。翠の我慢強さは彼も知っていた。以前、交通事故で複数の骨を折ったときも、彼女は痛みに耐えて笑いながら「大丈夫」と彼を慰めた。

振り返ろうとしたが、彼の腕の中で、再び嗚咽が響く。「湊、お腹が痛いの。うちの赤ちゃんが……」

子どもが、ダメになるわけにはいかない。

わずかの逡巡の後、湊は振り返ることなくそのまま走り去った。

血の海に倒れたままの翠は、痛みに顔を歪めながら少しずつ身体を動かし、必死に近くにあったスマホへと手を伸ばし、なんとか救急車に電話した。

救急車がサイレンを鳴らして到着する。

病院へ向かう途中、突然一台の車が進路を塞いだ。

車内の救急隊員は焦って叫ぶ。「前の車、道を開けてください!ナンバー6547の方、速やかに退避をお願いします」

「6547」その数字を聞いた瞬間、翠の目が見開かれる。

湊の車だ。

前方の湊も、後方のサイレンに気づいて車を停めようとした。しかし隣にいる穂香がさらに激しく泣き始めた。湊は迷った末、アクセルを踏み込んだ。後ろの救急車のサイレンなど完全に無視して、スピードを上げて走り出す。

「大野(おおの)先生、大変です!患者の出血が止まりません。どうしましょう?」

看護師の声に医師が駆け寄り、シーツ越しに溢れる血を見て、表情が変わる。「すぐに手術の準備を!」

「でも前の車がどかないんです、どうしましょう!」

医師も焦りを隠せない。前方のドライバーが事態の深刻さに気づき、無理やり車列を抜けた。

病院に着くと、翠が診察室へ入れられた直後、湊が穂香を支えながら急ぎ足で入ってきた。まだ何も言わぬうちに、看護師の声が響いた。

「患者花岡翠さん、流産による大量出血です。ご家族の方、いらっしゃいますか?」

病室。

翠が目を開け、自分の腹を押さえようとしたが、誰かの手が彼女の手を握った。震える声が耳に届く。「翠、ごめん。全部俺が悪い、必ず償うから」

横を向けば、顔面蒼白の湊がいた。脳裏には彼が穂香を抱きかかえて階段を駆け上がったあの姿が、勝手に蘇ってきた。翠の手がピクリと震え、彼の手をそっと振り払った。

もう結果はわかっていた。

自分の子どもやっと、ほんの一日前にその存在を知ったばかりだったのに……

翠の涙が止まらなかった。湊も声を詰まらせていた。「翠、俺たちには、また子どもができるさ」

そう、子どもはまたできるかもしれない。でももうこの人とは二度と。

翠は目を開けて湊を見た。「穂香は?」

湊は目を逸らしながら答える。「休んでるよ。翠、今回のことは穂香さんも悪気があったわけじゃない。二人が喧嘩しててきっと事故だったんだ。

彼女はまだ妊娠してるから、ショックを与えちゃいけない。君はもう子どもを失った。でも穂香さんには、失わせたくないんだ」

今なお穂香をかばう湊に、翠の胸が張り裂けそうになった声まで震える。「湊、私たちの子だったんだよ!たった一人の子だ」

あんなに待ち望んだ命が、この世に来てまだ三ヶ月も経っていないというのに!

「分かってる!分かってるんだ」

湊が翠を強く抱きしめる。「俺が悪い!

でも穂香さん、本当にわざとじゃないんだ。妊娠してて情緒不安定なんだよ。彼女を許してくれ。君が欲しいものなら、何でもやる。償うから」

翠はその言葉に返す声も失い、喉まで込み上げていた思いをただ涙に変えた。

大粒の涙が次々に頬を伝う。

もう、何も期待すべきじゃなかった。

湊が何か言いかけたとき、彼のスマホが鳴った。

電話の向こうからは、穂香の声が聞こえてきた。「湊、お腹、また痛くなってきたの。今どこにいるの?」

今度は湊が口を開く前に、翠が言った。「行ってあげて」

その姿を見て、湊はどうすればいいかわからなくなった。なぜか、彼女が自分からどんどん遠ざかっていくような気がした。

病室を出る前、彼は彼女の手を握りしめ、何度も繰り返した。「戻るから待っててくれ」

湊が病室を出た瞬間、翠はゆっくりと体を起こした。だが次の瞬間、看護師が慌てて駆け寄ってきて、彼女を押さえた。

「まだ動いちゃダメです!さっき子宮摘出術を受けたばかりなんですから!」

子宮摘出術。

翠の身体は雷に打たれたように震えた。彼女は呆然としたまま、動けずにいた。

もう、子どもを産むことはできないんだ。

看護師が、気の毒そうに言った。「もう少し早く病院に着いていれば……」

もう少し早く病院に着いていれば……

翠の頭に、救急車の中で聞いたナンバーが浮かんだ。次の瞬間、彼女の頬を濡らす涙は止まらなかった。
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