FAZER LOGIN私の名前は川村彩香(かわむら あやか)。 婚約者の高瀬陸人(たかせ りくと)の大学時代の後輩で、今は彼の秘書をしている河村綾香(かわむら あやか)とは、姓も下の名前も読みが同じで、漢字が少し違うだけだった。 綾香がまた私の名前を自分の名前と取り違えたのは、会社の同僚たちが私と陸人のために開いてくれた独身最後のパーティーでのことだった。 みんなが私たちを冷やかして盛り上がる中、独身卒業を祝う横断幕が広げられた。 誰かが、そこに書かれた言葉を読み上げた。 【陸人さん 綾香さん ご結婚おめでとうございます 末永くお幸せに】 その場は一瞬で静まり返った。 綾香が小さな声で口を開いた。 「すみません、彩香さん。また間違えてしまって……」 私は何も言わず、陸人を見た。 陸人は眉ひとつ動かさず、真っ先に綾香へ声をかけた。 「気にするなよ。漢字を一字間違えたくらいで、彩香も怒ったりしないから」 そう言うと、陸人は綾香をかばうように私の前へ出た。 綾香を背中に隠したまま、いつもの鋭い目で私を見た。 「彩香、横断幕の漢字を一字間違えただけだろ。 綾ちゃんだって、わざとじゃない。 今日の主役が俺たちだってことは、みんな分かってる。こんなことで水を差すなよ。な?」 彼女は「綾ちゃん」で、私は「彩香」。 その違いだけで、もう十分だった。 私は握っていた風船の紐から、ゆっくりと指を離した。 「分かった。もういい」 これからは、もう何も気にしない。
Ver mais並んで出てきた私たちを見るなり、陸人は露骨に顔を曇らせた。慎は陸人にちらりと目をやると、少し身をかがめて私に言った。「俺は先に帰る。また明日。何かあったら、すぐ電話して」慎が立ち去ると、陸人がこちらへ歩いてきた。「綾香には、もう責任を取らせた。俺が悪かった。綾香の言うことばかり信じて、お前を傷つけた。どうしたら許してくれる?何でもする。だから、もう一度だけやり直すチャンスをくれないか?」私は陸人を見返した。「本当に、何でもするの?」陸人はすぐにうなずき、私の返事を待つように見つめた。「じゃあ、二度と私の前に現れないで」陸人の体がぐらりと揺れ、声が震えた。「9年も一緒にいたんだぞ。そんな簡単に、全部なかったことにできるのかよ。俺は本当にお前を愛してるんだ!」そう言うと、陸人は何かを思い出したように、慌ててポケットから鍵を取り出した。そこには、以前私が贈ったトラのチャームが付いていた。「彩香、ほら。これ、また付けたんだ」陸人は鍵からチャームを外し、私に差し出した。受け取ってみると、チャームにはうっすら埃がついていた。「一度外したものは、あとから付け直したって、前と同じにはならないよ」そう言って、私はチャームをごみ箱へ投げ入れた。「あなたは私を愛してるんじゃない。私が何をされても離れないと思ってただけ。本当に離れたら、今さら惜しくなっただけでしょ。もう帰って。二度と私の前に現れないで。9年一緒にいたからって、あなたのところに戻るつもりはない」陸人は目を赤くし、すがるように声を絞り出した。「最初に名前を間違えられたとき、俺がその場でちゃんと違うって言ってたら……俺たち、こんなことにはならなかったのかな」「そうかもね」「でも、あなたは何も言わなかった」私は陸人の横を通り過ぎ、そのまま歩き出した。背後から、陸人の押し殺した泣き声が聞こえた。それでも、私は振り返らなかった。それから2年がたった。いつものように残業していると、慎が差し入れの入った紙袋を提げ、妙に真剣な顔でやってきた。「彩香、俺、今かなり怒ってるんだけど」私は驚いて顔を上げた。「どうしたの?」慎は少し拗ねた声で言った。「今日は付き合って1年の記念日だろ。ご飯を
私は転職先の近くに、新しい部屋を借りた。持ってきたのは最低限の服だけで、陸人にもらったものはほとんど置いてきた。新しい職場の同僚は感じのいい人ばかりで、私もすぐに馴染めた。それからしばらくして、残業をしながらデータを確認していると、スマホが鳴った。画面に表示されたのは、以前の同僚の名前だった。「彩香、本当に雲ヶ丘グループに移ったの?」「うん」「聞いた?社長、河村さんを刑事告訴したんだって」マウスを握る手が止まった。「河村さん、競合会社からお金を受け取って、わざと今回の案件を潰したらしいよ。実刑2年だって。それに、会社からもかなりの額の損害賠償を請求されてるらしい。今まで河村さんの実績になってた仕事も、全部彩香の実績に戻したみたい。本当に、もう戻る気はないの?」自分でも驚くほど、落ち着いた声で答えた。「うん。もう戻るつもりはない」通話を終えると、私はそのまま作業に戻った。そのとき、目の前にコーヒーが差し出された。顔を上げると、慎が立っていた。「もうとっくに定時を過ぎてるぞ。入ったばかりなのに、社長の俺より遅くまで残るつもりか?」私はコーヒーを受け取った。「せっかく声をかけてもらったんです。期待外れだったと思われたくありませんから」もう一度マウスに手を伸ばそうとすると、慎は有無を言わせずノートパソコンを閉じた。「心配しなくても、君の実力は分かってる。最初からそんなに飛ばすな。ほら、帰るぞ。君が残ってると、俺まで帰りづらい」私は思わず笑い、慎と並んでオフィスを出た。「昨日、高瀬から連絡があった」私は足を止めた。「何て言ってたんですか?」「君が私情で高瀬たちを案件から外したって」「それで?」「俺が見るのは、君の仕事ぶりだけだ。ほかの話は関係ないって言っておいた」実を言えば、あの案件はデータの不備が見つかった時点で、すでに白紙になっていた。雲ヶ丘グループに入ったあと、私は慎に、今回だけはあの案件の対応を自分に任せてほしいと頼んだ。自分の手で、きちんと決着をつけたかった。私は改めて慎に礼を言った。「慎さん、本当にありがとうございました」慎は冗談めかして言った。「やっと『慎さん』って呼んでくれたな。仕事中は『社長』でいいけど、二人きり
陸人は椅子に座ったまま動けず、膝の上で拳を握りしめていた。綾香は納得がいかない様子で、声を荒げた。「こんなの、ただの仕返しじゃないですか。仕事に私情を持ち込むなんておかしいです!陸人さん、古賀社長だって事情を知ったら、黙ってないですよ」その言葉に、陸人ははっとした。そうだ。雲ヶ丘グループ社長の古賀慎(こが しん)なら、事情を知れば、彩香の好き勝手を許すはずがない。彩香が個人的な恨みで自分たちとの取引を断ったのだと、慎に伝えればいい。雲ヶ丘グループをクビになれば、彩香も今度こそ自分を頼るしかなくなる。……ビルを出ると、外は気持ちよく晴れ渡っていた。胸の奥に溜まっていたものを、ようやく吐き出せた気がした。雲ヶ丘グループの案件が始まった頃、先方の社長と初めて顔を合わせた。その人が、大学時代の慎先輩だと知ったときは、さすがに驚いた。それ以来、慎からは何度も「うちに来ないか」と誘われていた。条件もかなりよかったが、私はそのたびに断っていた。陸人があの人事通知を全社チャットに流したあと、初めて私から慎に電話をかけた。懲戒解雇の件をどう説明しようか迷っていると、慎は笑って私の言葉を遮った。「4か月も一緒に案件を進めてきたんだ。君の仕事ぶりなら、俺がよく知ってる。あんな噂を真に受けるほど、俺も馬鹿じゃない。うちに来てくれるなら、大歓迎だ」その言葉に、肩の力が抜けた。けれど同時に、どうしようもなくむなしくなった。仕事で関わったのは、たった4か月だった。それでも慎は、私の仕事ぶりを疑わなかった。なのに、9年一緒にいた陸人は、事情を確かめようともせず私を悪者にした。私は小さく首を振り、それ以上考えるのをやめて車へ向かった。ドアに手をかけた瞬間、後ろから手首をつかまれた。「彩香、少し落ち着け。今日は一緒に帰って、家でちゃんと話そう」思わず笑ってしまった。「家?もう引っ越したけど。気づいてなかったの?」陸人は一瞬、言葉を失った。「引っ越したって……いつ?」私は答えなかった。手首をつかむ陸人の指に、さらに力が入った。「引っ越したことも、転職したことも、どうして俺に黙ってたんだよ。俺たちは明日、婚姻届を出すはずだっただろ!」私はその手を振りほどいた。
陸人は足を止め、スマホを取り出して彩香にメッセージを送った。【明日の午後、婚姻届を出しに行くぞ】ここまで言えば、さすがに機嫌も直るだろう。今回のことは、もう責めないつもりだった。だが、いくら待っても返信は来なかった。陸人はスマホを机に置き、綾香と雲ヶ丘グループの案件資料を見直し始めた。作業が終わった頃には、すっかり夜も更けていた。陸人はそのまま会社に泊まった。翌朝。雲ヶ丘グループから指定されたのは、都心の高層ビルの最上階にある、会員制ビジネスラウンジのミーティングルームだった。陸人と綾香は、約束の時間より少し早く着いていた。綾香は落ち着かない様子で、何度も手元の資料に目を通していた。「陸人さん、先方の新しい責任者って、どんな方なんでしょう。前の方より厳しい人だったら、私……」陸人は安心させるように、綾香の手の甲に軽く触れた。「心配するな。若い女性で、俺たちと同じ大学の出身らしい。同じ大学なら、そこまで身構えなくてもいいだろ」そう言った直後、ミーティングルームの扉が開いた。入ってきた人物を見た瞬間、陸人は息をのんだ。彩香だった。隙のないスーツ姿で、長い髪を低い位置でひとつに結んでいた。迷いのない足取りで入ってきた彩香は、陸人の知る姿とはまるで違って見えた。綾香の笑顔がこわばり、勢いよく立ち上がった。「彩香さん、どうしてここにいるんですか?会社を辞めたのに、まさかまだこの案件を諦めてないんですか?」その言葉を聞き、陸人は内心ほっとした。返事をしなかったのは、ここで自分と顔を合わせるつもりだったからか。やはり彩香は、会社も自分も手放せないのだ。そう思うと、陸人は眉をひそめ、咎めるような目を彩香に向けた。このタイミングでわざわざ現れたのは、先方の前で自分の立場を訴え、案件を取り戻すためだろう。陸人はそう決めつけた。「いい加減にしろ。こんな真似をしても、俺の決定は変わらない。先方に迷惑をかける前に出ていけ」けれど彩香は陸人を見ようともせず、テーブルの奥に用意された席へ進み、静かに腰を下ろした。一緒に入ってきた雲ヶ丘グループの社員が、陸人たちに一礼した。「高瀬社長、お待たせいたしました。ご紹介いたします。こちらが、今回の案件を統括する当グループ