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第3話 沢木南月子

last update publish date: 2026-07-21 06:38:09

 クラスメイトさんの名前は沢木南さわきな月子つきこだった。

 さすがにあんなことがあると意識してしまうので、教室に居るだけで自然と覚えてしまう。

 懸念していた片想いの彼女の件は噂話になることもなく、その日はもちろんのこと、次の日からも平穏な毎日がつづいていた。

 けっきょく月子が電車に乗ってきたのはあの日だけで、僕はホッとしていた。面白がって変なお節介を焼こうとしないかと心配だったのだ。

 いや、あるいはこれは自惚れだろう。僕なんかの恋路が赤の他人にとって、そんな面白いはずもない。

 噂にしたってそういうことかもしれない。面白みのない男が誰かに一目惚れをしたなんて話をしても、きっと誰も喜びはしないだろう。

 とくに月子のように人生が充実しているであろう人間は。

 月子はクラスの中でも一際目立つ存在だ。容姿端麗で勉強もできればスポーツもできる優等生。

 とくに6月に開催された体育祭での活躍はめざましかった。参加した個人種目のすべてで一位を勝ち取っていたはずだ。はっきり言って僕よりも体力があるのではなかろうか。

 子供の頃のかけっこでは誰にも負けなかった僕も、ここではそう目立つ存在でもない。とくに徒競走に関しては手は抜いていなかったが前の奴にぜんぜん追いつけなかった。

 そういえばそのときだ。ひさしぶりに月子に話しかけられたのは。

「残念だったわね。あいつ、陸上部だもんね。陸上部が徒競走に出るなんて反則だわ」

 眉を寄せてそれだけ言うと、月子はそのまま立ち去った。ちなみに彼女が参加した種目のすべてに陸上部員が参加していたという事実を彼女は知っているのだろうか?

 ぼんやりと月子の背中を見送っていると、背後から唐突にヘッドロックをかけられて、聞き慣れたバカっぽい声が耳元で聞こえてきた。

「おいっ、三日森! なんでお前が月子さんに声をかけられてんだよ!」

 絡んできたのは僕がいつもつるんでいる友人の片割れ、滝沢弘樹だ。

 ややガタイのいいお調子者で勉強はダメだが運動神経はいい。この体育祭でもかなりの活躍をしていたはずだ。ただし、不良ではないのだが、どことなく不良っぽく、目つきが悪いせいで女子にはモテない。

 僕は暑苦しい腕を引きはがそうとしながら、滝沢に苦情を言う。

「なんでって、クラスメイトなんだから、べつに不思議じゃないだろ? だいたい、ぜんぜん羨ましがられるような言葉じゃなかったぞ?」

「それでも羨ましいよ。僕なんかぶっちぎりのドンケツだったのに誰も慰めてくれない」

 滝沢の後ろから、もうひとりの友人、田中葉太ようたが言ってきた。

 こいつは滝沢とは対照的に小柄で、運動はダメだが勉強はそこそこできる。いかにもオタクな趣味を持っていそうな見た目だが、基本的に何か一つに打ち込むことができない性格らしく休日はテレビを見るかゲームをするかで時間を潰している無趣味な奴だ。

 とりあえず滝沢の腕から逃れた僕は、今度は田中に向かって説明した。

「僕の場合、たまたま彼女の進路上に居たからだろ? わざわざ近寄ってきたわけじゃないぞ」

「だとしても、お前はもうちょっと嬉しそうな顔をしろよ。相手は学園のアイドルなんだからさ」

「アイドル?」

「知らねえのか? 沢木南姉妹って言えば有名だぜ」

 呆れたように言う滝沢に続いて、田中が補足してくる。

「物静かなお姉さんのほうは我が校のマドンナ。快活な月子さんはアイドルって呼ばれているのさ。ふたりは双子だから、顔はソックリなんだけど印象は正反対なんだよ」

 なるほど、またどうでもいい知識が増えてしまったようだ。

 まあ、いつもの特技ですぐに忘れるだろう。

 そう思っていたのだが、あの日以来、不思議と月子に関する情報を僕は忘れずじまいだった。

◆

 やがて夏休みが近づいたある日のこと、その日は夜中に室内に入り込んだ何匹もの蜂のせいでひどい寝不足だった。奴らは闇夜の中では活動しないと聞くが、明かりの点いた室内では普通に飛び回るようだ。

 だからといって電気を消して蜂と夜明かしする気にもなれず、なんとか駆除しようとしたのだが、適切な道具もなくて四苦八苦させられた。

 しかも、こんな日に限って陽射しは異常に強く、おまけに掃除当番が中庭だったため、うだるような熱気に晒されて僕は完全にグロッキーだった。

 今日は半日授業だというのに、放課後になっても冷房の効いた教室から動きたくなくてずっと机に突っ伏している。

 頭がひどくガンガンする。軽い熱中症だろうか。そんなことをぼんやりと考えていると、不意に冷たい手が僕の額にあてられた。

「熱があるんじゃないの?」

 聞き覚えのある女子の声。こんなふうに話しかけてくる女子の知り合いなんてひとりしか居ない。それでもぼんやりした頭では、それに気づくのにも多少の時間が必要だった。

 うっすらと目を開けて、その顔を視界に入れると月子は心配するように僕の顔を覗き込んでいる。

「やあ、クラスメイトさん」

「いつまでその呼び方なのよ」

 怒ったというよりも困ったような顔で月子は言った。

「とりあえず立てる? 保健室に行かないと」

「いや、大丈夫。もう帰るから」

「でも……」

「本当に大したことはないんだ。家で寝てればすぐ治るよ」

 それだけ告げると、なるべく自然に見えるように気をつけながら席を立った。

 さりげない足取りで出口に向かうと教室の扉を開ける。

「なんで掃除用具入れを開けてるの?」

 月子の困惑した声に誤魔化しの笑顔で応えると、今度こそ教室のドアを開けて外に出た。

 空調の効いた広々とした廊下を歩き、下駄箱で靴を履き替えると両開きのガラス扉を開けて外へ出る。

 むわっとした熱気と夏のニオイ。目に映るすべてのものが目映い陽射しに晒されて白く輝いているようだ。なんだか目眩がしそうだった。

 その場に座り込みたい誘惑に駆られたが、それではなんの解決にもならない。とにかく家に帰って、ゆっくり休もう。

 けたたましくセミの声が響く道を僕はゆっくりと歩き始めた。

 顔がほてって喉が渇く。身体に熱がこもってるようでひどく不快だ。手足は重く、駅までの通い慣れた道が、ずいぶんと長く感じる。オアシスを求めて砂漠を彷徨う旅人は、こんな気分なのだろうか。

 だが、ここは日本だ。道に迷う危険はない。その証拠にセミが今もうるさく鳴き喚いている。うるさい、少し黙れ。そうつぶやいていると不意に奴らの声が遠くなった気がした。

「三日森くん!」

 身体に加わった衝撃と月子の声で我に返る。

 気づけば僕は月子にしなだれかかるようにして立っていた。

 いや、倒れそうになった僕を彼女が支えたのだ。どうやらずっと後ろからついて来ていたらしい。

 月子は青ざめた顔で、ひどく不安そうに言ってくる。

「やっぱり病院に行ったほうがいいわよ」

「だ、大丈夫。ただの立ちくらみだよ」

「ただのじゃないでしょ」

「本当に大丈夫。ほら、もう駅だし」

 そう言って駅のプレートを指さした僕だが、実を言えば今の今まで、ここまで来ていたことを自覚してさえいなかった。自分でも、ちょっとヤバイかなって気はしていたが、わざわざ医者にかかるのはごめんだ。

「じゃあ、僕はこれで」

 軽く手を振って歩き出そうとする。その途端、足がもつれてよろめいた。

「きゃあっ」

 驚いた拍子に短い悲鳴まで上げた月子に向かって、僕は誤魔化すように笑って見せたが、さすがに今度は通じなかったようだ。彼女は即座に歩み寄ってきて僕を手近な椅子に座らせると、怒ったように言った。

「まったく、君って子は! ちょっとそこで待ってなさい!」

 そう言って切符売り場へと小走りで駆けていった。

◆

 月子に貰ったスポーツ飲料を飲みながら、僕は帰りの列車に揺られていた。

 頭には濡れたハンカチを押し当ててくる柔らかい手。もちろん隣に座った月子のものだ

「なんか、カッコ悪いな」

「病人に格好いいも悪いもないわよ。熱中症を甘く見てたら死にかねないんだからね」

 月子は本気で腹を立てているようだ。腹を立てているのに僕を助けてくれている。

「なんでだろ?」

 つい、声に出していた。

「なにが?」

「君は不機嫌だ」

「そうね」

「不機嫌なのに僕を助けてくれる」

「それが不思議なの?」

「有り体に言うと」

 ずっと怒ったままの月子に告げると彼女は小さく嘆息した。

「わたしが不機嫌なのは、あなたがわたしに心配をかけているからよ」

「どうして他人なんかを心配するんだい?」

「どうしてって……」

 たぶん、意識が朦朧としていたからだろう。

「僕はね、誰も信じない、誰も頼らない、誰もアテにもしないって、ずっと子供の頃に誓ったんだ」

「なんでまた……」

「小学四年生の頃の話さ」

 これまでずっと黙ってきて、これからもずっと誰にも話さないつもりでいたことを、僕は月子に話し始めた。

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