LOGIN純白のドレスは軽やかで、シンプルなエンパイアライン。
このタイプドレスの特徴は、身体への締め付けがなく着心地が楽で動きやすいというもの。その代わりスカートのボリュームに期待できないため、どうしても胸元のデザイン次第で印象が大きく変わってしまう。余り派手なことを好まない海亜が望んだのはカジュアルの中に若干のアンティークさが同居するシンプルなウェディングプラン。だからこそ、全体的な主張を抑えたエンパイアラインを選び、控えめながらも上品さを引き立てる精密なデザインの白のレースをあつらえたこの一着が、式の雰囲気ととても良く似合っていると考えている。
「昴兄様」
恥ずかしそうに頬を染めて。フィッティングルームからドレスを纏い現れた海亜のことをじっと見つめる相手に掛ける声。
「どうかな?」
自らの好みはこの選択なのだと。それでも似合っているかと確認してしまうのは、相手の好みと差違があることを嫌だと感じてしまうからなのだろう。
「うん。良いと思う」
幸いにも昴は、海亜の好みに異議を唱えること無く微笑んで頷くと、静かに歩み寄り彼女の肩に触れる。
「でも、この辺りが少し、寂しい感じはするかな」
「そう……かな?」
「うん」
確かに。昴の言葉通り、豪華な装飾の無いドレスは目を引くようなポイントが乏しく物足りなさを感じさせてしまうようだ。それは大きな姿鏡に映る自らの姿を見て感じた素直な気持ちである。
「それに……」
そこまで言って昴は言葉を濁すと、一度、海亜から視線を外し照れたように鼻の頭を掻きながらこう続けた。
「肩や胸元を僕以外の人間にも見てしまうのかと思うと何というか……」
その言葉に海亜ははっとしたように驚きを見せた。
「もしかして、嫉妬……して、くれているんですか?」
「あー……うん。そう……だね」
「……あ……」
彼が見せた独占欲。それに覚えたのは歓喜で、海亜はそんな昴の思いが嬉しくて仕方ない。
「それじゃあ、こういうのはどうでしょうか?」
今のベースはそのままに。その上から薄手のボレロを羽織って肩のラインを隠すデザインはどうかと出した提案。
「でも、それじゃあ胸元はまだ大きく開いたままになるんだよね?」
そのデザインも悪くは無いけれど。一度、その提案を肯定した上で昴の出した条件は、もっと肌の露出を抑えて欲しいというものだ。
「そうですね。それじゃあ、羽織るタイプではなくインナーブラウスに切り替えてデコルテ部分を全体的に隠すのはどうですか?」
「ああ。それなら、海亜が選んだドレスのデザインを活かしつつ、君自身の上品さを引き立てて素敵だと僕は感じるね」
肌を隠す代わり髪をアップにするのはどうかな? 昴のすらりと長い指が、手触りの良く細くしなやかな海亜の髪を一房摑むと、ふんわりとそれを持ち上げ首元に唇を寄せる。
「本当ならここもあんまり人に見せたくは無いんだけれど」
でも、選んだドレスだとこの方が海亜をより綺麗に見せることが出来るね。昴の口から零れる言葉の一言、一言が彼女の心を擽り、喜ばせてくる。その状況に海亜の顔はずっと真っ赤に染まったまま。実はそれ自体、計算の上で行われていることなのかもしれない。そんな風に疑いはしたものの、今ある幸せを自ら壊すほど海亜も馬鹿では無い。
「お兄様は女性を褒める事がお上手なんですね」
羞恥から少しだけ言葉に含まれる棘。
「海亜が相手だからこう言ってるんだよ」
それをさらりと受け流すと、昴は手触りの良い髪に静かに口付ける。
「僕の花嫁さんは、誰よりも可愛くて美しいんだ。だからこそ、周りが嫉妬するほど君には輝いて居て欲しい」
お互いがこうしたいという主張は言葉で伝え、譲歩しつつ形を作る。ドレスは海亜自身が選んだから、それに合わせる付属品は昴の好みを優先していく。
インナーで選んだブラウスは透け感の強い五分袖。首元を詰めることはせず、大きく開たラウンド型のデザインで鎖骨は見せる方向に決める。その代わり、首には少しだけ豪華なシルバーのネックレス。苦しさがないようにVラインのものを選択し、シルバーで花が散りばられたようなデザインで可愛らしい印象のあるものに決める。ネックレスを飾る宝石の数は必要最低限だけ。耳元のピアスはネックレスとペアのもので統一感を出して再び鏡の前に立ち控えめに取ったポーズ。
「うん。さっきよりもずっと、素敵になった」
遠目から見ると、胸元を隠すインナーブラウスは着ているかどうか分からない控えめな白だ。元々肌が白いこともあり、首元のネックレスでブラウスとの境目を上手く隠してしまえば、ブラウスを着ているという印象をかなり軽減できる。それでも、昴にとっては《衣服を着て素肌を隠している》ということが重要らしく、妻になる女性の肌を他の人間の目に触れさせなくて良くなったという事実に満足出来たようで、気が付けば海亜の髪の毛を指でもてあそび、髪型に付いて自らの好みをスタイリストに伝えている。
「では、シニヨンの位置は少し低めにし、項があまり目立たないようにいたしましょうか」
「そんなことが可能なのかい?」
「ええ。大丈夫ですよ」
ティアラの使用を遠慮すると伝えると、頭部の物足りなさを軽減するために白い花を組み合わせたコサージュを使用してみてはと提案される。低めのシニヨンの左側に掌より少し大きめのワンポイントを添え、少しずつ固まっていく嫁ぐための形。
「こんなに綺麗な花嫁が隣に居るってなると、僕の方が気後れしてしまうね」
準備が多いのは女性の方である。だからこそ着飾り変わっていく相手の雰囲気に圧倒され昴は困ったように笑う。
「昴兄様のほうがずっと格好良いじゃないですか」
お願いだから距離を取らないで欲しい。そんな願いから一歩。昴に近づき彼の手を握ると、今度は昴の式服を選ぶべく海亜がフィッティングルームへと彼を誘う。男性のドレスアップは女性よりもシンプルだ。その上、自らのことには彼女を着飾ること以上の興味を持てない。そんなもんだから昴の衣装合わせは海亜の半分以下の時間で終わってしまう。
「本当にこれで良かったのですか?」
海亜としては物足りなさを感じているようで、もう少し選んでもと昴に提案してみる。
「結婚式は女性側の方が主役だからね。それに、僕の衣装は君のドレスに釣り合うように選んで貰ったものだし、君自身が選んだものでもある。満足することはあっても、不満を感じることなんてあり得ないよ」
既に打ち合わせを終え、帰宅するべく走らせる黒い高級車。
「それに、式まではまだ時間もあるしね。こうしたいというものが思いついたのなら、その時に色々足していけば良いんだよ」
「そうですね」
窓の外には流れ行く町の景色。つい一ヶ月前まではくすんだ灰色で味気ないものに見えていたその光景は、隣に座る同伴者の存在のお陰で艶やかな色を放つ素晴らしい世界へと変貌を遂げている。
「それよりも海亜」
「何ですか? 昴兄様」
「これから食事でも、どうかな?」
言われてハンドバッグから携帯端末を取り出すと、ずっと眠っていた機械を無理矢理起こし、そこに表示されたデジタルの数字を確認する。
「もうこんな時間になっていたんですね」
「そうだよ」
二人がウエディングサロンへ赴いてから既に四時間ほど経過していた。
「僕の方は空腹で、もう腹が限界なんだけど、もし良ければ付き合ってくれないかな?」
あくまでも誘うのは低姿勢で。ハンドルを預かっているため視線を合わせることはしないが、運転席で高級車を制御している昴が海亜の様子を気にしていることは雰囲気で分かる。
「そうですね」
少しだけ。沸いた悪戯心から海亜は口角を上げ目を細める。
「この後、予定が入っていたか少し確認しても?」
「勿論」
直ぐに返事をすることを避け、特に確認する必要も無いカレンダーのアプリを起動する。記載されている文字の羅列は、今日の打ち合わせただ一つのみ。友人と会うことも、家族と食卓を囲む予定も何も無い自分の予定に、少しだけ感じたのは寂しさで。
「大丈夫。何も予定は入ってないみたいです」
暗い感情を誤魔化し無理に笑顔を繕い、食事の同伴をすると了承の言葉を告げると、珍しく昴の声が大きく跳ねた。
「良かった!」
右隣に座るのは整った顔の婚約者。スッキリとしたフェイスラインにすっと通った鼻筋。温和な印象を与える少しだけ垂れ気味の目元は、食事の誘いを海亜が了承したことで嬉しそうに弧を描いている。
「何か食べたいもののリクエストはある?」
再会を果たしてから、ここまで昴が砕けた印象を見せたことは珍しい。それほどにまでこの食事を喜んでくれたのだと分かると、海亜も自然と表情が綻んだ。
「昴兄様のオススメはなんですか?」
「そうだなぁ……ここから近いのはイタリアンかな?」
「良いですね、イタリアン。私もよく好んで行きますよ」
多少の好き嫌いはあれど、ある程度はそれなりに愉しめるはずだ。それに、思い人の好みがどういうものなのかという興味もある。
「お店のことは、お任せしても良いですか?」
「問題ないよ。任せて!」
変更された目的地。規則的な音を繰り返し切り替える方向を後続車に伝えると、交差点で暫く停滞した後、車は右へ曲がり走り続ける。自分の車を持っていない海亜にとって初めて訪れるエリアは新鮮で、新しく記憶に記録される風景に目がキラキラと輝いてしまう。
「楽しいかい?」
「ええ、とても!」
残念なのは今が夜という時間であること。日が昇っている時だとまた、異なった印象を見せてくれる街並みは、いつか再びこうやって、伴侶となったこの人と訪れてみたいものだと海亜は呟く。
「それはきっと、遠くない未来に叶うと思うよ」
運転している昴は何処までもご機嫌な様子。
「それを楽しみにしていますね」
嬉しそうに手を叩きながらそう返すと、カーナビゲーションシステムからもう少しで目的地に到着するというアナウンスが告げられる。
スピーカーから流れているのは少し懐かしさを感じるシティポップのアレンジ曲で。今流行だというアイドルグループの可愛い歌声が、チューニングしたラジオからリズミカルな音色に乗って、明るく流れるのだった。
「何を食べたら良いんだろう」 食べたいと思うモノはあったとしても、決める基準はいつだって昴が優先。彼の好みに合わせて何を食べるのかを決めていたため、こうやって自分の為に何かを決めるのは苦手だと感じてしまう。「そっか。私は……」 自分のために決めるという選択肢を、選んだことがなかったんだ。 好きだと思うメニューを目の前にしても、無意識に探してしまう誰かの好み。 今はその必要が無いんだと気付いた瞬間、自分のために食事を選ぶ事が難しく感じて吐き気を覚えてしまう。 胃は空腹を訴えているのに、心が満たされることを否定する。それが辛くて思わず乾いた笑いが零れるのを止められない。「当たり前って、当たり前じゃ無かったんだなぁ」 刷り込まれた日常は、とっくの昔に普通ではないものに変わってしまっているのだ。それに気付くのが遅かったせいで、いつまで経っても埋められないギャップに苦しみ、足踏みをしていたのだろう。「もう、後戻りは出来ないものね」 気持ちを切り換えて前に進む。そうするしか無いと何度も自分に言い聞かせ、目にとまったメニューを注文てから窓の外を眺める。「少しずつ、慣れていかなきゃ」 今頃あの人はどこで、何をしているんだろうか。 考えないようにしても思い浮かぶ沢山の事が、彼の面影を消してくれず海亜の中で燻り続けている。「頭が、痛いや」 取りあえず今日は。ここで空腹を満たした後、もう少しだけ物件を探して回ろう。そのことを手帳に留めようとバッグを開いた時だった。「電話?」 テーブルの上に置いたままにしてあった携帯端末が、突然震え出す。「何?」 慌ててそれを手に取ると、ディスプレイに表示された内容を見て息を呑んだ。「え? どうして?」 灯りの点いた液晶パネル。そこに記載されている文字はメッセーアプリに届いたメッセージではなく、電話番号を表す十一桁の数字である。「何でこの人が……」 余りにも予想外の文字に浮かぶのは動揺で。その数字の持ち主が誰なのか分かった瞬間、電話を取るべきなのか判断が付かず狼狽える。 暫く呆然と眺めていると、随分長くコールを鳴らした後で、電話の主は諦めたように着信を切ってしまった。「……どんな用事があって?」 そこに表示されて欲しかったのはたった一人の人間の名前だった。それなのに、実際に表示されたのは海亜の実父であ
「……苦い」 手渡されたときよりも随分と温くなってしまった一本の飲み物は、余り飲み慣れない嗜好品で。口の中に広がる苦みが心の痛みに重なるように感じ、再び涙が溢れてしまう。「……これから、どうしよう」 勢いに任せて家を飛び出たため、昴の待つ家に帰るつもりはない。 だからといっていつまでもホテル暮らしが出来るほど、海亜の財布に余裕が有るわけでも無いのだから、近いうちに身の振り方を決める必要はどうしても出てきてしまう。 以前借りてた部屋に関しては結婚を機に解約して随分経つため、とっくに別の人が住んでいるだろうし、泊めてくれと頼める友人も直ぐには思い付かない状態だ。「早めに不動産屋に行かなきゃ」 口に出した言葉に表情を曇らせながら缶を握る手に力が篭もる。「でも、保証人……どうしよう……」 単身物件の中には保証人無しで契約することが可能なものも存在していると聞いたことはあるが、海亜自身、そのような条件で住む場所を探すのは初めてなのだ。女性一人で契約する場合、条件が良い安全な場所に巡り会える確率はどれくらいのものなのかと、それが気になり手が震えてしまうのを止められない。「考え無し、だったのかなぁ……?」 早まったというのは確かにそうだろう。ただ、もう、これ以上。あの場所に留まるには精神が疲れ果ててしまっていた。 最後に一口だけ苦くて黒い水を飲み込むと、海亜は丁寧に畳んだタオルを持ちカウンターへと歩いて行く。「あの」 カウンターの向こう側では、スタッフの男性が作業の手を止め「大丈夫ですか?」と問いかけてくれる。「お騒がせしてすいません」 湿って草臥れてしまったタオルを返すと、海亜は小さく頭を下げて礼を述べる。「本当にありがとうございました」「いえいえ。お客様の心が少しでも軽くなったのでしたら、それだけで十分ですから」 何も聞かれない優しさ。その居心地に良さに柔らかくなる表情。「本日はごゆっくりお休みください。お体を冷やされないよう、温かくしてお過ごしくださいね」 中身の残った缶コーヒーと、優しく手を振る誰かの気配。 ほんの少しだけ。呼吸がしやすくなったことに、海亜はほうっと息を吐いたのだった。◆ 不動産屋の前を通る度、宅建情報を眺めては一人唸る。そんなことを何度繰り返したのだろう。 家出をしてからまだ一ヶ月も経っていないのだが、
あれからどれくらいの時間、外に居たのだろうか。 ふらつきながらやっとの思いで戻ったホテル。ロビーに入ると、フロントで業務の処理をしていたスタッフが驚いて駆け寄ってくる。「お客様!」「…………あ」 人の存在を感じた瞬間、大きく前へ身体が傾いた。「だ、大丈夫ですか!?」 床に倒れる前に宙で止まる身体。スタッフの腕が支えてくれている事に気付き、慌てて身を起こし離れる。「ご、ごめんなさい!」 こんな失態を曝すなんて。気が抜けたことで支えを失った身体を叱咤しながら海亜は立ち直すと、軽く頭を下げてから立ち去るべく足を動かした。「お待ちください」 しかし、スタッフはそんな海亜を引き留め優しく誘う。「取りあえず、こちらへどうぞ」 示されたのは革張りのボックスソファ。「あ……あの……」 そこに腰掛けてくれと言われているのだろうが、残念なことに、今の海亜は全身がずぶ濡れの状態。このままそこへ腰掛けると、折角のソファが濡れて台無しになってしまうだろう。「濡れてしまいますが……」 だからこそ、その誘いは低調に断る。つもり、だった。「構いませんよ」 そんな海亜を気遣ってか、スタッフはにこやかにそう言うと、彼女に座って欲しいと再び声を掛ける。「濡れてしまったら拭けば良いだけです。そんなことよりも、お客様の事の方が心配ですよ」 言葉は非常に丁寧ではあるが、そこには有無を言わさない強い意志が感じられる。結局根負けしてしまい、海亜は素直にその言葉に従い腰を下ろした。「タオルを取って参りますね」 海亜が落ち着いた事を確認した後、スタッフは一度ロビーから姿を消してしまう。「あっ……」 制止をするのも間に合わず、止めるために上げた手が宙で止まったまま。行き場の無い言葉を飲み込みぼんやりとそこに在る光景を眺める。暫くするとスタッフが、真っ白なバスタオルと缶コーヒーを手に戻ってきた。「お待たせして申し訳ございません」 そう言って差し出されたバスタオルを、海亜は戸惑いながら受け取る。「本来ならば、直ぐにお部屋にお戻り頂き身体を温めて頂いた方が良いとは分かっているのですが、足下が覚束ない様でしたので」「あ。そう、……ですね」 肌触りの良いふわふわのタオル地に指を滑らせると、じんわりと心が温かくなる。「宜しければ、こちらもどうぞ」「……はい」 手渡
「私はそんなに、あなたにとって、頼りにならない人間なのでしょうか?」 夫婦とは。 互いに支え合っていくものだと思っていた。 どちらか片方の力関係ではなく、互いを支配しあうものでもなく。 足りない部分を補って、いつまでも対等で有り続けたい。 例えソレが理想を論じている事だとしても、海亜にとってこうありたいと願い、思い描く夫婦の形はそのようなモノを指している。 だから全ては言えなくても、負担を軽くしてあげられる程度の荷物は持ってあげたかった。 何でも聞いて、何でも話せる。 辛い事も、苦しい事も。楽しい事も、幸せな事も。 全てを共有し、そうやって、時を静かに重ねながらゆるやかに歳を取っていく。 いつか迎える終わりの時まで、そのような関係で居続けたい。そう強く願っていたのに。「私では、あなたの支えになる事は不可能って。つまり、そういうことなんですよね?」 共有して貰えない情報。いつまでも隠されたままの秘密。信用を失った時点で、相手のことを信じる事は難しく、そうやって疑ってしまう自分が居ることが悲しくて仕方ない。「もう。良いです」 言い終わると同時に浮かべる笑いはどこか寂しげなものだ。「これ以上は、話合う必要が無さそうなので」 もう話を聞きたくない、と。一方的に会話を打ち切ると、海亜は昴をその場に残して自室へと向かい歩き始めた。「海亜!!」 背後からは海亜の名を呼ぶ昴の声。だが、その声を無視して部屋に駆け込むと、急いで扉を閉め鍵を掛けてしまう。「海亜! 開けてくれ! 海亜!!」 激しく叩かれるドア。何度もしつこく動くドアノブ。それでも掛けられた鍵は侵入者を拒み、そこに立ち入ることを許さない。「頼む……開けてくれ……海亜……っっ」 いつの間にか、扉の向こうから聞こえてくる彼の声に含まれる嗚咽。何度もしゃくりながら、必死に請うのは話を聞いてくれという言葉で、触れられない事が嫌だと言うように悲痛な叫びが海亜の心を抉っていく。「みあっ……悪かった……謝るから……っっ」 どうしてこうなってしまったのだろう。 考えても分からない答えは、未だ手に入りそうに無かった。◆ 離婚すると決めてからは、ますます二人の時間はすれ違うことが多くなってしまった。 決別を決めた海亜としては、一刻も早く彼を解放してあげたかったのだが、何だかんだと理由を
その言葉を聞いた瞬間、背筋が凍り付く。もし本当に鍵を持っているのだとしたら、幾ら鍵を掛けようと簡単に侵入されてしまうのは考えなくとも分かる。防犯が意味を成さない状況において、どれだけ自身の力で身を守ることが出来るのだろうか。 少なくとも、彼女にこちらの言葉が届くとは全く思えない。そんな風に思うほど、常識の通じない事が目の前で起こったばかりなのだ。「……はぁ……はぁ……」 無意識に強く握りしめるドアノブ。施錠したはずの鍵が外される音が怖くて仕方が無い。「開けなさいよっっ!! このクソ女っ!!」 解錠すれば簡単に中に入れると思っていたのだろうか。開きそうで開かないドアに苛立った彼女が、力任せに何度もドアを開こうとしてくる。「うぅっ……」 しかし、ここで押し巻けてしまったら、あの恐怖を再び味わわなくてはならなくなってしまう。「邪魔すんなって言ってんのっっ!! 巫山戯んなよ!? 泥棒女がっっ!!」 必死にドアを引っ張り続けること十数分。『バンッッ!!』 大きな音を立てて扉越しに伝わる衝撃。「覚えてなさい! 絶対に許さないんだから!!」 まるで悪役のような捨て台詞が聞こえてきたかと思うと、苛立たしげな音を響かせて遠ざかる気配。完全に音が聞こえなくなってからも、暫くは怖くてドアノブから手が離せず震えてしまう。「なん……なのよ……」 ほんの短い間にこれだけの予想外な事が起こるなんて思いもしなかった。 一本、一本。丁寧にドアノブから指を引き剥がすと、力なくその場にへたり込み恐怖で震える肩を強く抱き締める。「鍵……」 勝手に開けられた事は勿論問題なのだが、何故彼女がこの家の鍵を持っていたのかと言う事も見過ごせない問題の一つだ。 上手く力の入らない足を無理矢理立たせると、海亜はしっかりと扉を施錠してからダイニングへと戻る。「昴さん」 ダイニングでは、昴が青い顔をして呆然と立ち尽くしていた。「聞きたいことがあります」 そう言われて昴は正気に戻ったように海亜の方へと視線を向ける。「…………海亜?」「あの人に鍵を渡したのは、本当に昴さん。あなたなんですか?」 これまでいくつかの裏切りにあってきたが、一番納得がいかないのがこの一件である。どんな目的があって鍵を渡したのかは不明だし、海亜自身は彼女を招いて良いと言ったことは一度も無い。同居人に
「今日、買い物に行くって伝えてあったじゃん」 この人は一体何を言っているのだろう? 訳が分からず昴の方へと視線を向ければ、彼も混乱しているようで怯えるように狼狽えている事に気が付く。「ねぇ、昴。早く買い物に連れて行ってくれない?」 今はそれどころじゃ無い。 この状態を見ればそんなこと直ぐに分かるはずだ。 しかし、突如現れた訪問者は海亜という存在を一切無視し、甘えるように海亜の夫へと腕を伸ばしてきた。「っっ!!」 反射的に弾かれる手。女性の細い腕が、非常にゆっくりとした動きで大きく跳ねる。「え? 何?」 こんなことをされるのは想定外だったのだろう。己の扱いに不機嫌になった彼女は、不服そうに頬を膨らませた後、距離を詰めて無理矢理昴の腕にしがみつく。「今更奥さんに罪悪感でも感じてるとでも言いたい訳?」 聞こえてきたのは今更という言葉に過敏になってしまうのは、つい先程までその事について話合おうとしていたからだ。昴の口から聞きたかった言葉。それは見ず知らずの第三者から告げられる事になりますます気持ちが落ち込んでしまう。「もうバレちゃったんだし、良いじゃん」 実にあっけらかんと言われると、一層のこと清々しささえ感じてしまう。「さっさと離婚しちゃいなよ」 だからといってそれが許せるのかというと、そういうわけでは無いのが人の心というものだろう。 見せつけられた二人の関係性。これが真実かどうかなんてことは、この際どうでもいい。重要なのは、今、こうして、二人が親密である光景を見せられていること。 そして、その事について海亜自身がどう感じて居るのかと言うことだろう。「…………」 この光景を見た瞬間、海亜の内側で一気に怒りが込み上げてくる。 それと同時に強く感じたのは嫌悪感で。 何が楽しくて、こんな不愉快な光景を見せられているのだろうか。 この人は一体、何をしたくてここに来たのだろう。 可能性には気付いていたが、敢えてそこを疑問にすることで、相手へと怒りを向ける理由を作っていく。「奥さんと離婚出来たら私と結婚出来るじゃん。元々付き合ってたんだし、丁度いいじゃない」 この人は一体、何を言っているのだろう。そこかしこで見るイメージとは異なり、今の彼女はどことなく我が儘な子どものように見えてしまう。確かに目の前に居るのは四埜杜繭という女性なの







