登入そこから先の時間の流れは、驚くほど早いと海亜には感じられるものだった。
結婚の申し出を受けると返事を返してから数日後のことだ。
「久しぶりだね、海亜」
再び実家に呼び戻された海亜に会いに来たのは、誰よりも再会することを夢でみて、それ時が来ることををずっと願っていた人物である。
「…………あ……」
一方的に姿を見かけることは何度かあった。しかしこうやって、互いに顔を合わせ言葉を交わす。そんな機会は長いこと訪れなかった、そんな相手。その人物が今、こうして目の前に立ち存在して居る。そうなって欲しいと望んでいた状況に、無意識に海亜の心が踊ってしまうことは仕方の無いことで。感じて溢れる喜びというものは隠そうとしても難しい。現にほんのりと紅の差す頬と緩んだ口元を見れば、どれだけ彼女がこの再会を嬉しいと感じているかなど見て直ぐに分かってしまう程だった。
仲の良かったあの頃は随分と遠い思い出。記憶の中のものとは随分と変化している互いの容姿に、互いに過ごした時間の長さを思い知らされる。勿論、子供の頃の面影が完全に消えて無くなったわけではない。それでも、思った以上に高くなっている背丈のせいで、昔は同じ高さだった昴と海亜の目線は大きなズレが生じ、今ではこうやって幼馴染みの顔を見上げなければ視線を交わす事が出来ない程、差が開いてしまっている。それでも意を決して彼の方へ視線を向けると、目の前の昴の表情は意外にも柔らかく、彼女に対して悪い印象を持っているという雰囲気では無かった。
「昴お兄様も……お久しぶり、です」
立派になってしまった幼馴染みに、今の自分を見られる事が恥ずかしい。何も悪いことをしている訳では無いのだが、勝手に感じた羞恥心から慌てて視線を逸らすと、海亜は困ったように眉を寄せ俯き自らの爪先をだけをじっと見つめる。
「元気そうで良かったよ」
そんな海亜の気持ちを汲み取ってくれたのだろうか。無理に距離を詰めることはせず落ち着いたトーンで話しかけた後、あの頃と同じように温かい手で、昴は静かに海亜の頭を撫でた。
「会いたかったよ、海亜」
「昴……兄様……」
耳を擽るのは心地の良いテノールである。
「こうして、お話をすることは久しぶりですね」
以前はもっと自然に掛けられた言葉も、人との付き合いが苦手になってから使い続けた敬語のせいでどことなく他人行儀になってしまう。
「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ」
どうやらこのことは昴も気になったらしい。少しだけ見えた表情の陰り。それに海亜は申し訳なさを感じ慌てて口を開いた。
「べ、別に、お兄様とお話することが嫌だからこんな言い方になってしまってる訳じゃ無いんです!」
伝えようとすればするほど、言葉は大きく空回り。
「私……あの……」
誤解されたくないという気持ちが焦るほど伝えたい言葉を吐き出すことが難しく、身体の内側が驚いたことでしゃっくりが出てしまう。
「わた……ヒック……ちが……ヒッ……」
始めからこんな恥ずかしい姿を見せるつもりは無かった。穴があったら入りたい。そう思ったらもう駄目で、海亜は両手で顔を覆うと、昴の視線から逃れるようにしてその場でしゃがみ込み小さくなってしまった。
「ヒッ……ヒック……ヒック……」
今すぐしゃっくりを止めたい。だが、身体はその思いに応えてくれない。簡単に主のことを裏切る臓器に対し恨みを抱きながら苦しさで溢れる涙を拭う。
「大丈夫。大丈夫だから、落ち着いて」
ふわり。と、動く空気。
「……ひっ……」
鼻を擽ったのは透明感のあるシトラスの香り。その中に混ざる微かなムスクは主張の控えめで海亜が好きだと感じるものだ。
「大丈夫。大丈夫」
包み込まれるようにして一定のリズムで叩かれた背中に、少しずつ呼吸が緩やかに変わっていく。
「焦らないで。ほーら。深く深呼吸だよ、海亜」
言われる通りゆっくりと肺に空気を送り込む。苦しいと感じる手前で一度息を止め、少しずつ膨らませた身体の中の風船から空気を抜いていくと、無意識に張っていた筋肉から少しずつ力が抜け、大分気持ちが楽になっていく。
「吸って…………次は、吐いて………」
耳に優しいテノールがそう繰り返す度、大きくて暖かな手が一定のリズムを保って海亜の背を労るように軽く叩きながら撫でていく。
「そう。焦らないで……少しずつ、呼吸を繰り返すんだ」
トン、トン、トン、トン。
まるで緩やかな音を奏でるように、心地良い音が海亜の心を落ち着かせていく。
「苦しいなら僕にしがみついても良いからね?」
背中に回されていた両手の内、右の腕がゆっくりと離れると、一度海亜の頭を撫でた後で静かに彼女の左手を摑み握り込んだ。
「大丈夫だよ。僕は、ここに居るから」
手を引っ込めるよりも早く指先が触れたもの。
「ほら。ちゃんと触れるだろう?」
少しだけ堅い弾力に慌てて顔を上げると、とても近い距離で海亜を見て微笑む昴の顔が目の前にあった。
「落ち着くまでこうしているから、焦らないで。ね? 海亜」
先程とは別の意味で驚いたが、忘れそうになった呼吸に息苦しさを感じ、海亜は慌てて大きく息を吸いゆっくりと吐き出す。
「昴……お兄様……」
遅れてきた実感と、触れても良いとされたことに対しての喜び。
「これは、本当に夢なんかじゃ……ないんですよね?」
それでも未だ信じられないと海亜は困ったように眉を下げる。
「君自身の手でこうやって、僕に触れているだろう? それなのにそれが夢だって。そう思いたいのかい?」
何処までも現実として受け入れようとしない海亜の態度に、沸いて出たのは悪戯心だったのだろう。呆れたように口角を上げると、昴は幼い頃にしたものと同じく、口を尖らせてそっぽを向きながら海亜を軽く睨む。
「夢だなんて、全然思いたくは無いんです!!」
せっかくこうやって昴から触れてくれているのだ。離れていって欲しくないと願う海亜は慌てて昴の手を取ると、必死に首を振ってその言葉を否定していく。
「勿論、これが現実であると願っているのが本音です! ただ……その……結婚の話が余りにも唐突すぎて、未だに実感が湧かないというか……」
「そうだね。確かにそれが、君に伝わるまでの時間が短すぎた事は否定出来ないかな」
海亜の言い分を否定するつもりはないらしい。彼女の訴えに素直に首を縦に振ると、昴は一言「ごめんね」と彼女に謝る。
「ただ、今のタイミングで言わないと、多分結婚しようと言い出しにくくなってしまう、と。そう思ったんだ」
「……え?」
意外な言葉に驚きで目が見開く。そんな海亜に対し、昴は恥ずかしそうに頭を掻きながらこう言葉を続ける。
「君と結婚したいと言ったのは僕の本心からだよ。誰かに言わされたとか、他人に強要されて結婚を決められたとか。そんなことは一切無いと誓う」
「……あの……それって……」
「だから、安心してくれるかい? 海亜」
欲しいと思った言葉は、次から次へと海亜へと降り注ぐ。
「海亜?」
ここまでくると逆に、騙されていると言われた方が信じやすい。それでも、真摯に向き合おうとしてくれる彼のことを、疑うなんてしたくない、と。囚われそうになった疑心を振り払うと、海亜は決意したように顔を上げ、真っ直ぐに昴を見つめて思いを伝える。
「信じます! 私は、昴兄様の言葉を信じていますから!」
「良かった」
海亜の返事に安心したのだろう。昴の方も緊張が途切れたように表情が緩むと、海亜の肩に額を乗せ小さく息を吐いて瞼を伏せる。
「そう言って貰えると嬉しいものだね」
しばらくの間、言葉を交わす事無く互いに笑い合う。離れていた時間を埋めるように少しずつ近づく距離はむず痒く、それでいてほんのりと温かいもので。
「それで、しゃっくりは止まったの?」
言われて軽く胸を叩くと、感じていた息苦しさは完全に消え失せており、海亜は嬉しそうに顔を綻ばせて見せた。
「止まったみたいです」
「それなら良かった」
このハプニングをきっかけに、海亜は大分昴と言葉を交わすことに抵抗を無くしていく。再会を果たした当初は他人行儀で堅かった口調も、今では癖で出てしまう程度の硬さに止まり、逆に笑顔が増えたことで砕けた物言いで言葉を返す事が増えた。
「そうか。海亜はセンスが良いね」
今は婚姻を形にするために行うレセプションについて、どうしたいのかを相談しているといったシチュエーション。
「あっ。でも、昴お兄様の好みも反映したいので、何かあれば教えて欲しいんです」
幸せな結婚を諦めていた海亜だったが、結婚に対して憧れを失った訳では無い。だからこそ、今、こうやって、本当に好きな相手とその思いを形に出来る儀式の事を考えるのはとても楽しいと感じてしまう。
「そうだね……僕は例えばこんな感じで……」
話し合いに夢中になればなるほど、時が過ぎるのはあっという間だと誰が言っただろうか。
「あ。でも、私はここはこうしたいと思うんですが……」
お互いに譲れない場所ははっきりと呈示し、譲歩出来る場所は妥協点を探りながら方向性を決めていく。これは二人が夫婦になるための始めての共同作業。
「とりあえず大まかなことを決めたら、あとはプランナーを交えて詳細を詰めていこうと思うんだけど……」
昴は決して無理強いをしてこない。
「私もそれが良いと思ったところです」
だからこそ、海亜は素直に昴の言葉を受け入れ、彼の期待に応えたいと必死に頭を働かせる。
「日程については、君が問題無いならこのくらいの期間までには決めてしまいたいのだけれども……」
「でも、結婚の話が出てから直ぐだと、逆に周りが驚いたりしませんか?」
「まぁ、驚く人も中には居るんだろうけど、大抵は気にしないと思うよ」
「それは、何故?」
「だって、考えてみてご覧。僕たちの幸せなんて、他人からしたら日常で流れる時間の通過点の一つでしかないんだよ? だから、僕が誰と幸せになろうと、第三者から口を挟まれる筋合いは無いんだ。僕が選んだのは君だよ、海亜。それに対して文句を言う奴が居たら、僕がそいつを懲らしめてやるよ」
約束する。
その言葉は軽い冗談だったのかも知れない。
「本当に?」
だからこそ、海亜はそれを重たいものだと受け止める事はせず、冗談を言われたかのように軽く受け流して笑う。
「本当だよ。信じないの?」
他愛のない会話。
「勿論、信じてるわよ。昴兄様」
それでも、確かにこの時は『幸せ』だと感じ、心から美しい笑顔を海亜は浮かべることが出来たのだった。
「そこは難しい問題じゃない?」 先程まで裏切りだ! 離婚だ! と盛り上がっていたはずの上司は、急に真剣な口調でこう続けた。「どうするかを決断するのはその人自身だけど、一時の感情で決めるのか、状況を確認した上で冷静に判断するのかで結果は変わるでしょう?」 小さく音を立てて転がるグラスの中の氷。それをストローで弄びながら、上司はそっと表情を和らげ小さく溜息を吐く。「何がその人にとって最善なのか。それを知るための方法は探せば出て来たりするじゃない?」 そう言われて海亜は思わず固まってしまう。「そ……う……です…かね?」 明らかに震えてしまう声。本音を悟られないように適当に笑って誤魔化すと、上司は少し黙った後ですっと視線を逸らしながらこう続けた。「もしその人が、まだ旦那さんのことを信じたいって思っているのなら、感情的になって終わらせる前に足掻いてみる事も大事なのかもしれないよね」 そこで訪れる休憩時間の終わり。これ以上はこの話題を話すことなく、職場に戻ると作業に取りかかる。手を動かしながら考えるのは先ほど言われたばかりの言葉で、そのことが妙に気になって仕方が無い。 もしかしたら、彼女は気付いていたのかも知れない。 この話が海亜自身の事を語っているのだと言うことに。 だからこそ、敢えて「考えてみなさい」と言葉を残したのだろう。「今までは、色んな事を誤解してた……のよね……」 この数ヶ月の間に、海亜を取り巻く環境は著しく変化を続けている。それは周りの動きが想定外の動きをしているという部分もあるが、何よりも海亜自身の心が変化してきているという部分が大きい。 幼少期の出来事により内側に閉じこもり、何も見ず、何も聞こうとしなかったせいで大きくなっていく蟠り。それは彼女自身の間違った認識と思い込みがそうさせていたもので、もっと広い視野で見れば全く異なる面を見せていたことに気付けたということはかなり大きい。「もしかしたら、昴さんの件も……」 何か誤解していることがあるのかも知れない。 離婚という言葉を伝えた後から感じる変化。今まで、海亜の世界は昴を中心に回っていたのだが、それ以外の部分に目が向き始めたことで彼との距離が遠くなる。少しばかりの開放感と、彼に対しての未練で揺れる心は、実のところ未だ答えが出せないまま放置されている状態だ。 ただ、許せない
もっと器用に生きることが出来る人間だと思っていた。 しかし、それ自体が自らの驕りであることを嫌と言うほど思い知らされる。 自分なら大丈夫。自らの行動が自分自身を窮地に立たせていく。そんな考えは早く捨てるべきだったのだと後悔したところでもう遅い。 あの後、久しぶりにあった海亜と言葉を交わす事が出来た。内容なんて明るいものは一切無く、見せられる拒絶に心が抉られてしまう。それは誤解なんだと幾度となく訴えようとしたが、一度拗れたものを訂正することは難しく、旭や陽菜の事もあり、結局誤解は解けないまま解散となってしまった。 海亜から突きつけられたのは離婚についての話し合いについて。日時を設定するから、その時に改めて話合いましょうと切り捨てられた。 勿論、昴の方から彼女に離婚を切り出すつもりも、それに頷くつもりも無い。ただ、妻の表情を見る限り、縋ることで関係が改善出来る見込みは限りなく薄い事に気付いては居る。「覚悟……決めた顔してた」 女性は決断すると早い。その言葉を言っていたのは、一体誰だったのだろう。 女性の忍耐には限界がある、と。酒の席でその人はこう語っていたように思う。『女ってのはな、我慢出来るやつと我慢しないやつが居てな』 普段は滅多に見せない相手の一面。随分と酒に酔ってしまっていたのだろう。その人が語るのは、彼が実際に体験した出来事のようで、その言葉から滲み出ているのは明らかな後悔だった。『我慢しないやつはまだ良い。ぶつかり合えば修復が出来る可能性もあるからな。でもな、一条さん。我慢をしちまうやつはどうしようもない』 そう言って傾けたグラスの中で、氷がぶつかり小さな音を立てる。『我慢してる間は分かんないんだよ。我慢してるってことを隠すから。でも、それが一度でも爆発しちまうと、そういう女は簡単に覚悟を決めちまうんだ。そして決断するんだよ。自分に取って最善が一体なんなのかってことをな』 残っていた中身を一気に煽ると、その人は寂しそうな顔で自らの薬指を撫でる。『絆なんてもんはなぁ……案外脆いものなんだ。自分は大丈夫って思っていても、それは単なる思い上がりでしかなく、相手の取っちゃあ都合の良い言い訳にしか見えねぇらしい』 そこに残るのは確かに、婚姻を示す一つのリング。『こんな分かりやすい形で示しても、それがずっと効果があるって訳じゃ無い。
「昴義兄……さん……?」 聞き覚えのある声に無意識に肩が跳ねてしまう。「何で、ここに」 ゆっくりと振り返ると、背後には見知った一人の青年が立っていた。「久しぶりだね、旭くん」「あ、どうも」 小さく頭を下げたのは社交辞令みたいなものだろうか。数ヶ月ぶりに会う義兄と義弟。お互い突然の再会に驚きはしたものの、昴の直ぐ傍にる女性の存在に気が付くと、旭は嫌そうに表情を歪めて見せた。「ここで、何をしてるんですか?」 露骨に見せられた嫌悪感から感じるのは拙いという危機感で。咄嗟に繭を引き離し「何も無い」と訴えるのだが、そんなことは逆効果にしかならない。何も出来ずただ黙っていると、相手は呆れたような口調でこう告げる。「まさか、不倫?」 それは明らかな勘違いだ。 ただ、この状況において、そのように見えてしまうことは否定が出来なかった。「最低ですね」 彼が何を言いたいのかは痛い程よく分かっている。「姉さんとまだ離婚していないはずでは?」「…………っ」 そう言われ思わず逸らす視線。こうなると益々誤解が深まることは分かっていたが、どうしてこうなっているのかを説明をするタイミングは、少なくとも四埜杜繭が隣に居る今では無いことも分かっている。 早急に問題を片付け誤解を解かなければ、取り返しの付かない事になってしまう。そんな焦りから口を開こうとした瞬間、旭が真っ直ぐ睨み付けながらこう呟いた。「あなたのことは尊敬していました」 軽蔑を含んだ視線。それがとても痛い。「何があったのかは姉さんから聞いていましたが、正直、信じられませんでした。だって、あなたは姉さんのことをとても大切にしていたから」 今でも大切にしている。そう訴えたいのに、彼は此方に話す機会を与えてはくれず、更に言葉を続けていく。「あなただったら姉さんを幸せにしてくれると思っていた。俺達が出来なかった事を、あなたならできるはずだって思っていたのに、何でそんな風に姉さんを裏切ることが出来たんですか?」 一度だって不幸にしたいと思ったことは無い。ただ、それは、昴の一方的な主張でしかなく、その気持ちが海亜に伝わることは無かったのだから、言い訳にしか聞こえないことだろう。「姉さんの幸せを思うなら、早く彼女を自由にしてあげてください」 まるで恋人を守る騎士のように凛とした態度で、年下の青年からそう
特に何かを思っていったわけではなく、無意識に出た言葉。「そっ、それは、良いけど……」 ただ、こんな反応をされるのは予想外で海亜は戸惑ってしまう。「迷惑だったら無理をしなくても良いんだけど」 だからこそついこう言ってしまったのだろう。するとどうだろうか。先ほどまで俯き視線を合わせようとしなかった旭が、傷ついた表情を浮かべながら唇を噛んだ。「え?」 一体どういうことだろう。訳が分からず言葉を探していると、隣から上がる楽しそうな笑い声。「違うよ、お姉ちゃん」 陽菜の方へと視線を移すと、笑いが堪えられないとでも言うように口元を押さえながらも、眼を細めながらこう続ける。「旭はただ照れてるだけ。ホントは一緒に行きたいんだよ〜」「陽菜っっっ!!」 大きな音を立てて倒れる椅子。素早く伸びた腕が妹の手を掴もうと動く。「わーっっ! 暴力反対ー!」 慌てて席を立った陽菜がすんでの所でそれを交わす。「逃げるな!」 突然始まる追いかけっこ。取り残された海亜はその光景をぼんやりと眺めていたが、次第に面白くなり声を出して笑ってしまう。「あははっ」 海亜の笑い声を聞いた二人の動きがピタリと止まる。「二人とも、喧嘩をしちゃ駄目じゃない」 一通り笑ったところで涙を拭うと、海亜は改めて二人に向き合いこう提案を出した。「今週末、二人とも私に付き合いなさい」「え?」「陽菜はその時に靴を買うの。旭はそうね……本でも買おうか?」 数日前に千明から聞いていた旭の欲しいものを思い出し、どうかなと問いかける。「そ、そりゃあ、欲しいけど」 欲しいものを買おうかという提案に旭の心が揺らぐ。それを見逃すことはせず、海亜は一気に畳み掛ける。「それじゃあ、それを買いに行こう! そして、昼ご飯はみんなで外で食べる。良い?」 そう言われて陽菜は分かりやすく賛成の声を上げる。旭の方も悩むそぶりは見せたものの、最終的には分かったと頷き頭を掻いた。「あっ。旭、本当は嬉しいんだ〜」「うるさいっ!」 陽菜の言葉通り不機嫌そうに見えるのは表だけで、口元だけは満更でもないように緩んでいるのだからなんだか可愛く思えて仕方が無い。「じゃあ、決まりね! 二人とも、よろしく」◆ これで何度目の呼び出しになるのだろうか。「…………はぁ」 朝から続く頭痛と倦怠感。隣に陣取るのは扱いに
『あの人が戻ってくることは考えなかったのですか?』 以前、千々石にそう言われたことがある。「考えなかった訳じゃねぇよ」 確かに四埜杜繭という女性が、再び現れる可能性を考えなかった訳では無い。ただ、何故彼女が忽然と姿を消したのかという理由を調べて得た情報と、国外で成功して順調であるという報告が届いて居たため、直接関わることがないと高を括っていたのだ。「気の緩みがあったんだろうな」 自らの選択で首が絞まっていく。一度捕まると逃げ出すことに苦労をする事など分かっていたはずなのに、あの頃とは状況が違うと信じたかったのかも知れない。「待っていてくれ、海亜……」 一階のロビーに着くと、不機嫌そうに受付の女性へと八つ当たりを繰り返す繭の姿が見え気が重くなる。「あっ! 昴!」 待ち望んでいた人物が現れたことで彼女の表情は一瞬にして喜びで満ちる。それを見て感じるのは非常に複雑な思いだった。「この人達ってば、最初から約束してるって言ってるのに、コチラでお待ち下さいって言って全然通してくれないんだよ! ヒドくない?」 素早く伸びる白い腕が昴の左腕に絡みつく。明らかにおかしい距離感に無意識に身体を離し距離を取ろうと動くが、それを許さないと言わんばかりに密着され、彼女の身に纏う香りに顔が歪んだ。「でもいいや。こうやって直ぐに降りてきてくれたしぃ。繭ってばほんっと昴に愛されてるんだね」 このポジティヴさは一体どこから出てくるものなのだろうか。何も答えず黙っていても、彼女は勝手に話し続け昴のことなど見ても居ない。「ほら〜、早く行こうよぉ〜」 そして極めつけの甘えるような猫撫で声。上目遣いでねだるようにアピールしてくる彼女をちらりと見たが、表情を変える事無く昴は直ぐに視線を別の場所へと移した。「買い物には付き合う約束はしていたが、こちらにも予定というものがあるんだ。スケジュールが押してるし、早く済ませてくれないか?」 契約上無碍には出来ない。だからこそ妥協出来る部分の付き合いは行う。しかし、それ以上に付き合いを一切するつもりはないと態度に出すと繭の表情が凍り付いた。「……へぇ。そんなこと言うんだぁ」 ほんの僅かな間に漂う不穏な空気。「まぁ、いいや」 しかし、そんなことは気にしないと言いたげに満面の笑みを浮かべると、繭は早く行こうと昴をせっつく。「時間無
「ねぇ……これって、本当に大丈夫なのかなぁ……?」 その言葉を放ったのは確かに女性の声だった。 慌てて周囲を確認してみても声の主を特定することは難しく、一体誰がその言葉を口にしたのかが分からない。ただ、その内容から考えるに、どうやら起こった事故は偶然などでは無いという可能性が浮上してくる。「そんな……まさか」 何となく思い当たる節はある。しかし、実際にそうだという確証は得られない。事故なのか事件なのか分からないまま数日が過ぎていく。 学生服では無い制服を見る度に焦燥感に駆られるのだが、子どもの力など出来る事に限界があるのも事実で。 結局、昴自身がこの事件について捜査できることは無く、いつの間にか事故という形で収束が付いてしまった騒動は、真実は有耶無耶になって終わってしまった。 あの日以来、明らかに変わったことがあるとすれば、あれほど仲が良かった後輩がいつの間にか学校から居なくなってしまったと言う事だろう。理由が分かっている分、何も言えないもどかしさだけが残るが、こればかりはどうしよもない問題だ。 守ってあげられなかったという現実は重く、昴の中に大きな痼りを残す。 この頃になると不機嫌だった繭の機嫌は直り、再び昴の周りをうろつき始めたのだが、後輩を突き落とした真犯人が彼女だという疑惑がある以上、あからさまな突き放しは次なる悲劇を引き起こす引き金になるかも知れない。その恐怖から表立って波風を立てることはせず、昴は繭に必要以上に関わらないようにすることで己を保ち日々を過ごす。 その間、後輩の事故のことは出来る範囲で調査を続けてはいたのだが、思ったような結果を出すことが出来ず完全に行き詰まってしまっていた。 一方、繭の方はと言うと、昴の傍から女子生徒の影が消えたことに上機嫌だった。自らが唯一の彼女であると吹聴し、家名を出して家柄の差を周囲に見せる。一条と釣り合うのは四埜杜だとでも言うように。 その努力の甲斐があってか、昴に必要以上に近づこうとする女生徒は現れず、必ず繭の同席が無い蹴れば会話をする事が出来ない。例外として女性教師はその条件に当てはまらないものの、それでも四埜杜とう名前に怯えたのだろうか。連絡事項や重要な報告以外は言葉を交わすこと無く、それ以外は男性教師を間に挟んで言葉を交わす始末。こうやって徹底的に女という存在を排除する事により、