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06

Author: 仲原
last update publish date: 2026-07-06 15:49:00

 白を基調とした室内には、アクセントカラーとして黒やダークブラウンなどの家具がバランス良く配置されている。それらは割とシンプルなデザインのもので露骨な派手さは無く、全体的にシャープな印象になるよう統一されているものだ。

 部屋の中央にはガラス製のローテーブル。それに併せるように色を選んだゆったりとくつろげる広めのソファは座り心地が良さそうなもので。テーブルの中央に置かれた碧のグラデーションが美しい花瓶の中にはこの時期の花である紫陽花と霞草の組み合わせ。それらは寄り添うようにして咲き、見るものの表情を自然に笑顔へと変えてくれる。

「ふふっ」

 少し硬めのクッション。そこに腰を下ろしすらりとした足を組む海亜の手元にあるのは、一枚のウエディングフォトである。

「また見ているのかい?」

 顔を上げると、帰宅したばかりで着ていたスーツを脱ぎながら笑う昴と目が合う。

「大好きな写真なんです」

 アンティークな彫刻で装飾を施したウォールナットのフレーム。その中に収められているのは、切り取られた二人の過去の姿である。過去とはいってもその記憶は新しく、未だ色鮮やかに海亜の中に残っている。

「君に喜んでもらえるような式になって良かったよ」

 ソファの背もたれに上着を掛けると、身を屈めて近づける顔。大きくて無骨な手は海亜の顎に添えられ、軽く持ち上げられ角度を付けたところで、相手の唇が軽く触れる。

「ただいま、海亜」

「お帰りなさい。昴兄様」

 このスキンシップには、いつだって驚かされてしまう。それでも海亜にとってこの瞬間はとても嬉しいと感じるもので、静かに瞼を伏せると仄かに伝わる暖かさを素直に受け入れる。それは、時間にするととても短いものだったのかも知れない。それでも時の進みを自覚しなければ、一瞬が永遠になるような錯覚を味わえるため、表情が和らぐのだ。それでも終わりの時は必ず来てしまうもので。柔らかな感触が去って行くと、少し濡れてしまった唇は、外気に冷やされ冷たくなってしまった。

「あ」

 そこで漸く瞼を開く。目の前には楽しそうに笑う伴侶の姿。実にくすぐったい関係に困ったように笑うと、海亜は持っていたフォトフレームをテーブルに置き、ゆっくりと立ち上がって昴の上着へと手を伸ばす。

「こーら、海亜!」

「え?」

 そんな海亜を制止するかのように昴が腕を伸ばす。

「兄様、じゃないだろう?」

 長い腕はいつの間にか海亜の腰へ触れる。軽く引き寄せられ開いていた二人の距離が詰まるように身体を密着させると、昴の長い指が海亜の唇を軽く叩き言葉の訂正を求められてしまった。

「僕は君の兄というポジションに収まるつもりは無いよ?」

 一瞬の沈黙。

「す……すばる……お……」

 婚姻関係が成立してからというもの、昴は海亜に『兄』と呼ばれることを極端に嫌がるようになった。彼女からしてみれば長年染みついた癖のせいで、意識しなくともそう言ってしまうことに毎度指摘が入るといった状態。油断すると直ぐに『兄様』と口から出てしまうのだから、そうならないようにすることの方が大変で仕方が無い。

「お?」

 夫婦となって未だ数週間。今日もまた馴れない呼称に悪戦苦闘。

「す……すばる……」

「うんうん」

 たった一人の名前を呼ぶことが、こんなにも大変なことだと結婚して初めて知った。

「す……すばる……さん!」

  最終的には目を瞑って、勢いよくその名を呼ぶ。語尾に『さん』が付いてしまうのは、これが現時点での彼女の精一杯だからである。

「本当は『さん』もない方が良いんだけど……」

 案の定、その部分は昴も引っかかったらしい。それでも己の腕の中で、顔を真っ赤に染めて必死に期待に応えようとする彼女が可愛くて、昴はご褒美の代わりに額へと唇を落としながらこう続ける。

「兄から脱却出来たから、今はこれで満足してあげようかな」

「……もうっ!」

 からかわれたのだと気付いた海亜が小さく拳を作り、昴の広い胸を弱い力で叩く。

「そんな意地悪をするなら、もう名前を呼んであげませんから!」

 形の良いかわいらしい顔は、膨らませた頬によって随分と幼い印象を与える。伏せ目がちの長い睫は小さく揺れ、潤んだ瞳で昴の行動を非難するように睨み付けるが、勿論それに凄みなんてものはなく、逆に可愛いとすら思えるほどだ。

「悪かったよ」

 そうやって拗ねる癖は幼い頃から変わらないんだな、と。確かに己の腕の中に感じる柔らかい感触に口元を綻ばせながら昴が謝る。

「それじゃあ、どうしたら機嫌を直して下さいますか? お姫様」

 腰に添えていた腕を解くと、昴は一歩下がって右手を差し出す。

「どうしようかしら」

 端から見れば少し恥ずかしいやりとり。だが、ここは二人の新居で、野暮ったいギャラリーは存在しない。

「旦那様が夕飯を用意して下さるのなら、曇ってしまった私の機嫌は直るかもしれませんね」

 逞しく大きな手に柔らかく小さな手が重なる。軽く触れるだけで引っ込めるつもりだったそれは、逃がさないと昴の指に捉えられ、誘われるまま海亜はキッチンへと歩き出す。

「料理は海亜の方が得意じゃなかったっけ?」

 数歩前を歩く昴は何を作れば良いのか悩んでいるようだ。

「今は、昴さんの作ったものが食べたい気分なんです」

 誰かのための料理。それは海亜にとって余り馴染みの無いもの。昴と時間を共有するようになってからその頻度は確かに増えたが、今まではたった一人で食卓に並べた質素なものを摘まむことも多かった。

「僕は海亜の作ったものを食べる方が好きだけどね」

 キッチンまでの距離はそれほど遠いわけでは無い。あっという間に付いた目的地で、繋がれていた二人の手はいったんサヨウナラ。

「何を作れば良いかなぁ?」

 ペニンシュラキッチンの内側で食材を探す彼の背中を眺めながら、海亜は優しく微笑む。

「メニューを決めるところから試験はスタートしてるんですよ」

「え!? これって、試験なの!?」

「ええ」

 カウンターに寄りかかり、海亜は頬杖をついて彼の行動を眺める。

「冷蔵庫にある食材は自由に使っても構いません。失敗してもちゃんと頂くので安心して作って下さいね」

「うわぁ……それはそれですごいプレッシャーだなぁ」

 背後から感じる視線に萎縮したのか、昴の動きは思った以上に鈍い。

「毎日の献立を考えるのって、思った以上に大変でしょう?」

 それが面白くて口元を押さえると、鈴を転がしたような声で海亜は笑いヒントを出した。

「包丁を使わなくても簡単に作れる料理にしてみると、以外とあっさり形になったりするかもしれませんよ?」

「そんな料理が出来るの?」

「ええ。そこに在る材料で、簡単に作れちゃいますから」

「そうなの?」

「はい」

 それを聞いて昴は再び、冷蔵庫の中身との睨めっこを開始する。冷蔵庫の前を彼の手が行ったり来たり。あれじゃない、これはどうだろう。そんな独り言を呟きながら、手に取った食材を眺めて首を傾げるのが実に面白い。

「食材が有ることは分かるんだけど、どうやって調理すれば良いのか思いつかないんだけど」

 普段外食が多いせいか、彼の自炊能力はそれほど高くないようで。

「自分で料理はしなかったんですか?」

 敢えてそう訪ねると、昴は手に取ったバターケースを冷蔵室に戻しながら困ったように眉を下げた。

「恥ずかしいんだけど、実は、そうなんだ」

「クスクス」

 考えてもみれば、昴は一流企業の重役だ。現にこの家にも、家事の手助けをしてくれる契約者は存在している。その人は海亜が嫁ぐ前から彼に使える四十代の女性で、一条の家に雇われて長いと聞いた。海亜が嫁にきてからは今まで担っていた家事の一部を引き継いだのだが、夫婦が共に忙しいときは食事の用意をしてくれることも多い。

「まぁ、田中さんの作るものは本当に美味しいですしね。昴さんが料理が苦手なのも分かる気がします」

 馴れないことが瞬時に出来る訳では無い。そんなことくらい海亜にも分かっている。

「苦手でも作ってみようとしてくれたことが嬉しいので、合格です」

「え?」

「一緒に作りましょう、昴さん」

 結局、先に折れるのは海亜の方だった。ただ、それは諦めという感情では無く、もっと前向きな何かで。

「今日は茄子が安かったんです」

「うん」

「これを使って、包丁を使わない簡単な夕食を作ってみませんか?」

 料理初心者に複雑な工程をのものをお願いしても、作業の楽しさは伝わらないだろう。だからこそ、敢えて時短出来るお手軽なメニューを選択し道具を用意していく。

「それじゃあ昴さんは、ラップで茄子を巻いてくれますか?」

「任せて!」

 海亜から昴へと手渡された茄子は、あっという間に三本ともラップに包まれ耐熱皿の上に行儀良く並べられる。

「ラップに包み終わったらレンジに入れて、六百ワットで三分間、加熱お願いします」

「了解!」

 昴がレンジと格闘している間、海亜は冷蔵庫から挽肉を取り出し耐熱皿に半分だけ取り分ける。味付けは おろしニンニクとショウガがそれぞれ小さじいっぱいずつ。チューブを押すと簡単に必要な分を取り出せるから便利である。辛みの素は豆板醤で、辛いものが好きな昴のために少しだけ多めに皿の中へ。後は酒、砂糖、醤油と鶏ガラスープをそれぞれ足していき、最後に水を加えたら全体的に馴染むように混ぜていく。

「茄子が温まったよ!」

「それじゃあその茄子を水に晒して粗熱を取って下さい。その後にヘタの部分を取り除いて食べやすいサイズにまで割いて欲しいです」

「分かったよ」

 いつの間にか、昴の口から流れる旋律。

「あ。この歌」

「え?」

「子供の頃、兄様がよく歌ってくれた歌ですね」

「覚えていたんだ」

「ええ」

 その歌は昴の母親が好きな歌手の楽曲で、母親がよく口ずさむから自分も覚えたんだと言っていたものだ。

「遊びに行くたび歌ってくれるから、私も覚えたんですよ」

「そうか」

「はい」

 空いたレンジには、海亜が作っていたタレに片栗粉を混ぜた状態で入っており、肉に火が通るまで加熱されている。そうこうしている間に、手元の茄子は手頃なサイズに変わり増えた量。

「それじゃあ仕上げましょうか」

 昴が準備した茄子と海亜が作ったタレ。それらを一つにしてから更に混ぜ、器に盛璃付けて完成。

「麻婆茄子だ」

「そうです」

 自分で作ったものが食卓に並ぶ。それが嬉しいのだろうか。

「海亜! 早く!」

 両手で大事そうに皿を持つとダイニングテーブルの真ん中に配置し、昴は海亜のことを手招きで急かす。

「待って下さい」

 白い御飯をよそった茶碗は二つ。取り皿と箸もそれぞれ二つずつで、取り分けるための大きなスプーンは一つだけ。それらをトレイに載せ移動すると、メインの麻婆茄子を囲むようにそれらを配置していく。

「それじゃあ、頂きますを……」

「もう少し待って下さいね」

 最後に冷蔵庫から冷えたお茶を取り出すと、小さなガラスのコップに注ぎ漸く椅子に着き両手を合わせる。

「いただきます」

 ふんわりと鼻を擽る良い香り。「美味い!」と舌鼓を打つ昴の反応に海亜も笑うと、ゆっくりとした時間と共に食事は進んでいった。

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