LOGIN白を基調とした室内には、アクセントカラーとして黒やダークブラウンなどの家具がバランス良く配置されている。それらは割とシンプルなデザインのもので露骨な派手さは無く、全体的にシャープな印象になるよう統一されているものだ。
部屋の中央にはガラス製のローテーブル。それに併せるように色を選んだゆったりとくつろげる広めのソファは座り心地が良さそうなもので。テーブルの中央に置かれた碧のグラデーションが美しい花瓶の中にはこの時期の花である紫陽花と霞草の組み合わせ。それらは寄り添うようにして咲き、見るものの表情を自然に笑顔へと変えてくれる。
「ふふっ」
少し硬めのクッション。そこに腰を下ろしすらりとした足を組む海亜の手元にあるのは、一枚のウエディングフォトである。
「また見ているのかい?」
顔を上げると、帰宅したばかりで着ていたスーツを脱ぎながら笑う昴と目が合う。
「大好きな写真なんです」
アンティークな彫刻で装飾を施したウォールナットのフレーム。その中に収められているのは、切り取られた二人の過去の姿である。過去とはいってもその記憶は新しく、未だ色鮮やかに海亜の中に残っている。
「君に喜んでもらえるような式になって良かったよ」
ソファの背もたれに上着を掛けると、身を屈めて近づける顔。大きくて無骨な手は海亜の顎に添えられ、軽く持ち上げられ角度を付けたところで、相手の唇が軽く触れる。
「ただいま、海亜」
「お帰りなさい。昴兄様」
このスキンシップには、いつだって驚かされてしまう。それでも海亜にとってこの瞬間はとても嬉しいと感じるもので、静かに瞼を伏せると仄かに伝わる暖かさを素直に受け入れる。それは、時間にするととても短いものだったのかも知れない。それでも時の進みを自覚しなければ、一瞬が永遠になるような錯覚を味わえるため、表情が和らぐのだ。それでも終わりの時は必ず来てしまうもので。柔らかな感触が去って行くと、少し濡れてしまった唇は、外気に冷やされ冷たくなってしまった。
「あ」
そこで漸く瞼を開く。目の前には楽しそうに笑う伴侶の姿。実にくすぐったい関係に困ったように笑うと、海亜は持っていたフォトフレームをテーブルに置き、ゆっくりと立ち上がって昴の上着へと手を伸ばす。
「こーら、海亜!」
「え?」
そんな海亜を制止するかのように昴が腕を伸ばす。
「兄様、じゃないだろう?」
長い腕はいつの間にか海亜の腰へ触れる。軽く引き寄せられ開いていた二人の距離が詰まるように身体を密着させると、昴の長い指が海亜の唇を軽く叩き言葉の訂正を求められてしまった。
「僕は君の兄というポジションに収まるつもりは無いよ?」
一瞬の沈黙。
「す……すばる……お……」
婚姻関係が成立してからというもの、昴は海亜に『兄』と呼ばれることを極端に嫌がるようになった。彼女からしてみれば長年染みついた癖のせいで、意識しなくともそう言ってしまうことに毎度指摘が入るといった状態。油断すると直ぐに『兄様』と口から出てしまうのだから、そうならないようにすることの方が大変で仕方が無い。
「お?」
夫婦となって未だ数週間。今日もまた馴れない呼称に悪戦苦闘。
「す……すばる……」
「うんうん」
たった一人の名前を呼ぶことが、こんなにも大変なことだと結婚して初めて知った。
「す……すばる……さん!」
最終的には目を瞑って、勢いよくその名を呼ぶ。語尾に『さん』が付いてしまうのは、これが現時点での彼女の精一杯だからである。
「本当は『さん』もない方が良いんだけど……」
案の定、その部分は昴も引っかかったらしい。それでも己の腕の中で、顔を真っ赤に染めて必死に期待に応えようとする彼女が可愛くて、昴はご褒美の代わりに額へと唇を落としながらこう続ける。
「兄から脱却出来たから、今はこれで満足してあげようかな」
「……もうっ!」
からかわれたのだと気付いた海亜が小さく拳を作り、昴の広い胸を弱い力で叩く。
「そんな意地悪をするなら、もう名前を呼んであげませんから!」
形の良いかわいらしい顔は、膨らませた頬によって随分と幼い印象を与える。伏せ目がちの長い睫は小さく揺れ、潤んだ瞳で昴の行動を非難するように睨み付けるが、勿論それに凄みなんてものはなく、逆に可愛いとすら思えるほどだ。
「悪かったよ」
そうやって拗ねる癖は幼い頃から変わらないんだな、と。確かに己の腕の中に感じる柔らかい感触に口元を綻ばせながら昴が謝る。
「それじゃあ、どうしたら機嫌を直して下さいますか? お姫様」
腰に添えていた腕を解くと、昴は一歩下がって右手を差し出す。
「どうしようかしら」
端から見れば少し恥ずかしいやりとり。だが、ここは二人の新居で、野暮ったいギャラリーは存在しない。
「旦那様が夕飯を用意して下さるのなら、曇ってしまった私の機嫌は直るかもしれませんね」
逞しく大きな手に柔らかく小さな手が重なる。軽く触れるだけで引っ込めるつもりだったそれは、逃がさないと昴の指に捉えられ、誘われるまま海亜はキッチンへと歩き出す。
「料理は海亜の方が得意じゃなかったっけ?」
数歩前を歩く昴は何を作れば良いのか悩んでいるようだ。
「今は、昴さんの作ったものが食べたい気分なんです」
誰かのための料理。それは海亜にとって余り馴染みの無いもの。昴と時間を共有するようになってからその頻度は確かに増えたが、今まではたった一人で食卓に並べた質素なものを摘まむことも多かった。
「僕は海亜の作ったものを食べる方が好きだけどね」
キッチンまでの距離はそれほど遠いわけでは無い。あっという間に付いた目的地で、繋がれていた二人の手はいったんサヨウナラ。
「何を作れば良いかなぁ?」
ペニンシュラキッチンの内側で食材を探す彼の背中を眺めながら、海亜は優しく微笑む。
「メニューを決めるところから試験はスタートしてるんですよ」
「え!? これって、試験なの!?」
「ええ」
カウンターに寄りかかり、海亜は頬杖をついて彼の行動を眺める。
「冷蔵庫にある食材は自由に使っても構いません。失敗してもちゃんと頂くので安心して作って下さいね」
「うわぁ……それはそれですごいプレッシャーだなぁ」
背後から感じる視線に萎縮したのか、昴の動きは思った以上に鈍い。
「毎日の献立を考えるのって、思った以上に大変でしょう?」
それが面白くて口元を押さえると、鈴を転がしたような声で海亜は笑いヒントを出した。
「包丁を使わなくても簡単に作れる料理にしてみると、以外とあっさり形になったりするかもしれませんよ?」
「そんな料理が出来るの?」
「ええ。そこに在る材料で、簡単に作れちゃいますから」
「そうなの?」
「はい」
それを聞いて昴は再び、冷蔵庫の中身との睨めっこを開始する。冷蔵庫の前を彼の手が行ったり来たり。あれじゃない、これはどうだろう。そんな独り言を呟きながら、手に取った食材を眺めて首を傾げるのが実に面白い。
「食材が有ることは分かるんだけど、どうやって調理すれば良いのか思いつかないんだけど」
普段外食が多いせいか、彼の自炊能力はそれほど高くないようで。
「自分で料理はしなかったんですか?」
敢えてそう訪ねると、昴は手に取ったバターケースを冷蔵室に戻しながら困ったように眉を下げた。
「恥ずかしいんだけど、実は、そうなんだ」
「クスクス」
考えてもみれば、昴は一流企業の重役だ。現にこの家にも、家事の手助けをしてくれる契約者は存在している。その人は海亜が嫁ぐ前から彼に使える四十代の女性で、一条の家に雇われて長いと聞いた。海亜が嫁にきてからは今まで担っていた家事の一部を引き継いだのだが、夫婦が共に忙しいときは食事の用意をしてくれることも多い。
「まぁ、田中さんの作るものは本当に美味しいですしね。昴さんが料理が苦手なのも分かる気がします」
馴れないことが瞬時に出来る訳では無い。そんなことくらい海亜にも分かっている。
「苦手でも作ってみようとしてくれたことが嬉しいので、合格です」
「え?」
「一緒に作りましょう、昴さん」
結局、先に折れるのは海亜の方だった。ただ、それは諦めという感情では無く、もっと前向きな何かで。
「今日は茄子が安かったんです」
「うん」
「これを使って、包丁を使わない簡単な夕食を作ってみませんか?」
料理初心者に複雑な工程をのものをお願いしても、作業の楽しさは伝わらないだろう。だからこそ、敢えて時短出来るお手軽なメニューを選択し道具を用意していく。
「それじゃあ昴さんは、ラップで茄子を巻いてくれますか?」
「任せて!」
海亜から昴へと手渡された茄子は、あっという間に三本ともラップに包まれ耐熱皿の上に行儀良く並べられる。
「ラップに包み終わったらレンジに入れて、六百ワットで三分間、加熱お願いします」
「了解!」
昴がレンジと格闘している間、海亜は冷蔵庫から挽肉を取り出し耐熱皿に半分だけ取り分ける。味付けは おろしニンニクとショウガがそれぞれ小さじいっぱいずつ。チューブを押すと簡単に必要な分を取り出せるから便利である。辛みの素は豆板醤で、辛いものが好きな昴のために少しだけ多めに皿の中へ。後は酒、砂糖、醤油と鶏ガラスープをそれぞれ足していき、最後に水を加えたら全体的に馴染むように混ぜていく。
「茄子が温まったよ!」
「それじゃあその茄子を水に晒して粗熱を取って下さい。その後にヘタの部分を取り除いて食べやすいサイズにまで割いて欲しいです」
「分かったよ」
いつの間にか、昴の口から流れる旋律。
「あ。この歌」
「え?」
「子供の頃、兄様がよく歌ってくれた歌ですね」
「覚えていたんだ」
「ええ」
その歌は昴の母親が好きな歌手の楽曲で、母親がよく口ずさむから自分も覚えたんだと言っていたものだ。
「遊びに行くたび歌ってくれるから、私も覚えたんですよ」
「そうか」
「はい」
空いたレンジには、海亜が作っていたタレに片栗粉を混ぜた状態で入っており、肉に火が通るまで加熱されている。そうこうしている間に、手元の茄子は手頃なサイズに変わり増えた量。
「それじゃあ仕上げましょうか」
昴が準備した茄子と海亜が作ったタレ。それらを一つにしてから更に混ぜ、器に盛璃付けて完成。
「麻婆茄子だ」
「そうです」
自分で作ったものが食卓に並ぶ。それが嬉しいのだろうか。
「海亜! 早く!」
両手で大事そうに皿を持つとダイニングテーブルの真ん中に配置し、昴は海亜のことを手招きで急かす。
「待って下さい」
白い御飯をよそった茶碗は二つ。取り皿と箸もそれぞれ二つずつで、取り分けるための大きなスプーンは一つだけ。それらをトレイに載せ移動すると、メインの麻婆茄子を囲むようにそれらを配置していく。
「それじゃあ、頂きますを……」
「もう少し待って下さいね」
最後に冷蔵庫から冷えたお茶を取り出すと、小さなガラスのコップに注ぎ漸く椅子に着き両手を合わせる。
「いただきます」
ふんわりと鼻を擽る良い香り。「美味い!」と舌鼓を打つ昴の反応に海亜も笑うと、ゆっくりとした時間と共に食事は進んでいった。
「そこは難しい問題じゃない?」 先程まで裏切りだ! 離婚だ! と盛り上がっていたはずの上司は、急に真剣な口調でこう続けた。「どうするかを決断するのはその人自身だけど、一時の感情で決めるのか、状況を確認した上で冷静に判断するのかで結果は変わるでしょう?」 小さく音を立てて転がるグラスの中の氷。それをストローで弄びながら、上司はそっと表情を和らげ小さく溜息を吐く。「何がその人にとって最善なのか。それを知るための方法は探せば出て来たりするじゃない?」 そう言われて海亜は思わず固まってしまう。「そ……う……です…かね?」 明らかに震えてしまう声。本音を悟られないように適当に笑って誤魔化すと、上司は少し黙った後ですっと視線を逸らしながらこう続けた。「もしその人が、まだ旦那さんのことを信じたいって思っているのなら、感情的になって終わらせる前に足掻いてみる事も大事なのかもしれないよね」 そこで訪れる休憩時間の終わり。これ以上はこの話題を話すことなく、職場に戻ると作業に取りかかる。手を動かしながら考えるのは先ほど言われたばかりの言葉で、そのことが妙に気になって仕方が無い。 もしかしたら、彼女は気付いていたのかも知れない。 この話が海亜自身の事を語っているのだと言うことに。 だからこそ、敢えて「考えてみなさい」と言葉を残したのだろう。「今までは、色んな事を誤解してた……のよね……」 この数ヶ月の間に、海亜を取り巻く環境は著しく変化を続けている。それは周りの動きが想定外の動きをしているという部分もあるが、何よりも海亜自身の心が変化してきているという部分が大きい。 幼少期の出来事により内側に閉じこもり、何も見ず、何も聞こうとしなかったせいで大きくなっていく蟠り。それは彼女自身の間違った認識と思い込みがそうさせていたもので、もっと広い視野で見れば全く異なる面を見せていたことに気付けたということはかなり大きい。「もしかしたら、昴さんの件も……」 何か誤解していることがあるのかも知れない。 離婚という言葉を伝えた後から感じる変化。今まで、海亜の世界は昴を中心に回っていたのだが、それ以外の部分に目が向き始めたことで彼との距離が遠くなる。少しばかりの開放感と、彼に対しての未練で揺れる心は、実のところ未だ答えが出せないまま放置されている状態だ。 ただ、許せない
もっと器用に生きることが出来る人間だと思っていた。 しかし、それ自体が自らの驕りであることを嫌と言うほど思い知らされる。 自分なら大丈夫。自らの行動が自分自身を窮地に立たせていく。そんな考えは早く捨てるべきだったのだと後悔したところでもう遅い。 あの後、久しぶりにあった海亜と言葉を交わす事が出来た。内容なんて明るいものは一切無く、見せられる拒絶に心が抉られてしまう。それは誤解なんだと幾度となく訴えようとしたが、一度拗れたものを訂正することは難しく、旭や陽菜の事もあり、結局誤解は解けないまま解散となってしまった。 海亜から突きつけられたのは離婚についての話し合いについて。日時を設定するから、その時に改めて話合いましょうと切り捨てられた。 勿論、昴の方から彼女に離婚を切り出すつもりも、それに頷くつもりも無い。ただ、妻の表情を見る限り、縋ることで関係が改善出来る見込みは限りなく薄い事に気付いては居る。「覚悟……決めた顔してた」 女性は決断すると早い。その言葉を言っていたのは、一体誰だったのだろう。 女性の忍耐には限界がある、と。酒の席でその人はこう語っていたように思う。『女ってのはな、我慢出来るやつと我慢しないやつが居てな』 普段は滅多に見せない相手の一面。随分と酒に酔ってしまっていたのだろう。その人が語るのは、彼が実際に体験した出来事のようで、その言葉から滲み出ているのは明らかな後悔だった。『我慢しないやつはまだ良い。ぶつかり合えば修復が出来る可能性もあるからな。でもな、一条さん。我慢をしちまうやつはどうしようもない』 そう言って傾けたグラスの中で、氷がぶつかり小さな音を立てる。『我慢してる間は分かんないんだよ。我慢してるってことを隠すから。でも、それが一度でも爆発しちまうと、そういう女は簡単に覚悟を決めちまうんだ。そして決断するんだよ。自分に取って最善が一体なんなのかってことをな』 残っていた中身を一気に煽ると、その人は寂しそうな顔で自らの薬指を撫でる。『絆なんてもんはなぁ……案外脆いものなんだ。自分は大丈夫って思っていても、それは単なる思い上がりでしかなく、相手の取っちゃあ都合の良い言い訳にしか見えねぇらしい』 そこに残るのは確かに、婚姻を示す一つのリング。『こんな分かりやすい形で示しても、それがずっと効果があるって訳じゃ無い。
「昴義兄……さん……?」 聞き覚えのある声に無意識に肩が跳ねてしまう。「何で、ここに」 ゆっくりと振り返ると、背後には見知った一人の青年が立っていた。「久しぶりだね、旭くん」「あ、どうも」 小さく頭を下げたのは社交辞令みたいなものだろうか。数ヶ月ぶりに会う義兄と義弟。お互い突然の再会に驚きはしたものの、昴の直ぐ傍にる女性の存在に気が付くと、旭は嫌そうに表情を歪めて見せた。「ここで、何をしてるんですか?」 露骨に見せられた嫌悪感から感じるのは拙いという危機感で。咄嗟に繭を引き離し「何も無い」と訴えるのだが、そんなことは逆効果にしかならない。何も出来ずただ黙っていると、相手は呆れたような口調でこう告げる。「まさか、不倫?」 それは明らかな勘違いだ。 ただ、この状況において、そのように見えてしまうことは否定が出来なかった。「最低ですね」 彼が何を言いたいのかは痛い程よく分かっている。「姉さんとまだ離婚していないはずでは?」「…………っ」 そう言われ思わず逸らす視線。こうなると益々誤解が深まることは分かっていたが、どうしてこうなっているのかを説明をするタイミングは、少なくとも四埜杜繭が隣に居る今では無いことも分かっている。 早急に問題を片付け誤解を解かなければ、取り返しの付かない事になってしまう。そんな焦りから口を開こうとした瞬間、旭が真っ直ぐ睨み付けながらこう呟いた。「あなたのことは尊敬していました」 軽蔑を含んだ視線。それがとても痛い。「何があったのかは姉さんから聞いていましたが、正直、信じられませんでした。だって、あなたは姉さんのことをとても大切にしていたから」 今でも大切にしている。そう訴えたいのに、彼は此方に話す機会を与えてはくれず、更に言葉を続けていく。「あなただったら姉さんを幸せにしてくれると思っていた。俺達が出来なかった事を、あなたならできるはずだって思っていたのに、何でそんな風に姉さんを裏切ることが出来たんですか?」 一度だって不幸にしたいと思ったことは無い。ただ、それは、昴の一方的な主張でしかなく、その気持ちが海亜に伝わることは無かったのだから、言い訳にしか聞こえないことだろう。「姉さんの幸せを思うなら、早く彼女を自由にしてあげてください」 まるで恋人を守る騎士のように凛とした態度で、年下の青年からそう
特に何かを思っていったわけではなく、無意識に出た言葉。「そっ、それは、良いけど……」 ただ、こんな反応をされるのは予想外で海亜は戸惑ってしまう。「迷惑だったら無理をしなくても良いんだけど」 だからこそついこう言ってしまったのだろう。するとどうだろうか。先ほどまで俯き視線を合わせようとしなかった旭が、傷ついた表情を浮かべながら唇を噛んだ。「え?」 一体どういうことだろう。訳が分からず言葉を探していると、隣から上がる楽しそうな笑い声。「違うよ、お姉ちゃん」 陽菜の方へと視線を移すと、笑いが堪えられないとでも言うように口元を押さえながらも、眼を細めながらこう続ける。「旭はただ照れてるだけ。ホントは一緒に行きたいんだよ〜」「陽菜っっっ!!」 大きな音を立てて倒れる椅子。素早く伸びた腕が妹の手を掴もうと動く。「わーっっ! 暴力反対ー!」 慌てて席を立った陽菜がすんでの所でそれを交わす。「逃げるな!」 突然始まる追いかけっこ。取り残された海亜はその光景をぼんやりと眺めていたが、次第に面白くなり声を出して笑ってしまう。「あははっ」 海亜の笑い声を聞いた二人の動きがピタリと止まる。「二人とも、喧嘩をしちゃ駄目じゃない」 一通り笑ったところで涙を拭うと、海亜は改めて二人に向き合いこう提案を出した。「今週末、二人とも私に付き合いなさい」「え?」「陽菜はその時に靴を買うの。旭はそうね……本でも買おうか?」 数日前に千明から聞いていた旭の欲しいものを思い出し、どうかなと問いかける。「そ、そりゃあ、欲しいけど」 欲しいものを買おうかという提案に旭の心が揺らぐ。それを見逃すことはせず、海亜は一気に畳み掛ける。「それじゃあ、それを買いに行こう! そして、昼ご飯はみんなで外で食べる。良い?」 そう言われて陽菜は分かりやすく賛成の声を上げる。旭の方も悩むそぶりは見せたものの、最終的には分かったと頷き頭を掻いた。「あっ。旭、本当は嬉しいんだ〜」「うるさいっ!」 陽菜の言葉通り不機嫌そうに見えるのは表だけで、口元だけは満更でもないように緩んでいるのだからなんだか可愛く思えて仕方が無い。「じゃあ、決まりね! 二人とも、よろしく」◆ これで何度目の呼び出しになるのだろうか。「…………はぁ」 朝から続く頭痛と倦怠感。隣に陣取るのは扱いに
『あの人が戻ってくることは考えなかったのですか?』 以前、千々石にそう言われたことがある。「考えなかった訳じゃねぇよ」 確かに四埜杜繭という女性が、再び現れる可能性を考えなかった訳では無い。ただ、何故彼女が忽然と姿を消したのかという理由を調べて得た情報と、国外で成功して順調であるという報告が届いて居たため、直接関わることがないと高を括っていたのだ。「気の緩みがあったんだろうな」 自らの選択で首が絞まっていく。一度捕まると逃げ出すことに苦労をする事など分かっていたはずなのに、あの頃とは状況が違うと信じたかったのかも知れない。「待っていてくれ、海亜……」 一階のロビーに着くと、不機嫌そうに受付の女性へと八つ当たりを繰り返す繭の姿が見え気が重くなる。「あっ! 昴!」 待ち望んでいた人物が現れたことで彼女の表情は一瞬にして喜びで満ちる。それを見て感じるのは非常に複雑な思いだった。「この人達ってば、最初から約束してるって言ってるのに、コチラでお待ち下さいって言って全然通してくれないんだよ! ヒドくない?」 素早く伸びる白い腕が昴の左腕に絡みつく。明らかにおかしい距離感に無意識に身体を離し距離を取ろうと動くが、それを許さないと言わんばかりに密着され、彼女の身に纏う香りに顔が歪んだ。「でもいいや。こうやって直ぐに降りてきてくれたしぃ。繭ってばほんっと昴に愛されてるんだね」 このポジティヴさは一体どこから出てくるものなのだろうか。何も答えず黙っていても、彼女は勝手に話し続け昴のことなど見ても居ない。「ほら〜、早く行こうよぉ〜」 そして極めつけの甘えるような猫撫で声。上目遣いでねだるようにアピールしてくる彼女をちらりと見たが、表情を変える事無く昴は直ぐに視線を別の場所へと移した。「買い物には付き合う約束はしていたが、こちらにも予定というものがあるんだ。スケジュールが押してるし、早く済ませてくれないか?」 契約上無碍には出来ない。だからこそ妥協出来る部分の付き合いは行う。しかし、それ以上に付き合いを一切するつもりはないと態度に出すと繭の表情が凍り付いた。「……へぇ。そんなこと言うんだぁ」 ほんの僅かな間に漂う不穏な空気。「まぁ、いいや」 しかし、そんなことは気にしないと言いたげに満面の笑みを浮かべると、繭は早く行こうと昴をせっつく。「時間無
「ねぇ……これって、本当に大丈夫なのかなぁ……?」 その言葉を放ったのは確かに女性の声だった。 慌てて周囲を確認してみても声の主を特定することは難しく、一体誰がその言葉を口にしたのかが分からない。ただ、その内容から考えるに、どうやら起こった事故は偶然などでは無いという可能性が浮上してくる。「そんな……まさか」 何となく思い当たる節はある。しかし、実際にそうだという確証は得られない。事故なのか事件なのか分からないまま数日が過ぎていく。 学生服では無い制服を見る度に焦燥感に駆られるのだが、子どもの力など出来る事に限界があるのも事実で。 結局、昴自身がこの事件について捜査できることは無く、いつの間にか事故という形で収束が付いてしまった騒動は、真実は有耶無耶になって終わってしまった。 あの日以来、明らかに変わったことがあるとすれば、あれほど仲が良かった後輩がいつの間にか学校から居なくなってしまったと言う事だろう。理由が分かっている分、何も言えないもどかしさだけが残るが、こればかりはどうしよもない問題だ。 守ってあげられなかったという現実は重く、昴の中に大きな痼りを残す。 この頃になると不機嫌だった繭の機嫌は直り、再び昴の周りをうろつき始めたのだが、後輩を突き落とした真犯人が彼女だという疑惑がある以上、あからさまな突き放しは次なる悲劇を引き起こす引き金になるかも知れない。その恐怖から表立って波風を立てることはせず、昴は繭に必要以上に関わらないようにすることで己を保ち日々を過ごす。 その間、後輩の事故のことは出来る範囲で調査を続けてはいたのだが、思ったような結果を出すことが出来ず完全に行き詰まってしまっていた。 一方、繭の方はと言うと、昴の傍から女子生徒の影が消えたことに上機嫌だった。自らが唯一の彼女であると吹聴し、家名を出して家柄の差を周囲に見せる。一条と釣り合うのは四埜杜だとでも言うように。 その努力の甲斐があってか、昴に必要以上に近づこうとする女生徒は現れず、必ず繭の同席が無い蹴れば会話をする事が出来ない。例外として女性教師はその条件に当てはまらないものの、それでも四埜杜とう名前に怯えたのだろうか。連絡事項や重要な報告以外は言葉を交わすこと無く、それ以外は男性教師を間に挟んで言葉を交わす始末。こうやって徹底的に女という存在を排除する事により、