ログイン本当に、海はあった。
国道から少し脇道にそれて、しばらく下り坂を走ると、視界の先に突然、空の続きみたいな青い平面が広がった。
「……」
言葉が、喉の奥に張り付いた。
朝焼けの光を受けて、海はまだ薄青くて、ところどころ銀色に光っている。波が寄せては返すたびに、白い泡が砂浜に線を残しては消えていく。
「本当に、海だ……」
「偽物の海ってなんだよ」
「プールとか、ゲームの中のとか」
「それはそれで現実だろ」
「うるさい。今はロマンチックなやつ」
原付が、小さな漁港のそばに停まる。
エンジンが止まると、世界から一気に音が消えた気がした。耳に残るのは、波の音と、遠くのカモメの鳴き声だけ。
原付を降りた瞬間、足の裏からざらりとした感触が伝わる。
「え、砂だ……」
「当たり前だろ」
「だって、テレビでしか見たことなかったし」
スニーカーのゴム底越しでも、その柔らかさがわかる。
小さな防波堤と、青い漁船が何隻か。奥には、錆びた鉄の階段と、「城崎漁港」とかかれた古い看板。
観光地っていうより、「普通の人たちの生活」の海、って感じがした。
「ここ、どこ?」
「お前の住んでた街から、だいたい百キロくらい離れた港町」
「そんなに?!」
「原付ナメんな。時間はかかるけど、意外とどこまでも行ける」
「すご……。てか、もう朝だし」
空はすっかり明るくなっていて、水平線の向こうに、太陽が顔を出していた。海面に反射する光がきらきらして、目が痛い。
「海、触ってきていい?」
「勝手にしろ。ただし、靴は脱げ」
「え、なんで」
「濡れた靴で歩き回られると、臭くなる」
「そこ?!」
笑いながら、砂浜に向かって駆け出す。
波打ち際に近づくにつれて、砂がしっとりとしてきて、スニーカーの裏にくっついた。
波が、足元まで来る。
私は、慌てて靴を脱いで、裸足になった。砂が指の間に入り込んで、くすぐったい。
「冷た……!」
最初の一歩を踏み出すと、海水が足首のあたりまでさらりと触れてきた。
思ったより、ずっと冷たい。
でも、その冷たさが、皮膚の表面の熱を一気にさらっていってくれて、何故だか涙が出そうになった。
「ナギ」
振り向くと、防波堤の上からカミヤがこちらを見ていた。
朝の光の中の彼は、夜の闇で見たときよりも、ずっと人間っぽかった。
パーカーのフードは外していて、少し長めの黒髪が風になびく。目元は鋭いのに、光に透けた琥珀色の瞳はどこか柔らかい。
「風、強いから、あまり沖に行くな」
「行かないよ。泳げないし」
「お前、ほんとに、よくそれで今まで生きてこれたな……」
「そこまで言う?」
彼が、わずかに口元をゆるめた。
波の音と、彼の声と、自分の心臓の音が、全部、重なって聞こえる。
海水をすくって、指の間からこぼす。
太陽の光が、水の粒に反射して、銀色にきらっと光った。
「ねえ、カミヤ」
「なんだ」
「なんかさ。生きててよかったって、今ちょっと思った」
沈黙が、波打ち際に広がる。
カミヤは、防波堤の端に腰を下ろして、こちらを見下ろしていた。その視線は、どこか遠くを見ているみたいで。
「……そうか」
それだけ。
でも、その一言に、不思議と重みがあった。
たぶん彼も、何度か、「生きててよかった」とか、「生きてるの、面倒くせえ」とか、いろいろなことを思ったんだろう。
何十年も、もしかしたらそれ以上の時間を、生きてきた人狼。
そんな存在と、高校一年の、逃げてきただけの家出少女が、今、この同じ朝の海を見ている。
それが、なんだかものすごく不思議で、尊くて。
胸の奥が、じんわりと熱くなった。
***
海でしばらく遊んでから、私たちは港町の中心部へと歩いた。
商店街、と呼ぶにはちょっと寂れた通り。シャッターの閉まった店が多くて、開いているのは、古そうな魚屋と、小さなパン屋と、八百屋と、駄菓子屋みたいな雑貨屋くらい。
「昭和って感じ……」
「平成だろ。ギリ」
「でも、タイムスリップしたみたい」
「人間のくせに、人間の時代感覚からズレてんぞ」
「人間のくせに、っていうフレーズやめてくれる?」
「事実だろ」
会話しながら、商店街を抜けた先に、それはあった。
小高い丘の上に、ぽつんと立つ神社。
赤い鳥居と、ずらりと並んだ石段。石段の両側には、古い石の灯籠や、名前のかすれた奉納札が並んでいる。
「わ、神社だ」
「見るからにそうだろ」
「行っていい?」
「足、動くなら勝手に行け」
「一緒に来てよ」
「なんで」
「だって……」
言葉に詰まる。
「なんか、ああいうとこ、一人で登るの、さみしい」
「お前な……」
呆れたように言いながらも、カミヤは鳥居の前で足を止めた。
朱塗りの柱を見上げて、どこか懐かしそうに目を細める。
「なんか、事情ありげな顔してる」
「気のせいだ」
「ほんとに?」
「ほんとだ」
声のトーンが、ほんの少しだけ低くなった。
「……てか、お前」
「なに」
「神社って、俺みたいなのが長居していい場所じゃねえだろ」
「あ」
納得しかけて、でも首を振る。
「いいんじゃない? 神様は、困ってる人には優しいって聞いたことあるし」
「人狼は、困ってる人を喰う側だろ、普通」
「カミヤは、食べなさそう」
「即答すんな」
「だって、さっきも食べなかったし。あの人たち」
「食うか、あんな脂っこいおっさんども」
「そういう問題?」
くだらないやりとりをしながら、石段を登り始める。
一段一段が、微妙に高さも幅も違っていて、歩きにくい。でも、その不揃いさが、なんだか落ち着いた。
途中まで登ったところで、息が切れてきた。
「はぁ、はぁ……きつ……」
「運動不足」
「うるさい……」
カミヤは、全然息が乱れていない。
「なんでそんな余裕なの」
「こう見えて、体力だけはあるんだよ、人狼は」
「ずるい」
文句を言いながらも、なんとか階段を登り切った。
頂上には、小さな拝殿がひとつ。木造の古びた建物で、屋根の端っこには、ところどころ苔が生えている。
だけど、不思議と寂れた感じはなくて。むしろ、誰にも知られずに、ひっそりと守られてきたような、静かな空気が流れていた。
「……きれい」
思わず、そう呟いていた。
拝殿の前には、二匹の石の狛犬。片方は口を開けて、「あ」の形。もう片方は、口を閉じて「うん」の形。
その間から、さっきまで見ていた海が、遠くに小さく見えた。
「ねえ、カミヤ」
「なんだ」
「ここ、ちょっと、カミサマっぽい」
「神社だからな」
「そうじゃなくて。ほら」
私は、狛犬と拝殿と、そして彼を、順番に指さした。
「なんか、カミヤって、こういうとこにいる神様っぽい」
「どこがだよ」
「だって、人の姿してるけど、本当は人間じゃなくて。困ってる人を、ちょっとだけ助けてくれて。見えないところに、狼の影とか隠してて」
「設定盛りすぎだろ」
「かっこいいじゃん」
「子どもか」
でも、彼の耳たぶが、ほんの少しだけ赤くなった気がしたのは、たぶん気のせいじゃない。
拝殿の鈴に手を伸ばして、軽く鳴らす。
からん、からん。
澄んだ音が、夏の空気を震わせた。
手を合わせる。
神様なんて信じたことなかった。祈ったって、あの家の地獄が終わることはなかったし。誰かが助けに来てくれることもなかった。
でも今は——。
「なにお願いした」
拝殿の柱に寄りかかりながら、カミヤが聞いてきた。
「内緒」
「なんだそれ」
「願い事、言うと叶わないって言うし」
「迷信だ」
「カミヤは、なにお願いするの?」
「しねえよ」
即答だった。
「俺は、神様なんていないって知ってるからな」
「知ってる?」
「……神様ってのは、大抵、人間の都合で作られたもんだ」
少しだけ、目を細める。
「人狼が『神様』にされたことだって、ある」
「……」
「山の奥とか、島の小さな集落とか。『狼様』『山の神様』って呼ばれて、勝手に祀られて、勝手に崇められて、勝手に怖がられたやつらを、俺は何匹か知ってる」
「カミヤも、その一人?」
「さあな」
曖昧に笑う。
「人間は、自分たちの理解できねえものを、すぐ神か怪物にしたがる。どっちも、本質は大して変わらねえよ」
「こわい?」
「どっちも、そうでもねえ」
彼は、拝殿の屋根を見上げた。
「ただ、神様は、『人間の味方』ではあっても、『一人の人間の味方』じゃない。お前の願いなんて、聞いちゃいねえ」
「……ひねくれてる」
「事実だ」
「でも、今、私の願い、ひとつ叶ってるもん」
「は?」
「海見たいって願い。叶ってる」
「ああ」
「カミヤが、叶えてくれた」
風が、彼の髪を揺らす。
彼は、一瞬だけ、何か言いかけて——やめた。
代わりに、ポケットから小さな缶コーヒーを取り出す。いつの間に買ったのか、コンビニのブラック無糖って書いてあるやつ。
プルタブを開けて、一口飲む。
「……苦い」
「なんで買ったの」
「目を覚ますため」
「砂糖入りの方が、覚めそうじゃない?」
「甘いのは、好きじゃねえ」
「女子力低い」
「またそれか」
軽口をたたき合いながらも、拝殿の前に流れる空気は、どこか特別だった。
鳥居をくぐる前と後で、世界が少し違って見える。
あの港町の騒がしい生活とも、私が逃げてきた街のざわめきとも違う、「静かな世界」。
そんな世界の中で、私と、人狼(カミサマ)は、肩を並べて立っていた。
帰り道は、来た時より穏やかだった。 ナーガの力で補修された結界が、俺たちを包むように導いてくれた。岩の亀裂を抜け、外海に出る。暗い深海を、汐音の手に引かれて浮上していく。 水深が浅くなるにつれ、世界の色が変わっていった。墨色が紺に。紺が群青に。群青が——朝焼けの光に染まった、燃えるようなオレンジ色に。 ツキが限界だった。首筋で「もう……むり……」と震える声。酸素の供給が途切れかけ、肺が焼けるように苦しい。口を閉じ、最後の空気を引き延ばす。 水面が——近い。 光が、目の前にある。 ぱしゃん。 水面を割って顔を出した瞬間、朝の空気が肺を叩いた。むせた。咳き込んだ。それでも吸い込んだ。ツキの濾過した酸素ではない、本物の——与那国島の朝の空気。潮と花と赤土の匂い。「はっ……は……生きてる。空気ってこんなに美味かったか……」「カミヤさん……! おつかれさま……!」 隣で汐音が水面から顔を出し、潮に濡れた顔で笑っている。朝日が彼女の鱗を照らし、虹色の光が水面に散っている。目元に涙の痕が残っているが——笑っている。世界一幸せそうに、笑っている。 入り江の岩場に這い上がった。二人とも仰向けに倒れ込む。岩は朝日に温められ始めていて、ほんのりと温かい。背中に伝わる岩の体温が、信じられないほど心地いい。地面がある。足がつく場所がある。陸だ。 空が高い。橙と水色のグラデーション。鳥が一羽、崖の上から海に向かって飛び立ち、甲高い声で鳴いた。遠くで波が崖を叩き、白い飛沫が朝日にきらめいている。「薩摩……鹿児島の先、かな。もしかしたら屋久島とか、奄美とか——」 隣で汐音が、石板の内容を反芻している。尾鰭がまだ残っていて、岩の上でぱ
晶石が爆発的に輝き、月光の奔流が広間を満たす。目を開けていられないほどの白い光。同時に、ナーガの半透明の体が光を吸い始めた。影だった輪郭が実体化していく。色が戻る。黒髪に艶が蘇り、肌が血色を取り戻し、鱗が黒曜石のような深い光沢を帯びていく。「ぐ——」 ナーガの呻き声。力を取り込む苦痛か、歓喜か。 だがそれと同時に——外部から、凄まじい衝撃が神殿を揺さぶった。 天井が割れた。 海水が噴出する。柱が折れ、石壁が砕け、暗い水が滝のように広間に流れ込む。「何——」 シーサーペントだ。 外から。巨大な蛇が神殿の壁を突き破ってきた。全長二十メートルの青黒い胴体が結界を粉砕しながら広間に突入し、天井を支える柱を薙ぎ倒す。 晶石の覚醒を感知したのだ。主のもとに戻ろうとしたのか、それとも晶石そのものに引き寄せられたのか。理由はどうでもいい。二十メートルの暴走する巨蛇が、この狭い広間で暴れている。それが現実だ。「汐音、離れろ!」 汐音の腕を掴んで引き倒した。頭上をシーサーペントの尾が薙ぎ、風圧だけで体が吹き飛ぶ。壁に叩きつけられる前に、玄が影の壁を張ってくれた。衝撃は防いだが、広間の半分が水没しかけている。「でもナーガが——!」 ナーガは晶石の力を取り込みかけている最中だった。半実体化した体でシーサーペントに手を伸ばし、「眷属よ、静まれ——!」と叫ぶが、暴走した巨蛇は主の声すら届いていない。黄色い瞳が狂気に光り、巨体が壁に体当たりする度に神殿が崩れていく。「くそっ——」 獣化した腕でシーサーペントの頭部に飛びついた。顎の付け根に腕を回し、力任せに締め上げる。人狼の怪力をもってしても、この質量は異常だ。巨蛇が首を振り、俺の体が振り回される。天井にぶつかり、壁に叩きつけられ、視界が火花を散らす。「キバ!」 牙が影の杭を放つ。水中より空気中のほうが影は濃い。黒い杭がシーサーペントの胴体に突き刺さり、鱗の隙間を貫いて石の床に縫い止める。蛇が悲鳴を上げ、体をくねらせて暴れる。杭が一本、二本と弾かれるが、三本目が深く刺さっ
通路を抜けた先は、天井の高い円形の広間だった。 壁面を覆う鉱石の光が、ここでは一段と強い。青白い光が空間全体を満たし、幻想的な――いや、神殿と呼ぶに相応しい荘厳さを醸し出している。床は磨かれた石で、中央に向かって緩やかに傾斜している。 中央に、台座があった。 腰の高さほどの石の台座。彫刻が施された側面。その上に——拳大の結晶体が、浮いていた。 宙に浮かんでいる。台座の上、数センチの空間に、何の支えもなく静止している。乳白色の結晶。内部に脈打つ光は月光のようで、周囲の空気を微かに震わせている。 月結びの晶石(ルナ・クオーツ)。 そして——台座の周囲を、蛇の尾が何重にもとぐろを巻いていた。 暗い色の鱗。乾いてひび割れ、ところどころ剥がれかけている。だが胴の太さは俺の体幹ほどもある。とぐろの直径は五メートル。広間の床のかなりの面積を占めている。 匂いが最も濃い場所。ここだ。ここが、あの残り香の源。 玄が「来る」ではなく、「いる」と言った。最初から、ここにいたのだ。 とぐろの上に——上半身が浮かび上がった。 人の上半身だった。だが人間ではない。長い黒髪が水気を含んで頬に張り付き、肌は青白く、鱗が首筋から肩にかけて浮いている。目を閉じていた——それが、ゆっくりと開く。 金色の瞳。 人間の形をした上半身。そこから下は——巨大な蛇の胴体。半人半蛇。 ナーガ。 だが、その姿は不完全だった。上半身が半透明に揺らめいている。実体と幽体の間を行き来するように、輪郭がぶれ、ちらつき、霞む。かろうじて意識を保っている、という表現が最も正確だ。衰弱している。途方もなく。 金色の瞳が俺を捉え、それから背後の汐音を見た。「"陸の獣"……と、"海の娘"か」 声は、空気を震わせて届いたのではなかった。頭蓋の内側に直接響く。水中で汐音と交わした思念に似ているが、それよ
二度目の潜航は、前回とは全く違うルートを取った。 シーサーペントの縄張りを大きく迂回し、南西側から遺跡に接近する。汐音のナビゲーションで黒潮の枝流に乗り、体力の消耗を抑えながら深海を滑っていく。 ツキの残り時間を、頭の中で計算し続ける。潜航開始から二十分。移動に使った時間。残り一時間四十分。 遺跡の南西面は、正面よりも崩壊が進んでいた。巨石が折り重なるように崩れ、かつての壮麗な石壁は瓦礫の山と化している。だが汐音は、瓦礫の隙間から漏れ出る微かな水流を、人魚の感覚で正確に追っている。「……あった」 汐音の指が示した先に、人一人がかろうじて通れる幅の亀裂。岩と岩の隙間から温かい水が流れ出し、細い泡が立ち上っている。 亀裂に手を突っ込んだ。岩の感触。水温が周囲より明らかに高い。そして——振動。シーサーペントの気配はない。「行けそうだ。狭い。お前が先に行け」「カミヤさんの肩幅、通るかな……」「ねじ込む」 汐音が先に亀裂に体を滑り込ませた。尾鰭が折れ曲がるほど狭いが、人魚の柔軟な体がするりと通り抜けていく。 俺は後に続いた。肩が岩に挟まれ、押し込むたびに皮膚が裂ける。腹を削り、背中を削り、ほとんど自分を岩に押しつぶすようにして前へ進む。ツキが首筋で「いたい、いたい」と泣いている。「もう少しだ、耐えろ」「うぅ……がんばる……」 歯を食いしばり、岩の隙間を抜けた—— 瞬間。 水が、消えた。 正確には、水面が現れたのだ。亀裂を抜けた先で、頭上にドーム状の天井があり、そこに空気が溜まっている。水面から頭を出した途端、ツキの加護を介さない本物の空気が肺を満たした。 古い。数千年前の空気だ。鉱物の匂い。塩気。微かに甘い、朽ちた珊瑚の匂い。そして—— 嗅覚が、覚醒した。 水中では封じられていた人狼の嗅覚が、空気と共に一気に目を覚ます。膨大な情報が鼻腔から押し寄せ、脳を圧迫する。「——何だ、この匂い」 甘い腐敗臭。蛇の脱皮した皮のような、
嵐が去った朝の空は、洗い流されたように清廉だった。 東の水平線が薄紫から橙へと燃え上がり、一番星がその光の中に消えていく。崖下の入り江に降りると、海は嘘みたいに穏やかだった。岩場に砕ける波は囁き声ほどの大きさしかなく、水面は朝焼けの空をそっくり映して、液体のオパールみたいに光っている。 潮止まりが近い。 俺は岩場の先端に立ち、足元の海を見下ろした。上半身裸、ハーフパンツ。裸足。水着もウェットスーツもなし。生身で、海の底に潜る。正気の沙汰じゃない。 ツキが首筋にまとわりつき、半透明の影が肌を撫でる。「じゅんびできた。……こわいけど」「ああ。頼むぞ」 指先でツキの輪郭を撫でた。震えている。それは——たぶん、俺の心臓の振動が伝わっているからだ。 影の中で、玄、銀、牙、影の四匹が待機している。水中では大幅に弱まるが、いざという時の切り札。腹の中に四枚の手札を忍ばせておく。 汐音が隣に立った。裸足で、白いワンピース一枚。水に入れば人魚化するから、服は意味がないのだが、「一応、マナーとして」とか言って着ている。目はもう海を見ている。あの静かな目。凪いだ深海の色。「カミヤさん」「ああ」「私の手、離さないで」 白い手が差し出された。 握った。小さい。ひんやりしている。だが——確かな力で、握り返してくる。「離すわけねぇだろ」 汐音が微笑んだ。それから水に向き直り、一歩を踏み出す。足首が水に触れた瞬間、さあっと鱗が走る。水面が彼女を迎え入れるように揺れ、膝、腰、胸——汐音の体が水に沈んでいく。俺の手を引きながら。 俺も足を踏み出した。 冷たい。 水が足首を掴み、ふくらはぎを這い上がり、腿を締めつける。陸の獣の本能が最後の警告を発する。引き返せ。ここはお前の場所じゃない。 構わず進んだ。腰まで浸かり、胸まで浸かり——頭が水面を超えた瞬間、ツキの加護が発動した。 肺に酸素が流れ込む。ツキの影の体を通じて、海中の水分から直接酸素を抽出し、俺の肺に送り込む
予報通り、与那国島は荒れた。 明け方から南風が強まり、昼前には暴風に変わった。崖の上の家は風の通り道にあるらしく、窓という窓がガタガタと鳴り、トタン屋根が地鳴りのように唸り続けている。庭の先の崖から吹き上がってくる潮風が、家中に塩の匂いを充満させる。 汐音は窓に張り付いて、荒れ狂う海を見つめていた。 白波が崖を叩き、飛沫が五十メートルの断崖を越えて庭まで飛んでくる。黒潮の本流が牙を剥き、海面全体が灰色の泡に覆われている。「今日は絶対潜れないね……」 呟いて、唇を噛んだ。あの遺跡の中に、仲間の手がかりがあるかもしれないのに。あと一日——あと一日早く潮止まりが来れば。 でも、海は待ってくれない。潮の満ち引きも、黒潮の気まぐれも、人魚の都合なんか知ったことじゃない。三百年の海暮らしで、それは嫌というほど分かっている。 ため息をついて、作業台に向かった。昨日カミヤさんが崖下から引き揚げてきた化石サンゴの欠片を並べ、研磨の下準備を始める。ルーターの音が低く唸り、細かい粉が舞う。水をかけながら、ゆっくりと表面を削っていく。何万年も前のサンゴが、研磨剤に磨かれて少しずつ光を取り戻していく。 ——これも、命だったんだ。 何万年も前に海の中で生きて、死んで、石になった。それを私が磨いて、光らせて、誰かの首元に届ける。人魚のジュエリーは、海の記憶を纏わせるもの。石垣島で始めた頃は見様見真似だったけど、最近は自分なりのスタイルが見えてきた。 窓の外で、カミヤさんが庭に出た。 上半身裸。雨粒が肌を叩いているのも気にせず、庭の端にタライを並べている。水を張り、影狼を一匹ずつ潜らせて、水中での力の持続時間を測る訓練。昨日の続きだ。 牙が水に沈む。黒い影の輪郭が、水の中で揺らいで薄まっていく。「三十秒で形が崩れ始める。一分で攻撃力は半減。だが——影の杭としてなら、水中でも使える。むしろ水圧があるぶん、杭は安定するな」 カミヤさんの独り言が、風の合間に聞こえる。真剣な声だ
「……は?」「な、なんだよ、これ……」 背後の男たちが、慌ててポケットから何かを取り出そうとした。たぶん、さっき黒川が見せたようなナイフか、それ以上のもの。 だけど、彼らが武器を抜くより早く。「殺すな」 フードの男が、短く言った。 それだけで、狼たちの耳が、ぴくりと一斉に動く。「骨は折っていい。深くは、噛むな。血もあんまり出すな」「——は?」 狼たちが、同時に動いた。 真っ黒な影が、風より速く、黒川たちに飛びかかる。牙が閃く。けれ
夜って、こんなに長かったっけ。 カミヤの背中にしがみつきながら、流れていく街灯をぼんやりと数えていた。 一本、二本、三本。 オレンジ色の光が、一定のリズムで後ろへ飛んでいく。そのたびに、制服のスカートが風に煽られて、膝が少しひんやりした。「眠いか、落ちんなよ」 前から飛んできた声は、夜風よりも低くて、耳に心地よく引っかかる。「落ちない。ちゃんと掴んでるし」「さっきから、ずっと裾つまんでるだけだろ。それは掴んでるって言わねえ」「じゃあ、どこ掴めばいいの」
人に殴られる音も、怒鳴り声も、さっきまでの恐怖も、一瞬だけ遠のいていく。「そんな顔で食うな」 隣で、狼谷がぼそっと言った。「変な顔ってこと?」「うまそうに食いすぎ」 彼は、プラスチックのフォークで焼き鳥パックをつついていた。中身は、もも肉とネギまが数本。ラップをはがして、ひとつをそのまま口に放り込む。「……冷てぇ」「レンジで温めてもらえばよかったのに」「いい。これで」 本当に、どうでもよさそうな顔で言う。
原付は、街の灯りを次々と背中に置き去りにしていった。 コンビニの白い光も、カラオケボックスの派手なネオンも、いつの間にか見えなくなって、代わりに、オレンジ色の街灯と、遠くの国道を走るトラックのヘッドライトだけが、夜の景色に点々と刺さっている。「ねえ」「……今は黙って掴まってろ」「でも——」「落としたら面倒だ」 狼谷の声は、相変わらず低くてぶっきらぼうだ。 私は、腰に回した腕を少しだけ強く握る。怖いとか、そういうのじゃなくて——こうしていないと、現実感がすぐにふわっと消えてしま