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第1章・第7話:裸足の解放、百キロ先の銀色の海

مؤلف: 銀狐
last update تاريخ النشر: 2026-05-20 06:07:39

 本当に、海はあった。

 国道から少し脇道にそれて、しばらく下り坂を走ると、視界の先に突然、空の続きみたいな青い平面が広がった。

「……」

 言葉が、喉の奥に張り付いた。

 朝焼けの光を受けて、海はまだ薄青くて、ところどころ銀色に光っている。波が寄せては返すたびに、白い泡が砂浜に線を残しては消えていく。

「本当に、海だ……」

「偽物の海ってなんだよ」

「プールとか、ゲームの中のとか」

「それはそれで現実だろ」

「うるさい。今はロマンチックなやつ」

 原付が、小さな漁港のそばに停まる。

 エンジンが止まると、世界から一気に音が消えた気がした。耳に残るのは、波の音と、遠くのカモメの鳴き声だけ。

 原付を降りた瞬間、足の裏からざらりとした感触が伝わる。

「え、砂だ……」

「当たり前だろ」

「だって、テレビでしか見たことなかったし」

 スニーカーのゴム底越しでも、その柔らかさがわかる。

 小さな防波堤と、青い漁船が何隻か。奥には、錆びた鉄の階段と、「城崎漁港」とかかれた古い看板。

 観光地っていうより、「普通の人たちの生活」の海、って感じがした。

「ここ、どこ?」

「お前の住んでた街から、だいたい百キロくらい離れた港町」

「そんなに?!」

「原付ナメんな。時間はかかるけど、意外とどこまでも行ける」

「すご……。てか、もう朝だし」

 空はすっかり明るくなっていて、水平線の向こうに、太陽が顔を出していた。海面に反射する光がきらきらして、目が痛い。

「海、触ってきていい?」

「勝手にしろ。ただし、靴は脱げ」

「え、なんで」

「濡れた靴で歩き回られると、臭くなる」

「そこ?!」

 笑いながら、砂浜に向かって駆け出す。

 波打ち際に近づくにつれて、砂がしっとりとしてきて、スニーカーの裏にくっついた。

 波が、足元まで来る。

 私は、慌てて靴を脱いで、裸足になった。砂が指の間に入り込んで、くすぐったい。

「冷た……!」

 最初の一歩を踏み出すと、海水が足首のあたりまでさらりと触れてきた。

 思ったより、ずっと冷たい。

 でも、その冷たさが、皮膚の表面の熱を一気にさらっていってくれて、何故だか涙が出そうになった。

「ナギ」

 振り向くと、防波堤の上からカミヤがこちらを見ていた。

 朝の光の中の彼は、夜の闇で見たときよりも、ずっと人間っぽかった。

 パーカーのフードは外していて、少し長めの黒髪が風になびく。目元は鋭いのに、光に透けた琥珀色の瞳はどこか柔らかい。

「風、強いから、あまり沖に行くな」

「行かないよ。泳げないし」

「お前、ほんとに、よくそれで今まで生きてこれたな……」

「そこまで言う?」

 彼が、わずかに口元をゆるめた。

 波の音と、彼の声と、自分の心臓の音が、全部、重なって聞こえる。

 海水をすくって、指の間からこぼす。

 太陽の光が、水の粒に反射して、銀色にきらっと光った。

「ねえ、カミヤ」

「なんだ」

「なんかさ。生きててよかったって、今ちょっと思った」

 沈黙が、波打ち際に広がる。

 カミヤは、防波堤の端に腰を下ろして、こちらを見下ろしていた。その視線は、どこか遠くを見ているみたいで。

「……そうか」

 それだけ。

 でも、その一言に、不思議と重みがあった。

 たぶん彼も、何度か、「生きててよかった」とか、「生きてるの、面倒くせえ」とか、いろいろなことを思ったんだろう。

 何十年も、もしかしたらそれ以上の時間を、生きてきた人狼。

 そんな存在と、高校一年の、逃げてきただけの家出少女が、今、この同じ朝の海を見ている。

 それが、なんだかものすごく不思議で、尊くて。

 胸の奥が、じんわりと熱くなった。

 ***

 海でしばらく遊んでから、私たちは港町の中心部へと歩いた。

 商店街、と呼ぶにはちょっと寂れた通り。シャッターの閉まった店が多くて、開いているのは、古そうな魚屋と、小さなパン屋と、八百屋と、駄菓子屋みたいな雑貨屋くらい。

「昭和って感じ……」

「平成だろ。ギリ」

「でも、タイムスリップしたみたい」

「人間のくせに、人間の時代感覚からズレてんぞ」

「人間のくせに、っていうフレーズやめてくれる?」

「事実だろ」

 会話しながら、商店街を抜けた先に、それはあった。

 小高い丘の上に、ぽつんと立つ神社。

 赤い鳥居と、ずらりと並んだ石段。石段の両側には、古い石の灯籠や、名前のかすれた奉納札が並んでいる。

「わ、神社だ」

「見るからにそうだろ」

「行っていい?」

「足、動くなら勝手に行け」

「一緒に来てよ」

「なんで」

「だって……」

 言葉に詰まる。

「なんか、ああいうとこ、一人で登るの、さみしい」

「お前な……」

 呆れたように言いながらも、カミヤは鳥居の前で足を止めた。

 朱塗りの柱を見上げて、どこか懐かしそうに目を細める。

「なんか、事情ありげな顔してる」

「気のせいだ」

「ほんとに?」

「ほんとだ」

 声のトーンが、ほんの少しだけ低くなった。

「……てか、お前」

「なに」

「神社って、俺みたいなのが長居していい場所じゃねえだろ」

「あ」

 納得しかけて、でも首を振る。

「いいんじゃない? 神様は、困ってる人には優しいって聞いたことあるし」

「人狼は、困ってる人を喰う側だろ、普通」

「カミヤは、食べなさそう」

「即答すんな」

「だって、さっきも食べなかったし。あの人たち」

「食うか、あんな脂っこいおっさんども」

「そういう問題?」

 くだらないやりとりをしながら、石段を登り始める。

 一段一段が、微妙に高さも幅も違っていて、歩きにくい。でも、その不揃いさが、なんだか落ち着いた。

 途中まで登ったところで、息が切れてきた。

「はぁ、はぁ……きつ……」

「運動不足」

「うるさい……」

 カミヤは、全然息が乱れていない。

「なんでそんな余裕なの」

「こう見えて、体力だけはあるんだよ、人狼は」

「ずるい」

 文句を言いながらも、なんとか階段を登り切った。

 頂上には、小さな拝殿がひとつ。木造の古びた建物で、屋根の端っこには、ところどころ苔が生えている。

 だけど、不思議と寂れた感じはなくて。むしろ、誰にも知られずに、ひっそりと守られてきたような、静かな空気が流れていた。

「……きれい」

 思わず、そう呟いていた。

 拝殿の前には、二匹の石の狛犬。片方は口を開けて、「あ」の形。もう片方は、口を閉じて「うん」の形。

 その間から、さっきまで見ていた海が、遠くに小さく見えた。

「ねえ、カミヤ」

「なんだ」

「ここ、ちょっと、カミサマっぽい」

「神社だからな」

「そうじゃなくて。ほら」

 私は、狛犬と拝殿と、そして彼を、順番に指さした。

「なんか、カミヤって、こういうとこにいる神様っぽい」

「どこがだよ」

「だって、人の姿してるけど、本当は人間じゃなくて。困ってる人を、ちょっとだけ助けてくれて。見えないところに、狼の影とか隠してて」

「設定盛りすぎだろ」

「かっこいいじゃん」

「子どもか」

 でも、彼の耳たぶが、ほんの少しだけ赤くなった気がしたのは、たぶん気のせいじゃない。

 拝殿の鈴に手を伸ばして、軽く鳴らす。

 からん、からん。

 澄んだ音が、夏の空気を震わせた。

 手を合わせる。

 神様なんて信じたことなかった。祈ったって、あの家の地獄が終わることはなかったし。誰かが助けに来てくれることもなかった。

 でも今は——。

「なにお願いした」

 拝殿の柱に寄りかかりながら、カミヤが聞いてきた。

「内緒」

「なんだそれ」

「願い事、言うと叶わないって言うし」

「迷信だ」

「カミヤは、なにお願いするの?」

「しねえよ」

 即答だった。

「俺は、神様なんていないって知ってるからな」

「知ってる?」

「……神様ってのは、大抵、人間の都合で作られたもんだ」

 少しだけ、目を細める。

「人狼が『神様』にされたことだって、ある」

「……」

「山の奥とか、島の小さな集落とか。『狼様』『山の神様』って呼ばれて、勝手に祀られて、勝手に崇められて、勝手に怖がられたやつらを、俺は何匹か知ってる」

「カミヤも、その一人?」

「さあな」

 曖昧に笑う。

「人間は、自分たちの理解できねえものを、すぐ神か怪物にしたがる。どっちも、本質は大して変わらねえよ」

「こわい?」

「どっちも、そうでもねえ」

 彼は、拝殿の屋根を見上げた。

「ただ、神様は、『人間の味方』ではあっても、『一人の人間の味方』じゃない。お前の願いなんて、聞いちゃいねえ」

「……ひねくれてる」

「事実だ」

「でも、今、私の願い、ひとつ叶ってるもん」

「は?」

「海見たいって願い。叶ってる」

「ああ」

「カミヤが、叶えてくれた」

 風が、彼の髪を揺らす。

 彼は、一瞬だけ、何か言いかけて——やめた。

 代わりに、ポケットから小さな缶コーヒーを取り出す。いつの間に買ったのか、コンビニのブラック無糖って書いてあるやつ。

 プルタブを開けて、一口飲む。

「……苦い」

「なんで買ったの」

「目を覚ますため」

「砂糖入りの方が、覚めそうじゃない?」

「甘いのは、好きじゃねえ」

「女子力低い」

「またそれか」

 軽口をたたき合いながらも、拝殿の前に流れる空気は、どこか特別だった。

 鳥居をくぐる前と後で、世界が少し違って見える。

 あの港町の騒がしい生活とも、私が逃げてきた街のざわめきとも違う、「静かな世界」。

 そんな世界の中で、私と、人狼(カミサマ)は、肩を並べて立っていた。

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