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第1章・第2話:絶体絶命の夜、その救世主はビルの屋上から

Auteur: 銀狐
last update Date de publication: 2026-05-15 06:07:40

 アスファルトは、さっきよりも少し湿っていて、鼻をつくカビ臭さが混じっていた。頭上には、ビルの壁が迫ってくるようで、空が細く切り取られている。

「ね、名前、なんていうの?」

「……ナギ」

「ナギちゃん。いいね、その名前。芸名にも使えるよ」

 名前を呼ばれても、心は少しも弾まなかった。

 路地を抜けると、突然、視界が開けた。

 そこには、真っ暗な駐車場が広がっていた。ビルの陰に隠れるようにして、何台かの車が停められている。その向こうには、窓ガラスの割れた古い廃ビルが、夜空に黒い影を落としていた。

「……ここ、事務所じゃないですよね」

「はは。鋭いね」

 黒川の声が、急に冷たくなる。

 背後で、靴音が増えた。

 振り返ると、いつの間にか、二人の男が路地の入口を塞いでいた。どちらも、黒いパーカーにジーンズ。顔には、薄っすらと笑いが浮かんでいる。

「逃げ場、ないよ」

 黒川が、私の肩を掴んだ。その指が、皮膚に食い込む。

「……なに、するんですか」

 震えを悟られないように、必死で声を平らにする。

「だから、言ったでしょ。写真、撮るだけだって」

「撮られるの、お前だけじゃないけどな」

 背後の男が、くくっと笑う。

 頭の中で、何かがカチリと音を立てた。

 あ、これ、本当に、やばいやつだ。

「や、やめ——」

 叫ぼうとした口を、黒川の手が塞いだ。強烈なタバコとコロンの匂いが鼻腔を満たす。

「騒ぐと、余計に痛い目みるよ」

 耳元で囁かれたその声に、背骨が氷みたいに冷たくなる。

 駐車場の隅から、誰かの笑い声が聞こえた。薄闇の中、車のボンネットに腰をかけている若い男が、スマホをいじりながらこちらを見ている。

「新入り? 細いじゃん。すぐ壊れそう」

 誰も、助けてくれない。

 誰も、気づいてくれない。

 さっきまで、あんなにうるさかったネオンの輝きが、急に遠く感じられた。

 私の世界は、今、ここの暗闇と——。

「——ッ!」

 黒川の背後で、何かが「ドンッ」と大きな音を立てて落ちた。

 地面が、震えた気がした。

 黒川の手が、一瞬だけ緩む。

 その隙に私は、全力で叫んだ。

「たすけ——!」

「……うるさい」

 低い声が、夜を裂いた。

 次の瞬間だった。

 ――――ズドォンッ!!

 雷が落ちたかのような衝撃が、駐車場全体を揺らす。

 駐車場の中央。割れたコンクリートが、まるで隕石でも落ちてきたみたいに、円形に砕け散っている。その中心に——。

 男が、しゃがみ込んでいた。

 黒いパーカーのフードを目深にかぶり、片膝を立てて、片手で地面を押さえている。砕けたコンクリートの破片が、その周りに放射状に散らばっていた。

 落ちてきた?

 三十メートルくらいはありそうな、廃ビルの屋上から?

 そんなはずない。人間なら、即死だ。ぐちゃぐちゃになっててもおかしくない高さ。

 でも、その男は、平然と——いや、少し眉をひそめながら——立ち上がった。

「……マジかよ」

 車のボンネットに座っていた男が、呆然と呟く。

 黒川が、私を突き飛ばして、一歩前に出た。

「誰だよ、お前」

 フードの下から覗いた横顔は、驚くほど整っていた。

 すっと通った鼻筋。涼しげな目元。長い睫毛。顎のラインは少し幼さが残っているけれど、背は高いし、肩幅も広い。高校生か、大学生くらいだろうか。

「なんで、飛び降りて、生きてるんだよ……」

「別に。死なないから」

 淡々とした声。

 風が吹き抜けて、フードの端がめくれかける。その下に、一瞬だけ見えたもの——。

 耳のあたりの、異様な影。人間のものより、わずかに尖ったシルエット。

 見間違い、かもしれない。

 でも、それ以上に、もっと異様なのは——。

 彼の右手の甲から、銀色の粒子がこぼれていることだった。

 ガラスの粉みたいにきらきらと光るそれは、地面に落ちる前に、ふっと消えていく。さっきまで赤く擦りむけていたはずの皮膚は、もう何事もなかったかのように、なめらかだった。

「は?」

 言葉にならない声が、誰のものなのか、自分でもわからなかった。

 男は、ゆっくりと顔を上げる。

 その視線が、黒川たちを通り越して——私と、ぶつかった。

 一瞬、時間が止まったみたいに感じた。

 彼の目は、暗がりでもわかるくらい、琥珀色をしていた。夏の夕方の、陽に透けた麦茶みたいな、深くて透明な色。

 そこに映る自分の顔は、きっとひどいものだっただろう。涙目で、頬は真っ青で、震えていて。

 彼は、ほんの少しだけ、目を細めた。

「……見た?」

「え?」

「今の、見たかって聞いてんだよ」

 低く、抑えた声。その響きには、苛立ちも、不安もなくて、ただ——諦めに似た色があった。

 私は、口をぱくぱくさせるだけで、何も言えなかった。

 代わりに、黒川が怒鳴る。

「おい、ガキ! 邪魔すんな!」

 彼の手がポケットに突っ込まれる。次の瞬間、銀色のナイフが、月明かりを反射してきらりと光った。

 さっきまで、笑顔だったくせに。

 少しでも邪魔が入れば、これだ。

 私は、喉の奥で何かがぐつぐつと煮え立つのを感じた。恐怖と怒りと、悔しさと。

 でも、その感情が形になるより早く——。

「……そうか」

 フードの男が、小さく呟いた。

 さっと、影が揺れた。

 彼の足元から伸びた黒い影が、夏の夜のアスファルトに滲むように広がり——。

「なんだ、これ——」

 黒川が、悲鳴の途中で言葉を失う。

 影の中から、何かがせり上がってきていた。

 狼だ。

 そう思った。けれど、それは、普通の狼ではない。

 薄闇で形作られたような、黒い狼。体の輪郭は、ところどころ煙のように揺らいでいて、目だけが、ぼんやりと銀色に光っている。

 一匹、また一匹。影から、次々と浮かび上がる。

 一、二、三、四——五匹。

 駐車場の真ん中に、黒い狼の群れが、静かに立っていた。

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