Se connecterアスファルトは、さっきよりも少し湿っていて、鼻をつくカビ臭さが混じっていた。頭上には、ビルの壁が迫ってくるようで、空が細く切り取られている。
「ね、名前、なんていうの?」
「……ナギ」
「ナギちゃん。いいね、その名前。芸名にも使えるよ」
名前を呼ばれても、心は少しも弾まなかった。
路地を抜けると、突然、視界が開けた。
そこには、真っ暗な駐車場が広がっていた。ビルの陰に隠れるようにして、何台かの車が停められている。その向こうには、窓ガラスの割れた古い廃ビルが、夜空に黒い影を落としていた。
「……ここ、事務所じゃないですよね」
「はは。鋭いね」
黒川の声が、急に冷たくなる。
背後で、靴音が増えた。
振り返ると、いつの間にか、二人の男が路地の入口を塞いでいた。どちらも、黒いパーカーにジーンズ。顔には、薄っすらと笑いが浮かんでいる。
「逃げ場、ないよ」
黒川が、私の肩を掴んだ。その指が、皮膚に食い込む。
「……なに、するんですか」
震えを悟られないように、必死で声を平らにする。
「だから、言ったでしょ。写真、撮るだけだって」
「撮られるの、お前だけじゃないけどな」
背後の男が、くくっと笑う。
頭の中で、何かがカチリと音を立てた。
あ、これ、本当に、やばいやつだ。
「や、やめ——」
叫ぼうとした口を、黒川の手が塞いだ。強烈なタバコとコロンの匂いが鼻腔を満たす。
「騒ぐと、余計に痛い目みるよ」
耳元で囁かれたその声に、背骨が氷みたいに冷たくなる。
駐車場の隅から、誰かの笑い声が聞こえた。薄闇の中、車のボンネットに腰をかけている若い男が、スマホをいじりながらこちらを見ている。
「新入り? 細いじゃん。すぐ壊れそう」
誰も、助けてくれない。
誰も、気づいてくれない。
さっきまで、あんなにうるさかったネオンの輝きが、急に遠く感じられた。
私の世界は、今、ここの暗闇と——。
「——ッ!」
黒川の背後で、何かが「ドンッ」と大きな音を立てて落ちた。
地面が、震えた気がした。
黒川の手が、一瞬だけ緩む。
その隙に私は、全力で叫んだ。
「たすけ——!」
「……うるさい」
低い声が、夜を裂いた。
次の瞬間だった。
――――ズドォンッ!!
雷が落ちたかのような衝撃が、駐車場全体を揺らす。
駐車場の中央。割れたコンクリートが、まるで隕石でも落ちてきたみたいに、円形に砕け散っている。その中心に——。
男が、しゃがみ込んでいた。
黒いパーカーのフードを目深にかぶり、片膝を立てて、片手で地面を押さえている。砕けたコンクリートの破片が、その周りに放射状に散らばっていた。
落ちてきた?
三十メートルくらいはありそうな、廃ビルの屋上から?
そんなはずない。人間なら、即死だ。ぐちゃぐちゃになっててもおかしくない高さ。
でも、その男は、平然と——いや、少し眉をひそめながら——立ち上がった。
「……マジかよ」
車のボンネットに座っていた男が、呆然と呟く。
黒川が、私を突き飛ばして、一歩前に出た。
「誰だよ、お前」
フードの下から覗いた横顔は、驚くほど整っていた。
すっと通った鼻筋。涼しげな目元。長い睫毛。顎のラインは少し幼さが残っているけれど、背は高いし、肩幅も広い。高校生か、大学生くらいだろうか。
「なんで、飛び降りて、生きてるんだよ……」
「別に。死なないから」
淡々とした声。
風が吹き抜けて、フードの端がめくれかける。その下に、一瞬だけ見えたもの——。
耳のあたりの、異様な影。人間のものより、わずかに尖ったシルエット。
見間違い、かもしれない。
でも、それ以上に、もっと異様なのは——。
彼の右手の甲から、銀色の粒子がこぼれていることだった。
ガラスの粉みたいにきらきらと光るそれは、地面に落ちる前に、ふっと消えていく。さっきまで赤く擦りむけていたはずの皮膚は、もう何事もなかったかのように、なめらかだった。
「は?」
言葉にならない声が、誰のものなのか、自分でもわからなかった。
男は、ゆっくりと顔を上げる。
その視線が、黒川たちを通り越して——私と、ぶつかった。
一瞬、時間が止まったみたいに感じた。
彼の目は、暗がりでもわかるくらい、琥珀色をしていた。夏の夕方の、陽に透けた麦茶みたいな、深くて透明な色。
そこに映る自分の顔は、きっとひどいものだっただろう。涙目で、頬は真っ青で、震えていて。
彼は、ほんの少しだけ、目を細めた。
「……見た?」
「え?」
「今の、見たかって聞いてんだよ」
低く、抑えた声。その響きには、苛立ちも、不安もなくて、ただ——諦めに似た色があった。
私は、口をぱくぱくさせるだけで、何も言えなかった。
代わりに、黒川が怒鳴る。
「おい、ガキ! 邪魔すんな!」
彼の手がポケットに突っ込まれる。次の瞬間、銀色のナイフが、月明かりを反射してきらりと光った。
さっきまで、笑顔だったくせに。
少しでも邪魔が入れば、これだ。
私は、喉の奥で何かがぐつぐつと煮え立つのを感じた。恐怖と怒りと、悔しさと。
でも、その感情が形になるより早く——。
「……そうか」
フードの男が、小さく呟いた。
さっと、影が揺れた。
彼の足元から伸びた黒い影が、夏の夜のアスファルトに滲むように広がり——。
「なんだ、これ——」
黒川が、悲鳴の途中で言葉を失う。
影の中から、何かがせり上がってきていた。
狼だ。
そう思った。けれど、それは、普通の狼ではない。
薄闇で形作られたような、黒い狼。体の輪郭は、ところどころ煙のように揺らいでいて、目だけが、ぼんやりと銀色に光っている。
一匹、また一匹。影から、次々と浮かび上がる。
一、二、三、四——五匹。
駐車場の真ん中に、黒い狼の群れが、静かに立っていた。
港の朝は、早い。 まだ東の空がうっすらと白んでいるうちから、トラックのエンジン音が低く唸り始める。フォークリフトが倉庫の間を縫い、コンテナとパレットが行き交う。 カミヤは、指定された倉庫に行くと、無言で軍手を受け取った。「新顔か?」「源さんの紹介だ」「なら大丈夫だろ。荷物はこれだ。壊すなよ」 中型コンテナに積まれているのは、主に食品と雑貨。たまに、妙にやけに頑丈な木箱もあるが、そういうのには指示がない限り触らない。 一つのパレットを四人で運ぶ仕事を、カミヤは一人でこなした。「おい兄ちゃん、それ二人分だぞ」「大丈夫だ」 腰を落とし、膝で持ち上げる。百キロ超の荷重がかかるはずだが、カミヤの筋肉は、さほどの負荷には感じていない。 十階建てのビルから飛び降りても骨一本折れない身体にとっては、これくらいは準備運動だ。「……あいつ、ヤベえだろ」「クレーンかよ……」 ささやき声が、あちこちから聞こえてくる。 仕事の手を抜くわけにはいかない。だが、目立ちすぎてもいけない。そのギリギリの線を探りながら、カミヤは黙々と荷物を運び続けた。 昼休憩には、コンビニのおにぎりを二つと、味噌汁のカップを一つ。 倉庫の外で座っていると、カモメが頭上をかすめて飛んでいく。鳴き声が、遠く、うるさい。「よく食うな、兄ちゃん」 同じ班の中年男が、笑いながら缶コーヒーを差し出してきた。「よく働く男には、よく食わせないとな」「悪いな」 缶を受け取り、一口。砂糖の多い缶コーヒーの甘さが、乾いた喉を滑り落ちる。(こういう、どうってことない時間が、一番人間っぽいのかもしれねえな) ふと、そんなことを思う。 ——夜。 仕事を終えたカミヤは、倉庫の二階の空き部屋に上がった。 畳がところどころ剥がれ、窓のサッシ
橋が落ちてから、三ヶ月が経った。 原付のエンジンは、もう何時間も同じ唸りを続けている。海沿いの国道を、黒い影が一つ、ひたすら南へと流れていく。 ヘルメットの隙間から、潮の匂いが入り込んだ。塩と、海藻と、遠くの漁港の油の匂い。風はまだ冷たく、頬を刺す感触が心地よい。 ——ニュースでは、一週間も騒がれた。「女子高生誘拐事件、容疑者と少女を乗せた車両、橋崩落とともに消息不明」「容疑者の男は死亡、少女は川下で救助」 その後、「橋の老朽化ガー」「行政の責任ガー」と、テーマがすり替わっていくのに、そう時間はかからなかった。世間は忙しい。昨日の悲劇は、今日のワイドショーの飯のタネで、明日には次のネタに上書きされる。 人狼一匹の生死なんて、なおのこと。 ハーフヘルメットの下、カミヤは口元だけで笑った。「……ま、慣れたもんだな」 誰に聞かせるでもない、独り言だ。 三百年も生きてりゃ、いろんなもんを見送ってきた。主も、仲間も、時代も、町も、国も。隣で笑ってた奴が、次の瞬間にはいなくなることも、珍しくない。 置いていかれる痛みなんて、とっくの昔に擦り切れた——はず、だった。 それでも、胸の奥のどこかが、ときどきうずく。 あの橋の上で、自分のパーカーを引きちぎって少女に被せ、影狼を全部解き放ち、警察とヤクザとをまとめて薙ぎ払った夜。満月の下、少女の背中を、光の方へ押し出した時のこと。 琥珀色の瞳に映っていた、泣きそうで、でも泣かないように噛みしめていた強情な顔。「ナギは、ちゃんと光の下で生きてるかねぇ」 ぽつりと呟き、アクセルを少しだけ開く。 原付は、排気量のわりにはよく走る。中古で買った時にはボロだったが、簡単にバラして全部整備し直した。エンジンもタイヤも、もうしばらくは保つ。 ガソリンメーターは、まだ半分。財布の中身は、千円札が二枚と、くしゃくしゃのレシート、小銭が少し。(仕事探さねえとな) 橋から落ちたあの日から、三ヶ月。二つの町を転々とし、それ
そのあと、どうやって橋から引きずり降ろされたのか、あまり覚えていない。 警官たちの怒鳴り声と、救急車のサイレンと、ヘリのプロペラ音が、ぐちゃぐちゃに混ざっていた。 誰かが「少女確保!」と叫んだ。「大丈夫か」「怪我はないか」と、矢継ぎ早に質問される。 私は、ただひとつの言葉しか、口にできなかった。「……カミヤは?」 誰も、答えてくれなかった。 代わりに、テレビが答えを出した。『橋崩落、犯人の男死亡か』『少女保護、誘拐事件は解決へ』 画面の中でアナウンサーが、淡々と言葉を紡いでいく。「犯人死亡」 そのテロップが、頭の中で何度も点滅した。 *** 季節は、冬になっていた。 あの夏の日から、何度も何度も、朝が来て、夜が来て。 私は、あの家には戻らなかった。 保護されたあと、事情を話した。 父親に殴られていたこと。母親が止めなかったこと。夜、逃げ出したこと。 全部本当のことなのに、「盛ってない?」と疑う視線も、確かにあった。 でも、病院の診断書や、近所の人の証言や、学校での担任の話で、どうにか「虐待」は認められた。 父は、いなくなった。どこに行ったのか、誰も教えてくれない。 母は、テレビに映らなくなった。 代わりに、私は「保護された被害者」として、児童相談所やカウンセラーのところを何度も回った。「怖かったでしょう」「でも、もう大丈夫よ」 その言葉に、私は笑ってうなずいた。「はい。もう、大丈夫です」 そう言うたびに、胸の奥で、なにかがちくりと痛んだ。 怖いのは、あの家じゃない。 怖いのは、「犯人死亡」という、軽いテロップ一行で、あの人の存在が片付けられてしまったことだ。 あの橋の上で、銀色の粒子を撒き散らしながら、私を逃がすために戦っていた人が。「犯人」の一言で、全部
夜の港は、昼とは別の顔を見せる。 昼間はトラックとフォークリフトが走り回る埠頭も、深夜が近づくと、急に静かになる。代わりに、遠くのタンカーの汽笛と、街のネオンの反射だけが、ゆらゆらと揺れていた。 カミヤは、その境界線を一人で歩いていた。 《月下美人》にリオを預けた後、昼間は少し眠り、夕方からまた動き出した。港湾労働の仕事は、とりあえずバックレた形になるが、源に文句を言われる頃には、どうせこの街にはいないだろう。 足元の影が、黒く伸びる。『主人』 クロが顔を出す。「なんだ」『あの女のところに残る、とは言わんのか?』「俺がいたら、かえって目立つ」 カミヤは、無造作に答えた。「堂前の奴らは、もう俺の顔を別枠で記憶してる。あいつらの中で、リオは消せる駒で、俺は警戒すべき獣だ」『獣、か』「まあ、間違っちゃいねえ」 自嘲気味に笑いながらも、視線は暗闇から目を離さない。 この街に着いてから、何度か耳にした噂を繋げていく。 ——「賀茂海運」の倉庫の一つに、警察もまだ場所を特定できていない「特別な倉庫」がある。 ——そこに、外から入ってきた「腕のいいやり手」が出入りしている。 ——そいつは、組織の人間じゃない。だが、賀茂に雇われている。 腕のいいやり手。 裏社会でそういう言葉を聞いた時、カミヤは本能的に「嫌な予感」がした。(ただのチンピラなら、影狼を出すまでもねえ。けど——) 風が、ふいに止まった。 海面を撫でていたはずの風が、ぴたりと凪いだ。「——やあ」 背中の皮膚が、一瞬で総毛立った。 声と同時に、風が裂ける。 カミヤは、反射で身体をひねった。 それでも、完全には避けきれない。 左腕に、鋭い痛みが走
橋の中央付近が、限界に近づいているのがわかった。 コンクリートに走るひび割れが、どんどん広がっていく。欄干の一部は、すでに川に落ちていた。 影の狼たちが、そのひび割れを踏み越えて走るたび、橋全体がゆらゆらと揺れる。「……やば」 思わず声が漏れる。 向こう側にいる警官たちも、危険を感じたのか、一時的に引き下がっていた。 その隙に、私は橋のたもとまであと数メートル、というところまで辿り着いていた。「ナギ!」 また、名前を呼ばれる。 振り返ると、カミヤが、橋の真ん中でこちらを見ていた。 狼の姿のまま。血まみれのはずなのに、銀色の光がそれを全部覆い隠して、まるで月の化身みたいに見えた。「行け!」 彼が、叫ぶ。「ここで止まったら、全部意味ねえ!」「でも——!」 涙が、視界をぼやけさせる。「一緒に——」「無理だ!」 鋭い声。「俺は、こっから先、行けねえ!」「なんで!」「見ろよ!」 彼が、足元を指さす。 橋の中央付近。大きなひび割れ。コンクリート片が、ぽろぽろと川に落ちていく。「ここは、俺みたいなもんが暴れりゃ、崩れるようにできてんだよ!」「カミヤが、壊したんじゃないの?」「きっかけにはなったかもな。でも、もともとギリギリだった」 彼は、息を切らしながら笑った。「橋ってのは、いつか落ちるもんだ。設計したやつらは、『何十年先』って数字を見てたかもしれねえけど……」「今じゃん!」「そうだよ。今だ」 彼は、ひとつ深呼吸をして、続けた。「だったら、その『いつか』を、お前を逃がすために使う」「……っ」 胸の奥で、なにかがはじけた。「やだ」 子どもみたいな言葉が、口からこぼれる。「そんなの、いやだよ」
橋の真ん中に近づくにつれて、空気が変わっていくのが、肌でわかった。 遠くで、ヘリコプターのプロペラ音がする。まだ姿は見えないけれど、風の震え方がいつもと違う。 橋の欄干の向こう、川の流れはゆっくりとしていて、水面が鈍く光っていた。「ナギ」「ん」「ここから先は、走ってもらう」「え?」「俺が合図したら、全力で向こう側のたもとまで走れ。振り向くな。止まるな。泣くな」「三つも条件つけないで」「守れそうなやつだけ守れ」「泣かないのは、ちょっと自信ない」「泣きながらでも走れ」「わかった」 うなずいた瞬間、橋の向こうからサイレンの音が聞こえはじめた。 赤と青の点滅が、遠くに小さく揺れている。「警察……」「だけじゃねえな」 カミヤの声が低くなる。 そのすぐあと、橋のこちら側——私たちが来たほうからも、同じようなサイレンの音がした。 振り返ると、白と黒のパトカーが数台と、その後ろに黒いワゴン車が連なっているのが見えた。「挟み撃ち……」 呟いた私の背後で、カミヤが小さく笑った。「わかりやすいな」「笑ってる場合じゃなくない?」「笑ってねえよ」 橋の両端に、車が並ぶ。 拡声器を通した声が、風に乗って響いてきた。「そこにいる二人、聞こえるか! ゆっくり手を挙げて、こちらに歩いてきなさい!」 よくドラマで聞く台詞。でも、実際に自分が向けられると、胃がきゅっと縮む。「少女は、保護する! 抵抗はするな!」 私のことだ。「カミヤ……」「落ち着け」 彼は、私の肩に手を置いた。 その手は、驚くほど冷静で、安定していた。「俺がやることは、ひとつだけだ」「なにを——」 最後まで聞く前に、世界が変わった。