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第1章・第5話:『お前』から『ナギ』へ、変わる夜風

Author: 銀狐
last update publish date: 2026-05-18 06:07:06

 人に殴られる音も、怒鳴り声も、さっきまでの恐怖も、一瞬だけ遠のいていく。

「そんな顔で食うな」

 隣で、狼谷がぼそっと言った。

「変な顔ってこと?」

「うまそうに食いすぎ」

 彼は、プラスチックのフォークで焼き鳥パックをつついていた。中身は、もも肉とネギまが数本。ラップをはがして、ひとつをそのまま口に放り込む。

「……冷てぇ」

「レンジで温めてもらえばよかったのに」

「いい。これで」

 本当に、どうでもよさそうな顔で言う。

 でも、焼き鳥を噛みしめるときの彼の顎の動きは、どこか嬉しそうに見えた。冷たくても、肉は肉。そういう感じ。

「ねえ」

「今度はなんだ」

「なんで、肉ばっかり食べるの?」

「腹に溜まる」

「ごはんとか、いらないの?」

「炭水化物は、あんま好きじゃねえ」

「女子力低い」

「お前な」

 彼が、少しだけ笑った気がした。

 その笑いが、コンビニの蛍光灯の下で、意外と年相応に見えて、胸がきゅっとなる。

「人間ってさ、なんでそんなに、穀物ばっか食うんだろうな」

「人間、って」

「あ」

 彼が、ほんの一瞬、言葉に詰まった。

 私は、唐揚げを咀嚼したまま、彼の横顔を見る。

「今、人間って言った?」

「言ってねえ」

「言った。聞いた」

「聞き間違いだ」

「……狼谷は、人間じゃないの?」

 沈黙。

 夜の虫の声が、遠くから聞こえてくる。コンビニの自動ドアが開くたびに、ベルの音がする。車が国道を走り抜ける音。

 全部が、妙に遠く感じられた。

「……俺は」

 彼が、焼き鳥の串をじっと見つめた。

「人間だよ」

「嘘」

「人間のフリをしてる」

「それ、もう人間じゃないやつのセリフ」

「うるせえ」

 彼は、相変わらず目を合わせてくれない。

 でも、さっき、飛び降りたときにこぼれた銀色の粒子も、影から立ち上がった狼たちも、その言葉を完全には否定していなかった。

「じゃあさ」

 私は、弁当箱の隅の漬物を箸でつつきながら、口を開く。

「狼?」

「は?」

「さっきの、狼っぽかったから。影のやつ。人狼、とか?」

 笑われると思った。

 中二病かよ、とか、アホか、とか。

 でも、彼は、笑わなかった。ただ、少しだけ、頬の筋肉がぴくりと動いた。

「……お前、そういうの、信じるタイプか」

「さっき、目の前で見たし」

「普通の人間は、目の前で見ても、信じねえよ」

「私は、普通じゃないし」

「それは、なんとなくわかる」

 ひどい。

 でも、嫌じゃなかった。

「で? 本当は?」

「教えても、どうせ、お前の人生には何の得もねえぞ」

「得とか損とかじゃなくて。知りたいだけ」

「物好き」

 彼は、ため息をひとつ吐いてから、焼き鳥の串を口にくわえたまま、ぼそっと言った。

「人狼」

「……え?」

「狼男だの、怪物だの、昔からいろいろ言われてるやつ。月を見ると暴走するだの、人を食うだの。だいたい、間違ってるけど」

 焼き鳥を噛みながら、淡々と言う。

「俺は、その、ひとりだ」

 心臓が、どくん、と大きく脈打った。

 目の前の少年——いや、外見は少年だけど、彼自身はもっと長く生きているのかもしれない——が、自分を「人狼」だと名乗った。

「寿命は、普通の人間よりちょっと長い。力は、ちょっと強い。傷も、ちょっと治りやすい」

「ちょっと、のレベルじゃなかったけど」

「満月のときは、もっと面倒くさい。いろいろ」

「……変身、とか?」

「そういうのは、見ないで済むなら見なくていい」

 視線を逸らすように言う。

「それが、見なかったことにしろって言った理由?」

「そうだ」

「でも、見ちゃったし」

「だから、お前は面倒くせえって言ってんだよ」

 彼は、最後の焼き鳥を食べ終えると、串を容器に放り込んだ。

「お前が黙っててくれるなら、それでいい。俺は、今まで通り、バイトして、適当に生きる」

「……バイト」

「そう。さっき、お前がいたコンビニの、深夜シフト」

「え」

 一瞬、頭の中で、コンビニの記憶と彼の姿が繋がる。

「あ、だから、店員さん、私たちに気づかなかったんだ……。裏口とかから、勝手に出入りしてたの?」

「勝手にじゃねえ。ちゃんとバイトだ。最低時給で」

「人狼なのに、最低時給で働いてるの?」

「やめろ、その言い方」

 彼が、心底うんざりしたような顔をする。

 でも、その顔が、少しだけ、可笑しくて。

 私は、弁当のごはんを口にかき込みながら、ぽつりと呟いた。

「……優しいね」

「は?」

「だって、さっきの人たち、本気出したら殺せたでしょ。でも、骨折るだけで済ませてたし」

「殺したら、後始末が面倒だろ」

「それだけ?」

「それだけだ」

「ふうん」

 信じてない、という意味を込めて、わざとそう言ってみる。

「俺は、人間は嫌いだ」

「……」

「でも、お前らの世界で生きてる以上、全部壊すわけにもいかねえ。目立てば、狩られるのは俺のほうだ。だから、なるべく、静かに生きる」

「……それ、寂しくない?」

「慣れた」

 彼は、それ以上、何も言わなかった。

 私も、弁当の最後の一口を飲み込む。

 胸の中に、違和感が残る。

「人間は嫌い」って言い切るその声の奥に、薄く滲んでいたもの。諦めとか、疲れとか、もしかしたら——ほんの少しの、孤独とか。

「俺は、優しくなんかねえよ」

 不意に、彼がぽつりと言った。

「助けたのも、たまたまだし。お前が、うるさそうだったから」

「うるさいって……」

「今だって、ほんとは、関わりたくねえ。家出少女のトラブルなんて、くっそ面倒くさいに決まってる」

「家出、ってバレてた」

「見りゃわかる。制服にトートバッグひとつで、夜の繁華街うろついてるガキなんて、ロクなことにならねえ」

 図星すぎて、何も言えない。

「でもまあ——」

 彼は、最後に残った唐揚げを、容器からつまんだ。じっとそれを見てから、自分の口には運ばずに、私のほうに差し出す。

「……え?」

「食えよ。好きなんだろ、これ」

「いいの?」

「別に。俺は肉食えたし」

「唐揚げも肉だけど」

「揚げ物は、ちょっと重い」

「女子か」

「殴るぞ」

 彼の指先から、唐揚げをそっと受け取る。

 さっき自分で食べたときよりも、ずっと美味しく感じた。

 胸のあたりが、じんわりと熱くなる。さっきまで、あんなに怖い思いをしたのに。今は、唐揚げひとつで、こんなにも心が満たされる。

「ねえ、狼谷」

「なんだ」

「さっき、言ってたでしょ。『俺は、お前に関わる気はねえ』って」

「ああ」

「それ、撤回して」

「は?」

「だって、もう関わっちゃってるし。私、あんたから離れないし」

「ストーカーかよ、お前」

「助けてもらった礼、ちゃんと返したいし。それに——」

 そこで、言葉を切る。

「それに、あんたがひとりで静かに生きてるの、なんかムカつく」

「意味わかんねえ」

「だって、人間嫌いとか言ってるけど、本当はちょっと優しいし。そういうの、なんかズルい」

 私は、立ち上がって、空を見上げた。

 街の明かりで、星はほとんど見えない。だけど、ビルの隙間から覗く夜空には、丸くなる途中の月が、白く浮かんでいた。

「ねえ」

「今度はなんだ」

「どこまで、連れてってくれる?」

 彼は、少しだけ考えるように黙ってから、立ち上がった。

 ゴミをまとめて、コンビニのゴミ箱に放り込む。その動作は、妙に手慣れていて、深夜バイト歴の長さを感じさせる。

「……ここから離れたとこ。あいつらの手が、すぐには届かねえところ」

「あいつら?」

「さっきのおっさんどもだけじゃねえ。ああいう連中の背後には、もっとでかい組織がいる」

「やっぱり……」

「お前の顔、たぶんもう写真撮られてる。ネットにも回される。『逃げた商品』を取り戻すのに、金と手間をかけてでも探しに来る」

「……商品」

 自分が、そう呼ばれる立場だったことに、胃のあたりがきゅっとなる。

「だから、逃げるなら、徹底的にやる」

 彼は、原付のほうを顎で示した。

「……バイク、盗んだ?」

「さっきまでは、あいつらのだ。今は、俺のだ」

「泥棒じゃん」

「被害者面すんな。連中のやってることに比べりゃ、かわいいもんだ」

「たしかに」

 私は、彼のあとを追って、原付にまたがる。

 さっきよりも、自然に彼の腰に腕を回せた。

「もう、戻れねえぞ」

 エンジンをかけながら、彼が言う。

「戻らない」

「親は?」

「いらない」

 答えは、すぐに出た。

「学校は?」

 一瞬、喉につかえる。

 クラスのざわざわした空気。先生の退屈な声。窓の外に見えたグラウンド。昼休みにひとりで食べた、パンの味。

「……わかんない。でも、今は、そっちより、生き延びるほうが先」

「偉いじゃねえか」

「褒めてる?」

「五十点」

「厳しい」

 彼の背中越しに、笑いを含んだ気配が伝わる。

「しっかり掴まってろよ、ナギ」

 初めて、名前を呼ばれた。

 さっきは「お前」だったのに。

 その違いが、胸の奥に、じんわりと広がる。

「うん、狼谷」

「カミヤでいい」

「じゃあ、カミヤ」

「調子乗んな」

 そう言いながらも、彼の声は、さっきより、ほんの少しだけ柔らかかった。

 原付が、夜の国道へと滑り出す。

 街灯が、一定のリズムで流れていく。遠くの空に、薄く白んだ雲と、その向こうの月。

 夏の夜風が、涙の跡を乾かしていく。

 こうして、私と人狼の逃避行は、本当に始まった。

 後戻りのできない、夏の旅。

 行き先なんて、まだ知らない。

 ただ、彼の背中の温度だけを、頼りにして。

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