ログイン人に殴られる音も、怒鳴り声も、さっきまでの恐怖も、一瞬だけ遠のいていく。
「そんな顔で食うな」
隣で、狼谷がぼそっと言った。
「変な顔ってこと?」
「うまそうに食いすぎ」
彼は、プラスチックのフォークで焼き鳥パックをつついていた。中身は、もも肉とネギまが数本。ラップをはがして、ひとつをそのまま口に放り込む。
「……冷てぇ」
「レンジで温めてもらえばよかったのに」
「いい。これで」
本当に、どうでもよさそうな顔で言う。
でも、焼き鳥を噛みしめるときの彼の顎の動きは、どこか嬉しそうに見えた。冷たくても、肉は肉。そういう感じ。
「ねえ」
「今度はなんだ」
「なんで、肉ばっかり食べるの?」
「腹に溜まる」
「ごはんとか、いらないの?」
「炭水化物は、あんま好きじゃねえ」
「女子力低い」
「お前な」
彼が、少しだけ笑った気がした。
その笑いが、コンビニの蛍光灯の下で、意外と年相応に見えて、胸がきゅっとなる。
「人間ってさ、なんでそんなに、穀物ばっか食うんだろうな」
「人間、って」
「あ」
彼が、ほんの一瞬、言葉に詰まった。
私は、唐揚げを咀嚼したまま、彼の横顔を見る。
「今、人間って言った?」
「言ってねえ」
「言った。聞いた」
「聞き間違いだ」
「……狼谷は、人間じゃないの?」
沈黙。
夜の虫の声が、遠くから聞こえてくる。コンビニの自動ドアが開くたびに、ベルの音がする。車が国道を走り抜ける音。
全部が、妙に遠く感じられた。
「……俺は」
彼が、焼き鳥の串をじっと見つめた。
「人間だよ」
「嘘」
「人間のフリをしてる」
「それ、もう人間じゃないやつのセリフ」
「うるせえ」
彼は、相変わらず目を合わせてくれない。
でも、さっき、飛び降りたときにこぼれた銀色の粒子も、影から立ち上がった狼たちも、その言葉を完全には否定していなかった。
「じゃあさ」
私は、弁当箱の隅の漬物を箸でつつきながら、口を開く。
「狼?」
「は?」
「さっきの、狼っぽかったから。影のやつ。人狼、とか?」
笑われると思った。
中二病かよ、とか、アホか、とか。
でも、彼は、笑わなかった。ただ、少しだけ、頬の筋肉がぴくりと動いた。
「……お前、そういうの、信じるタイプか」
「さっき、目の前で見たし」
「普通の人間は、目の前で見ても、信じねえよ」
「私は、普通じゃないし」
「それは、なんとなくわかる」
ひどい。
でも、嫌じゃなかった。
「で? 本当は?」
「教えても、どうせ、お前の人生には何の得もねえぞ」
「得とか損とかじゃなくて。知りたいだけ」
「物好き」
彼は、ため息をひとつ吐いてから、焼き鳥の串を口にくわえたまま、ぼそっと言った。
「人狼」
「……え?」
「狼男だの、怪物だの、昔からいろいろ言われてるやつ。月を見ると暴走するだの、人を食うだの。だいたい、間違ってるけど」
焼き鳥を噛みながら、淡々と言う。
「俺は、その、ひとりだ」
心臓が、どくん、と大きく脈打った。
目の前の少年——いや、外見は少年だけど、彼自身はもっと長く生きているのかもしれない——が、自分を「人狼」だと名乗った。
「寿命は、普通の人間よりちょっと長い。力は、ちょっと強い。傷も、ちょっと治りやすい」
「ちょっと、のレベルじゃなかったけど」
「満月のときは、もっと面倒くさい。いろいろ」
「……変身、とか?」
「そういうのは、見ないで済むなら見なくていい」
視線を逸らすように言う。
「それが、見なかったことにしろって言った理由?」
「そうだ」
「でも、見ちゃったし」
「だから、お前は面倒くせえって言ってんだよ」
彼は、最後の焼き鳥を食べ終えると、串を容器に放り込んだ。
「お前が黙っててくれるなら、それでいい。俺は、今まで通り、バイトして、適当に生きる」
「……バイト」
「そう。さっき、お前がいたコンビニの、深夜シフト」
「え」
一瞬、頭の中で、コンビニの記憶と彼の姿が繋がる。
「あ、だから、店員さん、私たちに気づかなかったんだ……。裏口とかから、勝手に出入りしてたの?」
「勝手にじゃねえ。ちゃんとバイトだ。最低時給で」
「人狼なのに、最低時給で働いてるの?」
「やめろ、その言い方」
彼が、心底うんざりしたような顔をする。
でも、その顔が、少しだけ、可笑しくて。
私は、弁当のごはんを口にかき込みながら、ぽつりと呟いた。
「……優しいね」
「は?」
「だって、さっきの人たち、本気出したら殺せたでしょ。でも、骨折るだけで済ませてたし」
「殺したら、後始末が面倒だろ」
「それだけ?」
「それだけだ」
「ふうん」
信じてない、という意味を込めて、わざとそう言ってみる。
「俺は、人間は嫌いだ」
「……」
「でも、お前らの世界で生きてる以上、全部壊すわけにもいかねえ。目立てば、狩られるのは俺のほうだ。だから、なるべく、静かに生きる」
「……それ、寂しくない?」
「慣れた」
彼は、それ以上、何も言わなかった。
私も、弁当の最後の一口を飲み込む。
胸の中に、違和感が残る。
「人間は嫌い」って言い切るその声の奥に、薄く滲んでいたもの。諦めとか、疲れとか、もしかしたら——ほんの少しの、孤独とか。
「俺は、優しくなんかねえよ」
不意に、彼がぽつりと言った。
「助けたのも、たまたまだし。お前が、うるさそうだったから」
「うるさいって……」
「今だって、ほんとは、関わりたくねえ。家出少女のトラブルなんて、くっそ面倒くさいに決まってる」
「家出、ってバレてた」
「見りゃわかる。制服にトートバッグひとつで、夜の繁華街うろついてるガキなんて、ロクなことにならねえ」
図星すぎて、何も言えない。
「でもまあ——」
彼は、最後に残った唐揚げを、容器からつまんだ。じっとそれを見てから、自分の口には運ばずに、私のほうに差し出す。
「……え?」
「食えよ。好きなんだろ、これ」
「いいの?」
「別に。俺は肉食えたし」
「唐揚げも肉だけど」
「揚げ物は、ちょっと重い」
「女子か」
「殴るぞ」
彼の指先から、唐揚げをそっと受け取る。
さっき自分で食べたときよりも、ずっと美味しく感じた。
胸のあたりが、じんわりと熱くなる。さっきまで、あんなに怖い思いをしたのに。今は、唐揚げひとつで、こんなにも心が満たされる。
「ねえ、狼谷」
「なんだ」
「さっき、言ってたでしょ。『俺は、お前に関わる気はねえ』って」
「ああ」
「それ、撤回して」
「は?」
「だって、もう関わっちゃってるし。私、あんたから離れないし」
「ストーカーかよ、お前」
「助けてもらった礼、ちゃんと返したいし。それに——」
そこで、言葉を切る。
「それに、あんたがひとりで静かに生きてるの、なんかムカつく」
「意味わかんねえ」
「だって、人間嫌いとか言ってるけど、本当はちょっと優しいし。そういうの、なんかズルい」
私は、立ち上がって、空を見上げた。
街の明かりで、星はほとんど見えない。だけど、ビルの隙間から覗く夜空には、丸くなる途中の月が、白く浮かんでいた。
「ねえ」
「今度はなんだ」
「どこまで、連れてってくれる?」
彼は、少しだけ考えるように黙ってから、立ち上がった。
ゴミをまとめて、コンビニのゴミ箱に放り込む。その動作は、妙に手慣れていて、深夜バイト歴の長さを感じさせる。
「……ここから離れたとこ。あいつらの手が、すぐには届かねえところ」
「あいつら?」
「さっきのおっさんどもだけじゃねえ。ああいう連中の背後には、もっとでかい組織がいる」
「やっぱり……」
「お前の顔、たぶんもう写真撮られてる。ネットにも回される。『逃げた商品』を取り戻すのに、金と手間をかけてでも探しに来る」
「……商品」
自分が、そう呼ばれる立場だったことに、胃のあたりがきゅっとなる。
「だから、逃げるなら、徹底的にやる」
彼は、原付のほうを顎で示した。
「……バイク、盗んだ?」
「さっきまでは、あいつらのだ。今は、俺のだ」
「泥棒じゃん」
「被害者面すんな。連中のやってることに比べりゃ、かわいいもんだ」
「たしかに」
私は、彼のあとを追って、原付にまたがる。
さっきよりも、自然に彼の腰に腕を回せた。
「もう、戻れねえぞ」
エンジンをかけながら、彼が言う。
「戻らない」
「親は?」
「いらない」
答えは、すぐに出た。
「学校は?」
一瞬、喉につかえる。
クラスのざわざわした空気。先生の退屈な声。窓の外に見えたグラウンド。昼休みにひとりで食べた、パンの味。
「……わかんない。でも、今は、そっちより、生き延びるほうが先」
「偉いじゃねえか」
「褒めてる?」
「五十点」
「厳しい」
彼の背中越しに、笑いを含んだ気配が伝わる。
「しっかり掴まってろよ、ナギ」
初めて、名前を呼ばれた。
さっきは「お前」だったのに。
その違いが、胸の奥に、じんわりと広がる。
「うん、狼谷」
「カミヤでいい」
「じゃあ、カミヤ」
「調子乗んな」
そう言いながらも、彼の声は、さっきより、ほんの少しだけ柔らかかった。
原付が、夜の国道へと滑り出す。
街灯が、一定のリズムで流れていく。遠くの空に、薄く白んだ雲と、その向こうの月。
夏の夜風が、涙の跡を乾かしていく。
こうして、私と人狼の逃避行は、本当に始まった。
後戻りのできない、夏の旅。
行き先なんて、まだ知らない。
ただ、彼の背中の温度だけを、頼りにして。
港の朝は、早い。 まだ東の空がうっすらと白んでいるうちから、トラックのエンジン音が低く唸り始める。フォークリフトが倉庫の間を縫い、コンテナとパレットが行き交う。 カミヤは、指定された倉庫に行くと、無言で軍手を受け取った。「新顔か?」「源さんの紹介だ」「なら大丈夫だろ。荷物はこれだ。壊すなよ」 中型コンテナに積まれているのは、主に食品と雑貨。たまに、妙にやけに頑丈な木箱もあるが、そういうのには指示がない限り触らない。 一つのパレットを四人で運ぶ仕事を、カミヤは一人でこなした。「おい兄ちゃん、それ二人分だぞ」「大丈夫だ」 腰を落とし、膝で持ち上げる。百キロ超の荷重がかかるはずだが、カミヤの筋肉は、さほどの負荷には感じていない。 十階建てのビルから飛び降りても骨一本折れない身体にとっては、これくらいは準備運動だ。「……あいつ、ヤベえだろ」「クレーンかよ……」 ささやき声が、あちこちから聞こえてくる。 仕事の手を抜くわけにはいかない。だが、目立ちすぎてもいけない。そのギリギリの線を探りながら、カミヤは黙々と荷物を運び続けた。 昼休憩には、コンビニのおにぎりを二つと、味噌汁のカップを一つ。 倉庫の外で座っていると、カモメが頭上をかすめて飛んでいく。鳴き声が、遠く、うるさい。「よく食うな、兄ちゃん」 同じ班の中年男が、笑いながら缶コーヒーを差し出してきた。「よく働く男には、よく食わせないとな」「悪いな」 缶を受け取り、一口。砂糖の多い缶コーヒーの甘さが、乾いた喉を滑り落ちる。(こういう、どうってことない時間が、一番人間っぽいのかもしれねえな) ふと、そんなことを思う。 ——夜。 仕事を終えたカミヤは、倉庫の二階の空き部屋に上がった。 畳がところどころ剥がれ、窓のサッシ
橋が落ちてから、三ヶ月が経った。 原付のエンジンは、もう何時間も同じ唸りを続けている。海沿いの国道を、黒い影が一つ、ひたすら南へと流れていく。 ヘルメットの隙間から、潮の匂いが入り込んだ。塩と、海藻と、遠くの漁港の油の匂い。風はまだ冷たく、頬を刺す感触が心地よい。 ——ニュースでは、一週間も騒がれた。「女子高生誘拐事件、容疑者と少女を乗せた車両、橋崩落とともに消息不明」「容疑者の男は死亡、少女は川下で救助」 その後、「橋の老朽化ガー」「行政の責任ガー」と、テーマがすり替わっていくのに、そう時間はかからなかった。世間は忙しい。昨日の悲劇は、今日のワイドショーの飯のタネで、明日には次のネタに上書きされる。 人狼一匹の生死なんて、なおのこと。 ハーフヘルメットの下、カミヤは口元だけで笑った。「……ま、慣れたもんだな」 誰に聞かせるでもない、独り言だ。 三百年も生きてりゃ、いろんなもんを見送ってきた。主も、仲間も、時代も、町も、国も。隣で笑ってた奴が、次の瞬間にはいなくなることも、珍しくない。 置いていかれる痛みなんて、とっくの昔に擦り切れた——はず、だった。 それでも、胸の奥のどこかが、ときどきうずく。 あの橋の上で、自分のパーカーを引きちぎって少女に被せ、影狼を全部解き放ち、警察とヤクザとをまとめて薙ぎ払った夜。満月の下、少女の背中を、光の方へ押し出した時のこと。 琥珀色の瞳に映っていた、泣きそうで、でも泣かないように噛みしめていた強情な顔。「ナギは、ちゃんと光の下で生きてるかねぇ」 ぽつりと呟き、アクセルを少しだけ開く。 原付は、排気量のわりにはよく走る。中古で買った時にはボロだったが、簡単にバラして全部整備し直した。エンジンもタイヤも、もうしばらくは保つ。 ガソリンメーターは、まだ半分。財布の中身は、千円札が二枚と、くしゃくしゃのレシート、小銭が少し。(仕事探さねえとな) 橋から落ちたあの日から、三ヶ月。二つの町を転々とし、それ
そのあと、どうやって橋から引きずり降ろされたのか、あまり覚えていない。 警官たちの怒鳴り声と、救急車のサイレンと、ヘリのプロペラ音が、ぐちゃぐちゃに混ざっていた。 誰かが「少女確保!」と叫んだ。「大丈夫か」「怪我はないか」と、矢継ぎ早に質問される。 私は、ただひとつの言葉しか、口にできなかった。「……カミヤは?」 誰も、答えてくれなかった。 代わりに、テレビが答えを出した。『橋崩落、犯人の男死亡か』『少女保護、誘拐事件は解決へ』 画面の中でアナウンサーが、淡々と言葉を紡いでいく。「犯人死亡」 そのテロップが、頭の中で何度も点滅した。 *** 季節は、冬になっていた。 あの夏の日から、何度も何度も、朝が来て、夜が来て。 私は、あの家には戻らなかった。 保護されたあと、事情を話した。 父親に殴られていたこと。母親が止めなかったこと。夜、逃げ出したこと。 全部本当のことなのに、「盛ってない?」と疑う視線も、確かにあった。 でも、病院の診断書や、近所の人の証言や、学校での担任の話で、どうにか「虐待」は認められた。 父は、いなくなった。どこに行ったのか、誰も教えてくれない。 母は、テレビに映らなくなった。 代わりに、私は「保護された被害者」として、児童相談所やカウンセラーのところを何度も回った。「怖かったでしょう」「でも、もう大丈夫よ」 その言葉に、私は笑ってうなずいた。「はい。もう、大丈夫です」 そう言うたびに、胸の奥で、なにかがちくりと痛んだ。 怖いのは、あの家じゃない。 怖いのは、「犯人死亡」という、軽いテロップ一行で、あの人の存在が片付けられてしまったことだ。 あの橋の上で、銀色の粒子を撒き散らしながら、私を逃がすために戦っていた人が。「犯人」の一言で、全部
夜の港は、昼とは別の顔を見せる。 昼間はトラックとフォークリフトが走り回る埠頭も、深夜が近づくと、急に静かになる。代わりに、遠くのタンカーの汽笛と、街のネオンの反射だけが、ゆらゆらと揺れていた。 カミヤは、その境界線を一人で歩いていた。 《月下美人》にリオを預けた後、昼間は少し眠り、夕方からまた動き出した。港湾労働の仕事は、とりあえずバックレた形になるが、源に文句を言われる頃には、どうせこの街にはいないだろう。 足元の影が、黒く伸びる。『主人』 クロが顔を出す。「なんだ」『あの女のところに残る、とは言わんのか?』「俺がいたら、かえって目立つ」 カミヤは、無造作に答えた。「堂前の奴らは、もう俺の顔を別枠で記憶してる。あいつらの中で、リオは消せる駒で、俺は警戒すべき獣だ」『獣、か』「まあ、間違っちゃいねえ」 自嘲気味に笑いながらも、視線は暗闇から目を離さない。 この街に着いてから、何度か耳にした噂を繋げていく。 ——「賀茂海運」の倉庫の一つに、警察もまだ場所を特定できていない「特別な倉庫」がある。 ——そこに、外から入ってきた「腕のいいやり手」が出入りしている。 ——そいつは、組織の人間じゃない。だが、賀茂に雇われている。 腕のいいやり手。 裏社会でそういう言葉を聞いた時、カミヤは本能的に「嫌な予感」がした。(ただのチンピラなら、影狼を出すまでもねえ。けど——) 風が、ふいに止まった。 海面を撫でていたはずの風が、ぴたりと凪いだ。「——やあ」 背中の皮膚が、一瞬で総毛立った。 声と同時に、風が裂ける。 カミヤは、反射で身体をひねった。 それでも、完全には避けきれない。 左腕に、鋭い痛みが走
橋の中央付近が、限界に近づいているのがわかった。 コンクリートに走るひび割れが、どんどん広がっていく。欄干の一部は、すでに川に落ちていた。 影の狼たちが、そのひび割れを踏み越えて走るたび、橋全体がゆらゆらと揺れる。「……やば」 思わず声が漏れる。 向こう側にいる警官たちも、危険を感じたのか、一時的に引き下がっていた。 その隙に、私は橋のたもとまであと数メートル、というところまで辿り着いていた。「ナギ!」 また、名前を呼ばれる。 振り返ると、カミヤが、橋の真ん中でこちらを見ていた。 狼の姿のまま。血まみれのはずなのに、銀色の光がそれを全部覆い隠して、まるで月の化身みたいに見えた。「行け!」 彼が、叫ぶ。「ここで止まったら、全部意味ねえ!」「でも——!」 涙が、視界をぼやけさせる。「一緒に——」「無理だ!」 鋭い声。「俺は、こっから先、行けねえ!」「なんで!」「見ろよ!」 彼が、足元を指さす。 橋の中央付近。大きなひび割れ。コンクリート片が、ぽろぽろと川に落ちていく。「ここは、俺みたいなもんが暴れりゃ、崩れるようにできてんだよ!」「カミヤが、壊したんじゃないの?」「きっかけにはなったかもな。でも、もともとギリギリだった」 彼は、息を切らしながら笑った。「橋ってのは、いつか落ちるもんだ。設計したやつらは、『何十年先』って数字を見てたかもしれねえけど……」「今じゃん!」「そうだよ。今だ」 彼は、ひとつ深呼吸をして、続けた。「だったら、その『いつか』を、お前を逃がすために使う」「……っ」 胸の奥で、なにかがはじけた。「やだ」 子どもみたいな言葉が、口からこぼれる。「そんなの、いやだよ」
橋の真ん中に近づくにつれて、空気が変わっていくのが、肌でわかった。 遠くで、ヘリコプターのプロペラ音がする。まだ姿は見えないけれど、風の震え方がいつもと違う。 橋の欄干の向こう、川の流れはゆっくりとしていて、水面が鈍く光っていた。「ナギ」「ん」「ここから先は、走ってもらう」「え?」「俺が合図したら、全力で向こう側のたもとまで走れ。振り向くな。止まるな。泣くな」「三つも条件つけないで」「守れそうなやつだけ守れ」「泣かないのは、ちょっと自信ない」「泣きながらでも走れ」「わかった」 うなずいた瞬間、橋の向こうからサイレンの音が聞こえはじめた。 赤と青の点滅が、遠くに小さく揺れている。「警察……」「だけじゃねえな」 カミヤの声が低くなる。 そのすぐあと、橋のこちら側——私たちが来たほうからも、同じようなサイレンの音がした。 振り返ると、白と黒のパトカーが数台と、その後ろに黒いワゴン車が連なっているのが見えた。「挟み撃ち……」 呟いた私の背後で、カミヤが小さく笑った。「わかりやすいな」「笑ってる場合じゃなくない?」「笑ってねえよ」 橋の両端に、車が並ぶ。 拡声器を通した声が、風に乗って響いてきた。「そこにいる二人、聞こえるか! ゆっくり手を挙げて、こちらに歩いてきなさい!」 よくドラマで聞く台詞。でも、実際に自分が向けられると、胃がきゅっと縮む。「少女は、保護する! 抵抗はするな!」 私のことだ。「カミヤ……」「落ち着け」 彼は、私の肩に手を置いた。 その手は、驚くほど冷静で、安定していた。「俺がやることは、ひとつだけだ」「なにを——」 最後まで聞く前に、世界が変わった。