LOGIN人に殴られる音も、怒鳴り声も、さっきまでの恐怖も、一瞬だけ遠のいていく。
「そんな顔で食うな」
隣で、狼谷がぼそっと言った。
「変な顔ってこと?」
「うまそうに食いすぎ」
彼は、プラスチックのフォークで焼き鳥パックをつついていた。中身は、もも肉とネギまが数本。ラップをはがして、ひとつをそのまま口に放り込む。
「……冷てぇ」
「レンジで温めてもらえばよかったのに」
「いい。これで」
本当に、どうでもよさそうな顔で言う。
でも、焼き鳥を噛みしめるときの彼の顎の動きは、どこか嬉しそうに見えた。冷たくても、肉は肉。そういう感じ。
「ねえ」
「今度はなんだ」
「なんで、肉ばっかり食べるの?」
「腹に溜まる」
「ごはんとか、いらないの?」
「炭水化物は、あんま好きじゃねえ」
「女子力低い」
「お前な」
彼が、少しだけ笑った気がした。
その笑いが、コンビニの蛍光灯の下で、意外と年相応に見えて、胸がきゅっとなる。
「人間ってさ、なんでそんなに、穀物ばっか食うんだろうな」
「人間、って」
「あ」
彼が、ほんの一瞬、言葉に詰まった。
私は、唐揚げを咀嚼したまま、彼の横顔を見る。
「今、人間って言った?」
「言ってねえ」
「言った。聞いた」
「聞き間違いだ」
「……狼谷は、人間じゃないの?」
沈黙。
夜の虫の声が、遠くから聞こえてくる。コンビニの自動ドアが開くたびに、ベルの音がする。車が国道を走り抜ける音。
全部が、妙に遠く感じられた。
「……俺は」
彼が、焼き鳥の串をじっと見つめた。
「人間だよ」
「嘘」
「人間のフリをしてる」
「それ、もう人間じゃないやつのセリフ」
「うるせえ」
彼は、相変わらず目を合わせてくれない。
でも、さっき、飛び降りたときにこぼれた銀色の粒子も、影から立ち上がった狼たちも、その言葉を完全には否定していなかった。
「じゃあさ」
私は、弁当箱の隅の漬物を箸でつつきながら、口を開く。
「狼?」
「は?」
「さっきの、狼っぽかったから。影のやつ。人狼、とか?」
笑われると思った。
中二病かよ、とか、アホか、とか。
でも、彼は、笑わなかった。ただ、少しだけ、頬の筋肉がぴくりと動いた。
「……お前、そういうの、信じるタイプか」
「さっき、目の前で見たし」
「普通の人間は、目の前で見ても、信じねえよ」
「私は、普通じゃないし」
「それは、なんとなくわかる」
ひどい。
でも、嫌じゃなかった。
「で? 本当は?」
「教えても、どうせ、お前の人生には何の得もねえぞ」
「得とか損とかじゃなくて。知りたいだけ」
「物好き」
彼は、ため息をひとつ吐いてから、焼き鳥の串を口にくわえたまま、ぼそっと言った。
「人狼」
「……え?」
「狼男だの、怪物だの、昔からいろいろ言われてるやつ。月を見ると暴走するだの、人を食うだの。だいたい、間違ってるけど」
焼き鳥を噛みながら、淡々と言う。
「俺は、その、ひとりだ」
心臓が、どくん、と大きく脈打った。
目の前の少年——いや、外見は少年だけど、彼自身はもっと長く生きているのかもしれない——が、自分を「人狼」だと名乗った。
「寿命は、普通の人間よりちょっと長い。力は、ちょっと強い。傷も、ちょっと治りやすい」
「ちょっと、のレベルじゃなかったけど」
「満月のときは、もっと面倒くさい。いろいろ」
「……変身、とか?」
「そういうのは、見ないで済むなら見なくていい」
視線を逸らすように言う。
「それが、見なかったことにしろって言った理由?」
「そうだ」
「でも、見ちゃったし」
「だから、お前は面倒くせえって言ってんだよ」
彼は、最後の焼き鳥を食べ終えると、串を容器に放り込んだ。
「お前が黙っててくれるなら、それでいい。俺は、今まで通り、バイトして、適当に生きる」
「……バイト」
「そう。さっき、お前がいたコンビニの、深夜シフト」
「え」
一瞬、頭の中で、コンビニの記憶と彼の姿が繋がる。
「あ、だから、店員さん、私たちに気づかなかったんだ……。裏口とかから、勝手に出入りしてたの?」
「勝手にじゃねえ。ちゃんとバイトだ。最低時給で」
「人狼なのに、最低時給で働いてるの?」
「やめろ、その言い方」
彼が、心底うんざりしたような顔をする。
でも、その顔が、少しだけ、可笑しくて。
私は、弁当のごはんを口にかき込みながら、ぽつりと呟いた。
「……優しいね」
「は?」
「だって、さっきの人たち、本気出したら殺せたでしょ。でも、骨折るだけで済ませてたし」
「殺したら、後始末が面倒だろ」
「それだけ?」
「それだけだ」
「ふうん」
信じてない、という意味を込めて、わざとそう言ってみる。
「俺は、人間は嫌いだ」
「……」
「でも、お前らの世界で生きてる以上、全部壊すわけにもいかねえ。目立てば、狩られるのは俺のほうだ。だから、なるべく、静かに生きる」
「……それ、寂しくない?」
「慣れた」
彼は、それ以上、何も言わなかった。
私も、弁当の最後の一口を飲み込む。
胸の中に、違和感が残る。
「人間は嫌い」って言い切るその声の奥に、薄く滲んでいたもの。諦めとか、疲れとか、もしかしたら——ほんの少しの、孤独とか。
「俺は、優しくなんかねえよ」
不意に、彼がぽつりと言った。
「助けたのも、たまたまだし。お前が、うるさそうだったから」
「うるさいって……」
「今だって、ほんとは、関わりたくねえ。家出少女のトラブルなんて、くっそ面倒くさいに決まってる」
「家出、ってバレてた」
「見りゃわかる。制服にトートバッグひとつで、夜の繁華街うろついてるガキなんて、ロクなことにならねえ」
図星すぎて、何も言えない。
「でもまあ——」
彼は、最後に残った唐揚げを、容器からつまんだ。じっとそれを見てから、自分の口には運ばずに、私のほうに差し出す。
「……え?」
「食えよ。好きなんだろ、これ」
「いいの?」
「別に。俺は肉食えたし」
「唐揚げも肉だけど」
「揚げ物は、ちょっと重い」
「女子か」
「殴るぞ」
彼の指先から、唐揚げをそっと受け取る。
さっき自分で食べたときよりも、ずっと美味しく感じた。
胸のあたりが、じんわりと熱くなる。さっきまで、あんなに怖い思いをしたのに。今は、唐揚げひとつで、こんなにも心が満たされる。
「ねえ、狼谷」
「なんだ」
「さっき、言ってたでしょ。『俺は、お前に関わる気はねえ』って」
「ああ」
「それ、撤回して」
「は?」
「だって、もう関わっちゃってるし。私、あんたから離れないし」
「ストーカーかよ、お前」
「助けてもらった礼、ちゃんと返したいし。それに——」
そこで、言葉を切る。
「それに、あんたがひとりで静かに生きてるの、なんかムカつく」
「意味わかんねえ」
「だって、人間嫌いとか言ってるけど、本当はちょっと優しいし。そういうの、なんかズルい」
私は、立ち上がって、空を見上げた。
街の明かりで、星はほとんど見えない。だけど、ビルの隙間から覗く夜空には、丸くなる途中の月が、白く浮かんでいた。
「ねえ」
「今度はなんだ」
「どこまで、連れてってくれる?」
彼は、少しだけ考えるように黙ってから、立ち上がった。
ゴミをまとめて、コンビニのゴミ箱に放り込む。その動作は、妙に手慣れていて、深夜バイト歴の長さを感じさせる。
「……ここから離れたとこ。あいつらの手が、すぐには届かねえところ」
「あいつら?」
「さっきのおっさんどもだけじゃねえ。ああいう連中の背後には、もっとでかい組織がいる」
「やっぱり……」
「お前の顔、たぶんもう写真撮られてる。ネットにも回される。『逃げた商品』を取り戻すのに、金と手間をかけてでも探しに来る」
「……商品」
自分が、そう呼ばれる立場だったことに、胃のあたりがきゅっとなる。
「だから、逃げるなら、徹底的にやる」
彼は、原付のほうを顎で示した。
「……バイク、盗んだ?」
「さっきまでは、あいつらのだ。今は、俺のだ」
「泥棒じゃん」
「被害者面すんな。連中のやってることに比べりゃ、かわいいもんだ」
「たしかに」
私は、彼のあとを追って、原付にまたがる。
さっきよりも、自然に彼の腰に腕を回せた。
「もう、戻れねえぞ」
エンジンをかけながら、彼が言う。
「戻らない」
「親は?」
「いらない」
答えは、すぐに出た。
「学校は?」
一瞬、喉につかえる。
クラスのざわざわした空気。先生の退屈な声。窓の外に見えたグラウンド。昼休みにひとりで食べた、パンの味。
「……わかんない。でも、今は、そっちより、生き延びるほうが先」
「偉いじゃねえか」
「褒めてる?」
「五十点」
「厳しい」
彼の背中越しに、笑いを含んだ気配が伝わる。
「しっかり掴まってろよ、ナギ」
初めて、名前を呼ばれた。
さっきは「お前」だったのに。
その違いが、胸の奥に、じんわりと広がる。
「うん、狼谷」
「カミヤでいい」
「じゃあ、カミヤ」
「調子乗んな」
そう言いながらも、彼の声は、さっきより、ほんの少しだけ柔らかかった。
原付が、夜の国道へと滑り出す。
街灯が、一定のリズムで流れていく。遠くの空に、薄く白んだ雲と、その向こうの月。
夏の夜風が、涙の跡を乾かしていく。
こうして、私と人狼の逃避行は、本当に始まった。
後戻りのできない、夏の旅。
行き先なんて、まだ知らない。
ただ、彼の背中の温度だけを、頼りにして。
帰り道は、来た時より穏やかだった。 ナーガの力で補修された結界が、俺たちを包むように導いてくれた。岩の亀裂を抜け、外海に出る。暗い深海を、汐音の手に引かれて浮上していく。 水深が浅くなるにつれ、世界の色が変わっていった。墨色が紺に。紺が群青に。群青が——朝焼けの光に染まった、燃えるようなオレンジ色に。 ツキが限界だった。首筋で「もう……むり……」と震える声。酸素の供給が途切れかけ、肺が焼けるように苦しい。口を閉じ、最後の空気を引き延ばす。 水面が——近い。 光が、目の前にある。 ぱしゃん。 水面を割って顔を出した瞬間、朝の空気が肺を叩いた。むせた。咳き込んだ。それでも吸い込んだ。ツキの濾過した酸素ではない、本物の——与那国島の朝の空気。潮と花と赤土の匂い。「はっ……は……生きてる。空気ってこんなに美味かったか……」「カミヤさん……! おつかれさま……!」 隣で汐音が水面から顔を出し、潮に濡れた顔で笑っている。朝日が彼女の鱗を照らし、虹色の光が水面に散っている。目元に涙の痕が残っているが——笑っている。世界一幸せそうに、笑っている。 入り江の岩場に這い上がった。二人とも仰向けに倒れ込む。岩は朝日に温められ始めていて、ほんのりと温かい。背中に伝わる岩の体温が、信じられないほど心地いい。地面がある。足がつく場所がある。陸だ。 空が高い。橙と水色のグラデーション。鳥が一羽、崖の上から海に向かって飛び立ち、甲高い声で鳴いた。遠くで波が崖を叩き、白い飛沫が朝日にきらめいている。「薩摩……鹿児島の先、かな。もしかしたら屋久島とか、奄美とか——」 隣で汐音が、石板の内容を反芻している。尾鰭がまだ残っていて、岩の上でぱ
晶石が爆発的に輝き、月光の奔流が広間を満たす。目を開けていられないほどの白い光。同時に、ナーガの半透明の体が光を吸い始めた。影だった輪郭が実体化していく。色が戻る。黒髪に艶が蘇り、肌が血色を取り戻し、鱗が黒曜石のような深い光沢を帯びていく。「ぐ——」 ナーガの呻き声。力を取り込む苦痛か、歓喜か。 だがそれと同時に——外部から、凄まじい衝撃が神殿を揺さぶった。 天井が割れた。 海水が噴出する。柱が折れ、石壁が砕け、暗い水が滝のように広間に流れ込む。「何——」 シーサーペントだ。 外から。巨大な蛇が神殿の壁を突き破ってきた。全長二十メートルの青黒い胴体が結界を粉砕しながら広間に突入し、天井を支える柱を薙ぎ倒す。 晶石の覚醒を感知したのだ。主のもとに戻ろうとしたのか、それとも晶石そのものに引き寄せられたのか。理由はどうでもいい。二十メートルの暴走する巨蛇が、この狭い広間で暴れている。それが現実だ。「汐音、離れろ!」 汐音の腕を掴んで引き倒した。頭上をシーサーペントの尾が薙ぎ、風圧だけで体が吹き飛ぶ。壁に叩きつけられる前に、玄が影の壁を張ってくれた。衝撃は防いだが、広間の半分が水没しかけている。「でもナーガが——!」 ナーガは晶石の力を取り込みかけている最中だった。半実体化した体でシーサーペントに手を伸ばし、「眷属よ、静まれ——!」と叫ぶが、暴走した巨蛇は主の声すら届いていない。黄色い瞳が狂気に光り、巨体が壁に体当たりする度に神殿が崩れていく。「くそっ——」 獣化した腕でシーサーペントの頭部に飛びついた。顎の付け根に腕を回し、力任せに締め上げる。人狼の怪力をもってしても、この質量は異常だ。巨蛇が首を振り、俺の体が振り回される。天井にぶつかり、壁に叩きつけられ、視界が火花を散らす。「キバ!」 牙が影の杭を放つ。水中より空気中のほうが影は濃い。黒い杭がシーサーペントの胴体に突き刺さり、鱗の隙間を貫いて石の床に縫い止める。蛇が悲鳴を上げ、体をくねらせて暴れる。杭が一本、二本と弾かれるが、三本目が深く刺さっ
通路を抜けた先は、天井の高い円形の広間だった。 壁面を覆う鉱石の光が、ここでは一段と強い。青白い光が空間全体を満たし、幻想的な――いや、神殿と呼ぶに相応しい荘厳さを醸し出している。床は磨かれた石で、中央に向かって緩やかに傾斜している。 中央に、台座があった。 腰の高さほどの石の台座。彫刻が施された側面。その上に——拳大の結晶体が、浮いていた。 宙に浮かんでいる。台座の上、数センチの空間に、何の支えもなく静止している。乳白色の結晶。内部に脈打つ光は月光のようで、周囲の空気を微かに震わせている。 月結びの晶石(ルナ・クオーツ)。 そして——台座の周囲を、蛇の尾が何重にもとぐろを巻いていた。 暗い色の鱗。乾いてひび割れ、ところどころ剥がれかけている。だが胴の太さは俺の体幹ほどもある。とぐろの直径は五メートル。広間の床のかなりの面積を占めている。 匂いが最も濃い場所。ここだ。ここが、あの残り香の源。 玄が「来る」ではなく、「いる」と言った。最初から、ここにいたのだ。 とぐろの上に——上半身が浮かび上がった。 人の上半身だった。だが人間ではない。長い黒髪が水気を含んで頬に張り付き、肌は青白く、鱗が首筋から肩にかけて浮いている。目を閉じていた——それが、ゆっくりと開く。 金色の瞳。 人間の形をした上半身。そこから下は——巨大な蛇の胴体。半人半蛇。 ナーガ。 だが、その姿は不完全だった。上半身が半透明に揺らめいている。実体と幽体の間を行き来するように、輪郭がぶれ、ちらつき、霞む。かろうじて意識を保っている、という表現が最も正確だ。衰弱している。途方もなく。 金色の瞳が俺を捉え、それから背後の汐音を見た。「"陸の獣"……と、"海の娘"か」 声は、空気を震わせて届いたのではなかった。頭蓋の内側に直接響く。水中で汐音と交わした思念に似ているが、それよ
二度目の潜航は、前回とは全く違うルートを取った。 シーサーペントの縄張りを大きく迂回し、南西側から遺跡に接近する。汐音のナビゲーションで黒潮の枝流に乗り、体力の消耗を抑えながら深海を滑っていく。 ツキの残り時間を、頭の中で計算し続ける。潜航開始から二十分。移動に使った時間。残り一時間四十分。 遺跡の南西面は、正面よりも崩壊が進んでいた。巨石が折り重なるように崩れ、かつての壮麗な石壁は瓦礫の山と化している。だが汐音は、瓦礫の隙間から漏れ出る微かな水流を、人魚の感覚で正確に追っている。「……あった」 汐音の指が示した先に、人一人がかろうじて通れる幅の亀裂。岩と岩の隙間から温かい水が流れ出し、細い泡が立ち上っている。 亀裂に手を突っ込んだ。岩の感触。水温が周囲より明らかに高い。そして——振動。シーサーペントの気配はない。「行けそうだ。狭い。お前が先に行け」「カミヤさんの肩幅、通るかな……」「ねじ込む」 汐音が先に亀裂に体を滑り込ませた。尾鰭が折れ曲がるほど狭いが、人魚の柔軟な体がするりと通り抜けていく。 俺は後に続いた。肩が岩に挟まれ、押し込むたびに皮膚が裂ける。腹を削り、背中を削り、ほとんど自分を岩に押しつぶすようにして前へ進む。ツキが首筋で「いたい、いたい」と泣いている。「もう少しだ、耐えろ」「うぅ……がんばる……」 歯を食いしばり、岩の隙間を抜けた—— 瞬間。 水が、消えた。 正確には、水面が現れたのだ。亀裂を抜けた先で、頭上にドーム状の天井があり、そこに空気が溜まっている。水面から頭を出した途端、ツキの加護を介さない本物の空気が肺を満たした。 古い。数千年前の空気だ。鉱物の匂い。塩気。微かに甘い、朽ちた珊瑚の匂い。そして—— 嗅覚が、覚醒した。 水中では封じられていた人狼の嗅覚が、空気と共に一気に目を覚ます。膨大な情報が鼻腔から押し寄せ、脳を圧迫する。「——何だ、この匂い」 甘い腐敗臭。蛇の脱皮した皮のような、
嵐が去った朝の空は、洗い流されたように清廉だった。 東の水平線が薄紫から橙へと燃え上がり、一番星がその光の中に消えていく。崖下の入り江に降りると、海は嘘みたいに穏やかだった。岩場に砕ける波は囁き声ほどの大きさしかなく、水面は朝焼けの空をそっくり映して、液体のオパールみたいに光っている。 潮止まりが近い。 俺は岩場の先端に立ち、足元の海を見下ろした。上半身裸、ハーフパンツ。裸足。水着もウェットスーツもなし。生身で、海の底に潜る。正気の沙汰じゃない。 ツキが首筋にまとわりつき、半透明の影が肌を撫でる。「じゅんびできた。……こわいけど」「ああ。頼むぞ」 指先でツキの輪郭を撫でた。震えている。それは——たぶん、俺の心臓の振動が伝わっているからだ。 影の中で、玄、銀、牙、影の四匹が待機している。水中では大幅に弱まるが、いざという時の切り札。腹の中に四枚の手札を忍ばせておく。 汐音が隣に立った。裸足で、白いワンピース一枚。水に入れば人魚化するから、服は意味がないのだが、「一応、マナーとして」とか言って着ている。目はもう海を見ている。あの静かな目。凪いだ深海の色。「カミヤさん」「ああ」「私の手、離さないで」 白い手が差し出された。 握った。小さい。ひんやりしている。だが——確かな力で、握り返してくる。「離すわけねぇだろ」 汐音が微笑んだ。それから水に向き直り、一歩を踏み出す。足首が水に触れた瞬間、さあっと鱗が走る。水面が彼女を迎え入れるように揺れ、膝、腰、胸——汐音の体が水に沈んでいく。俺の手を引きながら。 俺も足を踏み出した。 冷たい。 水が足首を掴み、ふくらはぎを這い上がり、腿を締めつける。陸の獣の本能が最後の警告を発する。引き返せ。ここはお前の場所じゃない。 構わず進んだ。腰まで浸かり、胸まで浸かり——頭が水面を超えた瞬間、ツキの加護が発動した。 肺に酸素が流れ込む。ツキの影の体を通じて、海中の水分から直接酸素を抽出し、俺の肺に送り込む
予報通り、与那国島は荒れた。 明け方から南風が強まり、昼前には暴風に変わった。崖の上の家は風の通り道にあるらしく、窓という窓がガタガタと鳴り、トタン屋根が地鳴りのように唸り続けている。庭の先の崖から吹き上がってくる潮風が、家中に塩の匂いを充満させる。 汐音は窓に張り付いて、荒れ狂う海を見つめていた。 白波が崖を叩き、飛沫が五十メートルの断崖を越えて庭まで飛んでくる。黒潮の本流が牙を剥き、海面全体が灰色の泡に覆われている。「今日は絶対潜れないね……」 呟いて、唇を噛んだ。あの遺跡の中に、仲間の手がかりがあるかもしれないのに。あと一日——あと一日早く潮止まりが来れば。 でも、海は待ってくれない。潮の満ち引きも、黒潮の気まぐれも、人魚の都合なんか知ったことじゃない。三百年の海暮らしで、それは嫌というほど分かっている。 ため息をついて、作業台に向かった。昨日カミヤさんが崖下から引き揚げてきた化石サンゴの欠片を並べ、研磨の下準備を始める。ルーターの音が低く唸り、細かい粉が舞う。水をかけながら、ゆっくりと表面を削っていく。何万年も前のサンゴが、研磨剤に磨かれて少しずつ光を取り戻していく。 ——これも、命だったんだ。 何万年も前に海の中で生きて、死んで、石になった。それを私が磨いて、光らせて、誰かの首元に届ける。人魚のジュエリーは、海の記憶を纏わせるもの。石垣島で始めた頃は見様見真似だったけど、最近は自分なりのスタイルが見えてきた。 窓の外で、カミヤさんが庭に出た。 上半身裸。雨粒が肌を叩いているのも気にせず、庭の端にタライを並べている。水を張り、影狼を一匹ずつ潜らせて、水中での力の持続時間を測る訓練。昨日の続きだ。 牙が水に沈む。黒い影の輪郭が、水の中で揺らいで薄まっていく。「三十秒で形が崩れ始める。一分で攻撃力は半減。だが——影の杭としてなら、水中でも使える。むしろ水圧があるぶん、杭は安定するな」 カミヤさんの独り言が、風の合間に聞こえる。真剣な声だ
本当に、海はあった。 国道から少し脇道にそれて、しばらく下り坂を走ると、視界の先に突然、空の続きみたいな青い平面が広がった。「……」 言葉が、喉の奥に張り付いた。 朝焼けの光を受けて、海はまだ薄青くて、ところどころ銀色に光っている。波が寄せては返すたびに、白い泡が砂浜に線を残しては消えていく。「本当に、海だ……」「偽物の海ってなんだよ」「プールとか、ゲームの中のとか」「それはそれで現実だろ」「うるさい。今はロマンチックなやつ」
夜って、こんなに長かったっけ。 カミヤの背中にしがみつきながら、流れていく街灯をぼんやりと数えていた。 一本、二本、三本。 オレンジ色の光が、一定のリズムで後ろへ飛んでいく。そのたびに、制服のスカートが風に煽られて、膝が少しひんやりした。「眠いか、落ちんなよ」 前から飛んできた声は、夜風よりも低くて、耳に心地よく引っかかる。「落ちない。ちゃんと掴んでるし」「さっきから、ずっと裾つまんでるだけだろ。それは掴んでるって言わねえ」「じゃあ、どこ掴めばいいの」
アスファルトは、さっきよりも少し湿っていて、鼻をつくカビ臭さが混じっていた。頭上には、ビルの壁が迫ってくるようで、空が細く切り取られている。「ね、名前、なんていうの?」「……ナギ」「ナギちゃん。いいね、その名前。芸名にも使えるよ」 名前を呼ばれても、心は少しも弾まなかった。 路地を抜けると、突然、視界が開けた。 そこには、真っ暗な駐車場が広がっていた。ビルの陰に隠れるようにして、何台かの車が停められている。その向こうには、窓ガラスの割れた古い廃ビルが、夜空に黒い影
夜の街って、こんなに明るかったっけ。 駅前のロータリーを抜けるとき、私はぼんやりそう思った。ネオンがぎらぎらして、カラオケと居酒屋とパチンコ屋の看板が、空に向かって喧嘩みたいに明滅している。「……うるさい」 思わず口からこぼれた声は、自分でも驚くくらい掠れていた。 トートバッグの紐が、汗ばんだ手からずり落ちそうになる。中身は、昨日の夜に慌てて詰め込んだもの——スマホ、財布、替えのTシャツ一枚、くたびれたタオル。それだけ。 家出、なんて大層なものじゃないのかもしれない。逃げた、が正しい。 だって、あの家にいたら、次は死ぬかもしれないって、本気で思ったから。 ***「テメェ、誰







