Masuk
夜の街って、こんなに明るかったっけ。
駅前のロータリーを抜けるとき、私はぼんやりそう思った。ネオンがぎらぎらして、カラオケと居酒屋とパチンコ屋の看板が、空に向かって喧嘩みたいに明滅している。
「……うるさい」
思わず口からこぼれた声は、自分でも驚くくらい掠れていた。
トートバッグの紐が、汗ばんだ手からずり落ちそうになる。中身は、昨日の夜に慌てて詰め込んだもの——スマホ、財布、替えのTシャツ一枚、くたびれたタオル。それだけ。
家出、なんて大層なものじゃないのかもしれない。逃げた、が正しい。
だって、あの家にいたら、次は死ぬかもしれないって、本気で思ったから。
***
「テメェ、誰に口答えしてんだよ!」
男の怒鳴り声が、まだ耳の奥に残っている。父親、と戸籍上は呼ばれているその人間が、缶ビールの潰れた空き缶を私に投げつけた瞬間——。
火花が散った。こめかみから、温かいものがつうっと頬を伝った。
「ナギ、逃げなさい!」
かすれた声でそう言ったのは、母だった。彼女はテーブルの下で震えながら、殴られた頬を押さえていた。目は私を見ていない。見ているのは、タンスの裏に隠したへそくりのことか、明日の酒代のことか。たぶんそのどれか。
私は何も言えなかった。言ったって、余計に殴られるだけだって知っているから。
代わりに、ゆっくり立ち上がって、部屋を出て、玄関でスニーカーを履いた。ガチャリ、とドアを閉める瞬間、背中に飛んできた言葉。
「出てくなら、二度と帰ってくんなよ! 飯も学費も、もう出さねーからな!」
私は、振り返らなかった。あの家の匂い——タバコと安い焼酎と、揚げた油が酸化したみたいな臭い——を、二度と吸いたくなかった。
***
そんなふうに飛び出した、その日の夜。私は駅前の繁華街をうろうろしていた。
行くあても、ない。
漫画みたいに、親友の家に転がり込むなんて都合のいい展開は、一ミリも起きなかった。
教室に「親友」なんて呼べる子はいなかったし、母方の祖父母とはとっくの昔に疎遠になっている。スマホの連絡先をスクロールしても、頼れそうな名前はひとつも見つからなかった。
コンビニのイートインで、半額シールのついたパンを食べながら、私はため息をつく。
「……やばいな」
財布の中身を数える。小銭を入れても、五千円ちょっと。バイトもしてない高校一年が、急に「自立」できるはずもなくて。
けれど、あの家に戻るくらいなら——。
「戻るくらいなら、死んだほうがマシだし」
パンの耳をちぎって口に放り込みながら、テーブルに額をつける。涙が出そうになるのを、ぐっと飲み込んだ。
泣いたら、負けだ。
泣いたら、あの男たちに負けたみたいで、それが悔しかった。
「……お嬢ちゃん、こんな時間にひとり?」
顔を上げると、横に、スーツ姿の男が立っていた。四十代くらい。髪はきっちり撫でつけられていて、白い歯を見せて笑っている。
あ、やばい。
直感が、警報を鳴らした。
私は視線を逸らし、スマホをいじるふりをした。
「学生さん? 今、時間ある?」
しつこいナンパか、変な宗教か。そう思って無視を決め込もうとしたとき、男がすっと名刺を差し出してきた。
「私は黒川。芸能関係の仕事をしててね。スカウトも兼ねてるんだ。君、かわいいし、スタイルもいい。興味ないかな?」
名刺の紙は、妙に厚くて艶があった。印刷された会社名は、聞いたこともないプロダクション。だけど背後には、ネットニュースで見たことがあるようなアイドルの写真が、いくつか並んでいる。
「……芸能、ですか」
「そう。モデルとか、CMとか。最近は動画配信もね。うまくいけば、すぐにお金も稼げるようになるし」
お金、という単語に、心がわずかに揺れた。
お金があれば、ホテルに泊まれる。お金があれば、あの家に戻らずに済む。
「親御さんには、説明するから。今日は、ちょっと写真を撮るだけ。顔合わせ程度だよ」
「親は、いいです……」
「反対されるようなご家庭?」男は声を落とす。「だったらなおさら、自分の力で稼がないとね」
言葉は甘い。でも、その眼の奥にある光は、冷たかった。
コンビニの店員は、レジ打ちに夢中で、こちらを見ようともしない。イートインの隅には、ヘッドホンをつけた学生がひとり、スマホゲームに没頭している。
助けて、なんて、誰にも言えない空間。
私は、迷った。
ほんの数秒。だけど、その数秒が、きっと私の人生の分かれ道になった。
「……ちょっとなら」
自分の声が、遠くで響いているみたいだった。
***
コンビニから出ると、夏の夜の湿った空気が、じっとりと肌にまとわりついてきた。
スーツの男——名刺には黒川と書いてあった——は、私を軽自動車のほうへと促す。
「事務所は、すぐそこ。歩いても行ける距離なんだけど、荷物もあるしさ。乗っていきなよ」
「……あ、大丈夫です。歩きます」
「はは、警戒してる? 偉いねえ。でも安心して。ほら、ここら辺、うちの看板」
男が指さしたビルの壁面には、確かにさっきの名刺と同じロゴが貼られている。だけど、看板は色あせていて、ところどころ剥がれていた。
胸のあたりが、ざわざわする。
「歩きましょう。道、教えてください」
「ああ、そう。じゃあ、こっち」
黒川は、少しだけ不機嫌そうに笑いながら、先を歩く。
繁華街のメインストリートから一本外れた道は、一気に人通りが減った。居酒屋の裏口から、酔っ払ったサラリーマンが笑いながら出てくる。その先は、シャッターの下りた店舗が続いていた。
足音が、アスファルトにこつこつ響く。
心臓の鼓動も、それと同じリズムで速くなる。
「ねえ、うちの子たちさ、みんな最初は不安なんだよ。知らない世界に飛び込むんだから。当たり前だよね。でも、だんだん慣れてきて——」
黒川の声を、半分くらいしか聞いていなかった。
何か、おかしい。
直感が、また警告を鳴らしている。
「あ、ここを抜ければすぐだよ。大通りを回るより、ずっと早く着ける近道なんだ。」
黒川は、ビルとビルの隙間にある細い路地に、ひょいっと入っていく。
私は足を止めた。
路地の向こう側は、街灯が一本、申し訳程度に立っているだけだ。途中には、コンビニも、飲食店も、人の気配もない。
「……ここ、通るんですか」
「そう。大通りぐるっと回るより、早いから」
黒川が振り返る。その笑顔は、相変わらず整っているのに、不思議なくらい、怖かった。
「嫌なら、別の子に声かけるけど。君、今、他にも行く場所ある?」
図星を刺すような一言。
喉が、きゅっと締まる。
「……わかりました」
私は、路地に足を踏み入れた。
橋が落ちてから、三ヶ月が経った。 原付のエンジンは、もう何時間も同じ唸りを続けている。海沿いの国道を、黒い影が一つ、ひたすら南へと流れていく。 ヘルメットの隙間から、潮の匂いが入り込んだ。塩と、海藻と、遠くの漁港の油の匂い。風はまだ冷たく、頬を刺す感触が心地よい。 ——ニュースでは、一週間も騒がれた。「女子高生誘拐事件、容疑者と少女を乗せた車両、橋崩落とともに消息不明」「容疑者の男は死亡、少女は川下で救助」 その後、「橋の老朽化ガー」「行政の責任ガー」と、テーマがすり替わっていくのに、そう時間はかからなかった。世間は忙しい。昨日の悲劇は、今日のワイドショーの飯のタネで、明日には次のネタに上書きされる。 人狼一匹の生死なんて、なおのこと。 ハーフヘルメットの下、カミヤは口元だけで笑った。「……ま、慣れたもんだな」 誰に聞かせるでもない、独り言だ。 三百年も生きてりゃ、いろんなもんを見送ってきた。主も、仲間も、時代も、町も、国も。隣で笑ってた奴が、次の瞬間にはいなくなることも、珍しくない。 置いていかれる痛みなんて、とっくの昔に擦り切れた——はず、だった。 それでも、胸の奥のどこかが、ときどきうずく。 あの橋の上で、自分のパーカーを引きちぎって少女に被せ、影狼を全部解き放ち、警察とヤクザとをまとめて薙ぎ払った夜。満月の下、少女の背中を、光の方へ押し出した時のこと。 琥珀色の瞳に映っていた、泣きそうで、でも泣かないように噛みしめていた強情な顔。「ナギは、ちゃんと光の下で生きてるかねぇ」 ぽつりと呟き、アクセルを少しだけ開く。 原付は、排気量のわりにはよく走る。中古で買った時にはボロだったが、簡単にバラして全部整備し直した。エンジンもタイヤも、もうしばらくは保つ。 ガソリンメーターは、まだ半分。財布の中身は、千円札が二枚と、くしゃくしゃのレシート、小銭が少し。(仕事探さねえとな) 橋から落ちたあの日から、三ヶ月。二つの町を転々とし、それ
そのあと、どうやって橋から引きずり降ろされたのか、あまり覚えていない。 警官たちの怒鳴り声と、救急車のサイレンと、ヘリのプロペラ音が、ぐちゃぐちゃに混ざっていた。 誰かが「少女確保!」と叫んだ。「大丈夫か」「怪我はないか」と、矢継ぎ早に質問される。 私は、ただひとつの言葉しか、口にできなかった。「……カミヤは?」 誰も、答えてくれなかった。 代わりに、テレビが答えを出した。『橋崩落、犯人の男死亡か』『少女保護、誘拐事件は解決へ』 画面の中でアナウンサーが、淡々と言葉を紡いでいく。「犯人死亡」 そのテロップが、頭の中で何度も点滅した。 *** 季節は、冬になっていた。 あの夏の日から、何度も何度も、朝が来て、夜が来て。 私は、あの家には戻らなかった。 保護されたあと、事情を話した。 父親に殴られていたこと。母親が止めなかったこと。夜、逃げ出したこと。 全部本当のことなのに、「盛ってない?」と疑う視線も、確かにあった。 でも、病院の診断書や、近所の人の証言や、学校での担任の話で、どうにか「虐待」は認められた。 父は、いなくなった。どこに行ったのか、誰も教えてくれない。 母は、テレビに映らなくなった。 代わりに、私は「保護された被害者」として、児童相談所やカウンセラーのところを何度も回った。「怖かったでしょう」「でも、もう大丈夫よ」 その言葉に、私は笑ってうなずいた。「はい。もう、大丈夫です」 そう言うたびに、胸の奥で、なにかがちくりと痛んだ。 怖いのは、あの家じゃない。 怖いのは、「犯人死亡」という、軽いテロップ一行で、あの人の存在が片付けられてしまったことだ。 あの橋の上で、銀色の粒子を撒き散らしながら、私を逃がすために戦っていた人が。「犯人」の一言で、全部
夜の港は、昼とは別の顔を見せる。 昼間はトラックとフォークリフトが走り回る埠頭も、深夜が近づくと、急に静かになる。代わりに、遠くのタンカーの汽笛と、街のネオンの反射だけが、ゆらゆらと揺れていた。 カミヤは、その境界線を一人で歩いていた。 《月下美人》にリオを預けた後、昼間は少し眠り、夕方からまた動き出した。港湾労働の仕事は、とりあえずバックレた形になるが、源に文句を言われる頃には、どうせこの街にはいないだろう。 足元の影が、黒く伸びる。『主人』 クロが顔を出す。「なんだ」『あの女のところに残る、とは言わんのか?』「俺がいたら、かえって目立つ」 カミヤは、無造作に答えた。「堂前の奴らは、もう俺の顔を別枠で記憶してる。あいつらの中で、リオは消せる駒で、俺は警戒すべき獣だ」『獣、か』「まあ、間違っちゃいねえ」 自嘲気味に笑いながらも、視線は暗闇から目を離さない。 この街に着いてから、何度か耳にした噂を繋げていく。 ——「賀茂海運」の倉庫の一つに、警察もまだ場所を特定できていない「特別な倉庫」がある。 ——そこに、外から入ってきた「腕のいいやり手」が出入りしている。 ——そいつは、組織の人間じゃない。だが、賀茂に雇われている。 腕のいいやり手。 裏社会でそういう言葉を聞いた時、カミヤは本能的に「嫌な予感」がした。(ただのチンピラなら、影狼を出すまでもねえ。けど——) 風が、ふいに止まった。 海面を撫でていたはずの風が、ぴたりと凪いだ。「——やあ」 背中の皮膚が、一瞬で総毛立った。 声と同時に、風が裂ける。 カミヤは、反射で身体をひねった。 それでも、完全には避けきれない。 左腕に、鋭い痛みが走
橋の中央付近が、限界に近づいているのがわかった。 コンクリートに走るひび割れが、どんどん広がっていく。欄干の一部は、すでに川に落ちていた。 影の狼たちが、そのひび割れを踏み越えて走るたび、橋全体がゆらゆらと揺れる。「……やば」 思わず声が漏れる。 向こう側にいる警官たちも、危険を感じたのか、一時的に引き下がっていた。 その隙に、私は橋のたもとまであと数メートル、というところまで辿り着いていた。「ナギ!」 また、名前を呼ばれる。 振り返ると、カミヤが、橋の真ん中でこちらを見ていた。 狼の姿のまま。血まみれのはずなのに、銀色の光がそれを全部覆い隠して、まるで月の化身みたいに見えた。「行け!」 彼が、叫ぶ。「ここで止まったら、全部意味ねえ!」「でも——!」 涙が、視界をぼやけさせる。「一緒に——」「無理だ!」 鋭い声。「俺は、こっから先、行けねえ!」「なんで!」「見ろよ!」 彼が、足元を指さす。 橋の中央付近。大きなひび割れ。コンクリート片が、ぽろぽろと川に落ちていく。「ここは、俺みたいなもんが暴れりゃ、崩れるようにできてんだよ!」「カミヤが、壊したんじゃないの?」「きっかけにはなったかもな。でも、もともとギリギリだった」 彼は、息を切らしながら笑った。「橋ってのは、いつか落ちるもんだ。設計したやつらは、『何十年先』って数字を見てたかもしれねえけど……」「今じゃん!」「そうだよ。今だ」 彼は、ひとつ深呼吸をして、続けた。「だったら、その『いつか』を、お前を逃がすために使う」「……っ」 胸の奥で、なにかがはじけた。「やだ」 子どもみたいな言葉が、口からこぼれる。「そんなの、いやだよ」
橋の真ん中に近づくにつれて、空気が変わっていくのが、肌でわかった。 遠くで、ヘリコプターのプロペラ音がする。まだ姿は見えないけれど、風の震え方がいつもと違う。 橋の欄干の向こう、川の流れはゆっくりとしていて、水面が鈍く光っていた。「ナギ」「ん」「ここから先は、走ってもらう」「え?」「俺が合図したら、全力で向こう側のたもとまで走れ。振り向くな。止まるな。泣くな」「三つも条件つけないで」「守れそうなやつだけ守れ」「泣かないのは、ちょっと自信ない」「泣きながらでも走れ」「わかった」 うなずいた瞬間、橋の向こうからサイレンの音が聞こえはじめた。 赤と青の点滅が、遠くに小さく揺れている。「警察……」「だけじゃねえな」 カミヤの声が低くなる。 そのすぐあと、橋のこちら側——私たちが来たほうからも、同じようなサイレンの音がした。 振り返ると、白と黒のパトカーが数台と、その後ろに黒いワゴン車が連なっているのが見えた。「挟み撃ち……」 呟いた私の背後で、カミヤが小さく笑った。「わかりやすいな」「笑ってる場合じゃなくない?」「笑ってねえよ」 橋の両端に、車が並ぶ。 拡声器を通した声が、風に乗って響いてきた。「そこにいる二人、聞こえるか! ゆっくり手を挙げて、こちらに歩いてきなさい!」 よくドラマで聞く台詞。でも、実際に自分が向けられると、胃がきゅっと縮む。「少女は、保護する! 抵抗はするな!」 私のことだ。「カミヤ……」「落ち着け」 彼は、私の肩に手を置いた。 その手は、驚くほど冷静で、安定していた。「俺がやることは、ひとつだけだ」「なにを——」 最後まで聞く前に、世界が変わった。
夏の午後の山道って、こんなに蒸し暑いものだっけ。 原付のエンジンがだんだん苦しそうな音を立て始めたころ、私は背中の汗が制服に張り付く感覚に、半分うんざりしながら空を見上げていた。 さっきまで青かった空は、いつの間にか薄く霞んでいて、雲の切れ間から白い月がのぞいている。「ねえ、カミヤ」「なんだ」「今日って……」 言いかけたところで、彼が先に言った。「……満月だ」 低い声。 原付のハンドルを握る手に、いつもより少し力がこもっているのがわかった。「やっぱり」 夜のニュースが流れたあの日から、もう何日も経っていた。 海辺の町を出て、スーパーの裏でバイトしていたカミヤの知り合いに会ったり、山奥の廃工場で一晩過ごしたり、誰もいない公園でカップラーメンを分け合ったり。 その全部が、楽しかった。 怖さと楽しさが紙一重で隣り合っていて、「修学旅行の夜」がずっと続いているみたいだった。 でも今、胸の奥で小さな警報が鳴っている。 満月。「ねえ、平気?」 背中ごしに、そっと問いかける。「なにが」「満月」「平気じゃねえよ」 あっさり返されて、思わず苦笑する。「そのわりに、いつも通りに見えるけど」「まだ昼だからな」「夜になったら?」 少しだけ、間が空いた。「……あんまり見られたくねえ」 ぽつり、と落とされた言葉。「変身、見られたくないの?」「そういう、単純な話じゃねえ」 ハンドルを切る音。 山道が終わって、少し開けた場所に出る。そこには、川にかかった大きな橋があった。 古いコンクリートの橋。下を流れる川は思ったより深そうで、水面が太陽の光をぎらぎらと反射している。「ここ、なに?」「山の向こうの市街地に抜ける幹線道路。ここの橋、構造が古い







