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しおさいの街で、人狼と天使は恋をした
しおさいの街で、人狼と天使は恋をした
Author: 銀狐

第1章・第1話:甘い言葉と冷たい路地

Author: 銀狐
last update publish date: 2026-05-14 16:40:34

 夜の街って、こんなに明るかったっけ。

 駅前のロータリーを抜けるとき、私はぼんやりそう思った。ネオンがぎらぎらして、カラオケと居酒屋とパチンコ屋の看板が、空に向かって喧嘩みたいに明滅している。

「……うるさい」

 思わず口からこぼれた声は、自分でも驚くくらい掠れていた。

 トートバッグの紐が、汗ばんだ手からずり落ちそうになる。中身は、昨日の夜に慌てて詰め込んだもの——スマホ、財布、替えのTシャツ一枚、くたびれたタオル。それだけ。

 家出、なんて大層なものじゃないのかもしれない。逃げた、が正しい。

 だって、あの家にいたら、次は死ぬかもしれないって、本気で思ったから。

 ***

「テメェ、誰に口答えしてんだよ!」

 男の怒鳴り声が、まだ耳の奥に残っている。父親、と戸籍上は呼ばれているその人間が、缶ビールの潰れた空き缶を私に投げつけた瞬間——。

 火花が散った。こめかみから、温かいものがつうっと頬を伝った。

「ナギ、逃げなさい!」

 かすれた声でそう言ったのは、母だった。彼女はテーブルの下で震えながら、殴られた頬を押さえていた。目は私を見ていない。見ているのは、タンスの裏に隠したへそくりのことか、明日の酒代のことか。たぶんそのどれか。

 私は何も言えなかった。言ったって、余計に殴られるだけだって知っているから。

 代わりに、ゆっくり立ち上がって、部屋を出て、玄関でスニーカーを履いた。ガチャリ、とドアを閉める瞬間、背中に飛んできた言葉。

「出てくなら、二度と帰ってくんなよ! 飯も学費も、もう出さねーからな!」

 私は、振り返らなかった。あの家の匂い——タバコと安い焼酎と、揚げた油が酸化したみたいな臭い——を、二度と吸いたくなかった。

 ***

 そんなふうに飛び出した、その日の夜。私は駅前の繁華街をうろうろしていた。

 行くあても、ない。

 漫画みたいに、親友の家に転がり込むなんて都合のいい展開は、一ミリも起きなかった。

 教室に「親友」なんて呼べる子はいなかったし、母方の祖父母とはとっくの昔に疎遠になっている。スマホの連絡先をスクロールしても、頼れそうな名前はひとつも見つからなかった。

 コンビニのイートインで、半額シールのついたパンを食べながら、私はため息をつく。

「……やばいな」

 財布の中身を数える。小銭を入れても、五千円ちょっと。バイトもしてない高校一年が、急に「自立」できるはずもなくて。

 けれど、あの家に戻るくらいなら——。

「戻るくらいなら、死んだほうがマシだし」

 パンの耳をちぎって口に放り込みながら、テーブルに額をつける。涙が出そうになるのを、ぐっと飲み込んだ。

 泣いたら、負けだ。

 泣いたら、あの男たちに負けたみたいで、それが悔しかった。

「……お嬢ちゃん、こんな時間にひとり?」

 顔を上げると、横に、スーツ姿の男が立っていた。四十代くらい。髪はきっちり撫でつけられていて、白い歯を見せて笑っている。

 あ、やばい。

 直感が、警報を鳴らした。

 私は視線を逸らし、スマホをいじるふりをした。

「学生さん? 今、時間ある?」

 しつこいナンパか、変な宗教か。そう思って無視を決め込もうとしたとき、男がすっと名刺を差し出してきた。

「私は黒川。芸能関係の仕事をしててね。スカウトも兼ねてるんだ。君、かわいいし、スタイルもいい。興味ないかな?」

 名刺の紙は、妙に厚くて艶があった。印刷された会社名は、聞いたこともないプロダクション。だけど背後には、ネットニュースで見たことがあるようなアイドルの写真が、いくつか並んでいる。

「……芸能、ですか」

「そう。モデルとか、CMとか。最近は動画配信もね。うまくいけば、すぐにお金も稼げるようになるし」

 お金、という単語に、心がわずかに揺れた。

 お金があれば、ホテルに泊まれる。お金があれば、あの家に戻らずに済む。

「親御さんには、説明するから。今日は、ちょっと写真を撮るだけ。顔合わせ程度だよ」

「親は、いいです……」

「反対されるようなご家庭?」男は声を落とす。「だったらなおさら、自分の力で稼がないとね」

 言葉は甘い。でも、その眼の奥にある光は、冷たかった。

 コンビニの店員は、レジ打ちに夢中で、こちらを見ようともしない。イートインの隅には、ヘッドホンをつけた学生がひとり、スマホゲームに没頭している。

 助けて、なんて、誰にも言えない空間。

 私は、迷った。

 ほんの数秒。だけど、その数秒が、きっと私の人生の分かれ道になった。

「……ちょっとなら」

 自分の声が、遠くで響いているみたいだった。

 ***

 コンビニから出ると、夏の夜の湿った空気が、じっとりと肌にまとわりついてきた。

 スーツの男——名刺には黒川と書いてあった——は、私を軽自動車のほうへと促す。

「事務所は、すぐそこ。歩いても行ける距離なんだけど、荷物もあるしさ。乗っていきなよ」

「……あ、大丈夫です。歩きます」

「はは、警戒してる? 偉いねえ。でも安心して。ほら、ここら辺、うちの看板」

 男が指さしたビルの壁面には、確かにさっきの名刺と同じロゴが貼られている。だけど、看板は色あせていて、ところどころ剥がれていた。

 胸のあたりが、ざわざわする。

「歩きましょう。道、教えてください」

「ああ、そう。じゃあ、こっち」

 黒川は、少しだけ不機嫌そうに笑いながら、先を歩く。

 繁華街のメインストリートから一本外れた道は、一気に人通りが減った。居酒屋の裏口から、酔っ払ったサラリーマンが笑いながら出てくる。その先は、シャッターの下りた店舗が続いていた。

 足音が、アスファルトにこつこつ響く。

 心臓の鼓動も、それと同じリズムで速くなる。

「ねえ、うちの子たちさ、みんな最初は不安なんだよ。知らない世界に飛び込むんだから。当たり前だよね。でも、だんだん慣れてきて——」

 黒川の声を、半分くらいしか聞いていなかった。

 何か、おかしい。

 直感が、また警告を鳴らしている。

「あ、ここを抜ければすぐだよ。大通りを回るより、ずっと早く着ける近道なんだ。」

 黒川は、ビルとビルの隙間にある細い路地に、ひょいっと入っていく。

 私は足を止めた。

 路地の向こう側は、街灯が一本、申し訳程度に立っているだけだ。途中には、コンビニも、飲食店も、人の気配もない。

「……ここ、通るんですか」

「そう。大通りぐるっと回るより、早いから」

 黒川が振り返る。その笑顔は、相変わらず整っているのに、不思議なくらい、怖かった。

「嫌なら、別の子に声かけるけど。君、今、他にも行く場所ある?」

 図星を刺すような一言。

 喉が、きゅっと締まる。

「……わかりました」

 私は、路地に足を踏み入れた。

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