ログイン夜って、こんなに長かったっけ。
カミヤの背中にしがみつきながら、流れていく街灯をぼんやりと数えていた。
一本、二本、三本。
オレンジ色の光が、一定のリズムで後ろへ飛んでいく。そのたびに、制服のスカートが風に煽られて、膝が少しひんやりした。
「眠いか、落ちんなよ」
前から飛んできた声は、夜風よりも低くて、耳に心地よく引っかかる。
「落ちない。ちゃんと掴んでるし」
「さっきから、ずっと裾つまんでるだけだろ。それは掴んでるって言わねえ」
「じゃあ、どこ掴めばいいの」
「腰」
「え」
思わず、声が裏返る。
さっきまでなんとなく遠慮して、パーカーの裾を指先でつまむみたいにしていたけど、彼はそれが気に入らないらしい。
「今は気配が増えると集中できねえ。
余計なことに気を回す余裕はねえんだよ。ちゃんと掴んどけ」「……わかった」
おそるおそる、彼の腰のあたりに両腕を回す。
薄い布越しに、固い筋肉の感触が伝わってきて、心臓が一瞬だけ変なリズムを刻んだ。
「っ……」
「どした」
「なんでもない」
なんでもないけど、なんでもあった。
こんなふうに、誰かの身体に触れて、全体重を預けるみたいなこと、今まで一度もなかったから。
父親の手は、いつだって殴るためのものだったし。友達と腕を組んで歩く、なんて青春ドラマみたいなことも、縁がなかったし。
だから今、初めて知った。
人の体温って、思ったより熱い。
それが、こんな狭い空間で、自分の胸と、腕と、頬にまでじわじわと伝わってくると——。
「……ドキドキしても、知らないからね」
「は?」
「なんでもないってば!」
自分で言ってて、意味がわからない。あまりに恥ずかしくて、風に流れていってくれと本気で願う。
国道沿いの景色は、少しずつ変わっていった。
大型スーパーの看板が消えて、代わりに、さび付いたガソリンスタンドや、深夜もやっているラーメン屋がぽつぽつと現れる。
「ねえ、どこ行くの?」
「とりあえず、ここから一番近い海」
「海?」
「水辺の町は、逃げやすい」
「どういう理論……?」
「山のほうは、行き止まりが多い。人間の作った道ってのは、けっこう素直だ。海沿いの国道は、どこまでも繋がってる」
「逃げ慣れてる人の発想だ、それ」
「仕事柄な」
「仕事?」
「……まあ、いろいろだ」
はぐらかされる。
深掘りしたらいけないところに、無意識で足を突っ込みそうになって、慌てて話題を変えた。
「海、かぁ」
夏の夜の海なんて、テレビかネットの動画でしか見たことない。修学旅行は京都だったし、家族旅行なんて、存在しなかったし。
「朝になったら、見える?」
「見える」
「やった」
口元が、勝手に緩む。
さっきまで死ぬほど怖かったはずなのに、人間って勝手だ。ほんの少しの希望と、知らない景色の予感だけで、こんなにも胸が軽くなる。
「そんなに海が見たいのか」
「うん」
「なんで」
「行ったことないから」
「それだけ?」
「それだけ」
それだけ、だけど。
「だってさ、カミヤ。一生のうちで、どこにも行けないで終わるの、なんか悔しくない?」
「そうか」
「うん。どうせなら、一回くらい、ドラマみたいな海とか、見てみたい。修学旅行みたいなやつ。もう学校、行けなくなるかもしれないし」
足元から、急に現実が顔を出す。
学校。教室。黒板。チャイムの音。クラスメイトの笑い声。あの、灰色っぽい日々。
「……戻りたい?」
不意に、彼が聞いてきた。
「学校に?」
「ああ」
少しだけ、考える。
制服のポケットに入れっぱなしの生徒手帳。机の奥にしまったままの教科書。体育館の、埃っぽい匂い。昼休みに一人で読んだ、図書室の小説。
「……わかんない」
正直に答えた。
「戻っても、たぶん、何も変わらない気がする。家は地獄だし、学校は、普通。ちょっとしんどいくらいの普通。どっちも、私がいてもいなくても、回る」
言ってから、自分の言葉に苦笑する。
「なんか、めんどくさいこと言ってるね、私」
「いや」
「うん?」
「……少し、わかる」
エンジン音に紛れて、小さな声が聞こえた。
彼の横顔は見えない。でも、背中越しに、微かに肩が揺れたような気がする。
「俺も、人間の世界に混ざって、普通のフリしてるけどさ。どこまで行っても、『いなくてもいいもの』だって気はする」
「そんなことないでしょ」
反射的に否定していた。
「だって、コンビニで働いてるってことはさ、カミヤがいなかったら、夜中にアイス買いに来た人、困るじゃん」
「例えが軽すぎる」
「でも、そういうことだよ。夜中にコンビニでアイス買えるのって、誰かがレジに立ってるからでしょ。いなくてもいい人なんて、いないよ」
自分で言って、少しだけ、胸が痛くなった。
本当は、自分に向けて言いたい言葉だったのかもしれない。
「……お前さ」
「なに」
「変なとこ、真面目だよな」
「バカにしてる?」
「ほめてる」
「ほんとに?」
「三十点くらい」
「低すぎない?」
「上限が低い」
「ひどい!」
笑い合っているうちに、夜の国道は、だんだんと街の明かりを減らしていった。
代わりに、空が近くなる。
ビルの影がなくなって、遠くのほうまで見渡せるようになると、水平線のあたりが、ほんのりと白んできているのがわかった。
「あ」
「気づいたか」
カミヤの声が、少しだけ柔らかくなる。
「そろそろ、夜明けだ」
***
やがて、風の匂いが変わった。
草とアスファルトとガソリンだけだった空気に、ひんやりとした湿気と、少しだけしょっぱい匂いが混ざる。
海だ。
見えないのに、わかった。
胸の中で、何かが弾ける。子どものころ、夏休み前の終業式で、「明日から夏休みです」と先生が言った瞬間の、あのどうしようもないワクワクに似ていた。
「ねえ、カミヤ」
「なんだ」
「ありがとう」
「まだ何もしてねえだろ」
「でも、海に連れてってくれてる」
「海ぐらいで礼を言われる筋合いねえよ」
「私にとっては、すごいことなんだってば」
「……大げさだ」
そう言いながらも、彼の背中が、ほんの少しだけ誇らしげに張った気がした。
私たちの盗んだ原付は、そのまま朝焼けに向かって走っていった。
あのときの空の色を、たぶん私は一生忘れない。
夜の濃い藍色と、朝の淡いオレンジが、にじみ合って、遠くの雲の端っこだけが金色に染まりはじめていた。
その向こうに、まだ見えないけれど、確かに「海」がある。
そう信じて疑わなかった。
このときの私は、まだ知らない。
この海辺の町で過ごす数日が、人生でいちばん「修学旅行」っぽい時間になることも。
そして、その眩しさごと、あとで全部、失うことになることも。
五右衛門風呂の中で、汐音は目を覚ました。 最初に感じたのは、水のぬるさだった。昨夜のうちに月が沈み、足は人間の形に戻っている。指先がふやけて、爪の端が白くなっている。うっかり風呂の中で寝てしまったのだ——何時間浸かっていたのだろう。窓の隙間から朝日が差し込み、水面にゆらゆらと光の模様を描いている。 ぱた、ぱた、と水滴が蛇口から落ちる音。遠くで波が崖を叩く音。そして——隣の部屋から、小さな鳴き声。「くぅん……くぅ……」 ツキだ。カミヤさんの胸の上で丸くなって、寝ぼけた声を出している。甘えん坊の影狼は、夜の間にカミヤさんの懐に潜り込んだらしい。 汐音は濡れた髪を絞りながら、風呂の縁に頬を載せた。隣の部屋は襖一枚で隔てられているだけで、その隙間からカミヤさんの横顔がわずかに見える。畳の上に敷いた布団で、仰向けに眠っている。黒髪が額にかかり、長い睫毛が頬に影を落としている。寝顔は、起きている時のぶっきらぼうさが全部消えて、年相応——いや、外見通りの二十歳くらいの青年に見える。三百年の重みなんて、どこにもない。 胸の奥が、きゅうっと軋んだ。 ——ここが、私たちの家なんだ。 そう思った瞬間、涙が出そうになって、慌てて顔を水に沈めた。ぶくぶくと泡が上がる。水の中のほうが落ち着く。海の生き物だから。泣きたい時は、水に潜ればいい。 三百年間、ずっと一人で海にいた。仲間は散り散りになり、人間に紛れて陸で暮らすようになってからも、本当の意味で「家」と呼べる場所はなかった。石垣島の借家は、一人で住むには広すぎた。テーブルの向かいに誰もいない食卓。夜になれば勝手に人魚に戻る体。月が昇るたびに、人間のふりが剥がれ落ちていく孤独。 それが今、こうして—— ぼろぼろの崖の上の家。錆びた屋根。割れた窓。でも、隣の部屋にはカミヤさんがいて、影狼たちが庭を走り回っていて、五右衛門風呂の湯船には、私がいる。 ——ああ、だめだ。やっぱり泣きそう。 ばしゃん、と顔を上げて深呼吸する。水滴が睫毛を伝い、光にきらきら反射する。「よし」 汐音は風呂から上がり、昨日のうちに
おじいの目が俺と、後ろの汐音とを交互に見る。若い男女がスーパーカブ一台で最果ての島にやってきた。怪しいと思われても仕方ない。 だが、おじいはにやりと笑っただけだった。「崖の上に、一軒あるさ。昔ダイビングショップやってた兄ちゃんが出て行って、誰も借り手がおらんのよ。ボロいけどな」 道を教えてもらい、カブでさらに坂を登る。舗装が途切れ、赤土の道になった先に——それはあった。 潮風に錆びたトタン屋根。割れかけた窓ガラス。壁のペンキは剥げて下地のコンクリートが見えている。庭には機材の残骸が転がり、ホースやウェットスーツの切れ端が風に揺れている。そして庭の先は——断崖。柵もなく、赤土の地面がそのまま空に落ちている。 崖下を覗き込む。紺碧の海が、五十メートル下で白く砕けている。黒潮の流れが岩壁にぶつかり、渦を巻いている。「ここ最高! 庭から海にダイブできる!」 汐音がカブから飛び降り、目を輝かせて崖の縁まで走っていく。「おい、落ちるぞ」「大丈夫、私は落ちても泳げるもん」「俺は泳げねぇんだよ」「えへへ」 ……何がえへへだ。 だが、立地は悪くない。集落から離れているから、人目がない。夜中に影狼を庭で遊ばせても、月光で汐音が人魚に戻っても、誰にも見られない。それに、崖の下にプライベートの入り江があるなら、そこから直接海に潜れる。ダイビングショップがここに店を構えたのも頷ける。「カミヤさん、中見てみよ!」 汐音に手を引かれ、錆びたドアを開ける。蝶番が軋み、埃っぽい空気が鼻を突く。中は——ボロい。率直に言ってボロい。畳は日焼けし、天井の隅にクモの巣が張り、壁に前の住人が貼ったダイビングポイントの地図がそのまま残っている。キッチンは最低限の設備。風呂は——「五右衛門風呂、生きてる! やった!」 汐音が奥の浴室から叫ぶ。大きな石造りの風呂桶が、塩害に強い頑丈な造りでどっしりと鎮座していた。蛇口を捻ると、錆びた色の水がしばらく出た後、透明な水に変わる。「これなら、夜に人魚になっても大丈夫。お風呂に浸かっ
フェリーの甲板に、潮の匂いが濃い。 石垣島を出て三時間。外洋のうねり、重油の混じった風、そして胃の底を削るようなエンジンの重低音。人狼としての鋭すぎる五感は、大型フェリー特有の騒々しさに、とっくに限界を迎えていた。手すりに両肘をついて水平線を睨む。ただ睨む。 酔っているわけではない。三日間揺られた貨物船でも平気だったし、漁師として網を引くこともできる。だが、この「逃げ場のない鉄の箱に閉じ込められて揺られる」という不自然な感覚は、陸の獣である俺にとって、本能的な不快感でしかなかった。早くこの箱を降りて、硬い土を踏みたい――その一心で、俺は不機嫌に水平線を睨み続けていた。「カミヤさんカミヤさん、大変! スマホが台湾の電波掴んじゃった! ローミングってどうやって切るの? え、待って、これ国際通話料かかるやつ? やばい!」 隣で、能天気な声が風に飛ぶ。 振り返ると、汐音が甲板の上でスマホを高く掲げたり低く構えたりと忙しない。潮風に吹かれた青みがかった黒髪が、お団子から何本もほつれて頬に張り付いている。海色の瞳が画面に釘づけで、足元のデッキが大きく傾いても平然としている。こいつは揺れに強い。当たり前だ。海の生き物なんだから。「……こっちに聞くな。数日前に教えてもらったばかりだろうが」「あ、そっか。えーと、設定、設定……あ、これかな?」 汐音が指先を忙しく動かし、自力で画面を切り替えていく。俺は自分のポケットに入っている、彼女から持たされた「板切れ」の重みを感じた。いまだに電源を入れるのすら、少しだけ躊躇う代物だ。 やっと設定を直したらしい汐音の画面には、ハンドメイドアプリの通知が山ほど溜まっていた。新着レビュー、購入通知、フォロワーからのメッセージ。この人魚は、命懸けの逃避行の直後ですら商売の手を緩めない。「ありがとー! あ、見て見て。石垣島で最後に出品した夜光貝のブローチ、もう売れてる。星五つ! "まるで本物の海を閉じ込めたみたい"だって。嬉しいなぁ」「……お前な、」 言いかけて、やめた。 こいつのこの逞しさが、今の俺たちの旅費を支えている。文句を言える立場じゃない
久高嶺臣は——短刀を振りかざしたまま、動かなくなった。 違う。動けなくなったのだ。 目の前で、人間の体が——崩壊していく。 銀縁眼鏡の奥の瞳が濁った。白麻のスーツの下で、皮膚に皺が刻まれていく。みるみるうちに。髪が白くなり、抜け落ちる。背が縮む。手の甲に老斑が浮かび上がる。指が細くなり、関節が膨らむ。 人魚の生き血の効力が——切れたのだ。 三百年分の時が、一気に肉体に刻まれていく。「馬鹿な……まだ、足りない……もっと、血を……」 崩れ落ちる久高の手から、短刀が落ちた。かちん、と。岩に金属が当たる、硬く乾いた音。 膝が折れた。腰が曲がった。顔の肉が削げ落ち、頬骨と顎の骨が浮き出る。歯が抜けた。眼窩が窪んだ。 皮膚が紙みたいに薄くなって、その下の血管が透けて見えた。そして——血管すらも干からびていく。 久高嶺臣は、三百年の時に追いつかれ、崖の上で——塵のように崩れていった。 風が吹いた。 白麻のスーツの中に、もう何も残っていなかった。灰のような、砂のような、乾いた粒子が風に散っていく。銀縁眼鏡だけが草の上に転がっている。 他人の命を啜ってまで生に執着した男の——末路。 怒りはもうなかった。あるのは、静かなやるせなさだけだ。 残された私兵たちは、主を失い、散り散りに去っていった。スーツを脱ぎ捨て、武器を置き、島の闇に消えていく。 赤嶺だけが残っていた。 関節を極められた体勢から解放され、崖の上に座り込んでいる。久高の残骸——いや、もう骨すら風化しかけた跡を、無表情に見つめていた。 俺は赤嶺に背を向けた。「……行けよ。お前はまだ、やり直せる」 赤嶺が何か言いかけた。口を開き&m
島の北端。人の来ない断崖の海岸。 岩肌がむき出しの崖の下に、波が打ち寄せている。ざぱん、ざぱん、と。激しい音。南の穏やかな浜辺とは違う、荒い海。 ここなら——海に直接降りられる。崖を降りれば、水際まで十メートル。 月の出まであと二時間。月が出れば汐音は人魚に戻る。人魚の姿なら海に逃げられる。深い海に潜ってしまえば、人間の手は届かない。 だが——俺の体が限界だった。 銀の弾丸の破片が、まだ体の中にある。月(ツキ)がずっと治癒を続けているが、銀の侵食が深い。腕を上げると脇腹が裂けそうに痛む。立っているだけで膝が震える。 影(カゲ)が報告を寄越した。 久高の部隊が来る。近い。ドローンが三機。私兵が十数名。赤嶺が——新たな銀弾を装填して合流している。肩を外されたはずだが、もう動いている。応急処置をしたのだろう。プロだ。 時間がない。「汐音」 名前を呼んだ。「ここで待ってろ。月が出たら、海に入れ。そのまま沖に出て、絶対に振り返るな」 汐音の顔が——凍った。「嫌です」「聞けよ」「嫌です!」 声が割れた。三百年分の感情が、一気に溢れ出したような声だった。「一人で——三百年も待ったのに、やっと会えたのに——っ!」 海色の瞳から涙が零れた。ぼろぼろと。止められない涙が、白い頬を伝って顎から落ちる。 俺はその顔を見て——笑った。 不器用に。ぎこちなく。口の端を上げるだけの、下手くそな笑い方。三百年で、こんなふうに笑ったのはたぶん——初めてだった。「死なねぇよ。俺は面倒くせぇくらいしぶといんだ」 ポケットからスマホを取り出した。汐音がくれた、あのスマホ。「これ持ってろ」 汐音の手にスマホを握らせた。「……終わったら、連絡する」 一拍、置いて。「お前が俺に持たせた意味、ちゃんとわかってる」 汐音の手が震えた。スマホを握りしめる指が白くなる。
翌日。 海岸沿いのトンネルに潜んでいた。 コンクリートのトンネル。車一台がやっと通れる幅。照明は切れている。暗い。水の匂い。壁面に苔が生えている。 銀(シロガネ)が警報を寄越した。ドローンが上空に来ている。 遅かったか。 トンネルの向こう側から——足音。 複数。整然とした足取り。軍隊か、それに近い訓練を受けた者の歩き方。「汐音、奥に隠れろ」「でも——」「いいから行け」 汐音がトンネルの最奥部に走る。サンダルがコンクリートを叩く音がぱたぱたと響く。 俺はトンネルの入り口に立った。 五人。スーツ姿の男が二人。その後ろに——坊主頭の巨漢が一人。鍛え上げられた体。左頬に古い刀傷。元自衛官。 赤嶺剛。 その名前はまだ知らなかったが、こいつが「使える」人間だということは——立ち方を見ればわかる。重心が低い。両手はリラックスしているように見えて、いつでも懐に手を入れられる位置にある。 赤嶺が口を開いた。「そこの兄ちゃん。悪いが、そのトンネルの奥にいる女を引き渡してもらおうか」「……誰のことだ」「とぼけるな。ドローンの映像で確認済みだ。——あんたがどこの誰かは知らないが、邪魔をするなら容赦しない」 赤嶺の手が懐に入った。 銃。拳銃。黒い金属の光。 ——一度目の戦闘。 赤嶺は速かった。抜き撃ちの技術が異常に高い。元自衛官の肩書きは伊達じゃない。 一発目が胸を貫いた。 鈍い衝撃。肺に穴が開く感覚。血が口の中に広がる。鉄の味。 二発目。腹。内臓を抉る痛み。 三発目。肩。 トンネルの壁に背中を叩きつけられた。コンクリートにひびが入る。 だが——俺は立っていた
本当に、海はあった。 国道から少し脇道にそれて、しばらく下り坂を走ると、視界の先に突然、空の続きみたいな青い平面が広がった。「……」 言葉が、喉の奥に張り付いた。 朝焼けの光を受けて、海はまだ薄青くて、ところどころ銀色に光っている。波が寄せては返すたびに、白い泡が砂浜に線を残しては消えていく。「本当に、海だ……」「偽物の海ってなんだよ」「プールとか、ゲームの中のとか」「それはそれで現実だろ」「うるさい。今はロマンチックなやつ」
人に殴られる音も、怒鳴り声も、さっきまでの恐怖も、一瞬だけ遠のいていく。「そんな顔で食うな」 隣で、狼谷がぼそっと言った。「変な顔ってこと?」「うまそうに食いすぎ」 彼は、プラスチックのフォークで焼き鳥パックをつついていた。中身は、もも肉とネギまが数本。ラップをはがして、ひとつをそのまま口に放り込む。「……冷てぇ」「レンジで温めてもらえばよかったのに」「いい。これで」 本当に、どうでもよさそうな顔で言う。
原付は、街の灯りを次々と背中に置き去りにしていった。 コンビニの白い光も、カラオケボックスの派手なネオンも、いつの間にか見えなくなって、代わりに、オレンジ色の街灯と、遠くの国道を走るトラックのヘッドライトだけが、夜の景色に点々と刺さっている。「ねえ」「……今は黙って掴まってろ」「でも——」「落としたら面倒だ」 狼谷の声は、相変わらず低くてぶっきらぼうだ。 私は、腰に回した腕を少しだけ強く握る。怖いとか、そういうのじゃなくて——こうしていないと、現実感がすぐにふわっと消えてしま
「……は?」「な、なんだよ、これ……」 背後の男たちが、慌ててポケットから何かを取り出そうとした。たぶん、さっき黒川が見せたようなナイフか、それ以上のもの。 だけど、彼らが武器を抜くより早く。「殺すな」 フードの男が、短く言った。 それだけで、狼たちの耳が、ぴくりと一斉に動く。「骨は折っていい。深くは、噛むな。血もあんまり出すな」「——は?」 狼たちが、同時に動いた。 真っ黒な影が、風より速く、黒川たちに飛びかかる。牙が閃く。けれ