Beranda / 現実ファンタジー / しおさいの街で、人狼と天使は恋をした / 第1章・第6話:美しすぎる予兆、失われるための海へ

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第1章・第6話:美しすぎる予兆、失われるための海へ

Penulis: 銀狐
last update Tanggal publikasi: 2026-05-19 06:07:19

 夜って、こんなに長かったっけ。

 カミヤの背中にしがみつきながら、流れていく街灯をぼんやりと数えていた。

 一本、二本、三本。

 オレンジ色の光が、一定のリズムで後ろへ飛んでいく。そのたびに、制服のスカートが風に煽られて、膝が少しひんやりした。

「眠いか、落ちんなよ」

 前から飛んできた声は、夜風よりも低くて、耳に心地よく引っかかる。

「落ちない。ちゃんと掴んでるし」

「さっきから、ずっと裾つまんでるだけだろ。それは掴んでるって言わねえ」

「じゃあ、どこ掴めばいいの」

「腰」

「え」

 思わず、声が裏返る。

 さっきまでなんとなく遠慮して、パーカーの裾を指先でつまむみたいにしていたけど、彼はそれが気に入らないらしい。

「今は気配が増えると集中できねえ。

 余計なことに気を回す余裕はねえんだよ。ちゃんと掴んどけ」

「……わかった」

 おそるおそる、彼の腰のあたりに両腕を回す。

 薄い布越しに、固い筋肉の感触が伝わってきて、心臓が一瞬だけ変なリズムを刻んだ。

「っ……」

「どした」

「なんでもない」

 なんでもないけど、なんでもあった。

 こんなふうに、誰かの身体に触れて、全体重を預けるみたいなこと、今まで一度もなかったから。

 父親の手は、いつだって殴るためのものだったし。友達と腕を組んで歩く、なんて青春ドラマみたいなことも、縁がなかったし。

 だから今、初めて知った。

 人の体温って、思ったより熱い。

 それが、こんな狭い空間で、自分の胸と、腕と、頬にまでじわじわと伝わってくると——。

「……ドキドキしても、知らないからね」

「は?」

「なんでもないってば!」

 自分で言ってて、意味がわからない。あまりに恥ずかしくて、風に流れていってくれと本気で願う。

 国道沿いの景色は、少しずつ変わっていった。

 大型スーパーの看板が消えて、代わりに、さび付いたガソリンスタンドや、深夜もやっているラーメン屋がぽつぽつと現れる。

「ねえ、どこ行くの?」

「とりあえず、ここから一番近い海」

「海?」

「水辺の町は、逃げやすい」

「どういう理論……?」

「山のほうは、行き止まりが多い。人間の作った道ってのは、けっこう素直だ。海沿いの国道は、どこまでも繋がってる」

「逃げ慣れてる人の発想だ、それ」

「仕事柄な」

「仕事?」

「……まあ、いろいろだ」

 はぐらかされる。

 深掘りしたらいけないところに、無意識で足を突っ込みそうになって、慌てて話題を変えた。

「海、かぁ」

 夏の夜の海なんて、テレビかネットの動画でしか見たことない。修学旅行は京都だったし、家族旅行なんて、存在しなかったし。

「朝になったら、見える?」

「見える」

「やった」

 口元が、勝手に緩む。

 さっきまで死ぬほど怖かったはずなのに、人間って勝手だ。ほんの少しの希望と、知らない景色の予感だけで、こんなにも胸が軽くなる。

「そんなに海が見たいのか」

「うん」

「なんで」

「行ったことないから」

「それだけ?」

「それだけ」

 それだけ、だけど。

「だってさ、カミヤ。一生のうちで、どこにも行けないで終わるの、なんか悔しくない?」

「そうか」

「うん。どうせなら、一回くらい、ドラマみたいな海とか、見てみたい。修学旅行みたいなやつ。もう学校、行けなくなるかもしれないし」

 足元から、急に現実が顔を出す。

 学校。教室。黒板。チャイムの音。クラスメイトの笑い声。あの、灰色っぽい日々。

「……戻りたい?」

 不意に、彼が聞いてきた。

「学校に?」

「ああ」

 少しだけ、考える。

 制服のポケットに入れっぱなしの生徒手帳。机の奥にしまったままの教科書。体育館の、埃っぽい匂い。昼休みに一人で読んだ、図書室の小説。

「……わかんない」

 正直に答えた。

「戻っても、たぶん、何も変わらない気がする。家は地獄だし、学校は、普通。ちょっとしんどいくらいの普通。どっちも、私がいてもいなくても、回る」

 言ってから、自分の言葉に苦笑する。

「なんか、めんどくさいこと言ってるね、私」

「いや」

「うん?」

「……少し、わかる」

 エンジン音に紛れて、小さな声が聞こえた。

 彼の横顔は見えない。でも、背中越しに、微かに肩が揺れたような気がする。

「俺も、人間の世界に混ざって、普通のフリしてるけどさ。どこまで行っても、『いなくてもいいもの』だって気はする」

「そんなことないでしょ」

 反射的に否定していた。

「だって、コンビニで働いてるってことはさ、カミヤがいなかったら、夜中にアイス買いに来た人、困るじゃん」

「例えが軽すぎる」

「でも、そういうことだよ。夜中にコンビニでアイス買えるのって、誰かがレジに立ってるからでしょ。いなくてもいい人なんて、いないよ」

 自分で言って、少しだけ、胸が痛くなった。

 本当は、自分に向けて言いたい言葉だったのかもしれない。

「……お前さ」

「なに」

「変なとこ、真面目だよな」

「バカにしてる?」

「ほめてる」

「ほんとに?」

「三十点くらい」

「低すぎない?」

「上限が低い」

「ひどい!」

 笑い合っているうちに、夜の国道は、だんだんと街の明かりを減らしていった。

 代わりに、空が近くなる。

 ビルの影がなくなって、遠くのほうまで見渡せるようになると、水平線のあたりが、ほんのりと白んできているのがわかった。

「あ」

「気づいたか」

 カミヤの声が、少しだけ柔らかくなる。

「そろそろ、夜明けだ」

 ***

 やがて、風の匂いが変わった。

 草とアスファルトとガソリンだけだった空気に、ひんやりとした湿気と、少しだけしょっぱい匂いが混ざる。

 海だ。

 見えないのに、わかった。

 胸の中で、何かが弾ける。子どものころ、夏休み前の終業式で、「明日から夏休みです」と先生が言った瞬間の、あのどうしようもないワクワクに似ていた。

「ねえ、カミヤ」

「なんだ」

「ありがとう」

「まだ何もしてねえだろ」

「でも、海に連れてってくれてる」

「海ぐらいで礼を言われる筋合いねえよ」

「私にとっては、すごいことなんだってば」

「……大げさだ」

 そう言いながらも、彼の背中が、ほんの少しだけ誇らしげに張った気がした。

 私たちの盗んだ原付は、そのまま朝焼けに向かって走っていった。

 あのときの空の色を、たぶん私は一生忘れない。

 夜の濃い藍色と、朝の淡いオレンジが、にじみ合って、遠くの雲の端っこだけが金色に染まりはじめていた。

 その向こうに、まだ見えないけれど、確かに「海」がある。

 そう信じて疑わなかった。

 このときの私は、まだ知らない。

 この海辺の町で過ごす数日が、人生でいちばん「修学旅行」っぽい時間になることも。

 そして、その眩しさごと、あとで全部、失うことになることも。

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