Share

57.雨の夜、待ち続ける背中

Aвтор: 中岡 始
last update Последнее обновление: 2025-12-10 16:37:50

街灯の明かりが滲むほどの、濡れた空気だった。

午後十時を回ったばかりの夜、会社帰りの人々が通り過ぎていく中で、晴臣はただひとり、動かずに立っていた。スーツの肩には水滴がいくつも浮かび、髪は額に張りついている。雨は容赦なく降り続き、背広の生地を重く染めていたが、彼は傘を持たなかった。ポケットに手を入れるでもなく、スマートフォンを取り出すこともせず、ただマンションの入り口に身じろぎもせず立ち尽くしていた。

湿ったアスファルトから立ち上る匂いが鼻を刺す。遠くで車のクラクションが鳴ったが、晴臣の目は、ただエントランスの奥をまっすぐに見据えていた。

ようやく足音が聞こえたのは、日付が変わる少し前のことだった。

マンションの角を曲がったその人影を、晴臣はすぐに見分けた。

岡田だった。

駅からの帰り道、肩を少しすぼめて歩いてくるその姿は、いつもと同じようにスーツのジャケットがよれていた。ネクタイは緩められ、革靴の音はどこか疲れた調子で、急ぐ様子もないまま雨に濡れながら近づいてくる。

だが、玄関前に立つ晴臣に気づいた瞬間、岡田の足が止まった。

「…は?」

声にならないつぶやきが、唇から零れた。

傘も差さず、ずぶ濡れのまま彼を見上げる晴臣の姿に、岡田は明らかに面食らった表情を浮かべた。慌てたように鞄から折りたたみ傘を取り出しかけて、けれど途中でその動きを止める。

「おま…なんで、こんなとこで…」

声が、どこか揺れていた。

晴臣は、なにも言わなかった。ただ視線を逸らさず、じっと岡田を見ていた。額に張りついた前髪の下、睫毛には雨粒がいくつも残っている。その瞳は冷たくもなく、ただ静かで、どこまでも真っ直ぐだった。

岡田は眉をひそめ、困ったように笑う。

「何してんねん…風邪ひくで。アホちゃうか」

近づいてきた彼は、自分の傘を差し出そうとするが、そこで指がわずかに震えているのに気づいた。晴臣の前に立った瞬間、その震えは少し大きくなった。

「傘くらい…持って来いや…」

Продолжить чтение
Scan code to download App
Заблокированная глава

Latest chapter

  • そのネクタイ、俺が直してもいいですか?~ズボラな課長のくせに、惚れさせるなんて反則だ。   59.沈黙のあとに残るもの

    岡田はソファに沈むように身を投げ出し、背もたれに頭を預けていた。吐く息は浅く、胸の奥に残る熱が抜けきらずにいる。言葉をぶつけ合ったあとの空白が、部屋の空気にじっとりと沈殿していた。さっきまでの雨は弱まり、窓の向こうでは水の粒が静かにガラスを滑り落ちていく。けれど、外の世界が静かになればなるほど、室内の音がいやに耳に残った。時計の秒針が一秒ごとに空気を割って、はっきりと響く。岡田は手のひらで顔を覆い、そのまましばらく動かなかった。肩はほんのわずかに揺れていたが、それが呼吸の乱れなのか、感情の波なのかは分からなかった。ただ、その姿には、男の弱さと脆さが凝縮されていた。晴臣は何も言わず、そっと岡田の隣に腰を下ろした。ソファのクッションがわずかに沈む。距離は触れられそうで触れない、けれど逃げられないほどには近い。そのまま、何秒か、あるいは何分か、ふたりは何も言わなかった。沈黙が会話の続きを催促するように、部屋にじんわりと広がっていた。「…俺」晴臣の声が、深く低く、部屋の空気に溶けた。「課長の過去ごと、好きです」岡田の肩がわずかに揺れた。顔を覆っていた手がゆっくりと降りていき、岡田は無言のまま視線を前に落とした。涙の跡が頬に一筋残っている。けれどその表情には、もう拒絶の色はなかった。「お前、ほんまにアホやな…」そう呟いた岡田の声は、掠れていた。喉が乾いているような、かすかに震える響きだった。「なんでそんな、丸ごと好きになんねん」「好きになった人の一部だけ好きなんて、俺にはできません」晴臣は横を向いた。「だって、それじゃ“人”じゃなくて、理想しか愛せないじゃないですか」岡田は、言葉の意味を噛みしめるように目を伏せた。「俺、前にも言いましたけど…あんたを抱いた責任を取りたいだけじゃないんです」晴臣の声は、決して強くはなかった。けれど、それはまっすぐに岡田の胸の奥へ届いた。「俺があ

  • そのネクタイ、俺が直してもいいですか?~ズボラな課長のくせに、惚れさせるなんて反則だ。   58.ぶつかる声、こぼれる真実

    給湯器の低い唸りが、沈黙の部屋にぼんやりと響いていた。窓の外では、まだ雨が細く降り続いている。空気はぬるく湿って、梅雨の夜特有の重たさを含んでいた。リビングのソファには岡田が、対するようにダイニングテーブルの椅子に晴臣が腰を下ろしている。互いの距離は、まるで踏み込めない境界線のように、不自然にあいたままだった。岡田は煙草を咥えようとして、けれど途中で思い直したのか、ライターを握ったまま手を膝に置いた。その拳がわずかに震えていた。「…だからな」沈黙を破った岡田の声は低く、掠れていた。「俺は、お前を幸せにする資格なんてあらへんのや」「資格?」晴臣の声が、それにすぐ返る。「そんなもの、誰が決めるんですか」「決まってる。俺自身や」晴臣は顔を上げた。湿った空気に息を吸い込み、少しの間、言葉を選ぶように唇を閉じる。「またそれですか。逃げる言い訳に、自分を下げるのは」「ちゃう、逃げてへん。俺はただ…分かってんねん。俺と一緒におっても、お前は損するだけやって」「損得で人を好きになるわけじゃないです」岡田の顔がぴくりと動いた。「…お前は若い。まだなんぼでも可能性ある。もっとええ男も、ええ人生もある。こんな冴えへん課長の隣で止まるな」「止まってるのは課長の方です」返ってきたその言葉は、刃物のように鋭く静かだった。岡田は口を開きかけたが、何も言えずに俯いた。こめかみを押さえるように片手を額にやり、もう片方の手の拳は膝の上で震え続けていた。膝に力が入り、テーブルの上にぽたりと一滴、水が落ちる。さっきまで髪に残っていた雨のしずく。それが晴臣には、岡田の涙のように見えた。「…なんで、そんなに俺に食らいついてくんねん」岡田がぽつりとこぼした。「傷つくのが怖ないんか。俺はお前に痛い思いさせるかもしれんのに」「それでもいいと思えるほど、好きなんです」その言葉に岡

  • そのネクタイ、俺が直してもいいですか?~ズボラな課長のくせに、惚れさせるなんて反則だ。   57.雨の夜、待ち続ける背中

    街灯の明かりが滲むほどの、濡れた空気だった。午後十時を回ったばかりの夜、会社帰りの人々が通り過ぎていく中で、晴臣はただひとり、動かずに立っていた。スーツの肩には水滴がいくつも浮かび、髪は額に張りついている。雨は容赦なく降り続き、背広の生地を重く染めていたが、彼は傘を持たなかった。ポケットに手を入れるでもなく、スマートフォンを取り出すこともせず、ただマンションの入り口に身じろぎもせず立ち尽くしていた。湿ったアスファルトから立ち上る匂いが鼻を刺す。遠くで車のクラクションが鳴ったが、晴臣の目は、ただエントランスの奥をまっすぐに見据えていた。ようやく足音が聞こえたのは、日付が変わる少し前のことだった。マンションの角を曲がったその人影を、晴臣はすぐに見分けた。岡田だった。駅からの帰り道、肩を少しすぼめて歩いてくるその姿は、いつもと同じようにスーツのジャケットがよれていた。ネクタイは緩められ、革靴の音はどこか疲れた調子で、急ぐ様子もないまま雨に濡れながら近づいてくる。だが、玄関前に立つ晴臣に気づいた瞬間、岡田の足が止まった。「…は?」声にならないつぶやきが、唇から零れた。傘も差さず、ずぶ濡れのまま彼を見上げる晴臣の姿に、岡田は明らかに面食らった表情を浮かべた。慌てたように鞄から折りたたみ傘を取り出しかけて、けれど途中でその動きを止める。「おま…なんで、こんなとこで…」声が、どこか揺れていた。晴臣は、なにも言わなかった。ただ視線を逸らさず、じっと岡田を見ていた。額に張りついた前髪の下、睫毛には雨粒がいくつも残っている。その瞳は冷たくもなく、ただ静かで、どこまでも真っ直ぐだった。岡田は眉をひそめ、困ったように笑う。「何してんねん…風邪ひくで。アホちゃうか」近づいてきた彼は、自分の傘を差し出そうとするが、そこで指がわずかに震えているのに気づいた。晴臣の前に立った瞬間、その震えは少し大きくなった。「傘くらい…持って来いや…」

  • そのネクタイ、俺が直してもいいですか?~ズボラな課長のくせに、惚れさせるなんて反則だ。   56.夜のコンビニ前、ポケットの中の片想い

    夜風が吹き抜けるたびに、街の色が少しずつ滲んで見えた。電車を降りた晴臣は、駅前の歩道を歩きながら、ポケットの中の指先を握りしめていた。スーツの上着では風を防ぎきれず、肌の奥にまで冷たさが染みてくる。ひと駅分、ふたりで並んで帰るはずだった道。あの給湯室の会話のあと、岡田は何も言わず背を向けて歩き出し、晴臣も追うことはできなかった。黙ったままエレベーターに乗った岡田の背中を、遠くから見ているしかなかった自分が、今も胸の奥で引っかかっていた。足は自然に、職場近くの小さなコンビニへ向かっていた。理由はなかった。何かが欲しかったわけでもない。ただ、何かをするふりをしていたかっただけだった。自動ドアが開くと、店内の暖かさが一瞬で頬を撫でた。明るすぎる蛍光灯と、静かに流れる店内音楽。誰もいない時間帯のせいか、店員はレジ奥で何かを仕分けていた。晴臣はコーヒーの冷蔵棚の前に立ち、手を伸ばす。指先が缶の金属に触れる。ひんやりとした冷たさが、今の気持ちと重なった。棚から取り出した缶をそのまま持ってレジに向かい、無言で会計を済ませる。外に出ると、風が一層冷たくなっていた。自販機の横にある木のベンチは、雨の名残を吸い込んで、どこか暗く沈んでいる。その脇に立ち、缶を開けた。プルタブの開く音が、思ったよりも乾いて響いた。ひと口飲むと、甘さが喉に絡んだ。いつもなら仕事の合間に飲んでいる味のはずなのに、今夜はただ、胸の奥を鈍く刺激するだけだった。ポケットに入れていたもう一方の手が、無意識に傘の取っ手を探して空振りする。そうだ、と小さく思う。傘は岡田に預けたままだった。それがなんだ、と自分に言い聞かせる。返してもらう必要はない。そんなもの、ただの荷物だ。けれど、岡田がその傘を今、どこに置いているのか。ちゃんと家まで持って帰ったのか。そんなことばかりが頭に浮かんで、捨てられていたらどうしよう、なんてくだらない想像すらしてしまう。缶を持つ指先に、じわりと冷たさが滲む。ひと口、またひ

  • そのネクタイ、俺が直してもいいですか?~ズボラな課長のくせに、惚れさせるなんて反則だ。   55.ぶつかる声と、逸らされる瞳

    残業時間が終わっても、オフィスの空気はまだ動いていた。プリンターの熱と、蛍光灯の白が、夜の帳を忘れさせている。人の気配はまばらで、カーペットの上を歩く音さえ、やけに響いた。晴臣は、自分の机の前で立ち尽くしていた。モニターには、保存を促すポップアップが点滅している。指先がマウスに触れたまま動かない。視線の先、少し離れたデスクで岡田が書類を鞄にしまっているのが見えた。その仕草はいつも通りだった。無造作にまとめた資料、緩んだネクタイ。けれど晴臣には、それが別人のように感じられた。同じ空間にいても、手を伸ばしても届かない場所に立っているようだった。岡田が出口の方へ歩き出す。晴臣は、その背に声をかけた。「…課長、ちょっといいですか」岡田が振り向く。少し驚いたように目を細め、笑みを浮かべた。「なんや、真面目な顔して。説教か?」「そうじゃないです。…話がしたくて」「話?」「はい。少しだけでいいので」岡田は一瞬、逡巡した。けれど晴臣の表情に冗談の余地がないことを悟ったのか、小さく息を吐いて頷いた。「わかった。…給湯室でええか。ここやと人の目あるしな」二人は並んで給湯室へ向かった。夜のオフィスは広すぎるほど静かで、廊下の先にある蛍光灯の明かりが遠く見えた。足音が重なり、すぐにずれていく。そのわずかなずれが、晴臣の胸に痛く響いた。給湯室のドアを閉めると、世界の音が消えた。代わりに、給湯器のモーターが低く唸る音が、一定のリズムで流れ続けている。二人の息遣いだけが、その音に交ざっていた。岡田が壁際にもたれた。腕を組み、いつもの軽い調子で言う。「で、話って?」晴臣は少し唇を噛んだ。言葉を選ぶ時間を稼ごうとしたが、選べるほど冷静ではなかった。「課長、俺…

  • そのネクタイ、俺が直してもいいですか?~ズボラな課長のくせに、惚れさせるなんて反則だ。   54.職場の空気、いつもの課長

    オフィスの空気は、いつものように少し乾いていた。湿り気を帯びた朝の空とは打って変わって、室内の温度と照明は人工的に整えられている。晴臣が出社したのは、始業の三十分前だった。誰もいないデスクが並ぶ静かなフロアに、彼の革靴の音だけが響いた。自席につき、ノートパソコンを立ち上げる。ログイン音が鳴り、メールが一斉に受信されるその瞬間が、切り替えの合図だといつも思っている。けれど今朝は、電源ボタンを押す手に、わずかに力が入っていた。岡田は少し遅れてやってきた。姿が見えた瞬間、晴臣の心臓がひとつ跳ねた。けれど、それはどうしようもない反応でしかなかった。岡田は昨日と同じように、ネクタイをわずかに曲げたままの姿で現れた。ジャケットの肩には鞄の跡がくっきりと残っている。いつもどおりの「だらしない課長」の出勤風景だ。「おはようございます」晴臣が声をかけると、岡田は片手を軽くあげて応じた。「おー、おはようさん。なんか暑ない?このフロア、空調壊れてへん?」冗談まじりに首元を指で掻きながら、岡田は席に着く。モニターの電源を入れて、コーヒーの紙カップをデスクに置いた。まるで、何もなかったかのように。そう感じたのは晴臣の方で、岡田はきっと、意識して“いつもどおり”を演じているわけではないのだろう。けれど、その無意識が残酷だった。昨夜、確かに触れ合った。岡田の震える声も、目の端ににじんだ涙も、何ひとつ幻ではなかった。なのに今、その全てが、ビジネスメールの山と、紙カップのコーヒーの下に塗りつぶされていく。キーボードに向かう晴臣の指が、ほんの一瞬、止まった。画面の端に、自分の映った姿がある。黒いディスプレイに反射した、目元の影。寝不足のせいだろうか、頬の下がり方に、どこか疲れた色が見えた。「岡田課長、週末、また例の飲み会、ありますけど。行きます?」不意に、斜め向かいの田島の声が上がった。岡田は椅子を回して、身体ごとそちらを向く。「

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status