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第6話

Author: 苺タルト
澪奈は、腕に残る青紫の注射痕を押さえながら、壁に沿ってそろりと移動した。顔は死人のように蒼く、一歩ごとに倒れそうになる。通りかかった看護師が駆け寄ってきて言う。

「休んで行かれますか?」

彼女は首を振った。

「大丈夫、ありがとう」

看護師が背を向けた途端、低いざわめきが耳に入ってきた。

「さっき早瀬さんが目を覚ましたとき、彼氏が医局に飛び込んで来て、もう慌てふためいてたらしいよ!」

「そうそう、あんなに血を抜いたのにまだ付き添ってるなんて、すごい入れ込みようだわ!」

澪奈は唇に冷い嘲りを浮かべ、角を曲がろうとしたところで、保温容器を提げた颯真とぶつかった。そっとすれ違おうとしたのに、手首をぎゅっと掴まれる。

「栄養の補給だよ」

颯真は保温容器を差し出し、施しでもするような口ぶりで言った。「お前が美桜を傷つけたにせよ、救ったにせよ……その埋め合わせだ」

「埋め合わせ?」

澪奈は手を振り払うと、熱々のスープが床にこぼれた。

彼女は颯真をじっと見据え、目に嫌悪を満たした。

「あなたの差し出すものは汚らわしい。気持ちが悪いの」

すると背後から、美桜の怯えた声が聞こえた。

「颯真、久遠さん……」

颯真はすぐに手を離し、数歩で美桜のもとへ駆け寄る。声は急に柔らかくなった。

「どうしてベッドから出てきたんだ?医者は安静にしろって言ってただろう?」

「久遠さんにお礼がしたくて……」

目を真っ赤にして、美桜は言い終わると勢いよく跪き、声は嗚咽交じりになった。

「久遠さん……あなたがまだ私を恨んでいるのは分かっています。だからわざとじゃなくても、私がぶつかられることになって……でも、颯真は言ったんです、あなたがまた――」

「黙れ!」

澪奈は振り向き、刃のような視線を投げた。

「本当にあんたをぶつけようと思ってたら、今ごろあんたもう霊安室にいるはずよ!そんな嘘を信じるのは、あの馬鹿くらいのものだわ」

その言葉は颯真の顔を青ざめさせた。澪奈は振り返ることなく、その場を去った。

……

その後数日、澪奈は二人の顔を見ずに済んだ。いい機会とばかりに荷物を整え、ふと箱の中から皇都から灯川市への航空券の束を取り出して凍りついた。

以前、颯真はよく言っていた――「チケットが一枚増えるたびに、俺たちの愛も一枚増えるんだ」と。今その言葉を見ると、皮肉しか湧いてこなかった。

ライターを取り出し、最初の一枚に火をつけようとしたそのとき、扉が勢いよく開いた。颯真がチケットの山を見て嗤う。

「まだそういうものを取っておくなんて、意外と昔を引きずるんだね。そんな役に立たない物まで残して」

澪奈の胸に鋭い痛みが走り、彼女は思い切って全部のチケットを火の中に投げ入れた。

炎が跳ね上がり、過去を一瞬で焼き尽くす。颯真の垂れた手がきつく握られ、低い声で言った。

「美桜は山に行って気分を変えたいって。お前も一緒に来るんだ」

「私があなたたちと行くとでも?」澪奈は冷笑した。

「お前の意思なんか関係ない」颯真は前へ出て彼女の手首をつかみ、強引に車に押し込んだ。

助手席の美桜は振り返り、作り笑いで席を差し出す。

「久遠さん、前に座りませんか?」

「結構です、あなたが座ればいい」

颯真は美桜の手を強く握りしめ、その表情には溺れるような愛が隠しようもなく滲んでいる。

車は一時間余り走り、前の二人は公然と愛を見せつけるかのようにふるまった。

澪奈は胸が塞がるような思いで、目的地に着くと真っ直ぐ山頂へ向かった。

ここはかつて自分と颯真が来た場所で、頂上には二人で結んだ願いの南京錠が残っているはずだった。

到着すると、美桜と颯真が寄り添って願い事の短冊を書き、甘い笑顔を交わしているのが見えた。

澪奈は記憶を頼りに自分たちの南京錠を探し、石を拾うと、力いっぱい叩きつけた。

カチッ!

錠は真っ二つに割れ、澪奈は割れた南京錠を手に取ると、そのまま崖の下へ投げ捨てた。

「久遠さん、どうして壊しました?」美桜は驚いたふりをした。

頬に冷たい感情を宿して颯真が後ろに立っている。

澪奈は冷たく言った。

「ただの見苦しい物よ。そこにあるだけで目障りだから」

そう言い残し、彼女は下山しようと振り向いた。すると美桜が突然口を開く。

「久遠さん、西側から下りませんか?あそこ、まだ道が整備されてないって聞いたけど、きっと面白いですよ!颯真、どう思う?」

「いいよ」

颯真は美桜の髪を撫で、言うとおりに澪奈を引っ張って西側の道へ進ませた。

颯真は美桜を背負い、雑草を避けながら気を配っている。澪奈は虫に刺された腕が真っ赤に腫れ、長袖長ズボンでも痒みを止められなかったが、前へ進むしかなかった。美桜は作り笑いで促す。

「颯真、久遠さんを少し背負ってあげたら?」

「まだ体調が万全じゃないんだから、余計な心配はするなよ」颯真は即座に断った。

澪奈は苦い笑みを漏らし、歯を食いしばって歩き続けた。約一時間ほど歩いたところで、空が暗くなり、遠くで雷鳴が轟いたかと思うと、豆粒のような大粒の雨が一斉に降り始めた。

颯真は慌てて美桜を背負い、大きな岩の陰に身を寄せた。澪奈もそちらへ移動する。

美桜は颯真の胸に縮まり、震える声で言った。

「颯真、こんなに降ったら戻れないんじゃないかな?」

「心配するな、俺がいるから」

颯真は美桜の髪を撫で、「ここで待ってて。ちょっと助けを探してくる、すぐ戻るから」と言い残し、茫々たる雨の中へ飛び込んでいった。

颯真の姿が雨のとばりに消えるや否や、美桜の顔から怯えは一掃され、代わりに冷たい悪意が浮かんだ。

彼女は澪奈をじっと見つめ、唇に薄く笑みをたたえた。

「久遠澪奈、今日――あんた、生きてここを下りられると思う?」

澪奈の瞳は一瞬縮み、後ずさった。全身に警戒心が満ちる。

「何を企んでいるの?」

美桜は鼻で笑ったように答える。「企んでるって……私たちがのんびり散策に来たとでも思ってたの?今日はあんたを――消す日なの」

その言葉が落ちると、草むらの中から黒い服の男二人が飛び出してきて、澪奈の腕を捕え、一気に崖の縁まで引きずり寄せた。

崖の下には鬱蒼とした樹木が密生し、底が見えない。落ちれば取り返しがつかない。

「離して!離してよ!」

澪奈は必死にもがき、顔はみるみる蒼白になった。

美桜はゆっくりと歩み寄り、足を踏み込み、思い切り澪奈の背中を踏みつけた。力は尋常でなく、息が詰まりそうになる。

彼女は身を屈めて澪奈の耳元に囁いた。

「久遠澪奈、安心して。颯真のことは、これから私が引き受けるわ。彼はもう私だけを大事にするから。

あんたは――下に行って、先に死んだご両親のところへ行きなさいよ!」

そう言い終えると、美桜は足を振り上げ、澪奈の腰に強烈な蹴りを入れた。

澪奈の身体は一瞬で均衡を失い、糸の切れた凧のように崖下へと落ちていった。数秒後、その姿は濃密な林の中に消えた。

美桜は得意げに口元を歪め、振り返る。すると颯真が雨を切り裂いて駆けてくるのが見えた。

彼女はためらうことなく懐から折りたたんだ果物ナイフを取り出し、自らの腹部へ躊躇なく刺した。

鮮血が一気に噴き出し、彼女は傷口を押さえながら、泣き叫んで地に倒れ込んだ。

「美桜!どうしたんだ!」颯真は駆け寄り、その傷を見て瞳を見開く。

周囲を素早く見渡しながら慌てて尋ねた。

「澪奈は?」

美桜は颯真の胸に凭れ、雨と涙で頬を濡らしながら、虚ろで悲しげな声を絞り出した。

「颯真、さっき急に人が出てきて、久遠さんを連れ去ったの……

行く間際に……久遠さんが私を刺して……『絶対に許さない』って……そう言ったの……」

颯真は「澪奈が連れ去られた」と聞くと、ぎゅっと力の入った肩の張りがほんの少し緩んだように見え、焦りの色が薄らいだ。彼は美桜を横抱きにして言った。

「心配するな、救援を見つけた!今すぐお前を下まで連れて行く!」

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