LOGIN婚姻届を提出したその日―― 久遠澪奈(くおん れいな)が婚姻届を黒瀬颯真(くろせ そうま)に差し出した瞬間、彼のスマートフォンが鳴り響いた。 通話を終えたときには、颯真の笑みは跡形もなく消えていた。 電話を切った彼は、申し訳なさそうに澪奈の手を握りしめる。 「澪奈……待っていてくれ。今度こそ、俺たちの両親を殺した奴らを見つけ出し、必ず血の報いを受けさせてやる」 澪奈は、こんな言葉のあとに待ち受けている運命を、想像すらしていなかった。 三か月後、彼女のもとを訪ねてきたのは颯真の上司だった。 差し出されたのは、弔慰金と「殉職」の通知書。 「久遠さん……颯真は任務中に襲撃を受け、殉職しました。遺体は……確認されていませんでした」 その日を境に、澪奈の世界は音を立てて崩れ落ちた。 重度の鬱に蝕まれ、幾度も死を望むようになった彼女は、ある朝、再び手首を切って意識を失いかける。 ――そのとき、テレビの画面にふいに映ったのは、見間違えるはずのない姿。 市民祭りの「百組カップルイベント」を報じるニュースの中、群衆を映すカメラの先に――颯真がいた。 彼は、隣に立つ女の髪を優しく撫でつけていた。
View More澪奈は颯真の胸に顔を埋め、涙が糸の切れた真珠のように止めどなく頬を伝った。どれほど泣いたのか、自分でも分からない。ようやく手を伸ばして彼を押し離し、赤く腫れた目で言葉を絞り出す。「そんなに簡単に、許してあげると思わないで」颯真の目にぱっと光が宿る。すぐに何度もうなずき、声を弾ませた。「分かった!澪奈が俺を捨てないなら、いつだって待つ。どんなに時間がかかってもいい」澪奈は冷たく鼻を鳴らして背を向ける。けれど耳の先はほんのり赤いままだった。その夜、仁嵩が久しぶりに邸へ戻ってきた。澪奈はソファに座り、抱き枕を握りしめ、視線を何度も彼に向ける。喉元まで出かかった言葉が、何度もそこで消えた。不意に、仁嵩は新聞を置き、視線を上げ、意味ありげに笑う。「彼に会いたいなら行けばいい。俺を気にしてこそこそ見なくていい」澪奈は目を見開いた。「彼がここに来てるって知ってたの?」「俺が付けた護衛が飾りだと思ったのか?」仁嵩は眉を上げ、少し呆れたように言う。「初日にもう見つけてた。ただお前には黙っていただけだ」澪奈は唇を噛み、胸に罪悪感が込み上げる。「叔父さん……ごめんなさい、あのときは――」「謝るな」仁嵩は彼女の言葉を遮り、そっと頭を撫でた。「澪奈、自分を追い詰めるな。俺が『関わらない』と言ったのは怒りに任せただけだ。辛くなったら、彼を離れたいと思ったら、いつでも来い。俺はいつでもお前を守る」少し間を置き、誤解を恐れるように言葉を足す。「お前の父に命を救われた。お前を守るのは、俺にとって当然のことだ」澪奈の目が瞬く間に赤くなり、震える声で「ありがとう」と呟き、部屋へ駆け込む。ドアを閉めた途端、携帯が震えた。颯真からのメッセージだった。【澪奈、先に帰国するよ。サプライズを用意して待ってる】画面を見つめる澪奈の口元が自然に緩む。携帯を胸に抱きしめ、その夜は眠れなかった。翌朝早く、荷物をまとめて仁嵩に別れを告げ、急いで帰国の飛行機に乗った。彼女は颯真に帰国日を知らせず、自分からサプライズを仕掛けるつもりだった。だが、扉を開けたその家は、かつての思い出が染み込んでいるはずなのに、ひっそりと静まり返っていた。胸に悪い予感が走り、リビング、寝室、ベランダまで探し回ったが、どこにも彼
突然、澪奈は颯真を思いきり突き放し、真っ赤に染まった目で彼を射抜くように見つめた。「颯真、あんた、『ごめん』の一言で済むと思ってるの?私に負わせたものは、一生かけても返せないわ!」颯真が何か言いかけるより先に、彼女は冷たい声で遮った。「出て行って。もう二度と私の前に現れないで。私がいなければ、あなたは好きに生きられる。もう誰も、あなたの足かせにはならないから」そう言い放つと、彼の血の気が引いた顔をわざと無視し、勢いよく布団を引き寄せ頭までかぶった。余計な視線ひとつ、与える気にもなれなかった。病室に静寂が落ちる。布団の下で微かに震える肩だけが、抑え込んだ感情を漏らしていた。しばらくして、背後で小さくドアが閉まる音がした。澪奈は布団をめくり、空っぽになった病室を見つめた途端、涙が一気に溢れ出した。積み重なった悔しさ、恐怖、そして思いが、この瞬間すべて決壊したのだ。どれほど時間が経ったのか、再びドアが開いた。澪奈は颯真が戻ってきたのだと思い、慌てて涙を拭き、背を向けたまま、まだ嗚咽の残る声で言った。「出て行けって言ったでしょ?なんで戻ってきたの?」「人違いだ」背後から聞こえたのは仁嵩の声だった。澪奈ははっとして、慌てて起き上がり振り返った。病室の中央に立つ、険しい表情の男を見て、気まずそうに口元を引きつらせる。「ごめんなさい……てっきり……」仁嵩は腕を組み、冷たい調子ながらもどこか本気の色を帯びた声で告げる。「久遠澪奈、これが最後のチャンスだ。俺と来るか、それともここに残って颯真と一緒にいるか。これで三度目だ。前の二回、お前は彼を選んだ。今回も同じなら、もう二度とお前には関わらないし、干渉もしない」澪奈は唇を噛み、シーツを握りしめたまま沈黙する。脳裏に颯真が拷問に耐えていた映像、自分が一人で耐えた日々がよぎる。やがて、絞り出すように小さく言った。「あなたと行く」仁嵩は短く「そうか」と答え、声を少し和らげた。「荷物をまとめろ。夜の便だ」その夕方、澪奈はもう颯真の姿を見ることはなかった。空港へ向かう車の中、彼女は窓にもたれ、目は虚ろで胸の奥が鈍く痛んでいた。搭乗直前、何度も何度も振り返り、心の奥底に自分でも認めたくない期待を隠したが、あの懐かしい姿はついに現れなかっ
澪奈は、果てしなく長い眠りに落ちていた気がした。夢の底で、もう一度生を辿り直したかのように。夢の中では、両親の穏やかな笑顔も、颯真のかつての優しさも、そして彼が拷問される惨烈な映像も入り乱れていた。胸を抉るような痛みに突き動かされ、彼女は大きく息を吸い込み、荒く喘ぐ。「久遠澪奈」聞き慣れた声に顔を向けると、仁嵩がベッド脇の椅子に腰掛けていた。目は真っ赤に充血し、いつもの矜持ある姿はなく、どこか荒んで見える。澪奈が呆然としているのを見て、仁嵩の張り詰めた神経がようやく緩んだ。力なく椅子に背を預け、苦笑まじりに口を開く。「全部……思い出したのか?」彼女は一瞬で現実に引き戻され、頬が真っ赤に染まる。記憶をなくしていた間、彼を「お兄さん」と呼び、無防備に頼っていたことが頭をよぎったからだ。仁嵩は眉を上げ、からかうように言う。「記憶が戻った途端、お兄さんって呼んでくれなくなるのか?それとも、やっぱり叔父さんとでも?」「やめてよ!」澪奈は睨み返すが、耳まで熱くなる。仁嵩は低く笑い、からかいを引っ込めて真顔に戻った。「もう大丈夫だ。体に異常がなければ、今夜から庄園に戻って休め」澪奈が返事をする前に、病室の扉から別の声が響いた。「澪奈」颯真が立っていた。顔色は青白く、目の下には濃い影。病室の中で談笑していた二人を見て、心臓に針を刺されたような痛みを覚える。一歩踏み出そうとしても、その足は震え、前へ出られない。あの日、仁嵩に殴り飛ばされながら突きつけられた言葉が蘇る。――彼女はお前と一緒にいて苦しみすぎた。まだ良心が残っているなら、離れろ。確かにその通りだった。黒瀬家と久遠家の結びつきのせいで、澪奈の両親は命を落とし、自分は任務のために死んだと偽り、彼女に「未亡人」の苦しみを背負わせた。さらには美桜の罠に巻き込み、命までも危険にさらした。――幸せを与えたことなど一度もなかった。それでも、諦められない。任務は終わった。もう危険な最前線を離れ、彼女と結婚して共に生きていきたい。「黒瀬さん、出て行ってください。澪奈は休まなきゃならない」仁嵩の声は冷たく、敵意を隠そうともしない。颯真の目は潤み、赤く染まっていた。「澪奈。少しでいい。話をさせてくれ」仁
「黒瀬隊長!匿名の動画が届きました!」警官がタブレットを抱えて駆け込んできた。颯真は飛び上がるように立ち上がり、画面をひったくる。映ったのは、床に泣き崩れる女の姿。その瞬間、瞳孔が収縮し、全身の血が凍りつく。――澪奈!生きていた……!我に返った颯真は、扉へ向かって突進した。「隊長!落ち着いてください!」同僚が腕を掴むが、彼は一振りで振りほどき、怒声を上げる。「離せ!」血走った目、白くなるほど握り締めた拳。「邪魔するな……容赦しねえぞ!」騒ぎを聞きつけ、鷲尾が背後から彼の肩を押さえ込んだ。「颯真!今は行くな!」「行くなだと!?あそこに澪奈がいるんだ!お前には分からない……奴らは何だってやる!」「分かってる!」鷲尾の顔色は沈みきっていた。「だが俺たちはずっと張ってきたんだ。早瀬四郎(はやせ しろう)の一味を根こそぎ捕らえる、その瞬間を!今突っ込めば久遠さんも救えない。お前の命も無駄になる。全部パーだ」颯真の動きが止まる。次の瞬間、熱い雫が頬を伝い、床に落ちた。彼はまるで迷子の子どものように呟く。「澪奈が……生きてる……俺はどうすればいい……どうすれば……」絶望に沈む声のあと、彼は突然制服を脱ぎ捨てた。「お前らを巻き込めない!俺ひとりで行く!命と引き換えにしても、澪奈を取り戻す!」足を踏み出した途端、背後から二人の警官が飛びかかり、冷たい手錠が手首を締め付ける。「……っ!」信じられないという顔で鷲尾を振り返る。「お前は今、冷静じゃない。行動に参加させるわけにはいかない」鷲尾は視線を逸らし、硬い声で言った。「独房で頭を冷やせ。理性を取り戻してからだ」「だめ!放せ!澪奈がひとりで怯えてるんだ……俺が行かないと……!」絶叫はやがて嗚咽に変わり、力は抜けていった。……地下室の片隅で、澪奈は膝を抱えて震えていた。何も食べず、何も飲まず、魂を失った抜け殻のように。彼女は膝に顎をうずめ、わずかな温もりにすがろうとした。だが身体は、なお冷えに打たれ、細かく震えていた。脳裏には映像が繰り返し蘇る。鎖骨を貫かれる颯真の耐え忍ぶ横顔、煮えたぎる油に押し込まれる手、そして断片的に浮かぶ微笑みの記憶。澪奈には理由が分からなかった。ただその名
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