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その後、残されたのは沈黙だけ

その後、残されたのは沈黙だけ

By:  苺タルトCompleted
Language: Japanese
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婚姻届を提出したその日―― 久遠澪奈(くおん れいな)が婚姻届を黒瀬颯真(くろせ そうま)に差し出した瞬間、彼のスマートフォンが鳴り響いた。 通話を終えたときには、颯真の笑みは跡形もなく消えていた。 電話を切った彼は、申し訳なさそうに澪奈の手を握りしめる。 「澪奈……待っていてくれ。今度こそ、俺たちの両親を殺した奴らを見つけ出し、必ず血の報いを受けさせてやる」 澪奈は、こんな言葉のあとに待ち受けている運命を、想像すらしていなかった。 三か月後、彼女のもとを訪ねてきたのは颯真の上司だった。 差し出されたのは、弔慰金と「殉職」の通知書。 「久遠さん……颯真は任務中に襲撃を受け、殉職しました。遺体は……確認されていませんでした」 その日を境に、澪奈の世界は音を立てて崩れ落ちた。 重度の鬱に蝕まれ、幾度も死を望むようになった彼女は、ある朝、再び手首を切って意識を失いかける。 ――そのとき、テレビの画面にふいに映ったのは、見間違えるはずのない姿。 市民祭りの「百組カップルイベント」を報じるニュースの中、群衆を映すカメラの先に――颯真がいた。 彼は、隣に立つ女の髪を優しく撫でつけていた。

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Chapter 1

第1話

婚姻届を提出したその日――

久遠澪奈(くおん れいな)が婚姻届を黒瀬颯真(くろせ そうま)に差し出した瞬間、彼のスマートフォンが鳴り響いた。

通話を終えたときには、颯真の笑みは跡形もなく消えていた。

電話を切った彼は、申し訳なさそうに澪奈の手を握りしめる。

「澪奈……待っていてくれ。今度こそ、俺たちの両親を殺した奴らを見つけ出し、必ず血の報いを受けさせてやる」

澪奈は、こんな言葉のあとに待ち受けている運命を、想像すらしていなかった。

三か月後、彼女のもとを訪ねてきたのは颯真の上司だった。

差し出されたのは、弔慰金と「殉職」の通知書。

「久遠さん……颯真は任務中に襲撃を受け、殉職しました。遺体は……確認されていませんでした」

鷲尾剛司(わしお たけし)隊長の声は、押し殺すように重かった。

通知書に貼られた写真の中で、颯真はまだ少年のように笑っていた。

その日を境に、澪奈の世界は音を立てて崩れ去った。

重度の鬱は蔦のように絡みつき、昼は目を開ける力すらなく、夜になれば悪夢に引きずり込まれる。

夢の中、全身血まみれの颯真が手を差し伸べる。

「澪奈……もう、待つな」

ある朝、澪奈はソファに横たわり、再び手首に傷を刻んだ。

血の気が引く意識の中、テレビの画面に映ったのは――見間違えるはずのない人影。

彼女は目を大きく見開き、息をすることさえ忘れていた。

市民祭り「百組カップルイベント」のニュース。

群衆の片隅を映すカメラの先に、白いシャツを着た颯真がいた。

彼は、白いワンピースの少女の裾についた落ち葉を、穏やかに払い落としていた。

刃物が「カラン」と床に落ちる。

澪奈は血の滴る手首も構わず、よろめきながら外へ飛び出し、警察署へ駆け込んだ。

「彼……生きてるんですよね?」

鷲尾の袖を掴み、震える声で叫ぶ。

「見たんです!颯真を!あの女と一緒に!」

鷲尾は目を逸らし、深く息を吐いた。

「颯真は確かに生きている。任務中に敵に捕らわれ、救出されたときは重傷だった。目を覚ますなり、警察を辞めると願い出て……お前には黙っておけと。理由は……言わなかった」

澪奈は胃の奥がひっくり返るような吐き気に襲われ、署を飛び出した。

気づけば、両親の墓前に立っていた。

墓碑に刻まれた笑顔を見つめ、長く堪えてきた嗚咽が一気にこぼれ出る。

胸元のペアネックレスが外れ、パリンと石段に落ち、真っ二つに砕けた。

中からこぼれたのは、一枚の写真。

十八歳の夏、皇都大学の合格通知を掲げ、澪奈と颯真が笑い合う姿だった。

その記憶は、容赦なく蘇る。

あの年、颯真の両親は麻薬捜査官だった。

身元が漏れ、報復に遭い、祝賀の席へ向かう途中に待ち伏せされ、澪奈の両親も共に命を落とした。

犯人の写真が報道された瞬間、颯真は涙で顔を歪め、その場で皇都大学の合格通知を引き裂いた。

「もう一度受験して警察官になる。必ず俺の手で奴らを捕まえる」

その日から、颯真は澪奈を命のように守る存在となった。

生理痛で返信できなかったとき、彼は夜通し飛行機で灯川市から皇都まで駆けつけ、学寮の下で真っ赤な目をして立ち尽くしていた。

「澪奈……俺にはもう、お前しかいない」

だが今、彼は生きていて、仇の娘の傍らにいる。

「殉職」という嘘で澪奈を三年も地獄に縛りつけて。

澪奈は手首に重なる傷跡を見下ろし、笑みをこぼす。

涙は止まらないまま。

――黒瀬颯真。そんな別れを望むなら、私たちはもう、完全に終わりだ。

彼女は携帯を取り出し、海外へ電話をかけた。

父から存在だけを聞かされていた叔父、桐原仁嵩(きりはら たかし)へ。

「叔父さん……私、そちらへ行きたい。ビザを手配してくれる?それと……戸籍も抹消したい」

それは三度目の連絡だった。

一度目は大学一年のとき、仁嵩が迎えを提案した。

二度目は颯真が「殉職」した年、「海外でやり直せる」と誘われた。

どちらも澪奈は颯真のために拒んだ。

――だが、もうここにはいたくない。

「分かった。荷物をまとめておけ。一週間以内に迎えに行く」

電話を切った直後、スマホに見慣れた番号が表示された。

黒瀬颯真――

澪奈の心臓は強く跳ねた。

彼は生きていて、番号さえ変えていなかった。

繋がらなかったのは――彼が応じなかった、それだけのこと。

彼女は目を真っ赤にして通話ボタンを押した。受話器の向こうは、ただ静寂だけが広がっていた。

数秒後、あちらからひとつため息が漏れ、かつてと変わらぬ声が響いた――

「澪奈。会おう」

彼女が拒もうとした矢先、相手が先に口を開いた。

久しく聞かなかった弱気な響きを帯びた声で――

「澪奈……会いたかった」

その一言は針のように、彼女の張り巡らせた仮面をすべて突き破った。

記憶の中――

颯真が初めて任務で怪我を負ったとき、澪奈は拗ねて口をきかなかった。

すると彼は彼女を抱きしめ、声を和らげて宥めた。

「澪奈、怒るなよ。もう二度とお前を困らせたりしないから」

澪奈は唇を血がにじむほど噛みしめ、結局は小さく「うん」と応じた。

「澪奈、今どこにいる?迎えに行く」

彼女は墓碑に刻まれた両親の笑顔を見つめ、かすかに声を落とした。

「両親のお墓にいるの」

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第1話
婚姻届を提出したその日――久遠澪奈(くおん れいな)が婚姻届を黒瀬颯真(くろせ そうま)に差し出した瞬間、彼のスマートフォンが鳴り響いた。通話を終えたときには、颯真の笑みは跡形もなく消えていた。電話を切った彼は、申し訳なさそうに澪奈の手を握りしめる。「澪奈……待っていてくれ。今度こそ、俺たちの両親を殺した奴らを見つけ出し、必ず血の報いを受けさせてやる」澪奈は、こんな言葉のあとに待ち受けている運命を、想像すらしていなかった。三か月後、彼女のもとを訪ねてきたのは颯真の上司だった。差し出されたのは、弔慰金と「殉職」の通知書。「久遠さん……颯真は任務中に襲撃を受け、殉職しました。遺体は……確認されていませんでした」鷲尾剛司(わしお たけし)隊長の声は、押し殺すように重かった。通知書に貼られた写真の中で、颯真はまだ少年のように笑っていた。その日を境に、澪奈の世界は音を立てて崩れ去った。重度の鬱は蔦のように絡みつき、昼は目を開ける力すらなく、夜になれば悪夢に引きずり込まれる。夢の中、全身血まみれの颯真が手を差し伸べる。「澪奈……もう、待つな」ある朝、澪奈はソファに横たわり、再び手首に傷を刻んだ。血の気が引く意識の中、テレビの画面に映ったのは――見間違えるはずのない人影。彼女は目を大きく見開き、息をすることさえ忘れていた。市民祭り「百組カップルイベント」のニュース。群衆の片隅を映すカメラの先に、白いシャツを着た颯真がいた。彼は、白いワンピースの少女の裾についた落ち葉を、穏やかに払い落としていた。刃物が「カラン」と床に落ちる。澪奈は血の滴る手首も構わず、よろめきながら外へ飛び出し、警察署へ駆け込んだ。「彼……生きてるんですよね?」鷲尾の袖を掴み、震える声で叫ぶ。「見たんです!颯真を!あの女と一緒に!」鷲尾は目を逸らし、深く息を吐いた。「颯真は確かに生きている。任務中に敵に捕らわれ、救出されたときは重傷だった。目を覚ますなり、警察を辞めると願い出て……お前には黙っておけと。理由は……言わなかった」澪奈は胃の奥がひっくり返るような吐き気に襲われ、署を飛び出した。気づけば、両親の墓前に立っていた。墓碑に刻まれた笑顔を見つめ、長く堪えてきた嗚咽が一気にこぼれ出る。胸元
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第2話
どれほど待ったのか分からない。背後からクラクションが鳴り響いた。澪奈は深く息を吸い、ゆっくりと振り返った。だが、最初に目に入ったのは颯真の隣に立つ女だった。白いワンピースに長い髪――ニュースで見た、あの女だ。拳が思わず強く握りしめられ、胸の奥が抑えきれずに痛んだ。颯真は彼女の前に歩み寄り、抱きしめようと手を伸ばしたが、澪奈は身をかわして避けた。一瞬だけ彼の顔がこわばり、すぐに隣の女を指さし、紹介する。「澪奈、こちらは早瀬美桜(はやせ みお)。お前に話があるそうだ」美桜は目を赤く潤ませて前に出た。「久遠さん……何を言っても許されないのは分かっています。でも、それでも……あなたとご両親に謝りたいんです」澪奈の表情はみるみる沈み込み、目は血の涙をたたえたように真っ赤に染まる。声には鋭い怒気がにじんだ。「出ていけ!ここは両親の墓よ、汚さないで!」美桜は声に押されて一歩退き、涙をさらにこぼす。颯真が口を開こうとしたが、美桜が遮った。「颯真さん、少し席を外して。私、久遠さんと二人で話したいの」颯真の目元が途端に柔らかくなり、うなずいた。「分かった。何かあれば呼んで」澪奈の心臓は握り潰されるように痛み、視界が一瞬暗くなる。颯真が去ると、美桜の涙は跡形もなく消え、眼差しは氷のように冷たく変わった。「思ったより普通ね。颯真がかつて好きだった相手って……ただのあなた?」嘲るように舌打ちし、腕を組んで続ける。「でも今、彼が好きなのは私。あなたたちの仇の娘なのよ。どう?久遠さん、驚いた?」パシンッ!鋭い平手の音が空気を裂き、美桜の言葉を遮った。澪奈の手は宙に残り、怒りに全身が震える。「颯真が汚らわしいなら、あんたも同じよ!いつか必ず報いを受ける!」美桜は顔を押さえて見上げ、怨嗟を込めた視線を向けた。反撃してくるかと思ったその瞬間、彼女は地面に膝をつき、墓碑に頭を打ち付けはじめた。「久遠さん、私が悪かった!償います、死んでもかまわない!どうか許してください!」背後で物音がし、颯真が駆け寄ってきた。美桜の額から血が滲むのを見た瞬間、彼の表情は凍りつき、澪奈を睨みつける視線は獣のように鋭くなった。「澪奈!あのとき美桜は国外にいたんだ!両親が何をしたかなんて知るはずがない!い
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第3話
澪奈が目を覚ましたとき、病室には誰もいなかった。後頭部の傷は手当てされていたが、痛みは骨の奥まで沁みるように鋭く残っている。「動かないでください!」看護師が治療用のトレーを抱えて入ってきた。「まずは包帯を替えますね」澪奈はうなずき、ふと尋ねた。「私、どうやって病院に?」「墓地の管理人さんが救急車を呼んでくれましたのよ」胸の奥が鋭く突かれるように痛んだが、澪奈は不思議と当然だと思った。――彼が自分を気にかけるはずなどないのだから。包帯を替え終えた看護師は「しばらく安静に」と言い残し、部屋を出ていった。澪奈はベッドに横たわったが、眠気は一向に訪れない。そのとき、ドアの外から看護師たちの世間話が聞こえてきた。「早瀬美桜さんって幸せよね。あんなに格好よくて優しい彼氏、彼女のために心配して……」「本当よ、あんなふうに気遣われたら羨ましいわ」澪奈はシーツを握りしめ、無意識に過去を思い出した。自分が病気になったとき、颯真は眉をひそめてこう言った。「澪奈、代わってやれるものなら代わってやりたい」翌日、彼は自分で冷水に浸かり、発熱して「お前と一緒に感じたかった」と笑ってみせた。その優しさは、もう自分には向けられない――うとうとしたまま澪奈は再び眠りに落ちた。再び目を開けると、颯真がベッドの脇に座っていた。その目は冷たく澪奈を見下ろし、低く告げる。「澪奈、美桜に謝ってくれ」「何だって?」聞き間違いかと思い、澪奈は冷ややかに笑った。「殺人犯の娘に、私が謝れって?」「彼女は殺人犯じゃない!」颯真の眉目は険しい。「両親が何をしていたか、彼女は知らなかった。無関係なんだ。俺が捕まったとき、命の危険から救い出してくれたのは彼女だ。看病して、少しずつ逃げ道を作ってくれた」語るうちに、彼の瞳には懐かしさが滲んでいた。胸の奥が針で無数に刺されるような痛みに襲われ、澪奈は目の縁を赤くしながら震える声で言った。「どうして彼女は何事もなく生きていて、私は抜け殻みたいに生きてるの?あなたのために、私は死にかけたのよ!」だが颯真の顔色は変わらない。まるで他人事のように淡々と告げた。「美桜の両親はもう死んだ。仇は討たれた。もう終わりにしよう」「終われない!」澪奈は
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第4話
澪奈が目を覚ましたとき、スマホの画面には叔父・仁嵩から届いたビザの写真が表示されていた。添えられたメッセージには、こうあった。【新しいパスポートを手に入れるには、まだ数日かかる。待っていなさい】返信しようとした瞬間、病室の扉が勢いよく開かれた。颯真が携帯を握りしめ、冷たい眼差しで立っていた。その瞳には、澪奈には理解できない色が宿っている。「戸籍を抹消して、何をするつもりだ」澪奈は一瞬言葉を失う。昔、彼は「お前は大事なことを見落とすから」と言って、通知を自分の番号に転送していた。まさか、こんなやり取りまで彼の携帯に届くとは。唇を引き上げ、自嘲気味に言う。「まだ通知が届くんだ?」彼が「殉職」したと聞かされたあの日から、澪奈は何度もメッセージを送り、何度も電話をかけた。奇跡を祈り続けたのに、返ってきたのは沈黙だけ。その記憶が胸を抉り、痛みが甦る。颯真はわずかに顔をこわばらせたが、すぐに平静を装い、視線を逸らした。「抹消でも何でもいい。新しい身分で、生き直せ」そう言い残し、踵を返す。だが扉の前で足を止め、振り返った彼の声には鋭い警告が混じっていた。「美桜は一度、死んだも同然の経験をした。二度と彼女の前に現れるな。刺激するな」去っていく背中を見つめながら、澪奈は笑い出した。笑いながら、涙が溢れて止まらなかった。どれほど時間が経ったのか。ベッドから立ち上がり、出口に向かったところで、美桜と鉢合わせた。彼女の姿は病人らしさなど微塵もなく、髪の毛一本乱れていない。その視線は毒を含み、澪奈を射抜いた。「久遠澪奈……まさか本当に飛び降りるなんて、度胸があるわね」澪奈は唇を歪め、冷たく答える。「人を殺したなら、命で償うのが道理。惜しむらくは……下にエアマットがあったせいで、あんたが死ななかったこと」美桜は鼻で笑い、声に嘲りを滲ませる。「だから何?私が死んでも、あんたの愛した男は私と一緒に逝く。結局、取り残されるのはあんただけ。孤独な亡霊としてね」「孤独な亡霊でも、殺人犯よりはましよ!」澪奈は指先を震わせ、怒声を放った。パシン!頬に衝撃。美桜は突然、澪奈の頬を打ち据え、顔をぐっと近づけた。そして、毒を含んだ声を囁く。「殺人犯だろうと何だろうと、私は平然
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第5話
その夜、澪奈は住まいに戻るや否や、高熱にうなされた。喉は炎に焼かれるように痛み、寝返りを打ちながら手探りで枕元のコップを探す。だが指先が弾き飛ばし、床に「ガシャリ」と割れた音が響いた。必死に身を起こそうとしたそのとき――骨ばった大きな手が、温かな水を差し出した。顔を上げた澪奈は凍りつく。「颯真?」ここにいるはずがない彼の姿。現実か幻か、判別がつかなくなる。ベッドの縁に腰掛けた颯真は、かつてと変わらぬ柔らかさで彼女の髪を撫で、囁いた。「澪奈……これからは、自分でちゃんと生きていけるようにしてくれ」その声が、張り詰めていた糸を断ち切る。澪奈の目から涙が一気に溢れ出した。積もり積もった恨みと哀しみが爆発するように、拳で彼の胸を叩く。「いらないって言ったくせに、なぜ戻ってくるの!あんたが死んだと聞いて、私は気が狂いそうだったのよ!鬱になったのよ!なのに……あんな言葉で私を罵って!颯真、私はあんたが憎い、大嫌い!もう二度と愛さない!出ていって!」颯真の目が赤く滲む。彼はされるがままに彼女を抱き締め、繰り返す。「澪奈……すまない、すまない……」涙に濡れ、体力を使い果たした澪奈は、嗚咽しながら彼の胸に崩れ落ちる。彼は強く抱き寄せ、熱を帯びた彼女の額に指先を触れさせる。その声はかすかに掠れていた。「澪奈……生きろ。ちゃんと生きるんだ。生きろ……」澪奈ははっと目を開けた。――そこに誰もいない。床には砕けたガラス片だけが残り、静まり返った部屋。自嘲の笑みが浮かぶ。立ち上がろうとした瞬間、寝室の扉が乱暴に開かれた。怒号が叩きつけられる。「久遠澪奈!美桜に何をした!」颯真が立っていた。怒りに燃える眼差し。澪奈は一瞬呆然とし、次いで枕を掴んで投げつけた。「出て行け!」身をかわした颯真は彼女の顎を強く掴み、低く唸る。「昨夜、美桜は交通事故に遭った。まだ生死の境をさまよっている……お前の仕業か!」顎を押さえつけられ、涙が勝手に零れ落ちる。だが言葉を挟む間もなく、彼の携帯が鳴り響いた。受け取った報告に表情を変えた颯真は、澪奈の手首を乱暴に掴み、引きずるように病院へ向かった。採血室。彼は袖をまくり、椅子に座る。「俺はO型だ。まずは俺から抜
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第6話
澪奈は、腕に残る青紫の注射痕を押さえながら、壁に沿ってそろりと移動した。顔は死人のように蒼く、一歩ごとに倒れそうになる。通りかかった看護師が駆け寄ってきて言う。「休んで行かれますか?」彼女は首を振った。「大丈夫、ありがとう」看護師が背を向けた途端、低いざわめきが耳に入ってきた。「さっき早瀬さんが目を覚ましたとき、彼氏が医局に飛び込んで来て、もう慌てふためいてたらしいよ!」「そうそう、あんなに血を抜いたのにまだ付き添ってるなんて、すごい入れ込みようだわ!」澪奈は唇に冷い嘲りを浮かべ、角を曲がろうとしたところで、保温容器を提げた颯真とぶつかった。そっとすれ違おうとしたのに、手首をぎゅっと掴まれる。「栄養の補給だよ」颯真は保温容器を差し出し、施しでもするような口ぶりで言った。「お前が美桜を傷つけたにせよ、救ったにせよ……その埋め合わせだ」「埋め合わせ?」澪奈は手を振り払うと、熱々のスープが床にこぼれた。彼女は颯真をじっと見据え、目に嫌悪を満たした。「あなたの差し出すものは汚らわしい。気持ちが悪いの」すると背後から、美桜の怯えた声が聞こえた。「颯真、久遠さん……」颯真はすぐに手を離し、数歩で美桜のもとへ駆け寄る。声は急に柔らかくなった。「どうしてベッドから出てきたんだ?医者は安静にしろって言ってただろう?」「久遠さんにお礼がしたくて……」目を真っ赤にして、美桜は言い終わると勢いよく跪き、声は嗚咽交じりになった。「久遠さん……あなたがまだ私を恨んでいるのは分かっています。だからわざとじゃなくても、私がぶつかられることになって……でも、颯真は言ったんです、あなたがまた――」「黙れ!」澪奈は振り向き、刃のような視線を投げた。「本当にあんたをぶつけようと思ってたら、今ごろあんたもう霊安室にいるはずよ!そんな嘘を信じるのは、あの馬鹿くらいのものだわ」その言葉は颯真の顔を青ざめさせた。澪奈は振り返ることなく、その場を去った。……その後数日、澪奈は二人の顔を見ずに済んだ。いい機会とばかりに荷物を整え、ふと箱の中から皇都から灯川市への航空券の束を取り出して凍りついた。以前、颯真はよく言っていた――「チケットが一枚増えるたびに、俺たちの愛も一枚増えるんだ」と。今その言葉を見ると、皮肉し
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第7話
美桜を手術室に送ったあと、颯真の胸が、不意にきゅっと掴まれるように痛んだ。無意識にポケットへ手を伸ばし、使い古しの携帯を取り出す。靴底からはSIMカードを一枚抜き出し、差し込んでデータ通信を開いた途端、画面いっぱいに未読メッセージと着信履歴が溢れ出した。読み込む間もなく、背後から看護師の声が飛ぶ。「早瀬美桜さんのご家族の方、いらっしゃいますか?」颯真は一瞬だけ手を止め、素早くSIMを抜き取り、靴底に戻した。何事もなかったように振り返り、足早に近づく。「俺です」医師は不満げな目を向け、叱責を含んだ声で言った。「命に別状はありませんが、腹腔に軽い癒着があります。今後はご家族としてしっかりケアしてください。もう刺激を与えないように」颯真は何度も頭を下げ、看護師とともに美桜を病室に移した。その夜じゅう、彼はベッド脇を離れず、胸の鈍い痛みは朝まで続いた。翌朝、美桜が目を開けたとき、ようやく少し和らぐ。美桜は目を覚ますなり、颯真の手を握った。声は弱々しい。「颯真……久遠さんのところに、行ってないよね?お願い、もう探さないで。私、わざと刺したわけじゃないの。ただ、まだ怒ってるだけで……」颯真は彼女の額の髪をそっとかき上げた。「大丈夫。頭の中はお前のことでいっぱいで、他の誰かのことなんて考えてない」美桜はそのまま彼の胸に身を預け、目の奥に得意の色を過らせ、顔を上げて甘い声で尋ねる。「颯真、私のこと好き?」颯真は彼女の額に軽く口づけた。「馬鹿だな、これだけ大事にしてるのに分からない?」「じゃあ、結婚しよう」美桜は畳みかけるように、彼の服をぎゅっと握りしめた。颯真の顔色が一瞬で曇る。だが美桜が見上げた瞬間、すぐに口角を持ち上げた。「いいよ」「じゃあ結婚したら、国外に行かない?颯真、もう久遠さんに会わないで。私が負ってたものも、それで全部チャラにするから……」「分かった。ずっと一緒にいよう」颯真は頷きながらも、指先にだけ力をこめた。……その後数日、颯真は片時も離れず美桜に付き添い、「完璧な優しさ」を演じ続けた。美桜は幸せに酔いしれ、心の中で笑う。――久遠澪奈なんて、もう崖下で骨も残っていないはず。颯真はこれから完全に自分のものだ。退院の日、美桜は颯真の手を引いて高級レス
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第8話
颯真は、気を失った美桜をベッドへ乱暴に放ると、踵を返して洗面所へ駆け込んだ。靴底からあのSIMカードを取り出し、携帯のスロットに差し込もうとした刹那――外から微かな物音。心臓が跳ねる。便器に捨てて流そうとしたが、流しきれずに痕跡が残る気がして、手が止まった。逡巡の末、彼はカードを口に押し込み、喉の奥へと無理やり呑み下した。洗面所を出て、美桜がまだ昏々と眠っているのを確かめる。安堵は一瞬だけ。颯真は上着を掴み、澪奈と暮らしていた古いアパートへと一直線に向かった。美桜が手術室に入ってからというもの、理由のない胸の痛み――それが、澪奈の身に起きた「何か」を告げている気がしてならない。自分の目で無事を確かめなければ、呼吸すらままならない。扉を押し開ける。部屋の中央には、黒い灰になった大量の航空券が山を作っているだけだった。膝の奥が抜ける。声を出すのが怖くて、靴音を殺し、一室ずつ灯りを点けて確かめる。寝室、トイレ、浴室――隅の隅まで探しても、彼女の痕跡はどこにもない。いない。――彼の澪奈は、ここにはいない。彼の仲間が澪奈を連れて行ったはずじゃなかったのか?どうして、どこにもいない……?心臓を鷲づかみにされたような痛みに、呼吸さえままならない。階段をよろめき降りかけたとき、隣の部屋の扉が開き、腰の曲がった老婦人が杖を突いて顔を出した。「あら、あんた、澪奈の彼氏じゃないかい。あんた、死んだんじゃなかったのかい?」颯真の足が止まる。「俺を……ご存じで?」「知ってるともね」老婦人は深くため息をついた。「あんたが『殉職』したって話が流れた頃ね、澪奈はあんたの写真を抱いては泣いたり笑ったりで……やがて鬱をこじらせて幻覚まで見るようになったって。ある日なんか、写真を抱えたまま、一軒一軒『この人を見てないか』って回ってね。最後は階段から落っこちて、一週間も入院したよ」言葉を切り、声を落とす。「その後、自分の部屋で手首を切ったってね。見つかるのが遅かったら、もうこの世にいなかったろうよ……傷跡は、見るも無惨だったよ」一語一句が、刃のように胸へ突き立つ。拳が勝手に軋み、目尻が血の色を帯びる。「澪奈はね、可哀想な子だよ。あんた、生きてるなら――今度こそ、ちゃんとしておやり」老婦人は首を振り、きしむ音を立
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第9話
美桜は、ほとんど叫ぶように声を張り上げた。「颯真、この一生、もう二度とあの女に会わせない!」狂気じみた喜悦がその瞳に宿る。だが次の瞬間、ぽろりと涙が落ち、声色が一転して柔らかくなる。「どうして……どうしてなの?私、あなたを救ったのよ。M国の地牢からも助けた。こんなにも愛して、全てを捧げてきたのに……でもあなたは、ずっと私を騙していた!」声は激しさを増していく。「もし今夜、私に従ってくれたら、私はあなたを完全に信じられたのに!なのにあなたは、あの女を探して、私に薬まで盛ろうとした……どうして愛してくれないの?どうして私を見てくれないの?私のどこがあの女に劣るっていうの――ああっ!」悲鳴が途切れ、骨の折れる音が鋭く響いた。颯真の手に掴まれた美桜の手首が、無残に折り曲がっていた。彼は冷ややかな目で彼女を見下ろし、声を氷のように硬くした。「澪奈は澪奈だ。誰も代わりにはなれない。命を救ったからといって、感謝に縋れると思うな。お前の血には最初から毒が刻まれている。洗い落とせるものじゃない」一拍置いて、嘲りの色を帯びた目で続けた。「俺が騙していたとき、お前も俺を試していただろう。澪奈を罠にかけて、俺がどちらを庇うか――気づかないと思ったか?それに、俺が薬を盛ったとき、あらかじめ解毒剤を飲んでいたな。俺が知らないとでも?」美桜は痛みに目を真紅に染め、折れた手首を庇いながら必死でスマホに手を伸ばす。だが、その前に颯真が奪い取り、中から二枚のSIMカードを引き抜くと、容赦なく噛み砕いて飲み込んだ。携帯本体は、バルコニーから夜空へ投げ捨てられる。「早瀬美桜――積み上げた借りは今日ここで精算だ」彼は彼女のもう片方の手首を掴み、引きずるようにして警察署へ向かった。当直の警員に美桜を引き渡すと、その足で鷲尾のオフィスへ入る。「もう、俺の身分は露見した」鷲尾は肩に手を置き、複雑な眼差しを向ける。「颯真……よくやった。この三年、本当に苦労をかけたな。だが今度こそ、早瀬の本当の親を炙り出せる」――三年前の記憶が脳裏を焼いた。M国潜入の任務に就いた直後、内通者の裏切りに遭い、両親を奪った「夫妻」に捕らえられた。地牢で待っていたのは、命を擦り切らせるような拷問――息絶える寸前まで追い詰められた。そ
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第10話
颯真は短く「分かった」と応え、胸ポケットに忍ばせた一枚の写真を指先で軽く押さえた。込み上げる感情を無理やり押し込め、制帽を深く被り直すと、踵を返して歩み出た。――取調室。ガラス越しに見える美桜は、狂ったように机の角を叩きつけていたが、颯真が入ってくるとその動きが止まった。彼をじっと見上げ、口元に冷たい笑みを浮かべる。「へえ、警察の制服も似合うじゃない」颯真は答えず、すぐに背を向けた。その背に、彼女の声が絡みつく。「あんた、私の両親がどこにいるか知りたくない?」足が止まる。美桜はすかさず続けた。「颯真。あんたが私と一緒にいてくれるなら、私があの二人の死体を差し出してあげる。そうすれば、あんたは本当の意味で仇を討てる」瞳孔が細く絞られる。言葉よりも早く、美桜は口角を歪めてにやりと笑った。「私が冷酷だと思う?親さえ殺す女だって?」指先で机の縁をなぞり、ゆっくりと続ける。「でもね、あの二人にとって、私はただの金づるだった。十歳で売春に駆り立てられ、薬の運び屋をやらされた。十七で急に金が転がり込んだら、上流の娘に仕立て上げられ、人脈作りの駒にされた。だから、国外へ逃げたときは、もう戻らないつもりだった。でも……あんたに出会ってしまったの」美桜の声が熱を帯びる。「ただの一目で、心が決まった。あんたとなら残ってもいいって。本気で思えた。私にはたくさんの男がいた。でも、本気で愛したのはあんただけ」潤んだ瞳が縋るように彼を捉える。「だから……お願い。あんたも私を愛してよ。そう言ってくれれば、あの二人を誘き出してあげる」沈黙が取調室を支配する。美桜は唇を噛み、鉄の味を感じても、返事は訪れない。やがて、笑い声と共に涙が零れ落ちた。「結局……やっぱり久遠澪奈なのね。あの女は死んだのよ!死んだんだって!」颯真の声は冷ややかに響く。「俺と澪奈の絆は、お前には分からない」それだけを残し、背を向けて出て行った。背後で机と椅子が倒れる轟音と、美桜の絶叫が響いたが、彼は振り返らなかった。――廊下。鷲尾が険しい顔で駆け寄ってくる。「颯真、動きがあった!奴らが闇市場で高額のお前の首を買っている」声を落とし、提案する。「早瀬美桜の要求を一度飲むふりをして、そこから罠にかけるのはどうだ?」
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