ログイン「有馬社長の相手になってくれ」 五年前、石垣悠馬(いしがき ゆうま)はたった一言で、私、江口七海(えぐち ななみ)に「玩具」としての本分を教え込んだ。 そして五年後、私は彼の結婚式の控室で、化粧ブラシを手に新婦のメイクをしていた。 そのとき、彼は人前で私を鏡に押しつけ、かすれた声で言った。「五年だ……ようやく戻ってきてくれたのか?」 私はゆっくりと口元のマスクを外した。 「石垣さん、お控えください。私はあなたの婚約者様からご依頼を受けた、専属のメイクアップアーティストです。 何しろ、教えてくれたのはあなたご本人ですから。私たちのような『玩具』が一番覚えるべきなのは、ご主人様の結婚式で笑って奉仕することです」
もっと見る株式譲渡を巡る騒動は次第に静まり、悠馬の背中の傷もゆっくりと癒えていった。私たちはまるで廃墟の中を手探りで進む旅人のように、崩れた壁の隙間から互いのもとへと通じる道を探していた。焦って元に戻ろうとはせず、新しい形で向き合うことを学んでいった。彼は定期的にグループの業務報告をしてくれて、その声はいつも冷静で、そして敬意がこもっていた。私は意見を伝え、彼は真剣に耳を傾ける。時々、私は彼のマンションを訪ねて、薬を塗り替えてあげた。指先が彼の背に新しく生まれた淡い桃色の肌に触れる。「痛い?」と、ある時私は尋ねた。彼は顔を横に向け、目の奥に微かな光を宿して言った。「お前が触れるなら、痛くない」そんな不器用な修復の時間の中で、季節は穏やかに流れていった。春が訪れた頃、彼は一つのプライベートアイランドを買い取った。島にある唯一の教会は海に面し、周囲には彼が私のために育てた薄紫のバラが植えられていた。結婚式の日、私は化粧台の前に座り、自ら眉を描き、唇のラインを描き入れ、世界で一番美しい花嫁の化粧を自分の手で仕上げた。鏡の中の女は、もう誰かを喜ばせるためではなく、過去の七海に別れを告げ、新しい自分を迎えるために、まっすぐな目をしている。悠馬はまだ傷が癒えず、車椅子に座っていた。花びらを敷き詰めた通路を私が彼を押して進むと、海風が私のベールを翻し、ゆらりと舞わせ二人の髪を優しく絡み合わせた。神父の前で、彼は立ち上がろうと必死にもがいた。私は彼の肩にそっと手を置き、「動かないで」と囁いた。彼は仰ぎ見るように私を見つめ、目尻を赤く染めながら、震える手でダイヤの指輪を取り出し、待ちわびた五年の時を経て、私の薬指にはめた。「七海……」声は涙に詰まりながらも、それ以上ないほど厳かだった。「俺のような者を、まだ選んでくれて……ありがとう」華やかな式も、長い誓いの言葉もない。ただ波と潮の音だけが、俺たちを見守っていた。新婚の夜、私は彼の隣に横たわった。彼の温かな吐息が、首筋をかすめる。彼は顔を下げ、丁寧で優しく、私に口づけた。その瞳の奥には、深く溶け合う愛情と静かな安堵が宿っていた。彼は低く囁く。「これで、世界中が知ってる。俺はもうお前のものだって」少し間を置き、口元に穏やかな笑みを浮かべながら続
病院での、血と涙にまみれたあの告白は、まるで津波のように私の心の最後の堤防を打ち砕いた。憎しみは消えていった。だが、そこにすぐ愛が押し寄せてきたわけでもなく、どうしていいかわからない切なさだけが残った。彼の背中のやけどは長期の治療と繰り返される手術を必要とし、痛みはもはや日常となった。私は何度か彼を見舞い、黙ってリンゴの皮をむいたり、看護師が彼の痛々しい傷に薬を塗り替えるのを見つめたりした。彼はいつもうつ伏せで、横を向きながら、静かな眼差しで私の動きを追っていた。それは、祈るかのような細やかな慎みに満ちて、もう何も語らず、ただじっと見つめているのだった。やがて、なんとかベッドから起き上がれるようになった彼に、医者は厳しく安静を命じた。けれど、ある朝、彼は姿を消していた。介護士から電話があった瞬間、私はすぐに郊外の墓地を思い浮かべた。そこは、私の両親が眠る場所だ。晩秋の墓地には、落ち葉が幾重にも積もり、一層の寂寥を纏っていた。患者衣の上に、慌ただしく羽織った黒のオーバーコート。彼は冷たい石畳に跪いていた。背中の傷痕が邪魔をしてコートはぴたりと合わず、わずかにふくらみを作っている。寒風が枯れ葉を渦巻かせて、その青白い頰を打った。彼の跪く姿は不安定で、痛みに全身が震え、脂汗がにじみ、唇は紫色を帯びていた。それでも、背筋をぴんと伸ばしていた。まるで最も厳粛な儀式を執り行うかのように。私はゆっくり近づき、彼のかすれた声が繰り返しつぶやくのを聞いた。「おじさん、おばさん、俺は石垣悠馬です。俺が最低なやり方で七海を傷つけた、どうしようもない馬鹿です。俺は五年間も彼女を見失っていて……その間に、散々苦しい思いをさせてしまいました。許してほしいなんて、とても言えません。ただ伝えたかったんです。後悔しています。本当に……心底から後悔しています。五年ぶりに彼女を見つけ出しました。ありとあらゆる手を使って――良いことも、悪いことも、狂ったようなことも……それでも、彼女を取り戻したんです。お願いします……どうか、償う機会をください。この命の限り、罪を贖わせてください……お願いします……彼女を、俺に任せてください……」彼の声は次第に細くなり、詰まりながら、最後にはかすれた息だけが風に混ざって、はっきりと聞き取れ
浩二がもたらした真実は、まるで津波のように押し寄せ、私が五年かけて築き上げた心のバリアを一瞬で打ち砕いた。探し続けた日々の記録や診断書、そして何よりも、結婚式の裏に隠されていた絶望的な真実。それらが一本の見えない糸となり、昼夜を問わず私を締め上げていった。あの夜、私は一人スタジオに残り、未完成のデザイン画をぼんやりと見つめていた。ふと、空気の中に焦げ臭い匂いが立ち込めた。錯覚じゃない!ドアの隙間から濃い煙が流れ込み、鼻を刺すように広がっていく。電気がショートしたのかと思い、すぐにブレーカーを確認しに立ち上がったが、濃い煙にむせて激しく咳き込んだ。火の手はあっという間に広がり、布地やスケッチを次々と巻き込み、パチパチと爆せるような音を立てて燃え上がる。煙と熱気にむせび、咳で視界がかすむ中、絶望が喉を締め上げた。五年間の足掻きを経て、ようやく地盤を固めたばかりなのに、まさかここで終わるのか?意識が遠のいていく中、ガッシャーンという轟音と共に、強化ガラスドアが消防斧で叩き割られた。逆巻く炎と黒煙を背に、ひとりの人影が必死の形相で飛び込んできた。悠馬だ。彼は無防備な顔で煙に焼かれ、目は真っ赤に充血しているのに、一目で私を見つけ出した。「七海!」そのかすれた叫びには、これまで聞いたことのないほどの恐怖が滲んでいた。彼はわずか数歩で駆け寄ると、躊躇いもなく高価なスーツの上着を脱ぎ、さっと私の頭から覆い被せた。濃煙と熱気の大半が遮られた。そして次の瞬間、彼は私を力いっぱい胸に抱き寄せ、自分の背中全体で荒れ狂う炎を受け止めた。押し殺したようなうめき声が耳に届いた。それでも彼は、鉄壁の盾のごとく私を覆い、灼熱の気流がその背中を焼き焦がしていった。彼は机の上の、私が命より大切にしていたメイクパレットを見つけると、歯を食いしばり、それを腕に抱え込むようにして体で覆った。「行くぞ!」彼は私を抱えるように、引きずるように、自らが切り開いた逃げ道へよろめきながら突き進んだ。火の海を抜け出した瞬間、彼はぐったりと倒れ込んだが、それでもなおメイクパレットをしっかりと抱えていた。背中のシャツは焼け落ち、爛れた皮肉に張り付き、無残な有様だった。彼は担架に乗せられ、最後の力を振り絞って私の手首をつかみ
浩二が私のもとを訪ねてきたあの夜、彼からはいつもの軽薄さが消えていた。黒一色のシンプルな服装に、顔には見たことのないほどの厳しい表情。挨拶もなく、彼は分厚いクラフト紙の封筒をテーブルの上に置いた。「江口さん、俺は懺悔に来た。五年前のあのギャンブルの夜、俺たち全員が沈黙したことについて」胸の奥がわずかに沈み、私は黙って続きを待った。「悠馬のバカは、お前を深く傷つけた。どんな罰を受けても足りない。だが、お前は知らないかもしれない。あいつの歪んだ理屈の中では、慎太にお前を抱かせたことさえ……最高レベルの『承認』だったんだ」思わず冷たい笑いが漏れた。「承認?」「そうだ。最も異常な承認だ」浩二はまっすぐに私を見つめ、その瞳には深い痛みが宿っていた。「俺たちの世界では、女は『遊び相手』と『結婚相手』に分けられていた。前者に対しては、兄弟同士でその程度の『共有』や『冗談』は暗黙の了解だった。あいつはそのとき、いちばん信頼してる仲間に『ちょっと運を分けてもらう』ことが、最高の形でお前を誇示し、自分がどれだけ『お前を大切にしてる』かを示すことだと思ってたんだ」その言葉を聞くと、悪意よりもやりきれない悲しみに襲われた。彼は、私を踏みにじることで、歪んだ愛情を示そうとしているのか。「あいつはあの汚れた世界で身につけたやり方で、不器用にお前への執着を見せようとした。だが愚かにも、それがどれほどお前を地獄に突き落とすことになるか、まったく気づいていなかった」浩二の声には、痛切な後悔の念がこもっていた。「俺たちはあの歪みが当たり前になってて、誰ひとり止めようとしなかったんだ。これが、俺たちの原罪なんだ」浩二は手を止めず、クラフト紙の封筒を開いた。中からは、何冊もの調査記録が現れた。私立探偵の報告書は五年にわたり、国内外の数十都市に及んでいた。診断書のコピーがさらに一通。【診断:重度うつ病、不安状態、これに感情認知障害を伴うもの】日付は、私が去ってから三か月後に始まっていた。息が一瞬止まった。「彼は五年もの間、お前を探し続けた。ありったけの力を振り絞ってな。自分自身を壊しそうになるまで」浩二が最後のページをめくる。そこには、結婚式の企画書があった。「この結婚式は、発表のタイミングから会場の