Short
深淵から安らぎの港へ

深淵から安らぎの港へ

作家:  無言の約束完了
言語: Japanese
goodnovel4goodnovel
9チャプター
18ビュー
読む
本棚に追加

共有:  

報告
あらすじ
カタログ
コードをスキャンしてアプリで読む

概要

切ない恋

逆転

ドロドロ展開

御曹司

ひいき/自己中

スカッと

後悔

「有馬社長の相手になってくれ」 五年前、石垣悠馬(いしがき ゆうま)はたった一言で、私、江口七海(えぐち ななみ)に「玩具」としての本分を教え込んだ。 そして五年後、私は彼の結婚式の控室で、化粧ブラシを手に新婦のメイクをしていた。 そのとき、彼は人前で私を鏡に押しつけ、かすれた声で言った。「五年だ……ようやく戻ってきてくれたのか?」 私はゆっくりと口元のマスクを外した。 「石垣さん、お控えください。私はあなたの婚約者様からご依頼を受けた、専属のメイクアップアーティストです。 何しろ、教えてくれたのはあなたご本人ですから。私たちのような『玩具』が一番覚えるべきなのは、ご主人様の結婚式で笑って奉仕することです」

もっと見る

第1話

第1話

「有馬社長の相手になってくれ」

五年前、石垣悠馬(いしがき ゆうま)はたった一言で、私、江口七海(えぐち ななみ)に「玩具」としての本分を教え込んだ。

そして五年後、私は彼の結婚式の控室で、化粧ブラシを手に新婦のメイクをしていた。

そのとき、彼は人前で私を鏡に押しつけ、かすれた声で言った。「五年だ……ようやく戻ってきてくれたのか?」

私はゆっくりと口元のマスクを外した。

「石垣さん、お控えください。私はあなたの婚約者様からご依頼を受けた、専属のメイクアップアーティストです。

何しろ、教えてくれたのはあなたご本人ですから。私たちのような『玩具』が一番覚えるべきなのは、ご主人様の結婚式で笑って奉仕することです」

化粧室の空気が、一瞬で凍りついた。

花嫁の水野朋美(みずの ともみ)の頬に浮かんでいたはにかみが口元で固まり、みるみるうちに血の気を失っていった。

部屋の中、ブライズメイドとアシスタントたちは息をひそめ、空気の中を高価な香りだけが静かに漂っている。

すべての視線が私に突き刺さるのを感じる。好奇、探り、そしてわずかな嘲り。

五年――二千日を超える歳月の間、何度も再会を想像していた。だが、まさか彼の結婚式での再会だとは思ってもみなかった。

黒い制服にマスク、手にはリキッドルージュのついたメイクブラシ。彼の美しい花嫁の背後で、私はただの背景にすぎない。

それでも、彼はドアを開けた瞬間に私を見つけた。

まったく……よく気づいたものね。

私はまぶたを伏せ、彼が強く握りしめた私の手首をみた。皮膚はもう赤く変わっていた。

そして、空いた方の手で、彼の冷たい指を一本ずつ静かにほどいていった。

「この方」彼の制御を失った視線を正面から受け止め、私は波ひとつ立たない声で言った。「人違いです」

一歩後退して、私たちの間に、危険すぎるほどの近さにちょうどよい線を引いた。

「水野様より、本日の花嫁メイクをご依頼いただいております、メイクアップアーティストです」

悠馬は私を射抜くように見つめ、胸が激しく上下していた。

朋美は無理に笑みを作り、彼の腕にすがりついた。「悠馬!彼女を怖がらせないで!」

しかし彼はまるで聞こえていないかのように、突然手を伸ばし、私が反応するより速く、私のマスクを引きはがした。

ひんやりとした空気が頬を撫でる。

彼は貪るように私の顔を見つめ、周囲から押し殺した息の音が漏れた。

この顔は、五年前よりもあどけなさが消え、時の流れに磨かれた冷ややかな輪郭を帯びている。

彼の瞳の奥で荒れ狂う波を見つめながら、私はふっと笑った。

「石垣社長、五年ぶりですね。ご挨拶の仕方が相変わらず……」

視線を会場の来賓たちへと流し、軽く息を吐いた。

「みっともないですね」

彼の瞳孔が一瞬で縮んだ。

朋美が怒りに震え、私を指差した。「あんた!どうしてそんな口をきくの!」

私は彼女を無視し、ただ悠馬を見つめた。かつて私を天に持ち上げ、そして自らの手で地獄に突き落とした男を。

「だって――」私は首を少しかしげ、言葉を一つひとつ突き刺すように吐き出す。「あなたが教えてくれたんでしょう?

私たちみたいな『玩具』が一番覚えるべきことは、ご主人様の結婚式で、笑顔で仕えることを。

どうでしょう?ちゃんと身につけたと思いませんか?」

悠馬の顔色が、一瞬で真っ白になった。

いつも傲慢さを湛えたその瞳に、初めて怯えと痛みのような色が差した。

彼は口を開き、何かを言おうとした。

私はただ身をかがめ、落ちたマスクを拾ってつけ直した。そして花嫁の方へ向き直り、事務的な微笑みを浮かべた。

「水野様、リップが少し崩れています。今直しますね。時間があまりありません。式がもうすぐ始まります」

新しいリップブラシを手に取り、高価な特注色のリップをとった。まるで、ついさっきの嵐など、最初から何もなかったかのように。

ただ、わずかに震える指先と胸の奥の鈍い痛みだけが、私に告げている。

――石垣悠馬、私の地獄が戻ってきた。

だが今回は違う。私は刃を握り、鎧に身を固めている。
もっと見る
次へ
ダウンロード

最新チャプター

続きを読む
コメントはありません
9 チャプター
第1話
「有馬社長の相手になってくれ」五年前、石垣悠馬(いしがき ゆうま)はたった一言で、私、江口七海(えぐち ななみ)に「玩具」としての本分を教え込んだ。そして五年後、私は彼の結婚式の控室で、化粧ブラシを手に新婦のメイクをしていた。そのとき、彼は人前で私を鏡に押しつけ、かすれた声で言った。「五年だ……ようやく戻ってきてくれたのか?」私はゆっくりと口元のマスクを外した。「石垣さん、お控えください。私はあなたの婚約者様からご依頼を受けた、専属のメイクアップアーティストです。何しろ、教えてくれたのはあなたご本人ですから。私たちのような『玩具』が一番覚えるべきなのは、ご主人様の結婚式で笑って奉仕することです」化粧室の空気が、一瞬で凍りついた。花嫁の水野朋美(みずの ともみ)の頬に浮かんでいたはにかみが口元で固まり、みるみるうちに血の気を失っていった。部屋の中、ブライズメイドとアシスタントたちは息をひそめ、空気の中を高価な香りだけが静かに漂っている。すべての視線が私に突き刺さるのを感じる。好奇、探り、そしてわずかな嘲り。五年――二千日を超える歳月の間、何度も再会を想像していた。だが、まさか彼の結婚式での再会だとは思ってもみなかった。黒い制服にマスク、手にはリキッドルージュのついたメイクブラシ。彼の美しい花嫁の背後で、私はただの背景にすぎない。それでも、彼はドアを開けた瞬間に私を見つけた。まったく……よく気づいたものね。私はまぶたを伏せ、彼が強く握りしめた私の手首をみた。皮膚はもう赤く変わっていた。そして、空いた方の手で、彼の冷たい指を一本ずつ静かにほどいていった。「この方」彼の制御を失った視線を正面から受け止め、私は波ひとつ立たない声で言った。「人違いです」一歩後退して、私たちの間に、危険すぎるほどの近さにちょうどよい線を引いた。「水野様より、本日の花嫁メイクをご依頼いただいております、メイクアップアーティストです」悠馬は私を射抜くように見つめ、胸が激しく上下していた。朋美は無理に笑みを作り、彼の腕にすがりついた。「悠馬!彼女を怖がらせないで!」しかし彼はまるで聞こえていないかのように、突然手を伸ばし、私が反応するより速く、私のマスクを引きはがした。ひんやりとした空気が頬を撫でる。彼は貪
続きを読む
第2話
私は朋美の唇の輪郭を丁寧に描きながら、鏡の中に映る悠馬の姿がはっきりと見えた。彼は相変わらずドアの前に立ち尽くし、まるで彫像のようだ。かつては気だるげな色を湛えていたその瞳が、今は私の背中を射抜くように見つめている。その視線は、背筋に穴が開きそうなほど熱を帯びていた。化粧室では、ブライズメイドたちが意味ありげな視線を交わし、空気が一気に重くなった。私はただ少し身をかがめ、指先で朋美の口角に広がる鮮やかすぎる赤をそっとぼかした。その瞬間、ふと心が遠のいた。かつて、私は別の男に、同じように丁寧に口紅を塗ったことがあった。ただ違うのは、あのときは街のネオンを見下ろせる彼の最上階のマンションで、そして、それは私たちだけの深夜だったということ。五年前。消毒液の匂いと取り立ての電話にまみれた泥沼のような日々。悠馬は私をどん底から救い出し、金と権力で守られた宮殿に住まわせた。彼は私に、これまで感じたことのない安心感を与え、夢のように甘いロマンスをくれた。あの頃の私は、ただ彼の胸の中にもたれ、窓の外の夜景を眺めながら、何気なく「海を見に行きたいな」とつぶやいただけだった。三か月後の誕生日、彼はなんと一つのプライベートアイランドを丸ごと貸し切った。ヘリが柔らかな白い砂浜に降り立つと、悠馬は私の手を取り、指を絡めたまま、誰もいない海辺を並んで歩いた。夜の帳が完全に降りたその瞬間、海岸線が一斉に光を放ち、漆黒の空を背景に無数の花火が轟音とともに咲き乱れ、やがて私の名前のイニシャルを描き出した。NNM。色とりどりの光に包まれる中、彼は背後から私を強く抱きしめ、顎を私の頭にそっと乗せた。声には溢れるほどの優しさが滲んでいた。「気に入った?」私は彼の胸の中に身を預け、目の前に広がる一瞬の、けれど息をのむほど美しい光景を見つめた。胸の奥が、現実とは思えないほどの幸福で満たされていた。彼は、私のささいな好みまで全部覚えていた。コーヒーには角砂糖を三個。一個多ければ甘すぎて、少しでも足りなければ苦すぎること。寒がりの私のために、冬の夜はいつも、冷えた足を彼の温かな胸元で包んでくれること。そして、ある日ふと花屋の前で「このバラの香り、素敵」と口にしただけで、家に恒温のガラス温室を作り、世界中の名高いバラを集めてくれ
続きを読む
第3話
「リサ先生?」朋美の不機嫌さを隠す気すらない声が、突然私を現実へと引き戻した。はっとして我に返り、瞬きを一つした。鏡の中には、少し血の気を失った私の顔と、いまだに私に視線を注ぐ悠馬の複雑な瞳が映っていた。「どうなさいましたか、水野様」表に現れた感情を即座に押し殺し、声を完璧な仕事モードに切り替えた。ほんの一瞬の放心など、初めからなかったかのように。「ここ、少しはみ出てるみたい」朋美は口元を指さした。その眼には、厳しく詮索するような視線と、かすかにこぼれ出た嫉妬の色が宿っていた。「申し訳ありません、私の不注意です。すぐに直しますね」私は綿棒を手に取り、慎重にはみ出した部分を拭き取った。「出来上がりました、水野様。こちらでよろしいでしょうか?」鏡の中の花嫁は、完璧で、眩しいほどに美しかった。まるでかつて悠馬に大切に守られていた頃の私のように。けれど今は、もうあの頃とは違う。私は自らの手で「筆」を取り、彼の花嫁に、この世が求める「完璧」を描き出している。しかし、私の心は、長い時間の試練と現実という名の残酷さによって、一度粉々に打ち砕かれたあげく、まったく別の何かとして再構成されていた。朋美のベールを整えているとき、指先がふと彼女のうなじの肌に触れた。彼女はわずかに身を震わせ、鏡越しに警戒するような視線をこちらに投げる。その目つきは、まるで棘のように、私の癒えかけた記憶を突き刺した。かつての私も、あの柔らかな肌を持ち、触れられることにこんなにも敏感だった。悠馬が私に「バラの花園」を贈ってくれた少し後、あるプライベートなギャンブルの席に、私を連れて行った。場所は非公開の豪華空間。男たちは談笑し、女たちはエレガントにふるまっていた。白鳥の群れに紛れ込んだ一羽の醜いアヒルの子──そんな風に私はおののいていた。彼はテーブルの下でそっと私の手を握り、「緊張しなくていい、俺についてくれば大丈夫だ」と囁いた。その掌の温もりが、不思議と私の不安を溶かしていった。その日、彼には驚くほどのツキが回り、目の前にはチップの山が築かれていた。その日、彼は終始緩やかな笑みを浮かべ、時折、私の耳元でささやく。温かな吐息が、周囲の好奇の目を誘った。向かい側に座る有馬慎太(ありま しんた)が一番大きく
続きを読む
第4話
呆然と困惑した視線が交錯する中、悠馬はまるで魂をすべて抜き取られたかのようだ。彼は私を見つめ、その瞳は虚ろで、まるで五年前、私が決意を胸に背を向けたあの瞬間を見ているようだ。そして、誰もが息をのむ間もなく、彼は突然身を翻し、化粧室を飛び出した。追い詰められた獣のように、司会者の手からマイクを奪い取った。無数の視線が注がれる中、満場の来賓、そして配信カメラに向かって、彼はありったけの力を振り絞り、狂気じみた声を張り上げた。「結婚式は中止だ!俺が愛してるのは、最初から最後までただ一人!江口七海だけだ!」彼は、化粧室の入り口に立ってすべてを冷静に見つめていた私を指さした。一瞬、時が止まったかと思った。彼の狂おしいほどの視線を真正面から受け、ざわめく人波の向こう側。五年分の愛憎の炎を隔てて、私はゆっくりと、凍てつくような微笑みを浮かべた。自分にしか聞こえないほどの小さな声で、そっと呟いた。「ほら、人が大切にしているものを奪うのは、案外悪くない気分ね」「これが、あの時あなたが教えてくれたことよ」その時、彼の幼なじみの寺田浩二(てらだ こうじ)が私のそばに来た。彼は声を潜めて言った。「江口さん、あの時の真相は、あなたが思っているのとは違うんだ。悠馬は――」言い終わる前に、悠馬が私の目の前に現れた。彼は片膝をつき、ベルベットの指輪ケースを掲げた。中には眩いダイヤの指輪が静かに輝いている。「五年、1826日……その一日たりとも、後悔しない日はなかった」彼の声は震え、目頭が真っ赤に染まっていた。「この指輪、五年前から用意したのだ。今日という日を、ずっと待っていたんだ」彼は顔を上げ、まっすぐに私を見つめ、一言一言を噛みしめるように言った。「七海、俺は全てを賭けて、お前とやり直したい。一度だけ、チャンスくれないか?」「石垣、あなたの賭けは、五年前にもう終わってるよ」そう言い残し、私は背を向けて歩き出した。ハイヒールが床に落ちたヴェールを踏みしめ、振り返ることはなかった。足を痛めたヒールを脱ぎ捨て、裸足でホテルの冷たいカーペットを踏みしめる。後ろからは、追ってくる足音はひとつも聞こえてこなかった。……それでいい。この華やかな茶番の結末は、すべてを掌握していると信じ込んでいるあの男
続きを読む
第5話
悠馬がアレルギーで入院したという知らせは、すぐに世間へ広まった。私のスタジオの電話は一気に静まり返り、進行中だったいくつかの案件も、突如として止まってしまった。それが石垣家からの警告だということくらい、私には分かっていた。彼らはいつも通りのやり方で、私に「自分の立場をわきまえろ」と思い知らせてきたのだ。けれど、彼らの計算は外れた。五年前、何の後ろ盾もなく、ただ耐えるしかなかった江口七海は、もうこの世にいない。だから、悠馬の父親が自らこの狭いスタジオに現れたときでさえ、私の心には一片の波紋さえ立たなかった。彼はスーツ姿の二人のアシスタントを伴い、まるで不毛の地を視察するかのようだった。壁にかかった私の受賞証書を厳しい目でざっと眺め、棚に並べた私の調合した限定カラーのサンプルへと視線を移したが、それらに一秒たりとも留まることはなかった。「江口さん」彼はまっすぐ私のデスクの前に腰を下ろすと、挨拶もなく、石垣家の紋章が刻まれた小切手を、私の前に滑らせるように差し出した。その動作はあまりにも手慣れていて、まるで数ある厄介事のひとつを片づけるだけのようだった。「金額は、好きなように書けばいい。息子から離れてくれ。完全に、きれいさっぱりとな」私は思わず笑ってしまった。それは、まるで輪廻の滑稽さを目にしたかのような笑いだった。五年前、彼の息子はバッグひとつで、私の尊厳を値踏みした。五年後、彼の父親は小切手一枚で、私との距離を買おうとした。石垣家の人間にとっては、この世のあらゆるものが値札をつけられるらしい。私はその小切手に手を伸ばさなかった。代わりに、デスクの上に置かれていた一枚の書類の向きを静かに変え、彼の前へと押し出した。「石垣会長」私は彼の探るような視線を正面から受け止め、静かに言った。「こちらは私のスタジオの次の四半期の事業計画書と、ヨーロッパのLVMHグループとの初期的な業務提携意向書です」彼はわずかに眉をひそめた。ほとんど気づかれないほどの動きだったが、私の意図が掴めていないのは明らかだった。「順調にいけば、来年の今ごろには、私のこの『小さなスタジオ』の企業価値が、御社・石垣グループの単一ホテル事業を上回るかもしれませんね」悠馬の父は、信じられないという表情を浮かべた。
続きを読む
第6話
浩二が私のもとを訪ねてきたあの夜、彼からはいつもの軽薄さが消えていた。黒一色のシンプルな服装に、顔には見たことのないほどの厳しい表情。挨拶もなく、彼は分厚いクラフト紙の封筒をテーブルの上に置いた。「江口さん、俺は懺悔に来た。五年前のあのギャンブルの夜、俺たち全員が沈黙したことについて」胸の奥がわずかに沈み、私は黙って続きを待った。「悠馬のバカは、お前を深く傷つけた。どんな罰を受けても足りない。だが、お前は知らないかもしれない。あいつの歪んだ理屈の中では、慎太にお前を抱かせたことさえ……最高レベルの『承認』だったんだ」思わず冷たい笑いが漏れた。「承認?」「そうだ。最も異常な承認だ」浩二はまっすぐに私を見つめ、その瞳には深い痛みが宿っていた。「俺たちの世界では、女は『遊び相手』と『結婚相手』に分けられていた。前者に対しては、兄弟同士でその程度の『共有』や『冗談』は暗黙の了解だった。あいつはそのとき、いちばん信頼してる仲間に『ちょっと運を分けてもらう』ことが、最高の形でお前を誇示し、自分がどれだけ『お前を大切にしてる』かを示すことだと思ってたんだ」その言葉を聞くと、悪意よりもやりきれない悲しみに襲われた。彼は、私を踏みにじることで、歪んだ愛情を示そうとしているのか。「あいつはあの汚れた世界で身につけたやり方で、不器用にお前への執着を見せようとした。だが愚かにも、それがどれほどお前を地獄に突き落とすことになるか、まったく気づいていなかった」浩二の声には、痛切な後悔の念がこもっていた。「俺たちはあの歪みが当たり前になってて、誰ひとり止めようとしなかったんだ。これが、俺たちの原罪なんだ」浩二は手を止めず、クラフト紙の封筒を開いた。中からは、何冊もの調査記録が現れた。私立探偵の報告書は五年にわたり、国内外の数十都市に及んでいた。診断書のコピーがさらに一通。【診断:重度うつ病、不安状態、これに感情認知障害を伴うもの】日付は、私が去ってから三か月後に始まっていた。息が一瞬止まった。「彼は五年もの間、お前を探し続けた。ありったけの力を振り絞ってな。自分自身を壊しそうになるまで」浩二が最後のページをめくる。そこには、結婚式の企画書があった。「この結婚式は、発表のタイミングから会場の
続きを読む
第7話
浩二がもたらした真実は、まるで津波のように押し寄せ、私が五年かけて築き上げた心のバリアを一瞬で打ち砕いた。探し続けた日々の記録や診断書、そして何よりも、結婚式の裏に隠されていた絶望的な真実。それらが一本の見えない糸となり、昼夜を問わず私を締め上げていった。あの夜、私は一人スタジオに残り、未完成のデザイン画をぼんやりと見つめていた。ふと、空気の中に焦げ臭い匂いが立ち込めた。錯覚じゃない!ドアの隙間から濃い煙が流れ込み、鼻を刺すように広がっていく。電気がショートしたのかと思い、すぐにブレーカーを確認しに立ち上がったが、濃い煙にむせて激しく咳き込んだ。火の手はあっという間に広がり、布地やスケッチを次々と巻き込み、パチパチと爆せるような音を立てて燃え上がる。煙と熱気にむせび、咳で視界がかすむ中、絶望が喉を締め上げた。五年間の足掻きを経て、ようやく地盤を固めたばかりなのに、まさかここで終わるのか?意識が遠のいていく中、ガッシャーンという轟音と共に、強化ガラスドアが消防斧で叩き割られた。逆巻く炎と黒煙を背に、ひとりの人影が必死の形相で飛び込んできた。悠馬だ。彼は無防備な顔で煙に焼かれ、目は真っ赤に充血しているのに、一目で私を見つけ出した。「七海!」そのかすれた叫びには、これまで聞いたことのないほどの恐怖が滲んでいた。彼はわずか数歩で駆け寄ると、躊躇いもなく高価なスーツの上着を脱ぎ、さっと私の頭から覆い被せた。濃煙と熱気の大半が遮られた。そして次の瞬間、彼は私を力いっぱい胸に抱き寄せ、自分の背中全体で荒れ狂う炎を受け止めた。押し殺したようなうめき声が耳に届いた。それでも彼は、鉄壁の盾のごとく私を覆い、灼熱の気流がその背中を焼き焦がしていった。彼は机の上の、私が命より大切にしていたメイクパレットを見つけると、歯を食いしばり、それを腕に抱え込むようにして体で覆った。「行くぞ!」彼は私を抱えるように、引きずるように、自らが切り開いた逃げ道へよろめきながら突き進んだ。火の海を抜け出した瞬間、彼はぐったりと倒れ込んだが、それでもなおメイクパレットをしっかりと抱えていた。背中のシャツは焼け落ち、爛れた皮肉に張り付き、無残な有様だった。彼は担架に乗せられ、最後の力を振り絞って私の手首をつかみ
続きを読む
第8話
病院での、血と涙にまみれたあの告白は、まるで津波のように私の心の最後の堤防を打ち砕いた。憎しみは消えていった。だが、そこにすぐ愛が押し寄せてきたわけでもなく、どうしていいかわからない切なさだけが残った。彼の背中のやけどは長期の治療と繰り返される手術を必要とし、痛みはもはや日常となった。私は何度か彼を見舞い、黙ってリンゴの皮をむいたり、看護師が彼の痛々しい傷に薬を塗り替えるのを見つめたりした。彼はいつもうつ伏せで、横を向きながら、静かな眼差しで私の動きを追っていた。それは、祈るかのような細やかな慎みに満ちて、もう何も語らず、ただじっと見つめているのだった。やがて、なんとかベッドから起き上がれるようになった彼に、医者は厳しく安静を命じた。けれど、ある朝、彼は姿を消していた。介護士から電話があった瞬間、私はすぐに郊外の墓地を思い浮かべた。そこは、私の両親が眠る場所だ。晩秋の墓地には、落ち葉が幾重にも積もり、一層の寂寥を纏っていた。患者衣の上に、慌ただしく羽織った黒のオーバーコート。彼は冷たい石畳に跪いていた。背中の傷痕が邪魔をしてコートはぴたりと合わず、わずかにふくらみを作っている。寒風が枯れ葉を渦巻かせて、その青白い頰を打った。彼の跪く姿は不安定で、痛みに全身が震え、脂汗がにじみ、唇は紫色を帯びていた。それでも、背筋をぴんと伸ばしていた。まるで最も厳粛な儀式を執り行うかのように。私はゆっくり近づき、彼のかすれた声が繰り返しつぶやくのを聞いた。「おじさん、おばさん、俺は石垣悠馬です。俺が最低なやり方で七海を傷つけた、どうしようもない馬鹿です。俺は五年間も彼女を見失っていて……その間に、散々苦しい思いをさせてしまいました。許してほしいなんて、とても言えません。ただ伝えたかったんです。後悔しています。本当に……心底から後悔しています。五年ぶりに彼女を見つけ出しました。ありとあらゆる手を使って――良いことも、悪いことも、狂ったようなことも……それでも、彼女を取り戻したんです。お願いします……どうか、償う機会をください。この命の限り、罪を贖わせてください……お願いします……彼女を、俺に任せてください……」彼の声は次第に細くなり、詰まりながら、最後にはかすれた息だけが風に混ざって、はっきりと聞き取れ
続きを読む
第9話
株式譲渡を巡る騒動は次第に静まり、悠馬の背中の傷もゆっくりと癒えていった。私たちはまるで廃墟の中を手探りで進む旅人のように、崩れた壁の隙間から互いのもとへと通じる道を探していた。焦って元に戻ろうとはせず、新しい形で向き合うことを学んでいった。彼は定期的にグループの業務報告をしてくれて、その声はいつも冷静で、そして敬意がこもっていた。私は意見を伝え、彼は真剣に耳を傾ける。時々、私は彼のマンションを訪ねて、薬を塗り替えてあげた。指先が彼の背に新しく生まれた淡い桃色の肌に触れる。「痛い?」と、ある時私は尋ねた。彼は顔を横に向け、目の奥に微かな光を宿して言った。「お前が触れるなら、痛くない」そんな不器用な修復の時間の中で、季節は穏やかに流れていった。春が訪れた頃、彼は一つのプライベートアイランドを買い取った。島にある唯一の教会は海に面し、周囲には彼が私のために育てた薄紫のバラが植えられていた。結婚式の日、私は化粧台の前に座り、自ら眉を描き、唇のラインを描き入れ、世界で一番美しい花嫁の化粧を自分の手で仕上げた。鏡の中の女は、もう誰かを喜ばせるためではなく、過去の七海に別れを告げ、新しい自分を迎えるために、まっすぐな目をしている。悠馬はまだ傷が癒えず、車椅子に座っていた。花びらを敷き詰めた通路を私が彼を押して進むと、海風が私のベールを翻し、ゆらりと舞わせ二人の髪を優しく絡み合わせた。神父の前で、彼は立ち上がろうと必死にもがいた。私は彼の肩にそっと手を置き、「動かないで」と囁いた。彼は仰ぎ見るように私を見つめ、目尻を赤く染めながら、震える手でダイヤの指輪を取り出し、待ちわびた五年の時を経て、私の薬指にはめた。「七海……」声は涙に詰まりながらも、それ以上ないほど厳かだった。「俺のような者を、まだ選んでくれて……ありがとう」華やかな式も、長い誓いの言葉もない。ただ波と潮の音だけが、俺たちを見守っていた。新婚の夜、私は彼の隣に横たわった。彼の温かな吐息が、首筋をかすめる。彼は顔を下げ、丁寧で優しく、私に口づけた。その瞳の奥には、深く溶け合う愛情と静かな安堵が宿っていた。彼は低く囁く。「これで、世界中が知ってる。俺はもうお前のものだって」少し間を置き、口元に穏やかな笑みを浮かべながら続
続きを読む
無料で面白い小説を探して読んでみましょう
GoodNovel アプリで人気小説に無料で!お好きな本をダウンロードして、いつでもどこでも読みましょう!
アプリで無料で本を読む
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status